卒業の季節12
「そう言えば、クルルはもう決めたのか? その、ロイの故郷に行くのか、それともカーラルヒスに残るのか」
友人であるクルーネベル・ラトージュの髪を櫛で梳きながら、ラキア・カストレイアはそう尋ねた。クルルのしっとりと輝く濡羽色の長い髪の毛は、同性であるラキアの眼から見ても惚れぼれするほど美しい。
「そう、ですね……。まだ決めたわけじゃないですけど、たぶんロイさんの故郷、ガルグイユって言うらしいんですけど、そこに行くことになると思います」
ほんのりと頬を上気させて、クルルはそう答えた。彼女とロイニクス・ハーバンが結婚を前提に交際を始めたのは、およそ二ヶ月前。それから度々、二人が将来について話し合っていたことをラキアは知っている。
二人がまず決断するべき大きな問題は、「どの都市で生活するのか」ということだった。生活の拠点をまず定めないことには、その後のあれこれに取り掛かることが出来ない。
ロイは常々、「卒業後は故郷に帰る」と公言していた。しかしクルルと婚約したことで彼はその方針を白紙撤回し、二人にとって何が一番いいのか彼女と話し合いを続けていた。
ロイの故郷であるガルグイユか、それともクルルの故郷であるここカーラルヒスか。二ヶ月近く話し合いを続け、最近ようやく結論めいたものが出てきたそうだ。よく考えてガルグイユを選んだのであれば、ラキアにあれこれ言う筋合いはない。ただそれでも、少しだけ心配そうな声で彼女はクルルにこう尋ねた。
「……本当に、それでいいのか?」
ガルグイユに行くということは、クルルにとっては故郷を離れるということだ。カーラルヒスには知り合いも友人もいる。パーティーは解散するとはいえ、イヴァンとルーシェはこの都市にいるのだ。住み慣れた環境を丸ごと捨て、知り合いが誰も居ない遠くの都市に行くことに不安はないのだろうか。
「……もちろん、不安はありますよ。だけど、きっと頑張れると思います」
クルルは正直に、そしてはっきりとそう言った。「後悔しない」とは言わない。きっと辛い事はあるし、その時になればきっと後悔するだろう。けれども、それでもきっと頑張っていける。クルルはそういう選択をしたつもりだった。
「そっか。うん、じゃあもう何も言わない」
クルルの力強い答えを聞いて、ラキアは満足そうにそう頷いた。櫛は引っ掛かることなく彼女の髪の毛を流れるようにして梳いていく。ガルグイユでの生活も、こんなふうに順調にいって欲しいとラキアは願った。
「そういえば、ガルグイユってどんな都市国家なんだ?」
「ロイさんから聞いた話だと、農業が盛んな都市みたいです」
ガルグイユはなだらかな台地の上にある都市で、その周りの土地は非常に肥沃だ。気候も比較的温暖で、農業に適している。野獣はともかく魔獣が出没することはほとんどなく、そういう意味では平和な都市だ。
「ただ、残念ながら迷宮は無いみたいです」
加えて近くに鉱山や鉱床もない。そのためガルグイユは農作物を輸出し、魔石や鉱物などの資源を輸入することで成り立っている。
「迷宮がないってことは……、武芸者も少ないんじゃないのか?」
流石に、まったくいないということはないだろう。治安維持活動を行う衛士隊など、どんな都市国家であっても武芸者は一定数以上必要だ。ただ絶対数は少ないだろうし、質も低そうである。
「そうですね……。カーラルヒスと比べれば、やっぱり少ないと思います。ただ、武芸者のお仕事は意外とあるようですよ」
その仕事とは交易を行うキャラバン隊の護衛であったり、あるいは害獣を駆除して肉類を供給する猟師であったりするそうだ。特に農作物を荒らす害獣を駆除する猟師の仕事は、ガルグイユではそれなりの需要があるという。
「それに、猟師でしたらわたしの弓もお役に立ちそうですし……」
「ロイの〈伸縮自在の網〉も猟師向きかもな」
そう言って彼女らは小さく笑いあった。さらに言えばクルルの個人能力〈千里眼〉も狩猟に役立ちそうな能力である。そもそも迷宮がないガルグイユでは個人能力を発現させている武芸者が少ない。個人能力を持っている二人は、きっと有能な人材として評価されるだろう。
「でも……、レイシン流は、どうするんだ……?」
