卒業の季節16
五月になった。木々の緑は色を濃くし、日差しは日一日と強くなっていく。花々が咲き誇る春の宴はひとまず過ぎ去り、一年は日常を取り戻したように思える。
ノートルベル学園の卒業式が行われるのは、七月の末。よって、ルクト・オクスら武術科の六年生に残された時間はあと三ヶ月弱。その時間は、実技要件を達成した学生たちにとっては学園生活の残り時間であり、達成していない学生たちにとっては今年度中に卒業するためのタイムリミットである。
加えて、ここカーラルヒスにおいて学園の影響力は大きい。だから学園に通っていない人間にとっても、卒業と言うのは区切りでありまた目安になる。
例えば、クルーネベル・ラトージュ。彼女自身は学生ではないが、彼女が婚約したロイニクス・ハーバンは学生だ。彼の卒業後、クルルはカーラルヒスを離れて彼の故郷であるガルグイユに嫁ぐことになっている。そういう意味で、やはり卒業は彼女にとっても大きな節目と言えるだろう。
そしてもう一人、ラキア・カストレイアにとっても、今年の卒業式は大きな節目になりそうだった。
ラキアがカーラルヒスにやってきたのは、およそ二年前。その目的は武者修行。幼馴染のルクトが帰省したとき、道場で見せた練気法を習うべくやって来たのである。
学園に入学するわけではないので、極端なことを言えば好きなだけカーラルヒスにいても良かった。だがラキアは最初から二年間という期間を定めていた。その二年という時間は、もちろんルクトの卒業に合わせて決めた時間である。留学が終われば彼は故郷であるヴェミスに帰るはずだから、そのとき一緒に帰ろうと思っていたのである。〈プライベート・ルーム〉が使えれば道中ラクだから、という下心はもちろんあった。
今のところ、ラキアのその予定に変更はない。カーラルヒスのレイシン流道場はロイの卒業に合わせて閉門する。その時、彼女のこの都市での武者修行も終わるのだ。当初の予定通り二年である。そしてルクトも「故郷に帰る」と進路を決めたので、一緒に帰ることになるだろう。〈プライベート・ルーム〉も使えるに違いない。
全て、最初考えていた通りだ。さらにこの二年間の武者修行の成果として、練気法を習得し武芸者として一回り成長できたと自負している。「故郷に錦を飾る」というのは言いすぎだろうが、胸を張って帰れるだけの成果は上げたと言っていい。
しかしそうだというのに、ルクトの卒業が近づくにつれてラキアの心はだんだんと重くなっていった。
「わたしは……、ヴェミスに帰って、それからどうするんだ……?」
恐らく結婚することになるだろうとは、前々から考えていた。だが誰と結婚するだとか、結婚した後の生活はどうなるだとか、そういうことはまったく考えていなかった。
いや、そういう事ではないのだ。ヴェミスに帰ったあと自分は何をしたいのか、どういうふうに生きたいのか、一体何を目標にするのか。そういう事を何も考えていなかったことに気づいてしまったのだ。
「ルクトはもう決めたのに……」
そのことがラキアを焦らせる。彼はどうやら長命種になろうとしているらしい。ルクト本人は「鍛え直すことにした」としか言っていなかったが、ほぼこれで間違いないだろうとラキアは思っている。
その目標が達成可能であるのかは、この際横においておく。重要なのは、彼がもう一生の目標とでもいうべきものを決めてしまったことである。そして、そうだというのにラキアは何を一生の目標とするのか、まだ決められていないことである。
またしても先を越されてしまった、とラキアは忸怩たる想いを抱かずにはいられない。ルクトには先を越されてばかりである。
ルクトとラキアは幼馴染だ。カストレイア流刀術を使う同門であり、歳が同じということもあって何かと一緒に鍛錬をしてきた。カーラルヒスに来てからは、その頻度も密度も上がったと思っている。この二年間の武者修行において満足のいく成果を残すことができたその背景に、彼の存在があったことは言うまでもない。
非常に近しい存在だ、と言っていい。同じ歳で、同じ道場で学び、同じ技を使う。それだけでも互いを意識するのに十分だろう。少々気恥ずかしい言い方だが、「好敵手だ」とラキアは思っている。
だがしかし、「同格である」とは胸を張って言うことができない。いや、認めよう。ラキア・カストレイアはルクト・オクスの一歩後ろにいる。これまでずっと一歩先を行く彼の背中を追ってきたようにラキアには思える。
一番分かりやすいのは、カストレイア流の免許皆伝だ。ルクトは十五で取ったが、ラキアは十八までかかった。思えばこのときからずっと、ラキアはルクトの背中を見失わないように追いかけてきたのだ。
