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新しいお母様は「あなたを愛するつもりはありません」と言いました

掲載日:2026/06/16

新しいお母様が来る日、ぼくは玄関ホールでずっと足のつま先を見ていた。


 ばあやが言っていた。継母というのは、物語の中ではたいてい怖いものだと。シンデレラのお話みたいに、前の奥様の子供をいじめて、屋根裏に追いやるのだと。


 馬車の音がして、扉が開いて、その人は入ってきた。

 冬の湖みたいな色の髪をきっちり結い上げた、背の高い人だった。


「ルカ様ですね」


 その人――セラフィナ様は、ぼくの前に来ると、すっと膝を折った。大人がぼくと目の高さを合わせるのは、お母様が死んでから初めてだった。


「初めにお伝えしておくことがあります。よく聞いてください」


 ぼくはうなずいた。怖かったけれど、目をそらしたら負けな気がした。


「私はあなたを愛するつもりはありません」


 ホールの空気が凍った。ばあやが小さく息をのんだのが聞こえた。


「私とお父上の結婚は政略です。私は母親のふりをしませんし、亡くなられたお母上の代わりにもなりません。――ですが」


 セラフィナ様は、手袋を外して、右手をぼくに差し出した。


「あなたのものは、一つ残らず守ります。あなたの財産、あなたの立場、あなたの時間、あなたの名前。誰にも、一指も触れさせません。これは契約です。契約は、愛と違って破られません」


 ぼくはその手を、おそるおそる握った。

 冷たい手だった。でも、握り返す力は、ちっとも冷たくなかった。


   ◇


 セラフィナ様は、本当に母親のふりをしなかった。


 おやすみのキスはしない。絵本も読まない。ぼくが転んでも抱き起こさないで、「自分で立てますね」と言って待っている。


 代わりに、変なことばかりした。


 たとえば春。エルマー大叔父様が屋敷に来て、応接間から出てきたとき、お母様の――死んだほうの、ぼくの本当のお母様の、銀の櫛箱を小脇に抱えていた。


「形見分けだよ、ルカ。前の奥方も、わしが持っていたほうが喜ぶ」


 ぼくが何も言えずにいると、廊下の奥から足音がした。セラフィナ様が、分厚い帳簿を抱えて立っていた。


「エルマー様。お持ちのその櫛箱ですが」


「な、なんだね、後妻どのか。これは亡き奥方とわしの思い出の品で」


「当家の財産目録、第三巻百二十七頁。『銀製櫛箱一点、ルカ様御生母様の婚礼調度、相続人ルカ様』と記載がございます。目録は王都の公証人役場に写しを納めております。お持ち帰りになる場合、これは形見分けではなく窃盗として記録されますが、いかがなさいますか」


 大叔父様の顔が、ゆでだこみたいに赤くなって、それから白くなった。

 櫛箱は、その日のうちにぼくの部屋の棚に戻ってきた。


「あの」ぼくは勇気を出して聞いた。「どうして、目録なんて作ってあったの」


「あなたのものを守ると契約しましたので。守るためには、何があなたのものかを、先に全部数えておく必要があります」


「……ぜんぶ、数えたの? ぼくのもの」


「三巻になりました」


 セラフィナ様は当たり前みたいに言って、帳簿を抱えて行ってしまった。

 ぼくはその晩、櫛箱を抱いて寝た。お母様の匂いはもうしなかったけれど、悲しくなかった。


   ◇


 夏には、もっと大きいことがあった。


 ジェラルド叔父様が、お父様の留守を狙って書類を持ってきたのだ。ぼくは難しいことはわからなかったけれど、「ルカの将来のための信託」で、「後見人を叔父様にする」もので、「ここに公爵家の印を押すだけ」だということだった。


「奥方どのは後妻ゆえ、血のつながらぬ子の財産管理など、荷が重いでしょう」


 叔父様はにこにこしながらそう言った。セラフィナ様は書類を受け取って、最初の頁から、ゆっくり読み始めた。一枚めくるごとに、部屋が静かになっていった。


「第十八条」


 長い沈黙のあとで、セラフィナ様は言った。


「『受託者は受益者の利益のために裁量で資産を処分できる』。処分先の制限がありません。第二十二条、『本信託の解除には受託者の同意を要する』。つまり一度署名すれば、あなたの同意なしには戻せない。そして末尾の日付欄」


