卒業の季節20
ルクトとラキアがプライベートで行っている遠征の二日目の夜、二人は十階層の大広間まで戻ってきていた。すでに〈プライベート・ルーム〉に引っ込んで夕食も済ませており、後は寝るだけだ。そして明日一日かけて上に戻る予定である。
ラキアはすでに寝袋の中にもぐり込んで横になっている。ルクトも同じである。だが目を閉じても彼女はなかなか眠ることができずにいた。
『この辺が限界だな……』
ルクトが呟いた言葉が、彼女の耳に残って離れない。彼の言う「限界」とは、ただ単に今回の遠征における限界と言う意味ではない。言ってみれば、「ルクトとラキアの二人がカーラルヒスで行う遠征の限界」という意味なのだ。
端的に言えば、ルクトは「もうこれ以上深くは潜れない」と言ったのだ。少なくともカーラルヒスでは。
方法論的なことを言えば、日数さえかければもっと深く潜ることは可能だ。しかし合同遠征の予定が入っている以上、これ以上時間をかけることはできない。そうなるとどうしても今日行った辺り、つまり十二階層の中ほどが二人の遠征の「限界」なのである。
それでも「限界」という言葉を口にしたルクトに、悲観した様子はなかった。その限界はあくまでも今現在の限界であり、この先ヴェミスに帰って本格的な攻略を開始すればいくらでもまだ先にいける。彼はそう思っているし、またその考えは正しい。むしろ限られた時間の中、しかもたった二人で十二階層まで来られたのだ。本格的に長命種を目指す前準備としてはむしろ上々。ルクトはそう思っているに違いない。
だが、ラキアはルクトと同じようには考えられなかった。彼女にとっては今この時こそが人生の中で最も充実している時期なのだ。それこそ、「今がずっと続けばいい」などと考えてしまうくらいに。
しかしその“今”にも、「限界」が来てしまった。カーラルヒスにいられる、時間的な限界ではない。攻略の、もっと言えば武芸者としての成長の限界である。仮に今がずっと続いたとしても、もう先が見え透いてしまったのだ。
それはラキにとってある意味絶望だった。人生の絶頂期が終わってしまったのである。ここから先転げ落ちていくだけだと思うと、わけもわからず惨めな気持ちになった。いや、転げ落ちることはないのかもしれないが、ルクトとの差は広がっていく。それを思うと取り残されたように感じ、それがとても寂しかった。
(わたしは……、やっぱり、ずっとルクトの隣にいたい……)
どんな形でもいい。その背中を追いかけるのは、遠くに行ってしまう彼を見送るのは、もうイヤだった。彼と同格でいたかった。彼の隣にいたかった。ルクトのことを、好きになってしまったのだ。
「なあ、ルクト。まだ起きてるか……?」
「ん……? 起きてるけど、どうした?」
独り言のつもりで呟いた言葉に反応が帰ってきて、ラキアは一瞬焦った。まさかこの流れで告白してしまうこともできず、彼女は視線を彷徨わせながら無難な話題を探した。
「あ~、大したことじゃないんだけど……。その、ルクトはなんで長命種になろうだなんて思ったんだ?」
そう聞いてから、ラキアは少しだけ「しまった」と思った。ルクト本人が「長命種を目指す」と明言したことはない。それなのに、ずかずかと彼の内心に入り込むかのようなことを聞いてしまった。無神経だったかもしれない、と少しだけラキアは後悔する。しかしそれ以上に、その理由を聞きたい気持ちは確かに強かった。
「あれ? オレ、そのこと言ったっけ?」
不思議そうなルクトの声が響く。その声を聞いて、ラキアは「やっぱりそうなのか」と思った。その時に感じた心の揺れは果たして落胆なのか、あるいは諦めなのか。ただ自分でも驚くくらい、彼女の声は落ち着いていた。
「言ってない。けど、わざわざ『鍛え直す』なんていうから、たぶんそうなんだろう、って……」
ラキアはそう自分の推測を述べると、ルクトは「叶わないなぁ」と苦笑した。それを聞いてラキアは少しだけ口元を綻ばせる。彼のことをちゃんと理解できていたことがうれしかった。
「……それで、どうしてなんだ?」
「そうだなぁ……。何度か長命種の人たちと関わって憧れがあった、っていうのもあるけど……。強いて言えば、『ちゃんと独り立ちするため』かな?」
ルクトは長命種を目指す理由をそんなふうに語った。しかしその理由にラキアは疑問を覚える。
「ルクトはもう、ちゃんと独り立ちできるんじゃないのか……?」
少なくとも稼ぎという面で言えば、ルクトはいくらでも独り立ちが可能に思える。経済的に自立して生きていくことを「独り立ち」と言うのであれば、彼は今すぐにでも独り立ちが可能だ。
少なくともラキアにはそう思える。しかしルクト本人は苦笑しながら首を横に振った。寝転がっているせいでラキアからは見えなかったが。
