樹梢を仰ぐ者
深い樹海の中を、少年は息も荒く走っていく。走る義務はなかったが、木々がおりなす星も見えぬほどの濃い夜の持つ針が、少年の心の壁に穴を開けて恐怖のつむじ風を吹き込むので、走らざるを得ないのだ。
きつく瞼を合わせて樹海をかける少年の唇は先程から一定の動きを繰り返し、或る言葉を紡ぎ出していた。
「何を恐れることがある、俺はアスガルド族一の勇者、ジークの息子トールだぞ!」
少年にとってその言葉は恐怖をうち負かすための唯一の武器であり呪文であったが、しかしながらそれはなかなか功を奏さず、少年はひたすらに走り続けているだけだった。
突如、激痛の腕が少年の左足を捕らえた。叫ぶ間もなく木々が少年の視界で半回転した。
気がつくと、少年は土を握っていた。木の根に足を取られて転倒したのだと結論づけると少年はゆっくりと立ち上がり、自分の身を包む獣皮に付着した腐葉土を払い落とすと、小さなため息をつきながら天を仰いだ。少年の金の双眸は、やはり星の煌きではなく夜風に涼やかに流れる木の葉ばかりを映したが、心の泉に恐怖の波紋が立たなくなったのを知ることができた。こうして落ち着いてみると少し前の取り乱しようがどうしようもなく愚かに思えて、自身への皮肉めいた笑いが浮かんでしまう。
「いったい何に怯えていたんだろうな」
このイグドラシルの森に、自分の生殺与奪の権を握る者が存在するはずがない。むしろそれは逆だ。自分の弓で倒せないのは西の山の魔狼フェンリルか北の湖の大蛇ヨルムンガンドぐらいなものだ。訳の判らないものに怯える暇があったならばさっさとイグドラシルの葉を取って村に帰り、剣を受けて一人前の男として認められたい。
少年は瞑想した。怯えることはないと自己暗示をかける。怯えることはない。ここはただの森。険しい岩山でも、凍る湖でもない。木が何の害を及ぼせるのだ。そうして、瞼を開いた時だった。少年は我が目を疑った。
どういう事だ、さっきまでこんなものはなかったぞ。もしかすると、これが。
自問自答する少年の前には、開けた場所と巨木があった。否、そびえていたという形容の方がより合っているかもしれない。
「イグドラシル……」
呟いて、少年はその場に座りこんでしまった。少年にとってその木はただの木ではなかった。それは尊いものだった。神と言い換えても良い。しかしイグドラシルは神より母であった。緑の雲をまとわせる幾千もの枝はあらゆる方角に伸び、世界はそれに覆われているのだという錯覚までおこせそうだ。半ば土と化し白骨を思わせる白い樹皮に刻み付けられた傷の一つ一つは、幾星霜も雨風に耐えてきたことを証している。それらよりも少年が「尊さ」を感じたのは、イグドラシル自体に根付き葉広げる植物の多さであった。植物達はイグドラシルにからみつき、彼らにとって大地であるイグドラシルを養分としているのだ。
刹那、少年は自分がひどく矮小に思えた。自分は何とちっぽけで、くだらなく、卑しいのであろう。獣を殺し、草をむさぼり、無数の命を糧として生きてきて、結局それだけなのだ。結局、それだけで何もしていないのだ。そう思うと、少年はそれ以上イグドラシルに近付けなかった。父もその父も、そのまた父も、儀式の際にこういう思いを味わったのだろうか。それでもなお、多くの小さな命を喰らって生きていけるのだろうか。自分にはとてもそんなことはできない。こんな姿を見せられて、これ以上生きていけるものか!
