ミジュクモノタチ9
ルクト・オクスの父親であるパウエル・オクスは、現在都市国家オルジュでとある商会に勤めている。隣の都市と交易を行っている商会で、オルジュで五指には入らないもののそこそこの規模を持っていた。
さて、交易を行うからには二つの都市間を行き来するキャラバン隊が必要になる。当然パウエルが勤める商会も独自にキャラバン隊を有しており、彼はその一員だった。
都市の外は危険な場所だ。盗賊の危険、魔獣の危険、悪天候の危険、その他にも多くの危険が潜んでいる。そんな場所を行き来するキャラバン隊の仕事は、言うまでもなく危険な仕事である。
そして危険な季節もある。例えば冬。氷点下になることも珍しくない天候の中旅を行うのは言うまでもなく危険だ。野宿をすれば凍死の危険がある。また、雪が降って道が分からなくなれば、遭難する可能性だってあるだろう。
そのため冬場は、キャラバン隊の仕事は少なくなる。決してなくなるわけではないが、他の季節と比べるとその頻度は三分の一近くまで減る。
キャラバン隊の仕事が減るということは、二つの都市の間でやり取りされる物流の量が減るということだ。そしてそれは、交易によって供給されている物資の備蓄が減っていくことを意味している。そのため春になると交易が活発化するというのが、オルジュとお隣の常だった。
しかし、春もまた危険な季節である。なぜなら冬の間まともに食べられずに腹をすかした野獣や魔獣たちが動き回っているからだ。そんな彼らにとってキャラバン隊が連れている馬や牛は、そしてもちろん人間も、格好の獲物なのである。
端的に言って、襲い掛かってくる。野獣や魔獣が襲いかかってくるのはどの季節でも有り得ることだが、春は特にその頻度が多い。また腹をすかせた彼らはその分必死で手強く、狂気じみた殺意を放ちながら襲い掛かってくるのだ。
無論、キャラバン隊の商人たちも無策ではない。知識は十分に持っているし、護衛として武芸者(主にハンター)を雇ってもいる。そして時には、せっかく買い付けた肉類をぶちまけたり、あるいは家畜を殺したりして相手の目先を逸らしその隙に逃げる、などの対処法もいくつかある。
もちろん、商人たちが自ら武器を取って戦うこともある。弱った野獣に止めを刺すだけならさほど技量は必要ないし、また槍を振り回すだけでも足止めや牽制になる。彼らだって命がかかっているのだ。護衛がいるからと緊急事態にただ座して待つだけなど、愚かにもほどがある。助かりたいのなら、そして商品を守りたいのなら、戦わなければならないのだ。
「くっ……! この……!」
パウエルもまた、戦っている。もちろん彼は素人だから護衛に雇ったハンターたちのようには動けない。それでも見よう見真似で槍を構え、一匹の狼を相手に奮戦していた。
周りからは狼の唸り声や吼え声が聞こえてくる。狼は全部で十二、三匹だろうか。その大部分はハンターたちが抑えてくれている。だが乱戦になる中、素早く動く狼を全て抑えておくことは難しかったらしく、こうして一匹がパウエルの前に出てきたのだ。
パウエルは槍を振り回して興奮した様子で吼え声を浴びせてくる狼を近づけまいとする。倒す必要はない。ただ近づけることなく時間を稼ぐだけでいい。そうすればハンターたちが仕留めてくれる。これまでの経験からパウエルはそれを学んでいた。
だが知っているからといって、必ずしも実践できるわけではない。パウエルが振るった槍を身を屈めて避けた狼は、そのまま跳躍して彼の右腕に噛み付いた。
「グッ…………!」
鋭い痛みに呻き声をもらすパウエル。しかし彼はまだ戦意喪失していなかった。
「この……!」
右腕に噛み付いた狼を、パウエルはそのまま地面に叩き付ける。しかし狼は彼の腕を放さない。するとパウエルは狼にのしかかるようにして体重をかけて動きを封じ、そして大声で叫んだ。
「このまま刺し殺せ! 早く!!」
その声に反応したキャラバン隊の一人が駆け寄ってくる。そしてパウエルに押さえ付けられている狼を槍で一突きして止めを刺した。
「大丈夫か、パウエル!?」
狼に止めを刺した同僚は、突き刺さったままになっている槍を放り出してパウエルのほうに駆け寄った。そして狼の死体の口を開けて食い込んだままの牙を抜く。
「ああ……、だい、じょうぶ、だ……」
血が流れる右腕を押さえ、全身から脂汗を流しながらパウエルはそう答えた。客観的に言って、どう見ても大丈夫ではない。そして彼の同僚の目にもどうやらそう見えたようだ。
「どこが大丈夫だ!? 早く消毒して止血しないと……!」
そう言って同僚はパウエルの右腕を布で縛って止血する。キャラバン隊にいると、こういう場面にはたびたび遭遇する。なので、焦ってはいても彼は比較的冷静だった。
「本当に……、大丈夫、だ……」
それより荷物は、とパウエルが尋ねると同僚は苦笑した。縛った腕からはまだ血が滲んでくるが、しかしこれは応急処置。事態が落ち着けば、もう少しちゃんとした手当てができる。それようの道具もキャラバン隊には揃っているのだ。