「どれだけ大人になったとしても、どれだけ稼いだとしても。今のままじゃ、たぶんオレはメリアージュの庇護下から抜け出せない」
それはルクトが力不足だから、ではない。あまりにもメリアージュが大きすぎるからだ。黒鉄屋のメリアージュがその気になれば、都市国家の命運さえも変えてしまえる。そんな彼女にとってルクト・オクスという短命種はあまりにも小さな存在だ。気まぐれに救い、そして無意識であっても庇護してしまえるくらいに。
きっとメリアージュはルクトがよぼよぼのじいさんになったとしても、彼のことを守り続けるだろう。それがどういう形になるのかは分からない。しかし、彼が理不尽な暴力にさらされたり、あるいは権利を不当に侵害されたりするようなことは許さないはずだ。加えて彼のほうから助けを求めれば、彼女は喜んでそれに応じるだろう。そして、これが一番重要だが、彼女はそのことを不満や負担に思ったりはするまい。
短命種であるから。ただそれだけの理由で、メリアージュにとってルクトは庇護すべき存在なのだ。彼の年齢や能力は関係ない。あるいは「彼を庇護することは彼を拾った自分の責任である」とさえ彼女は考えているのかもしれない。
ヴェミスから遠く離れたここカーラルヒスにいる今でさえ、ルクトはメリアージュから守られ、そして助けられている。カーラルヒスのギルドが、商会が、そして都市国家政府がルクトに対して強く出られないのは、彼の後ろにメリアージュがいるからだ。〈キマイラ〉事件でルクトが生き残ることができたのは、メリアージュが助けに来てくれたからである。加えて〈水銀鋼の剣〉にしろカデルハイト商会にしろ、メリアージュの伝手で紹介してもらっている。
もちろんメリアージュはルクトを甘やかしてなどいない。むしろ厳しい存在だったとルクトは思っている。しかしそれとはまったく別の次元で、彼女がルクトのことを庇護するべきと考え続けている限り、彼はメリアージュの庇護下から抜け出すことは決して出来ないのである。
「だけどな、子供はいずれ巣立つもんだ」
それが健全な形だとルクトは思っている。メリアージュはルクトを甘やかしているとは思っていないだろう。しかし、ルクトがメリアージュに甘え続けるわけには行かないのである。
「それが、長命種を目指す理由……?」
「さあ、どうかな。実を言えば、オレもよく分からない」
ルクトは正直にそう言った。長命種を目指そうと思った、その気持ちは本物だ。ただその気持ちがどこから湧いてきたのか、はっきりとしたことは彼にもわからない。ただ、その気持ちさえ本物ならそれでいいと思っていた。
(ああでも、もしかしたらオレは……)
もう大丈夫だと、メリアージュにそう言いたいだけなのかもしれない。あの夜の、ただ逃げることしかできなかった弱い自分ではもうないから、と。もしかしたら自分はただそう言いたいだけで、そう言える自分になりたいだけなのかもしれない。ルクトはふとそう思った。
「ルクトは、メリアージュさんと同格になりたいのか……?」
同格、という言葉が出てきたのはラキアゆえだろう。それを聞いてルクトは少しだけ笑った。
「同格かぁ……。考えたこともなかったけど……。そうだな、なれれば一番良いかもな」
ただ長命種になっただけで、メリアージュと同格になれるとは思えない。だからそれは単に独り立ちすること以上に難しいだろう。
「ルクトは、その、メリアージュさんのことが、好き、なのか……?」
躊躇いがちにラキアはそう尋ねた。同格になる。隣に立つ。一緒にいる。そんなふうに連想していくと、「もしかして」と思ったのだ。それにメリアージュは同性の彼女から見てもとびきりの美人である。あんな美人がそばにいれば、男であるルクトが心惹かれるのも無理はないと思えてしまう。
しかしラキアが尋ねてみても、ルクトはなかなか答えてくれない。ただ苦笑する気配だけがした。もしかしたら答えにくいことなのかもしれない。そう思うと、なんだかラキアは居ても立ってもいられなかった。
「……どう、なんだ?」
ラキアがさらにそう尋ねる。詰問しているような口調になったが、彼女にそれを気にしている余裕はない。
「……高嶺の花には憧れるもんさ。特にガキの頃はな」
少し言いにくそうにしながら、ルクトは結局そう答えた。遠回しではあるが、それは肯定の言葉だ。「やっぱり」と思うと同時に、ラキアは胸が締め付けられるような寂しさを感じた。
好いた男が別の自分ではない女を見ている。その女が自分よりはるかに格上だとしても、それを「イヤだ」と思ってしまうことは止められない。自分のことも見て欲しい。いや、自分のことを見て欲しい。我儘でしかないと分かっていても、ラキアはそう思ってしまった。
「ルクトは、ヴェミスに帰ったらどうするんだ? その……、住む所とか」
