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403 シングル・ルーム  作者: 新月 乙夜
プロローグ
1/180

黒鉄屋のメリアージュ

 

 ――――ニャア。

 

 黒猫が鳴く。まるで誘うように。

 

 一人の少年が暗い裏道を走っている。誘うように鳴く黒猫を追いかけ、息をきらし全力で走っていた。


「待てコラ、クソ餓鬼!」


 罵声と雑多な足音が後ろから聞こえてくる。振り返る手間さえも惜しんで、少年はただひたすらに足を動かし黒猫の後を追った。


 ――――ニャア。


 再び黒猫が鳴く。


 古来より黒猫は不幸や災厄の象徴とされてきた。もちろん今の時代にそのような迷信を真に受ける者はいないが、そういう迷信が残っていることは事実である。


 黒猫のその甘えるような鳴き声は、この暗い裏路地でことさら不吉に響いた。黒猫にまつわる不吉な迷信が少年の脳裏をよぎるが、しかしそれでも彼は黒猫を追いかける。もはや彼がすがるべきは、その黒猫しか残されていないのだから。


 ただ、少年は「このまま黒猫についていけば助かる」と、そんな都合のいいことを信じているわけではない。しかし後ろから追って来る連中に捕まれば、自分の人生が終わるということはなんとなく分る。


 だから、逃げる。


 黒猫の後を追っているのは結果論的なものにすぎない。走っていたら、逃げていたら目の前にこの黒猫が現れたのだ。どこにどう逃げればいいのかまったく分からなかった少年は、ただ目先の目印としてこの黒猫を追っているだけなのである。


 ――――ニャア。


 三度、黒猫が鳴く。


 黒猫が導く裏路地の先は、T字路になっていた。先を行く黒猫は、しかし左右のどちらにも曲がることはなく、路地の正面にある建物にスルリとその身を滑り込ませた。


 少年は迷った。左右どちらの道に曲がるのか。それとも黒猫の後を追って建物の中に入るのか。


 逡巡は一瞬。どの道体力がもう限界だった。息は荒く喉が激しい痛みを訴えている。このまま走り続けたとしても、遠からず追っ手に捕まってしまうだろう。


 だったら、と少年は腹を決めた。もしかしたら隠れてやり過ごせるかもしれない、と一縷の希望にすがりつき、少年は足をもつれさせながら黒猫の後を追って正面の建物に飛び込んだ。


 建物の中は真っ暗だった。明りは一つもなく、ただただ闇がそこを支配している。飛び込んだ際に転んでしまった少年は、しかし立ち上がることはできず四つん這いになって荒い息を吐く。


「ようやく追いついたぞ、コラ。手間かけさせやがって、このクソ餓鬼が!」


 少年がすがりついた一縷の希望は、この瞬間に絶望へと変わった。風体と目つきの悪い男が、少年の後を追って建物の中に入ってきたのだ。男は肩で息をしながらもまだまだ余裕がありそうな様子で、立つこともできないでいる少年がさらに逃げることはもはやかないそうにない。


 せめてもの抵抗として、少年は男を睨みつける。それを見た男が、不機嫌そうに顔を歪ませる。


「なに睨んでんだよっ!!」


 男の蹴り上げた足が、少年の腹部を直撃する。わずかに体を浮かして少年は転がり、腹を抑えて這いつくばった。


「が……がぁ………」


 上手く息が出来ない。空気を求めて大きく口を開きあえぐ少年を、風体の悪い男はにやにやと嗜虐的な笑みを浮かべながら眺めていた。少ししてそれにも飽きたのか、男が少年の頭に向かって手を伸ばす。その手が少年の髪の毛に触れようとしたその瞬間、建物の奥、闇の中から声がした。


「まあ、待つのじゃ。この店を訪れたからには餓鬼とて妾の客ぞ。まずは事情を説明するがよい」


 奥から現れたのは美しい女だった。白磁のように艶やかで滑らかな肌と上等な漆器のような濡れ羽色に輝く髪。身にまとう漆黒のノースリーブのドレスは周囲の闇と完全に同化していて、どこが裾なのかわからない。


 妖艶、という言葉を体現したかのような女だった。扇で妖しく口元を隠す仕草に、思わず鳥肌が立つ。


「店、だと………!?」


 少年の髪の毛をつかもうとしていた男は、ひとまずその手を戻し怪訝な表情を浮かべた。男はこの界隈の裏社会を取り仕切る組に所属している。組に入ってまだ半年の下っ端ではあるが、ここらは彼にとって生まれ育った場所でもあり、裏路地も含め地理は完全に把握している。しかしその彼でさえ、こんなところに店があるなど聞いたこともない。