しかし、完璧ではない。いや、そもそも都市の病院であっても完璧を期することは難しい。ならばキャラバン隊という環境ならなおのことである。
オルジュに帰ってきてしばらくすると、パウエルの右腕の傷が膿んだ。切断するほどまでに酷くはならなかったが、それが原因と思われる高熱に彼は悩まされる。さらにその高熱はすぐには引かなかった。
働きすぎで身体が弱っていたのだろう、というのが医者の見立てだ。ひとまず薬を飲んで安静にしているほかない。だがパウエルの様態は改善には向かわなかった。
むしろ悪化する。傷が原因と思われる高熱から肺炎を併発。激しい咳がパウエルを苦しめた。そしてついに彼は血を吐く。
結核、である。
このときには腕の傷はほとんど治っていたが、しかしパウエルの様態はその時とは比べ物にならないほど悪化していた。体重が減って頬はこけ、長引く咳のせいで声も擦れている。髪の毛からはツヤが消え、肌も水気を失っている。
なにより、衰弱していく速度が速かった。「日に日に」という言葉があるが、まさに日に日にそれと分かる速度でパウエルの様態は悪化していったのである。そんな彼の様子は、誰よりも看病する妻のミーナの心を暗くした。
ミーナは医師から結核の診断が下され、そしてパウエルの様態が悪化していくのを見たとき、カーラルヒスのノートルベル学園に留学中の娘シェリアに手紙を書いた。
すなわち、「父、危篤」と。パウエル自身は知らせる必要ないと言っていたし、彼女自身も彼の回復を願っていたことに間違いはない。だが、その一方で最悪の事態も考えないわけにはいかなかったのだろう。
そして、およそ三週間後。シェリアはその手紙を受け取ることになる。
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「落ち着いたか?」
寮監が用意してくれた部屋の中、シェリアと二人っきりになったルクトは、彼女の様子が落ち着いてきた頃合を見計らって声をかけた。シェリアは目を真っ赤に腫らしまだ鼻をグズグズと言わせていたが、それでもルクトの言葉にしっかりと頷く。
「……すみません、泣いちゃって……」
「いいよ。それで、親父がどうしたんだ?」
泣き出してしまう前、シェリアはただ呻くように「お義父さんが……、お義父さんが……」としか言えなかった。シェリアの義父はパウエル・オクスといい、つまりルクトの実の父なのだが、具体的に彼になにがあったのかルクトはまだ何も聞いていない。そしてそれこそが、シェリアがルクトを尋ねてきた理由のはずだ。
具体的な用件を尋ねるルクトに、シェリアはおずおずと一通の手紙を取り出した。出された都市はオルジュ、差出人の名前はミーナ・オクスとなっている。シェリアの母親だ。
「読んでいいのか?」
ルクトが一応確認すると、シェリアは無言で頷いた。恐らく、自分では上手く説明できる自信がないのであろう。
手紙を読み進めると、ルクトの表情はだんだんと苦いものになっていく。パウエルの負傷と傷の悪化。そしてそれが原因と思われる熱病が長続きし、そこから肺炎を発症。さらに結核を併発して血を吐いた、と手紙には書いてあった。
(親父が、ねぇ……)
手紙を読み終えると、ため息と共にルクトは内心でそう呟いた。結核で血を吐いたとなれば、容態はかなり悪いと考えた方がいいだろう。働きすぎで体力が落ちていたということらしいので、ともすれば危篤かそれに近い状態になっているのかもしれない。
そしてルクトを避けていたシェリアが、なぜ切羽詰まった様子で彼を訪ねてきたのか、その理由も分かった。
「……すみません……。でも……、わたし、どうすれば……! 先輩、以外に……!」
またしても取り乱し泣き出すシェリアの頭を、ルクトはぎこちない手つきで撫でた。内心では彼も困っている。
パウエル・オクスはルクトにとってはいい父親ではなかった。まっとうではないところから多額の金を借り、その挙句に返しきれなくなり子供を残して夜逃げした。最低、と言っていい部類の人間だろう。
だがシェリアにとっては絶望の底から救い上げてくれた、最高の父親なのだ。その義父が血を吐き、ともすれば死ぬかもしれない。その事態にシェリアは冷静さを完全に失っていた。自分ではなにをどうすればいいのかも分からず、結局カーラルヒスにいるもう一人の関係者、つまりルクトのところにやってきたのだ。
(死ぬ、か……。あの親父が……)
親しい人間、近しい人間の死を間近にしたのは、これが初めてである。大きな衝撃こそ受けはしなかったものの、ルクトは考えが迷走し頭の中がグチャグチャになるのを感じた。
自分のことはもう忘れろ、関わるな。ルクトはパウエルに面と向かってそういい、それで関係を終わらせ過去を清算したつもりだった。しかしいざ父の死を目の前にしてみれば、もう終わったことと全てを割り切り、切り捨てることができていない。
(ああ、もう……! クソッタレめ……!)