少し言いにくそうにしながら、ラキアはそう尋ねた。迷宮を持たない都市では闘術ははやらないだろう。そしてレイシン流は数ある闘術武門のなかでも、こう言っては悪いがはやらない。そうなると、クルルがガルグイユに移住したらそこでレイシン流の歴史は、少なくとも彼女の家が伝えてきた歴史と数々の知識や知恵はそこで途切れてしまうのではないだろうか。
「そうなってしまったら、それはそれで仕方がありません。でも、もしかしたら案外上手くいくかも、って思ってるんです」
カーラルヒスでレイシン流が流行らなかったのは、迷宮の中ならば集気法だけで十分な強化ができるからだ。だが迷宮を持たないガルグイユであれば、もしかしたら練気法は受け入れられるかもしれない。そんなことをロイと話したのだと、クルルは言った。
「なるほど……。そういう考え方もある、か……」
クルルがレイシン流と練気法を大切に、そして誇りに思っていることをラキアは知っている。そうでなければ、どうして弓を得物に選ぶだろうか。それを捨てずに済むのであれば、それは彼女にとって幸せなことだろう。
「よし、終わったぞ」
クルルの髪の毛を梳き終えたラキアは櫛を置いた。それからおもむろにクルルの肩に手を置き、そしてなんとなく彼女の髪を結び始める。二つにまとめてツインテールにしてみた。うむ、よく似合う。普段の落ち着いた様子とは違って、利発でずいぶん可愛らしい印象だ。ラキアはその出来に満足げに頷いた。ロイに見せたら喜びそうだ。
「……あの、ラキアさん。これはちょっと……」
ラキアが見ると、クルルが手鏡に映る自分の姿を見て恥ずかしそうにしている。ツインテールは子供っぽいと言われ、ラキアは肩をすくめながら髪型を元に戻した。
「じゃあ、次はラキアさんですね」
「わ、わたしはいいよ」
ラキアはそう言って辞退しようとしたが、クルルは彼女を半ば強引に座らせるとその後ろに立ってその髪を梳き始めた。ラキアの髪の毛は灰色だが、艶やかな光沢を持っているため銀色にも見える。そのため一見して硬質な印象を与えるが、実際に指を通してみれば細くて繊細な髪だ。そして本人も同様であることを、クルルは知っている。
「そろそろ、切らないとだな……」
伸びてきた髪の毛の毛先をつまみながら、ラキアはそう呟いた。もちろん定期的に切ってはいるが、最近少し忙しかったせいでいつもより長くなっている。「近いうちに切ろう」とラキアが思っていると、頭の上からクルルの不満げな声がした。
「もったいないなぁ……。せっかく綺麗な髪なのに。伸ばしたりしないんですか?」
きっと似合いますよとクルルは言うが、ラキアは自分が髪の毛を伸ばしても似合うとは思えなかった。彼女にとって長い髪は女性らしさの象徴だ。そして自分がちっとも女性らしくないことを、ラキアは十分に承知している。長い髪が似合うのはクルルのような女性だ。
それから少しの間、クルルは無言でラキアの髪を梳いた。彼女の機嫌がいいことは雰囲気や髪に触れる指の感じから分かるので、ラキアも何も言わずされるままに任せる。クルルは楽しそうだ。自分の彼女と比べれば圧倒的に短い髪の毛を梳いて何が楽しいか、ラキアにはさっぱり分からないが。
「……そういえばルクトさん、故郷に帰るんですよね」
「ああ。そう、言っていたな」
それは質問と言うより確認だった。卒業後、彼が故郷であるヴェミスに帰るということは、以前に本人の口から知らされている。それを聞いたとき自分の心臓が大きく高鳴ったことを、ラキアは今でも鮮明に覚えていた。
「……嬉しい、ですか?」
今度は、本当に質問だった。その語調にラキアは苦笑する。そんなに見ていて自分は分かりやすいだろうか。
「さあ、どうかな……。嬉しいと思う人たちはいるんだろうけど……」
言葉を濁してラキアはそう答えた。合同遠征に参加するようになって改めて思い知ったが、ルクトの〈プライベート・ルーム〉は本当に遠征に向いた能力だ。十以上のパーティーをまとめて連れて行ける、というのは本当に凄い。ギルドはもちろん、都市国家政府だってできれば外に出したくない人材だろう。そんなルクト・オクスが帰ってくるとなれば、喜ぶ人間は多いと容易に想像できる。
ただ本人が考えていることは、周りが思っていることと少し違う。
鍛え直したいから、とルクトは言っていた。それを聞いてラキアは「カストレイア流刀術を鍛え直すのだろうか」と思ったが、よくよく考えてみたらたぶんそうではないのだろうと思うようになった。