追いかけ続けて、カーラルヒスにまで来た。そしてコンビを組んで遠征を行うことで、ようやく追いついたと思った。肩を並べて戦い、お互いをフォローすることで同格になれたと思ったのだ。
そういう意識があったからなのか、ルクトと行う遠征はラキアにとって非常に楽しく、またやりがいのあるものだった。もちろんヴェミスにいたときも遠征には行っていたが、ルクトと二人で行う遠征はその時よりも大きな満足と充実を彼女に与えてくれたのである。
その要因として、〈プライベート・ルーム〉が少なからぬ割合を占めていることは認めざるを得ないだろう。安全圏できっちりと休息することができる。これは遠征の中、ベストパフォーマンスを発揮する上で非常にありがたいことだった。肉体的そして精神的疲労の蓄積が最小限で済むことは、遠征の戦果と達成感に直結するのである。
しかしそれ、つまり〈プライベート・ルーム〉のおかげで攻略がスムーズに進むことは、あくまでもおまけでしかない。一緒に遠征をしているのがルクトであること。やはりこれが一番大きい。
なぜ彼でなければならないのか。その答えはラキア本人にもはっきりとは分からない。ただ、彼女にとってルクトは特別だった。その特別な存在が、いい意味で特別ではなくなったことが嬉しかったのかもしれない。今のところ、彼女はそんなふうに考えている。
まあそれはともかくとして。ルクトとの遠征は楽しい。特に、ここ最近の遠征は今まで以上に楽しかった。
これまでルクトは稼ぎ優先だった。彼には借金もあるし、稼ぎが重要であることはラキアも分かっている。だがそれでも、彼女は稼ぎに拘るよりより深い階層に潜りたかった。そもそも、深く潜れば必然的に稼ぎは大きくなるのだ。あまりお金のことばかり言われると、なんだか攻略を汚されてしまうようでイヤだった。
そんな稼ぎ優先だったルクトが、ここ最近はそれに拘らなくなってきたのだ。そしてその代わりに、より深い階層への意欲を見せるようになってきた。それはまさにラキアの望むところであり、なんだか目指すところを共有できているみたいで、くすぐったさの混じった嬉しさを彼女は感じていた。
そんなわけで最近は本当に楽しく、毎日にやりがいがある。だがルクトの意識が変わったその理由を考えると、焦りにも似た気持ちになってしまう。
ルクトの意識が変わった理由は簡単だ。つまり「長命種になるため」である。そのためには迷宮のより深い階層に潜らなければならず、本格的に動くのはもちろんヴェミスに帰ってからなのだろうが、カーラルヒスにいるうちから行動を開始したのである。
(それに引き換えわたしは……)
自嘲気味にラキアは胸の中でそう呟いた。前述したとおり、彼女はまだヴェミスに帰ってからの目標を、いや人生の目標を定められずにいる。ルクトは、ようやく追いついて同格になれたと思ったその相手は、さっさと歩き始めているというのに。
ルクトが歩き始めたのであれば、ラキアもまたその背中を追えばいい。彼はまだ歩き始めたばかり。ちょっと小走りになって追いつき、そして並んで歩いていけばいい。そう思う気持ちは、確かにラキアの中にある。しかしそれでもなお、彼女はルクトの背中を追うための一歩を踏み出せずにいる。
「わたしには、無理だ……」
苦い諦めが、彼女の中にある。ルクトの背中を追うということは、つまり長命種を目指すということだ。長命種。この世に存在する本物の超越者。彼らがこの世に存在していることはラキアも知っているが、しかしそれはお伽噺がこの世にあることと同じレベルの認識だ。つまりお話として聞くだけであり、それが現実のことであるとは到底考えない。いや現実のことなのだが、自分と関わりがあるなどとは考えない。
言ってみればそれは“異世界”のことなのだ。異世界に本気で行こうなどと考える人間はいない。それは不可能だからだ。お伽噺と現実の区別が付くようになった大人なら、誰だってそう考える。良い悪いの問題ではない。これが一般的で常識的なモノの考え方なのだ。
その“一般的な常識”というやつは、ラキアにも深く根付いている。その中で育ってきたのだから当然だ。だからこそ「長命種になる」という話を聞いたとき、彼女はまっさきに「無理だ」と思ってしまった。そして「無理だ」と思ってしまったがために、彼女はルクトの背中を追うための一歩を踏み出せず、そのために途方にくれている。
「あまつさえ……」
あまつさえ、「今この時がずっと続けばいい」だなんて恋する乙女並みに頭空っぽなことを考えている。そんなことを考えてしまうのは、今がかつてないくらいに充実していることの裏返しでもある。ラキアがずっと目指していたのは、きっと今のこの状態なのだ。それが終わってしまうことなんて、考えたくない。