胸の中で悪態をつく。けれども気分はよくならず、むしろイライラが増しただけだった。それを振り払うようにして頭をかきむしると、ルクトはシェリアに声をかけた。
「それで、お前はどうしたいんだ?」
「どう、って……。なにをどうしたらいいかも、わたし……」
ルクトの問い掛けに、混乱した様子のシェリアが弱々しく頭を振る。本当になにも考えられない様子だ。ただこれからどう動くのかということだけなら、事態は悩むほど複雑ではない。むしろ、至極単純だ。
「なにをどうするかを突き詰めていけば、結局『オルジュに帰るか、帰らないか』の二択しかない」
パウエルが臥せって死にそうになっているのは、カーラルヒスではなくオルジュなのだ。ここにいても祈ること以外にできることはない。いくらカーラルヒスでパウエルの様態を心配しても無意味なのだ。
なにかしたいと思うのなら、まずはオルジュに帰らなければならない。なにもする必要はないと思うのなら、オルジュは帰らなくてもいいだろう。
「帰りたいのか、帰りたくないのか」
お前はどうしたいんだ、とルクトは俯くシェリアに尋ねた。
「…………帰りたい。わたしはオルジュに、お義父さんのところに帰りたい」
しばしの沈黙の後、シェリアは顔を上げてそう言った。目は相変わらず赤く、瞳には怯えの色が混じっている。だが先程までとは違い、明確な意思がそこには見て取れた。
「分かった。それじゃあ、明日の午前中にそのことを学園側に伝えて来い」
それとパーティーを組んでいるならそのメンバーにも伝えておけ、とルクトはシェリアに言った。そしてさらに続けてこう言う。
「で、明日の正午、学園の正門前で待ち合わせだ。荷物は最低限でいいが、昼食は食べて来いよ」
「え、ええ……?」
「付き合ってやる、って言ってるの」
よく分かっていないふうなシェリアに、ルクトは少し苛立った様子を見せながらそう言った。それはつまり、シェリアに付き合ってルクトもオルジュまでいく、と言う意味だ。
オルジュまでは片道およそ三週間。ただし、これは徒歩や馬車の速度を基準にした場合の数字だ。より速い速度で移動できれば、当然所要時間はもっと短くなる。ただし、長距離を移動するために必要な食料などの荷物を考慮に入れると、これ以上はなかなか速くできないのがこの世界の常識だった。
しかし、ルクトにはその常識を突破する手段がある。言うまでもなく彼の個人能力〈プライベート・ルーム〉のことだ。この中に荷物を全て放り込んでしまえば、ルクトたちは身軽な状態で移動できる。さらに彼らは武芸者。あとは集気法にもの言わせて走れば、その移動速度は駿馬の足にさえ匹敵するだろう。そしてそれは所要時間の大幅な短縮に繋がる。
シェリアからしてみれば、ルクトが付き合ってくれるのは良いこと尽くめだ。早くオルジュに帰れるし、何より道中が一人ではなく二人というのは心強い。むしろ彼女の側からお願いしたいくらいだったが、しかしそれだけに分からない。ルクトがオルジュまで付き合ってくれるという、その理由が。
「帰りたいんだろう? 一刻も早く、オルジュに」
だったら今は他のことは気にするな、とルクトはシェリアの内心を見透かしたようにそう言った。その言葉にシェリアも頷く。確かに今はそんな事より、一秒でも早くオルジュの義父のところへシェリアは行きたかった。
シェリアの理解が追いついてきたところで、ルクトはもう一度さきほど話したことを繰り返す。明日の午前中に家族の事情で一時的に帰省することを関係者に伝えること。そして正午に学園の正門前で待ち合わせる。急な計画だ、とシェリアは思ったがしかし不満は口にしなかった。時間をかけたところでその間はどうせ何も手につかないのだ。だったら早く動いたほうが良い。
今日はもう帰って寝ろ、とルクトに言われたシェリアはその言葉に従って男子寮を辞した。とはいえ本当に寝るのかは怪しいところだ。シェリアの背中を見送ったルクトは、そう思って苦笑した。
シェリアを寮の前で見送ると、ルクトは顔から表情を消した。席を外してくれていた寮監に話が終わったことを告げ、彼はそのまま自室である403号室に向かう。
廊下を歩きながらルクトは考えをめぐらせる。シェリアはオルジュに帰ることを決め、彼もそれに付き合うことを決めた。そこまではいい。問題はその後だ。
(オルジュに着いてから、オレはどうするのか……)
それを考えなければならない。仮にパウエルが死ぬとして、その最期を看取るべきなのだろうか。しかしもう関わるなと言ったのはほかでもないルクト自身である。それを撤回するのはどうなのだろう。
パウエルが死んだら、残されたシェリアたちはどうなるのか。まだ借金が残っているらしいが。いや、そもそもパウエルが死ぬこと自体、仮定でしかない。ならば……。
(ええい……! クソッタレめ……!)
