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発作だった。それも今回は今までにないほど、大きな。
一命を取り留めたとはいえ、今だ意識は回復していない。
心電図や呼吸器に繋げられている将斗の体調は、最早最悪な状態だった。
手術ができないから投薬で持ちこたえさせている。だが、果たしてそれがいつまで通用するのか……。
主治医が下した診断は、誰もを絶望させるのに十分な威力を持っていた。
「この状態から脱せなければ、せいぜいあと一ヶ月か、良くて――」
話を聞いた母は、泣き崩れていた。父は信じまいと必死でもがいていた。
そんな二人を見ているのが嫌で、現実を突きつけられるのが何よりも嫌で。
佑夜は静かに小会議室を後にした。
覚束ない足取りで向かったのは、将斗の病室だった。
廊下にはもう月光が射していた。
それだけの時間が経っていた。
そしてそれが指す意味も、誰もが解っていた。
病状が安定するまでに、今までこれほどかかったことはなかった。
つまり、そういうこと。
下唇を噛み締めると、佑夜は歩調を速める。
蒼闇の廊下は、どこか物悲しげだった。
病室には将斗以外、誰もいなかった。
電気も今は、消してある。
暗がりのそこにはまるで生活感など微塵もなく、佑夜は怖気を覚えた。
まるで将斗がこのままだと、そう言われているような気がしたから。
静かに扉を閉め、足音を殺しながら歩み寄る。
無機質な心電図の音は近づくに比例して、どんどんはっきりと聞こえてきた。
それが将斗の生きている、唯一の証だったから。
佑夜は隣まで来ると、そっと将斗の顔を覗き見る。
倒れる前まで蹴飛ばしたり笑ったりしていたとは到底思えない、そんな風貌だった。
顔色は白く、繰り返される呼吸もか細い。
そして将斗をこんなにしてしまったのは、他でもない自分だ。
そう思うとどうしようもない罪悪感が、佑夜の中に渦巻いた。
左胸の奥が、ツンと痛んだ。
「何、泣いてんだよ、お前。……柄でもねぇ」
「兄貴……」
「グズは女に、もてねぇぞ」
酷くか細い声で、将斗は佑夜をおちょくった。
その時初めて、自分の瞼が湿っていることに気付く。
虚無感、底知れない苦しさは、人の感情まで麻痺させてしまうのだろうか。
ただ呆然と佑夜はその場に立ち尽くす。
その時将斗は苦しそうな顔を無理して笑顔にして、へへっと笑った。
佑夜を元気付けるために、将斗は笑ってくれていたのだ。
それなのに、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう……。
己の無力さに打ちひしがれて、佑夜は唇を噛み締めて俯いた。
「……夜か。俺、どんなけ寝てたんだろ」
静寂の中、ゆっくりと将斗は呟いた。
窓の外へと視線を投げかけながら、言いようのない翳りを見せていて。
半日くらいと答えた佑夜の言葉に、そりゃ長かったなと言い返した。
「でも。まだ今日なんだ」
そう言うと将斗は、星空ではないところをじっと見つめだした。
それが一体どこなのか、皆目見当がつかない。
同じ物が見えるはずもない。そう解っているのに、佑夜もじっと窓の外を見つめた。
そこにはやっぱり、瞬く幾千の星しか目に付かなかった。
「そういえば佑夜。追悼式、どうした」
ふと思い出した将斗は、続かぬ息を懸命に吐き出しながら佑夜に視線を向けた。
そこに宿る光の弱々しさに、佑夜は思わず息を呑む。
頭の中は、一気に現実へと引き戻されたような感じがした。
「……行かない。行けるわけがない」
兄をこんなにしておいて、どうすればのうのうと別の場所へと行けよう。
本当の家族だって、かけがえのない存在には変わりない。
けれど今、この病床で戦っている家族を他所にどこかへ行くなんて、そんな大それた度胸を佑夜は持ちえていなかった。
両親には悪いけど、今年だけは……。
佑夜はすまなさに再度俯くと、ぐっと掌を握りしめた。
将斗はそんな佑夜を目にして、そう、と目を伏せる。
静かな病室。
蒼闇に包み込まれた密室。
これほど近くにいるのに、互いに言葉を発することができなかった。
本当は伝えたいことだってあるだろうに、口にできない。
このままじゃいけない。解っていた。
だったら、どうに伝えよう。
「なあ、佑夜」
重たい腕を、必死で持ち上げる。
すると力のない佑夜の手を、将斗は弱々しく握った。
「いいか、俺が言うこと……ちゃんと聞けよ」
消え入りそうな、吐息ほどの声量で将斗は言う。
けれどその瞳は強い光を宿していて、たまらず佑夜は頷いた。
すると将斗は嬉しそうに頬を緩ませる。
「今すぐだ。お前一人でも、追悼式に行ってこい」
突然の言葉に、佑夜は目を見開いた。
けれどすぐに冷静な頭が制止に出、ほとんど無意識のまま頭を振る。
「いい。俺のせいで兄貴がこんな目にあってるのに、どこかへなんか行けない」
「佑夜。何で、お前のせいになるんだよ」
「だって兄貴が体調悪いの知っていたんだ。俺が行くのを止めていれば、苦しい思いなんてしなくて済んだじゃないか」
俺が悪かったんだよ。
そう言った瞬間、掴まれた手に力が篭った。
「お前、ほんとただのバカだな。そのおつむで、よく俺と同じ高校に受かったよ」
込められた力は、あまりにも小さかった。
「ここで行かないなんて、それこそ苦しんだ価値ねぇじゃん。お前、それを解って言ってんのか」
途切れ途切れの呼気。
小さくなる一方の声量。
それでも将斗の言葉には、それらに勝る衝撃があった。
「行ってこい。お前はお前の家族のことだけ、今は考えてりゃいいんだ」
他のことは帰ってきてからじっくり考えろ。
そう言うと将斗は手を放して、
「すてきな思い出持って、さっさと行け」
その手でトンと、佑夜の背中を押しやった。
振り返った時、将斗の泣きそうな笑顔が暗がりに見えた気がした。