「そりゃ家に帰るさ。部屋もそのままだったし。まあ、そのうち一人暮らしするかもしれないけど」
当然のことのようにルクトはそう言った。彼の言う“家”とはつまりメリアージュの家だ。彼がカーラルヒスに来るまで暮らしていた家で、そこに帰るのは至極当然のことである。ルクトにとって帰るべき場所というのは、その家だけなのだから。もしその家がなかったのなら、彼はカーラルヒスに居残ったのではないだろうか。
それはラキアにも分かっている。分かっているが、それを聞くとやはり胸が締め付けられる思いがした。ルクトが遠くに行ってしまう。手のとどかない場所に行ってしまう。そんな気がした。
「……わたしは、ルクトと一緒にいたい」
搾り出すようにして、ラキアはそう言った。小さな声で言った短い言葉だが、彼女の重大な決意を込めた言葉だった。
「いられるんじゃないのか。ヴェミスに帰ってもパーティーを組むんだろう?」
気楽な調子でそう言うルクトの言葉に、ラキアはちょっとムッとした。違う、そういう意味ではないのだ。それでは、自分の決意がまったく伝わっていない。どうしてこう肝心なところで察しが悪いのかと彼女は思った。ルクトが知ればきっと「理不尽だ」と思うのだろうけれど。
「……ヴェミスに帰ったら、きっとわたしは結婚することになる」
話題と言葉を慎重に選びながら、ラキアはまずそう言った。以前にも同じことを話したことがあったので、ルクトの反応は薄い。
「ああ、そんなことも言ってたな」
「相手はきっと、父上が決めるんだろうと思っていた。そうなったらもう断れないし、わたしも武門の娘だ。よほど変な相手でなければそれでいいと、ずっとそう思っていた。……けど、今は違う」
そう言ってラキアは言葉を切る。そして数秒の間沈黙する。それからはっきりとした口調でこう言った。
「わたしは……。結婚するなら、相手は、お前が、いい……」
ラキアがそう言うと、その場に沈黙が舞い降りた。いたたまれないその沈黙の中、ラキアは身をすくませる。顔が熱い。きっと真っ赤になっているに違いない。お互い横になっているおかげで顔を合わせなくて済むこの状況がありがたかった。
「…………おい、ラキ、それってまさか…………」
永遠にも思える沈黙を破ったのはルクトの方だった。彼が身じろぎする気配をラキアは感じ取る。きっと身体を起こしたのだろう。さすがに寝転がったままするような話ではないと思い、彼女もまた身を起こした。
ラキアはルクトの顔を正面から見る。彼はそれと分かるくらいはっきりと動揺していた。彼の様子はまるで初めて異性から告白された少年のようだ。いままで散々見合いや婚約の話があっただろうに。そう思うと、ラキアの中に少しだけ余裕が生まれた。そして彼女はその言葉を口にする。
「ラキア・カストレイアは、ルクト・オクスのことが、好きみたいです」
恥ずかしげな笑みを浮かべながら、ラキアはついにその告白の言葉を口にした。顔がさらに赤くなるのが分かる。
言った。言ってしまった。後悔にも似た達成感を、ラキアは覚える。あんなにも続いて欲しいと思っていた“今”。彼女は自分でそこから一歩を踏み出すことを選んだのだ。これでもう後戻りは出来ない。
「オレ、は…………」
ルクトは動揺しながらも何とかして言葉を捜そうとする。今まで彼に近づいてきた女の子たちとは違い、ラキアが抱いているのが純粋な好意であることはルクトにも分かる。だからこそ彼女をすげなくあしらうことはできなかった。ルクトにとってもラキアは、恋愛感情があるかはともかくとして、もうただの友人で収まる相手ではなくなっていたのだ。
しかしどう答えたものなのか。言葉が見つからない。確かにラキアの父であるジェクトから彼女を婚約者にどうかと言われたことはある。しかしその場で答えを出したわけではもちろんないし、そもそもルクトは自分の結婚なんて今までに少しも考えたことがなかった。
ルクトが言葉に詰まっていると、ラキアは勢いよく身体を倒して再び横になった。顔を見られないよう、ご丁寧に後頭部をルクトのほうに向けている。
「返事はあとでいいから!!」
叫ぶようにしてラキアはそう言った。
「ラキ……」
「本当に、後でいいから!!」
ルクトはラキアの名前を呼ぶが、まるで話しかけられるのを拒絶するかのように彼女はそう叫ぶ。
「オレは……!」
「おやすみ!!」
そう言って話を強引に打ち切り、ラキアは目を硬く閉じた。寝袋の中で彼女は身体を硬くする。しばらくすると、ルクトがため息を吐くのが聞こえた。
「返事は、よく考えておくよ。おやすみ、ラキ」
そう言ってルクトも横になる。その声からは困惑した様子が伝わってくるが、しかしその中にうんざりとしたものは混じっていなかった。少なくとも彼はラキアの告白を迷惑に思ったりはしていない。それが分かって、ラキアはようやく身体の力を抜いた。