考えがまとまらず、むしろ迷走していくのを感じてルクトは頭をかきむしりながら胸のうちで悪態をついた。イラついた気分のまま部屋に入り、卓上ランプの明かりをつける。それからベッドの上にどっかりと腰を下ろし、膝の上に肘をつくような形でうなだれる。
目に入るのは、年季の入った木製の床。ルクトはただそれを見つめていた。頭の中は空っぽで、何も考えてはいない。落ち着く時間が欲しかった。
しばらくの間そうしていると、ルクトは「よし」と呟いて立ち上がった。そして〈プライベート・ルーム〉の中から、“黒い石”を持ってくる。メリアージュから貰ったもので、ルクトのほうから連絡を付けたいときに使えと言われている。
手に持ったその“黒い石”をルクトは握りつぶして砕く。わずかな抵抗の後、“黒い石”は粉々に砕けた。しかしその破片が床に落ちることはなかった。砕かれた“黒い石”は渦を巻くようにして収束し、やがて一つの形を作る。メリアージュがいつも使っている、例の“黒い鳥”だ。
「……どうかしたのかえ、ルクト?」
一瞬の静寂の後、“黒い鳥”からメリアージュの声がした。突然の連絡を邪険にしている様子はない。むしろ楽しんでいるふうでさえあった。
「メリアージュ、金を貸して欲しい」
はっきりと、ルクトはそう言った。その声音は硬い。
「ふむ、幾らじゃ?」
「5000万」
その金額をルクトは即答した。何かを元に考えた様子は少しもない。感覚的に、口を開いたら出てきたという感じである。
「なるほどのう……。まあ、いいじゃろう。貸してやる」
いきなり5000万シクという大金を貸してくれと言われたのに、メリアージュは理由さえ聞かずにそう答えた。あるいはルクトの様子から何かを察したのかもしれない。もっとも、黒鉄屋にとっては5000万シクなど小指の先で動かせるはした金なのだろう。
「助かる」
それで利子は、とルクトは机の上にたたずむ“黒い鳥”に尋ねる。
「年利で一割。ただし、その金額はその時残っている残高で決めるとしようかの」
もともとの借金とは別口にしてやるゆえ安心するがいい、とメリアージュは言った。つまり一年以内に5000万シク返しきれれば無利子になるということだ。そして一年で5000万という金額は、ルクトにとっては決して不可能ではない。むしろちょっと頑張れば十分に達成可能な金額である。
「ホント、助かるよ」
ようやく表情と声音を和らげてルクトはそう言った。それから「それで証書は?」と尋ねる。
「なに、要らぬよ、そのようなもの。じゃが……」
「分かってる。必ず返すよ」
ならばよい、というメリアージュの声と共に“黒い鳥”がほどける。
「ではな。……ああ、それと。今月の取立ては無しにしておいてやろう」
笑いを含んだ声でそういうと、気配が急速に薄れて“黒い鳥”だった闇も消えていく。そして後にはただ積み上げられた金貨の山だけが残った。
「さて、と。どうなることやら……」
小さくそう呟くと、ルクトはメリアージュから借りた金貨を袋の中に入れて〈プライベート・ルーム〉の中に片付ける。
否が応でもこれが最後になる。父親のこと、家族のこと。解決するにしろ前に進むにしろ、これが最後のチャンスになるだろう。ルクトにはそんな予感があった。いや、最後にするのだ、とルクトは胸のうちで呟いた。まるで、自分にそう言い聞かせるように。
――――借金残高は、あと2500万+5000万=7500万シク。