だが深く考えるまでもなく、それは叶うはずのない願いだ。卒業と言う明確なタイムリミットが、もう目の前まで迫っているのである。
その時ルクトは長命種になるため、本格的に動き始めるだろう。長命種であるメリアージュに育てられた彼は、“一般的な常識”というやつにあまり毒されていない。きっと後ろで立ちすくんでいるラキアのことなどお構いなしにさっさと歩き出し、いやともすれば走り出してしまうだろう。
そんな彼を追いかけたいという気持ちは、もちろんラキアにもある。今までずっと彼の背中を追ってきて、ようやく追いついたと思ったのだ。「置いていかれたくない」と言う気持ちは強い。
だがそれ以上にどうしようもなく。「無理だ」と思ってしまう。そう刷り込まれてしまっていると言ってもいい。そう思ってしまって、そこから先どうすればいいのか分からなくて、ウジウジしている。歩き始めたルクトの背中を見て「置いていかれてしまった」と焦り、充実した今の生活に浸って「今がずっと続けばいい」と願っている。
「どうしようもない馬鹿だな、わたしは……」
ラキアはそう自嘲した。今は充実していて幸せだ。しかしその先のことを、まったく考えられない。いやともすれば、「考えたくない」。そんな自分を「馬鹿」と言わずに何と言えばいいのか。阿呆か間抜けか。自分で自分を罵倒して、ラキアはさらに落ち込んだ。
「ああ、もう……」
苛立たしげな声を出し、ラキアは無理やり頭を切り替えた。彼女が先のことを考えられなくても、タイムリミットは勝手にやって来る。時間が彼女に合わせてくれることなどないのだ。ならばラキアが時間に合わせるしかない。
『ラキアさんは、どんな未来のためなら頑張りたいですか?』
不意に、ラキアは少し前にクルルから言われた言葉を思い出した。そう、未来だ。「今がずっと続けばいい」だなんてそんなことを考えている場合じゃない。ルクトが歩き始めたというのであれば、ラキアだって将来のことを真剣に考えなければならないのだ。
「わたしは……」
いつぞやと同じく、ラキアはそこで言葉に詰まる。“今”よりも充実した未来は、なかなか思い描けない。
「わたし、は……」
今が幸せだ。その想いをラキアは強くする。だからその幸せで充実した今の生活の中で、何が変わって欲しくないのかを考える。何のおかげでこんなに幸せで充実しているのか、その最大の要因を考えてみる。
「ルクトの、隣にいるから……」
自然と、その答えが出た。ルクトの背中を追っているのではない。彼の横に並んで、その隣にいることができるから、こんなにも幸せで充実しているのだ。けれどもこのままでは彼の隣にいることはできなくなる。
遠くに行ってしまったルクトの背中を見つめる、そんな自分をラキアは想像してみる。途端に、すごく寂しくなった。それだけはイヤだと強く思った。
「ああ、そうか……。わたしは、ルクトの隣にいたいんだ……」
やっと、その答えが出た。ようやく自分の心が分かったような気がして、ラキアは小さく笑みを浮かべる。だがその笑顔も次の瞬間には曇ってしまう。ルクトは長命種を目指す。ラキアは「無理だ」と思ってしまった。そんな自分では彼の隣にいられない、と彼女は落ち込んだ。
(どうすれば……、どうすれば……?)
どうすれば、いい? どうすれば、彼の隣にいられる?
その答えを、ラキアは必死に探し始めた。
▽▲▽▲▽▲▽
「あ~」
なぜかいつもより早く目が覚めてしまったある朝、ルクトはベッドに入ったまま寝ぼけた声を出した。ショボショボする目を巡らしてカーテンのほうに視線を向けると、窓の外は明るくなっているらしいがまだ光は差し込んでいない。どうやら日が昇る前らしい。
朝食まではまだ時間がある。二度寝しようかとも思ったが、頭は妙に覚醒していてすぐに寝られそうにはない。かといって今すぐに温いベッドから起き上がる気にもなれず、ルクトはそのままぼんやりと天井を眺めた。
それからふと胸元に手を突っ込み、首にかけているペンダントをつまみ出す。ペンダントの中心にあるのは、迷宮を“登った”先の大樹で手に入れた、あの夜色の玉である。ルクトはぼんやりとその夜色の玉(本当は木の実だが)を眺める。「夜色」というのはおかしな表現だと自分でも思うが、この玉の色はそうとしか表現できない。
既存の色の中で説明しようと思えば、「深みがありながらも透明感を覚えさせる藍色」とでも言えばいいだろうか。しかしそんな頭でっかちな説明よりも、やっぱり「夜色」といった方がしっくり来る。満月が照らす明るい夜空を連想させる色なのだ。表面にある星を散らしたかのような輝きが、なお一層強く夜空を連想させる。