暫く座りこんでいて、少年は或る瞬間に、はたと気付いた。何時頃からかは分からないがしかし、一人の少女がイグドラシルに頬を当てている。少年は立ち上がり、少女の方に歩みを進める。それは必然的にイグドラシルに近付くことにもなるのだが、不思議と歩くことができたのだ。
少女は少年の気配に気づいたのか、イグドラシルから頬をはなして少年に微笑みかけると、ちりんと少女の耳についている金の飾り物が音を立てた。
「いらっしゃい、アスガルド族の勇者ジークの子、トール」
その神を賛美する歌でも吟ずるような美しい声に少年はただ、頷くことしかできなかった。イグドラシルに何のためらいもなくふれることのできる少女だ、自分の名を知っていてもなんら疑問はない。
平素の少年であったならば、少女は全く不思議な存在であっただろう。少女のしなやかな肢体を包んでいるような美しい白い毛皮を持つ獣も、少女の雪を思わせる白い髪も、黒曜石の瞳も、少年は見たことがないのだから。
だが一つだけ今の少年に不思議に思えたことがあった。それは少女の瑞々しい頬をつたう涙であった。
「何が哀しい」
ちりん。少女が首を傾げるのにあわせて耳の飾り物が音を立てる。
「何故、そう思うの」
「泣いていたから……」
少女は、他人に言われて初めて涙を流していたことに気づいたようだった。
「そうね、泣いているわ」
少女はひとりごこちに呟いた。森の奥で生まれ木々をぬけていく微かな風が、少女の髪を揺らしている。
「あなたも、声を聞いてみない?」
ちりん。また少女の金の耳飾りが音を立てた。
「何の声を」
少女は答えずにイグドラシルに耳を当てた。
少年はおそるおそる手を伸ばし、イグドラシルの白い肌にふれる。それは温かく懐かしい感触であった。その頬に大樹は優しく接吻した。
途端に少年はめまいを感じた。少年の体内外で何かが激流となって過ぎていく。やがてそのめくるめく感覚は少年を襲った時と同様、急速になえた。
鼓膜をつんざく轟音に、少年は悲鳴になりそこねたひきつった声をあげた。
少年の視点は、ちょうど空を飛ぶ鳥の位置にあった。何もかもが燃えていた。空は暗灰色の雲に覆われ、時折、稲妻が閃いている。大地は焼けただれ、ふれただけで水膨れができそうだった。
「ここは……」
「私の住んでいたところよ」
淡々とした少女の声が少年に答えた。しかし、いくら捜してもその姿はない。
「嘘だ、ここは人の住むところではない!」
叫ぶ少年の傍を大きな塊が飛んでいく。その塊は小さな塊を落とした。それが地面と接触すると新たな炎が生まれた。
「人が、人を殺しているの」
「!」
人が人を殺すだって。なんと無駄なことなのだろう。様々な命を犠牲にしてやっと大地に生かされているような、そんな生き物達が互いに殺しあっているのか!
「そんな馬鹿な!」
声を限りに少年が叫ぶ。すると、少年の五感が失われた。闇にほうりだされたように視覚が一筋の光も感じなくなり、鼓膜が破れてしまったかのように音を感じなくなる。ただ、少女の声を残して。
「馬鹿ね。愚かね。哀しいね。だから、もう繰り返さないで。人は愚かかもしれない。けれど、その度に反省してきたの。それは無駄ではない。そして今まで踏み越えてきた命もまた、無駄ではない」
少年は、温かなものが自分の心を満たしていくのを感じていた。
「ねえ、幾度も幾度も殺しあって、何度滅べば気づくのかしら。人は大地に属するもの、死すれば大地に戻るもの。私達は大地に生かされている。人の種は永遠ではなく、人の命もいつかは他の生命の苗床になるの。それがわからない間は何度でも滅ぶのよ。そして、何度でも蘇らされる。もっと謙虚になりたいね。……人は、疲れを感じないのかしら……。
早く気づくといいね、人もイグドラシルになれるんだっていうことに。私達は気づけなかったけれど、あなた達は気づくといいね。きっと気づくよね、気づけるよね。あなた達だったら……」
少年は、イグドラシルの葉を右手に握りしめた自分が泣いていることを知った。何が哀しかったのかは覚えていない。しかし、何か大切が事があったのだ。
それはともかく、イグドラシルの葉を手にしたことで、少年の儀式は済んだ。これを持ち帰ったその時から一人前の大人として扱われるのだ。そう思うと少年の胸は高鳴った。
──ちりん。
不意に聞こえたその音が少年の記憶の扉をたたいた。
……確かに聞き覚えはあるのだが。
少年はしばらく考えていたが、やがて、その場を立ち去っていった。
イグドラシルの下に花が咲いていた。しなやかな細い葉と、八枚の白い花片が森を吹きぬける風に揺れていた。その様子は小首を傾げる少女のようにも見える。
私はこれから幾人の人に私達の記憶を伝えてゆけるのかしら。
白い花は、そう思っているのかも知れない。
──FIN