 セラフィナ様は書類をくるりと回して、叔父様に向けた。


「日付が三か月前になっています。本日お持ちになった書類なのに。――過去の日付で、当主不在の日に、子供の財産の処分権を取る。ジェラルド様、これを王都の法務官に見せて、同じ説明をなされますか」


 叔父様は書類をひったくるように取り返して、帰っていった。馬車の音が遠ざかってから、ぼくはセラフィナ様の袖を、ちょっとだけつかんだ。


「いまの、ぼくのこと、守った?」


「契約を履行しただけです」


「……ありがとう」


「礼には及びません。義務ですので」


 セラフィナ様はそう言って、ぼくの頭に手を伸ばしかけて――途中でやめて、その手で自分の髪を直した。

 ぼくは見なかったふりをした。でも、ほんとうは見ていた。


   ◇


 秋の終わり、ぼくは熱を出した。


 お医者様が三回来て、ばあやが泣きそうな顔で水を替えて、夜になっても熱は下がらなかった。とろとろした暗闇の中で、ぼくは何度も目を覚ました。そのたびに、ろうそくの灯りの中に、同じ人が座っていた。


「……セラフィナ様、寝ないの」


「使用人は交代で休ませています。誰かが記録を取る必要がありますので。熱の推移、水分の量、お医者様への報告。義務です」


「義務って、朝までいることなの」


「……記録は、連続していることに意味があります。寝てください」


 ぼくは目を閉じた。少ししてから、額の濡れた布が、新しいのに替わった。すごくそっとだったから、寝ていたら絶対に気づかないくらい、そっとだった。


 明け方、夢うつつの耳に、小さな声が聞こえた気がした。


「……大丈夫。この家の大人は、誰もあなたを屋根裏になんか、やらない」


 屋根裏。

 どうしてその言葉を知っているんだろうと、熱でぼんやりした頭で思った。シンデレラの話なんて、セラフィナ様としたことがないのに。


   ◇


 冬。お母様が死んで、ちょうど一年がたった日。


 お墓参りの帰り、ぼくは馬車の中で、ずっと考えていたことを聞いた。


「セラフィナ様は、ぼくを愛さないんだよね」


「契約の通りです」


「じゃあ、なんで」


 ぼくの声は、自分でもびっくりするくらい震えた。


「なんで櫛箱を取り返してくれたの。なんで三巻も目録を作ったの。なんで朝まで布を替えてくれたの。なんで――なんで屋根裏の話、知ってたの」


 セラフィナ様の目が、初めて、ぼくから逃げた。


「……昔、屋根裏に住んでいた子供を、知っているだけです。新しい母親が来て、その子のものを一つずつ数えて、一つずつ取り上げた。誰も、目録を作ってくれなかったので」


 馬車の車輪の音だけが、しばらく続いた。


「だから私は、愛というものを信用していません。愛は破られます。何度でも。ですが契約は」


「――嘘つき」


 ぼくは言った。言ってしまった。


「セラフィナ様の嘘つき。契約なんて嘘だ。だって、布を替えるとき、すごくそっとだったもん。記録なら、そっとじゃなくていいもん……っ」


 ぼくはセラフィナ様にぶつかるみたいに抱きついた。突き飛ばされてもいいと思った。でも、しなかった。


 セラフィナ様は、固まっていた。それから、ぼくの背中に回しかけた手が、空中で止まって、震えているのがわかった。冬の湖が、割れる音がした気がした。


「……契約の、変更を」


 ずっと頭の上で、かすれた声がした。


「契約の変更を、申し入れます。ルカ様」


「……うん」


「愛さないという条項を……削除、します。遡って、適用します。たぶん、最初の日まで」


 ぼくはセラフィナ様の胸に顔を押しつけたまま、うなずいた。

 回された腕は、まだ少しぎこちなくて、でも、ちっとも冷たくなかった。


   ◇


 次の春、屋敷の財産目録に、四巻目が増えた。


 表紙にはセラフィナ様の字でこう書いてある。


『目録外資産。数えられないもの。――家族』


 一行だけのその頁を、ぼくは世界でいちばん上等な絵本だと思っている。

お読みいただきありがとうございました。


「愛は破られるが、契約は破られない」と言い張る継母が、世界でいちばん契約に向いていない瞬間を書きたくて生まれた話です。


セラフィナの過去と、影の薄かったお父様(実はちゃんと事情があります)については、ご要望があれば番外編で書くかもしれません。


楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価Pで応援いただけると大変励みになります。感想もお待ちしております。

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