そんな夜色の玉を眺めていると、ルクトの脳裏にある光景が思い出される。それは小高い山の上で見た、満月が浮かぶ夜空だ。
ルクトがまだヴェミスにいたころ、メリアージュは彼をよく都市の外に連れ出した。サバイバル訓練のためである。もっとも、その頃の彼にそれが訓練であるという意識はあまりなく、「都市の外へ遊びに行く」程度にしか考えていなかった。まあ、メリアージュという強者がそばにいるおかげで、都市の外であっても危険を感じることがなかった、ということだ。
さてそんなサバイバル訓練の一つとして、ルクトはメリアージュと一緒にとある小高い山に登り、その山頂で一晩を過ごした。日が暮れる前に夕食を食べ終えたルクトは、寝るまでの少しの時間、焚き火を離れて辺りを少し歩いてみた。
この時登った山は決して高くない。そのため山頂にも背の高い木々が生えていて、日が沈むとその暗がりは深かった。
その暗がりの中を、ルクトは歩く。とはいえ、振り返れば焚き火の明かりが見える範囲だ。何度か振り返ってはその明かりを確認しつつ、ルクトは特に目的もなく暗がりの中を歩いた。
少し歩くと、明るい光が見えた。満月の光である。木々の葉に覆われていない場所に出たのだ。ちょうど東向きの場所だったらしく、空のまだ低い位置に浮かぶ満月が見えた。
大きな満月であった。いつもより高い場所で見ているせいなのか、これほど大きな満月は見たことがない、とルクトは思った。
その満月に誘われるようにして、ルクトはフラフラと歩を前に進めた。そしてちょうどよくそこにあった大きい岩に腰掛ける。岩の側面にもたれかかるようにして座ると、満月がちょうど視界の真ん中に来てなおのこと都合が良かった。
それからしばらく、ルクトは何も考えずにただ満月を眺め続けた。こんなにもじっくりと、そして長い時間月と夜空を眺めたのはこの時が初めてだった。満月の周りが夜空ではなくて、暗いながらもしかし確かに青いことを知ったのもこのときだ。
『月見かえ? ませたものじゃ』
そんなからかい交じりの言葉のしたほうへ視線を向けると、そこには案の定メリアージュがいた。彼女は微笑を浮かべながらルクトの傍らに立ち、そして彼と同じように月を見上げた。
『良い月じゃ……。こうして月の光を浴びるのも久方ぶりぞ……』
後で聞いた話だが、こうして月の光を浴びることを「月光浴」と言うらしい。「身の穢れを浄化する」などの宗教的な意味合いもあるそうだが、この時メリアージュはそういうことは考えずに純粋にただこうして静かな時間を過ごすことを楽しんでいるようだった。
そんなメリアージュに、ルクトは魅入った。満月に魅入ったようにして、月の光を浴びる彼女に魅入った。
彼女の白い肌は月の光を受けてさらに白くなっている。その白い肌は儚さと神秘性を兼ね備え、ただでさえ美しいメリアージュの容貌をさらに人間離れしたものにしていた。長くて艶やかな濡羽色の髪の毛は月のやわらかい光を受けて、まるで星を散らしたように輝いていた。
不意に、薫香を含んだ風が吹いた。その夜風はメリアージュの髪の毛をまるで梳くようにしてなでていく。そしてフワリと舞った彼女の髪が、まるで夜空に溶けていくかのようにルクトには見えた。
満月の浮かぶ夜空にはあまり星が見えない。それは月の放つ光が星を隠してしまうからだ。だからこの晩も夜空に星は見えていなかった。
そんな夜空に、突然星が瞬いた。月の淡い光に照らされて、まるで星を散らしたように輝いていたメリアージュの髪。その髪が風に吹かれて広がったことで、まるで夜空に星が瞬いたように見えたのだ。
『ん? どうかしたかえ?』
『な、なんでもない!』
ルクトの視線に気づいたメリアージュが振り向き、彼は慌てて視線を逸らした。しかし彼の脳裏には先程の光景が焼きついている。
満月の浮かぶ明るい夜空に現れた星々の輝き。現実には見ることの出来ない、幻想の光景。
夜色の玉を眺めていると、その光景を思い出す。現実にはありえない、しかし現実に見たあの光景。なんだか長命種に似ているな、とルクトは思った。
気が付くとカーテンの奥から差し込む光はずいぶん強くそして明るくなっていた。ちょうどいい頃合である。ルクトはベッドから起き上がり、大きく体を伸ばしてから窓のカーテンを開けた。
明るい日の光が部屋の中に差し込む。窓を開けると、朝の湿った空気が流れ込んでくる。日の光を浴びてその空気を吸い込むと、わずかに残っていた眠気がはれていく。
「……さて、今日は道場に顔を出すか」
また一日が始まる。