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そこだけがまるで、別世界のようだった。
十時といえば人気のなくなるこの港に、今は大勢の人が集まっている。
対岸にある観覧船乗り場とは、わけが違うのだ。
煌びやかでもない。歓喜の声があるわけでもない。
ただ静かにひっそりと、そこにあり続けるだけなのだ。
中学の時によく友人と夜釣りに来たから、あの静けさははっきりと覚えている。
まるで境界線でも引かれたかのように、世界が変わって見えるのだ。
河が終わり、海の始まるこの場所は。
とはいえ今が対岸のように煌びやかかといえば、そうではない。
人はいる。けれど何よりも深い悲しみを帯びている。
話し声はあっても、自然盛り上がりはしない。
どう足掻いたところで、ここにいるすべての人があの事故の遺族なんだ。
息を切らして船に乗り込んだ佑夜は、ふとそんな当たり前のことを思った。
そして、こんなことを考えている佑夜自身も――
花束を飾る包装紙が、くしゃっと力ない悲鳴をあげた。
今だ落ち着かない呼吸のまま、佑夜は鉄柵に寄りかかり、甲板に腰を下ろした。
身体を下ろすと同時に、シャツは捲りあがる。
その間を風は駆けて行き、汗をかいた背中がひんやりとした。
悲しいざわめきが、耳を掠めていく。
急に孤独感に駆られ、佑夜はその場で背中を丸めた。
船は河の終わりを抜け出ていく。
どれほどの時間が過ぎたのかなんて、そんなこと解らなかった。
港の明かりは、もうずっと遠くの方で沈んでいる。
飲み込まれんばかりの大海原が、黒くそこに広がり続けているばかりだった。
佑夜は依然甲板に座り続けたままで、モーター音と掻き分ける波の音ばかりに意識を集中させていた。
そのせいか時間の感覚も、自分自身の感覚も。
何もかもが麻痺でもしたかのような感覚に陥っていた。
後どれくらい、沖に出るのだろう。
モーター音に満たされた頭で、そんなことを考えた。
考えはすぐにモーター音に掻き消された。
「こんばんは」
すると突然、目の前に少女が現れる。
身よりはいないのか、彼女一人だ。
顔は正直、可愛い系とはいえない。どちらかといえば凛々しい方。
クラスではまとめ役でもしていそうな、そんなタイプのように感じた。
現に声は凛と通って、はっきりしている。
佑夜は慌てて起き上がると、こんばんはと小声で答えた。
急に立ち上がったせいか、立った瞬間少しよろけた。
「あなた一人なの?」
「そうだけど」
「へぇ、奇遇だね。私も一人」
そう言うと少女は優しそうな微笑を浮かべた。
初めて会ったとは思えない。
その笑顔を見て、佑夜はおかしなことを心の中で感じた。
それとも遺族はこの辺の人が多いから、学校か何かで会ったのだろうか。
「私、萩原梓って言うの。東高の一年」
そう言うと梓という少女は、右手をそっと差し出してきた。
自己紹介をしろと、つまりはそういう意味だ。
「雪井佑夜。同じ高校の一年」
やっぱり学校が一緒だったか。
そんなことを頭の片隅で思いながら、佑夜も右手を差し出した。
クラスメイトじゃないから、きっと廊下ででもすれ違ったのだろう。
「ふぅん。佑夜、ね」
一方梓は、握手をしながら感慨深げに佑夜の名を口の中で転がしている。
『佑夜』なんて面白い名前でもないのに、変な奴だ。
そんなことを思いながら、佑夜は梓の顔を見つめた。
梓なんて方が、名前的にはよっぽども珍しいんじゃないのか?
ま、いい名前じゃないの。そう言いながら、梓は握手している手を放した。
握手をした後の、妙な感触が手に残る。
あまり触れ合わない人の体温。
それがなんだか、やけに生々しく掌に纏わりついている。
そういえばいつから、人との距離を置くようになったんだろう。
そんなことを思いながら、佑夜は掌をぎゅっと握った。
汗をかいていた手は、握った瞬間じっとりと嫌な感じがした。
「ねえ」
揺れる波音とうるさいモーター音。
その中で梓の凛とした声が、佑夜を読んだ。
トントンと梓は佑夜の隣まで来ると、鉄柵に捕まり暗黒の海を見つめ始める。
見つめている先は、あの時の将斗のようにまったく解らない。
けれど身を乗り出さんばかりの勢いで、梓は夜の大海原を見つめ続けていた。
夜風に揺られて、彼女のボブカットの髪が靡いている。
ボーっと耳に篭るような汽笛が空気を震わす。
「佑夜ってさ、もしかして旧姓が『柳瀬』じゃない?」
船は最初の追悼場所へとたどり着いた。
「何言ってんだよ、お前」
驚愕のあまり双眸を見開きながら、佑夜は後退った。
僅かに揺れる甲板の上。鉄柵を突き放しながら、梓は佑夜に向き直る。
「動揺するってことは図星?」
ふふっと聞こえる微笑。
精悍な表情に梓は淡い笑みさえ浮かべている。
そんな彼女を見て、佑夜はえも言わぬ恐怖を感じた。
確かに自分の旧姓が『柳瀬』であることは変えようのない事実だ。
だが、それを何でかかわりのない同級生が知っていよう。
佑夜は生唾を一つ、飲み込んだ。