「まあいいや」


 結局、男は考えることを放棄した。この店がどんな店で、この女がどんな女であろうとも関係はない。


「事情を教えろってんなら教えてやるよ。この餓鬼はな、ウチの組に借金してんだよ」


 しかもちょっとやそっとじゃ返しきれない額をな、と男は嫌らしい笑みを浮かべながら語る。


「それともアレか?この餓鬼の借金、アンタが肩代わりしてくれんのか?」


 その体でよ、と男は女に顔を近づける。彼が女の目に浮かぶ強い軽蔑の光に気づかないのは、自分に酔っているからだろうか。


「あまり顔を近づけるな。息が臭いし、その不細工な面を見ておると目が腐りそうじゃ」


「ンだとこら………!」


 女の嘲りを含んだ侮蔑の言葉に、男は分りやすく激怒した。が、男がどれだけ怒ってみても女が慄くことはない。それが男の神経を逆なでする。


「このアマが!」


 男が振りかぶった拳は、しかし振るわれることはなかった。店内にもう一人別の男が現れ、彼が男の腕をつかんで止めたからだ。そしてさらにその腕を後ろに引いて殴りかかろうとした男のバランスを崩し、その顔面に問答無用で鉄拳を叩き込む。


 顔面を殴り飛ばされた男は、少年がうずくまっているのとは逆の方向に転がった。頬を押さえながら自分を殴った相手を月明かりで確認し、男は目を見開く。


「ア、アニキ………」


 アニキ、と呼ばれた男は殴り飛ばした舎弟には目もくれず、不機嫌そうに扇で口元を覆う女に対し片膝をついて跪いた。


「ウチの者が大変な失礼を。黒鉄(くろがね)屋のメリアージュ様」


 あの馬鹿は煮るなり焼くなり好きにしていただいて結構ですのでどうぞ平にご容赦を、と男はさらに一層深く頭をたれて願った。


黒鉄(くろがね)屋………!」


 殴られた男の顔が驚愕と恐怖に染まる。


 ――――黒鉄(くろがね)屋。


 この都市国家ヴェミスにおいて、いや都市国家連盟アーベンシュタットにおいて少しでも裏社会と関わりのある者ならば、その名を知らぬものはいない。当然、殴られた男もその名前は知っている。しかしかの黒鉄(くろがね)屋がこんな小汚い裏路地の小さな建物に店を構えているなど考えても見なかったのだ。


 黒鉄(くろがね)屋はいわゆる〈金貸し〉である。金を貸し、利息を取って儲ける商売だ。ただし、もちろんのこと黒鉄(くろがね)屋は普通の金貸しではない。


 黒鉄(くろがね)屋のどこがどう特別なのか、一言で説明するのは難しい。なにしろ男の記憶が確かであれば、店主のメリアージュという女さえもただの人間ではない。


 黒鉄(くろがね)屋についてもっとも良く知られているのは、その「踏み倒しや返済不履行は決して許さない」というモットーであろう。しかしそんなモットーにも関わらず、黒鉄(くろがね)屋は暴力に訴えた借金の取り立ては行わない。相手に返済の意志さえあれば、借金をまけることはしないが支払いを猶予することはある。そういう意味では良心的とさえ言えるだろう。


 だが、それをいいことに借金を踏み倒そうとする者を、黒鉄(くろがね)屋は決して許さない。「黒鉄(くろがね)屋の借金を踏み倒そうとした者は、死よりも恐ろしい目にあう」と言われているのだ。実際、借金の返済を拒否したある都市国家が一夜にして滅ぼされた、などという伝説まである。


 黒鉄(くろがね)屋について囁かれる噂や伝説がどこまで本当なのか、男には分らない。しかし自分の如きチンピラがたて突いたり、でかい口を叩いたりしていい相手でないことは確かだ。なのにほんの十数秒前の自分はなんということをしてしまったのか。殺されるかもしれないという恐怖に、男は身をすくませた。


 しかし、幸いなことにメリアージュは男のような小物に対してはすでに興味を失っていた。


「ふむ。多少は礼儀というものを知っておるらしい。そこの馬鹿のことはひとまず忘れてやるゆえ、事情を説明するがよい。そこな餓鬼がおぬしらの組から金を借りたという話じゃが、そもそもおぬしらとてこんな子供に金など貸すまい?」


 一体どうなっておるのじゃ、とメリアージュと呼ばれた女は目の前で跪く男に尋ねた。


「金を借りたのは、この少年の父親です」


 商売を営んでいた少年の父親は資金繰りに苦しくなり、そしてまっとうなところからは金を貸してもらえなくなった。追い詰められた少年の父親は、ついに裏社会から金を借りてしまったのである。