ルクト・オクスという武芸者は腕利きだ。個人能力が少々特殊であるため派手さはないが、その分“技”に秀でている。若干十五歳でカストレイア流の免許皆伝を取ったのだ。才能だって十分にある。
加えて視野が広く、撤退の決断を間違えない。これは大事なことだ。どれだけ強い武芸者であっても、引き時を間違えれば命を落とすのだから。これらのことを考え合わせると、彼はまだ若いが十分に練達と言っていい武芸者だ。
そんな彼が、わざわざ「鍛え直す」と言う。普通に鍛錬する、と言うわけではないだろう。それであれば今もやっているし、ラキアも付き合っている。自惚れではいが、高いレベルの鍛錬をしているつもりだ。腕も着実に上がってきている。しかしそれでは足りないと、彼は感じているのだ。
つまりルクトは、もっと上のレベルを目指しているのだ。そしてそれが文字通りの「格上」であることに、ラキアは薄々気が付いている。
(長命種……)
〈キマイラ〉事件の後によく聞いた言葉だ。〈キマイラ〉を倒した二人が長命種であることはラキアも知っている。噂話でよく聞いたし、なによりルクトから直接聞いた。二人の内の片方が、他ならぬメリアージュであることも。
(ルクトにとって、長命種は身近な存在過ぎる……)
長命種というのは普通、おとぎ話の中の存在だ。いくら実在するとはいえ、普通の人間が関わることなど滅多にない。たとえ同じ都市に暮らしていたとしてもそうだ。遠い存在で、だからこそ人は畏怖と近寄り難さを覚えるのだろう。
しかしルクトにとってはそうではない。彼はある意味で長命種と関わりすぎた。他ならぬ育ての親が長命種だったのだから、それは仕方が無いともいえる。しかしだからこそ、彼の長命種についてのモノの考え方と言うのは一般とはかけ離れてしまった。自分もその背中を追える。彼はきっと、そう思ってしまっている。
(本当に追いつけると、なれると、そう思っているのか……?)
無理だ、とラキアは思う。その答えはほとんど反射的で、刷り込まれた固定観念と言ってもいい。彼女だけではなく、大多数の人間が同じように考えるだろう。それほどまで遠い存在なのだ、長命種とは。
だからこそ「無理だ」と考えてしまったとき、ラキアは言いようのない寂しさを感じた。ルクトは“追う”だろう。実際に長命種になれるかは別としても、そのために己を「鍛え直す」だろう。だがラキアは無理だと思ってしまった。それは諦めだ。最初から諦めてしまった人間は、動き出すことさえできない。
(また、置いていかれるのかな……)
道場での立会いでルクトに初めて負けたとき、ラキアは彼に追いつかれたと思った。そして彼が先に免許皆伝を取ったとき、負けたと思った。そして今になって思えば、あの時から自分はルクトに置いていかれて、それが悔しくてずっとその背中を追ってきたような気がする。
免許皆伝を目指し、ルクトの〈深理〉である瞬気法を覚え、カーラルヒスに留学して練気法を学んだ。
すべて、ルクトの通った道である。そして彼と一緒に遠征するようになり、彼と肩を並べて、あるいは互いに背中を預けて攻略を行う中で、ラキアはやっとルクトに追いついたと、そう思っていた。
(本当に、“思った”だけだったな……)
ラキアは自嘲気味に苦笑する。「追いついた」と思ったそのとき既に、ルクトははるか先を見据えていた。
留学(ラキアの場合は武者修行か)が終わってヴェミスに帰ったら、たぶん結婚することになるのだろうとラキアは思っていた。平凡で、ごくごく普通の人生設計だ。ルクトも帰ってくるし、「もしかしたら」とその未来を考えたこともある。だがルクトが卒業後に目指すことにしたのは、そんな平凡とはかけ離れたものだった。きっと彼は誰と結婚するとか、そんなことは少しも考えていないのだろう。
ラキアが追いかけてきたのはルクトの背中だった。その背中を、これからは追えなくなるかもしれない。追うことを諦めて普通の生活を送るのだろうか。そう考えると、胸に大きな穴が開いたような寂しさを感じる。
「……ラキアさん。寂しい、ですか?」
クルルがそう尋ねると、ラキアは大きく目を見開き、そして諦めたように苦笑した。
「……そう、見える?」
ラキアの後ろでクルルが頷くのが、彼女の持った手鏡に映る。いつの間にか、ラキアの髪を梳くクルルの手も止まっていた。