「お前……一体何なんだよ」
渇いた喉から、佑夜は声を振り絞る。
それは虚しくも潮騒がすぐに消し去って行った。
しばしの沈黙が、静かな夜を告げていく。
「言うなれば、同じ運命を辿っているってトコかな」
けれど梓は表情をまったく変えずに、少し考えてからどうとでもなさ気に言葉を紡いでいく。
そして離された分の距離を梓は無言で詰めてきた。
佑夜は鉄柵に突っかかりながらも、また一歩と後退った。
まるで一定の距離以上は近づかせない、とでも言うように。
カンと甲板が寂しい声をあげた。
海上の冷たい風が、二人の間に吹き荒れる。
止まった船に当たる波は、下方で僅かな水音を立てていて。
すると鐘の代わりに、ラッパの音が夜闇を揺らし始めてきた。
すぐそこで行われている、最初の追悼。
しかしその音さえも遠く感じるほど、今の佑夜は混乱していた。
わけが解らないと頭を振りたくり続ける。
首を振れば視界の端、黒い水面に白い花弁が漂っていた。
花弁は波に飲まれて、海中奥深くへと沈んでいく。
息苦しい沈黙がしんしんと降り積もり続けていた。
その中でどうして鼓動だけは躍起になっているのだろうか。
嫌に荒れ狂う心音を抑えつけんばかりに佑夜は左胸を鷲掴んだ。
船は再び、篭った雄叫びを上げ始めた。
壮大な振動音の後、潮騒はすんなり消えていった。
時間はただあるがままに流れ続けていた。
あれから佑夜と梓は一言も言葉を交わすことなく、二箇所目の追悼場所を越え、三箇所目も越え――。
気が付けば残す追悼場所は、あと二箇所。
時間はもう午前の三時を指していた。
通る船もなければ、街の明かりさえもどこにもない。
もしかしたらもうすぐ、日本の国境を越えるのかもしれない。
妙は感覚に駆られながら、佑夜は一面の暗闇を見続けていた。
それにしても、だ。
梓の方も佑夜同様、まだ追悼場所についていないようだ。
それでも多分、次の場所が彼女の目的とする追悼場所なのだろう。
最後の追悼だけは、いつも佑夜一人なのだ。
国境を越えてしまったのは、柳瀬夫妻しかいなかったのだから……。
ボーっと船は、四度目の汽笛を鳴らす。
エンジン音が微かに弱まったのが、確かに感じられた。
佑夜は誰に向けるでもないため息を吐き出す。深い深いため息を。
そうしたらいきなり、将斗のあの表情が浮かんできたのだ。
病室を出る際の、あの表情が。
あの時将斗は平気な振りをして、佑夜を迎えだしてくれた。
けど……、本当はそんなことそしている余裕なんて、なかったはずなのだ。
悪化の一途を辿る体調。
危険な状態を脱したわけでもない。それなのに、……だ。
佑夜は手に持った花束に、ぐっと顔を近づけた。
抱え込むように、ぐっと。
花の香りは、自然と感じられない。
代わりに焦燥感にも似た後悔の念が、強く強く押し寄せてくる。
胸が潰れんばかりに、ぐっと。
佑夜は短い息を吐き出した。
どうしよう。
もう後戻りはできない。どうのしようもない。
それなのに頭の中には、そんな言葉ばっかりがぐるぐると渦巻いている。
花を持つ手が震える。
……違う。震えているのは手だけじゃない。心からだ。
後悔は次第に、何よりも強い恐怖へとすり替わっていく。
震える心は、今眼前にある海にでも飲み込まれていくような錯覚さえ覚えた。
渦巻く。飲み込まれる。
係員が遺族に召集をかける声が、僅かに聞こえてきた。
「大丈夫? 佑夜って実は船に弱いタイプなの?」
すると肩に手をかけながら、梓が心配そうに顔を覗き込んでくる。
違うと首を横に振ると、佑夜は一つ深呼吸をした。
なら良かった、と安堵の表情を梓は浮かべている。
だが佑夜の胸には大きな突っかかりが生まれる一方だった。
召集の声は、今だなりやまない。
「お前、行かなくていいのかよ」
率直な疑問を、佑夜は梓にぶつけた。
「行くってどこに?」
しかし当の梓はとぼけたわけでもなく、ただ首を捻っているのだ。
膨れ上がるばかりの疑問に、佑夜は梓の顔を見つめた。
そこには何一つ変わらない梓が、立っているだけだった。
召集の声が、今なりやむ。
梓は一度唇を引き結ぶと、ゆっくりと言の葉を紡いでいった。
「驚きだけどね、佑夜は私の兄さんだよ。双子のね」
追悼の声が、遠く聞こえる。
「私つい最近知ったんだ。自分が養子だったっんだって」
潮風が淡く通り過ぎていく。
「その時教えてもらった。自分の旧姓も、どこかで兄が暮らしてるってことも」
そんな中で梓は、まるで物語を読むかのような口調で、真実を告げて言った。
佑夜はただ呆然と立ち尽くしながら、それをずっと聞いている。
そして梓は、一枚の写真を佑夜の前に差し出した。
そこには――
「『初めて海に行ってきました。佑夜も梓も大喜びです』」
同じだ。大人の男女と一歳前の自分と女の子が、一緒に写っている。
佑夜に渡されたアルバムにあった写真と、同じだった。
鐘代わりのラッパの音が、大海原に響き渡る。
「やっと会えたね」
その中にいてさえも、梓の声は凛と聞こえてきた。