「して、その父親は?」


「逃げました」


 その簡潔な答えにメリアージュは「おやまあ」といって呆れた。父親が逃げたことに呆れたのではない。父親が逃げたにもかかわらず子供が追われているこの状況、つまり親が子を見捨てたことに呆れているのだ。


「他に家族は?」


「おりません。母親は早くに亡くなっており、子供はその少年一人です」


 ふむ、とメリアージュはひとまず納得した様子を見せる。


「して、おぬしらはその子供を捕まえてどうするつもりじゃ?」


「奴隷商に売り払い、残った借金の補填に当てます」


 奴隷商という単語を聞いた瞬間、少年の体に悪寒が走った。この世界の奴隷の扱いやその従事する仕事について、少年は詳しいことは知らない。しかし「奴隷」という単語それ自体が、少年に冷たくて残酷な未来を予感させた。


「そもそも借金は幾ら残っておるのじゃ?」


「財産を全て処分し、残りは8000万シクほどでしょうか」


 この世界において一般的な家庭の月収は30~50万シクとされている。一年は十二ヶ月だから単純計算で平均的な年収は360~600万であり、そう考えると少年の父親がこしらえた借金の大きさが分る。


「さて、もともとは幾らだったのやら」


 メリアージュが少し意地悪げに尋ねた。裏社会からお金を借りた場合、その利息が法外であることは周知の事実だ。借金に借金を重ね、ついには十倍近くに達していたとしてもおかしくはない。受け答えをする男もその辺りの事情は知っているのだろうが、ただ苦笑を浮かべるだけでなにも答えはしなかった。メリアージュも答えを期待していたわけではないらしく、すぐに話を元に戻す。


「しかし、それでは子供を一人奴隷商に売り払ったところで大した補填にはなるまい」


「多少なりとも回収しろ、というのが上からの命令でして………」


 男の受け答えは丁寧だが、引く気がないのは明白だった。そもそも相手が黒鉄(くろがね)屋のメリアージュでなければ、こんな悠長に問答をすることもなかっただろう。


「ではその借金、妾が肩代わりしようぞ」


「なっ………!」


 メリアージュのその申し出に、受け答えをしていた男は絶句した。それは債権を買う、という意味だろう。たしかに黒鉄(くろがね)屋ならば8000万シク程度、即金で用意できるだろう。しかし債権を買ってどうするのか。すぐ脇で這い蹲っている小汚い餓鬼にそんな大金を用意するアテなどない。だからこそ男たちは少年を奴隷商に売り払う予定だったのだし、メリアージュとてそんなことぐらい分っているだろうに。


「どうした?おぬしらにとっても良い話であろう?」


 確かにその通りだ。仮に少年を奴隷商に売り払ったとして、回収できる額は全体の一割にも満たないだろう。しかしメリアージュが肩代わりするというのであれば全額を回収できる。良い話というか“旨すぎる話”とでも言うべきで、それゆえメリアージュの意図がどこにあるのか男は図りかねた。


「いえ、ですが………」


「ふむ。おぬしの一存では決められぬかえ?では一度戻り頭と相談してくるが良い」


 それまでそこの餓鬼は妾が預かっておく、とメリアージュは言った。この時点で受け答えをしていた男は、この件が自分の裁量を超えたと判断した。


「………確かにこの子供をお預かりいただけるのですね?」


 男は最後の念押しをする。この子供が逃げてしまったらこの話はなくなってしまうのだから。


黒鉄(くろがね)屋のメリアージュが保障しよう。それとも妾の言質では不服かえ?」


 とんでもございません、と男は頭を下げて一礼した。それから彼は二人のやり取りを固唾を呑んで聴いていた舎弟を乱暴に起こして店を出る。そして最後に二人揃って一礼してから、彼らは黒鉄(くろがね)屋を後にした。


 男二人が去ったことで店の中はとたんに閑散とする。メリアージュは扇を畳んで片付けると、未だに立ち上がれずにいる少年に近づいた。


「少年よ、名はなんと言う?」


「………ルクト。ルクト・オクス」


「ふむ、ではルクトよ。妾は黒鉄(くろがね)屋のメリアージュという。そこそこ長い付き合いになると思うが、まあ宜しく頼む」


 そういってメリアージュは白くて艶かしい手を差し出す。その差し出された手を、ルクトは土ぼこりで汚れた手で恐る恐る握った。


 これが少年ルクトと、天使ほど優しくはないが悪魔ほど悪辣でもない金貸し、黒鉄(くろがね)屋のメリアージュの出会いであった。


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― 新着の感想 ―
親の借金を子供が返済しなければいけない社会なんだ。それも途方もない利率の借金で膨れ上がった金額を世知辛い社会だね。
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