ラキアにとって、カーラルヒスでの生活は楽しいものだった。同年代の友人たちとカストレイア流の道場とはまた違った雰囲気の中で切磋琢磨し上を目指す日々は充実していた。だけど、その中でも最も大きな満足を与えてくれたのは、たぶんルクトと行く遠征だ。訓練と実戦の差、だけではないのだろう。彼と一緒に戦えることが、あるいは自分の目指してきたものだったのかもしれない。ラキアはそう思った。
しかし今、ラキアはルクトに置いて行かれそうになっている。彼がヴェミスに帰ってくれば二人の距離は縮まるだろうに、しかしラキアはむしろ距離は開いてしまったように感じた。そしてどうすればいいのか分からず、呆然としている。
「……ラキアさんは、どんな未来のためなら頑張りたいですか?」
後ろから優しく抱きしめながら、クルルはラキアにそう尋ねた。ラキアはかつてクルルが婚約の問題で悩んでいたとき、「大切なのは自分が頑張れるかだ」とアドバイスした。今、同じアドバイスを彼女からされて、ラキアは苦笑した。
「わたし、は……」
そこから先、言葉が出てこない。それが悔しくてラキアは下唇を噛んだ。そんな彼女の後ろから、クルルが優しい声をかける。
「まだ、時間はありますよ」
その言葉にラキアは苦い表情のまま頷いた。そしてふと、頭に引っ掛かるものを覚える。さて何だろうかと少し考え、彼女は「ああ!」と大きな声を上げた。
「時間! ルクトと明日からの遠征の打ち合わせをするんだった! クルル、髪の毛終わった!?」
「はいはい。今、仕上げますね」
急くラキアの後ろで、クルルは嬉々としながら彼女の髪を梳く。いつもよりずっと丁寧に。ちなみに、ピンクのリボンは勘弁してもらった。
▽▲▽▲▽▲▽
「…………それじゃあ、持って行く荷物はいつも通りで良いとして。次はルートだな」
ラキアが下宿している部屋で、クルルが淹れてくれたお茶を飲みながら、ルクトらは遠征前の確認を行っていた。こうして事前に打ち合わせを行い例えばルートなどを決めておくことで、遠征をスムーズに行うことができるのだ。
「目標は十二階層だな」
意気込んだ様子でラキアはそう言った。実を言えば二人は既に十二階層に到達している。マーキングもしてあるし、ショートカットできる場所も分かっている。だからそこに到達するだけならばそれほど難しくはない。だから目標となるのは、十二階層を探索して稼ぎやすいルートや十三階層へのルートを確立することだ。もちろんこれは一朝一夕に達成できるものではなく、何度もアタックすることになるだろう。
「十二階層か……」
ラキアが掲げた目標にルクトは少しだけ渋い顔をした。稼ぎだけを考えれば十階層や十一階層で十分だ。それに、深く潜ればそれだけモンスターも強くなる。たった二人で挑まなくても、という考えが彼の頭をよぎった。
「ま、いいか。でもキツイと思ったらすぐに引くからな」
「了解した」
それでもルクトは挑戦することを選んだ。「我ながらラキアに毒されたな」と内心で苦笑するが、それは自覚しているとおり言い訳だ。長命種になると決めたからには、十二階層程度で躊躇っているわけには行かないのだ。
「それでルートだが、八階層の地底湖はもういいだろう?」
八階層の地底湖は下に向かうルートからは外れていて、そのため時間的なロスが大きい。だからそこへはもう行かないことにしてその分下に向かおう、とラキアは提案した。
「地底湖はラクなんだけどな……」
「十二階層を探索していれば、十分にオツリが来るはずだ」
当たり前の話だが、八階層よりも十二階層の方がモンスター一体あたりの稼ぎは大きい。八階層で時間を使うより、その分を十二階層の探索に当てたほうが効率的だ、とラキアは主張した。頑強に下へ行きたいと言い張らない辺り、ラキアもルクトに毒されてきたのかもしれない。
「そろそろ、卒業してもいいんじゃないのか?」
「……んじゃ、そうするか」
八階層の地底湖から卒業。ずいぶん大仰な言い方だが、強硬に反対する理由もなくルクトは頷いた。ただ、一抹の寂しさはある。見つけてからこれまでずっと、お世話になってきたのだ。主に稼ぎの面で。「長命種になるためには必要な犠牲だったのだ」とちょっと黄昏てみる。
「十二階層で地底湖探そっと」
「ブレないな、お前は……」
長命種を目指すのは借金を完済してからだとメリアージュにも釘を刺されている。理想の前にお金が立ちはだかる世知辛い現実だが、ひとまずルクトはめげていなかった。