わたくしは婚約を解消してよかったと思っております。貴方はわたくしを見ていなかったのですから。
マルメディア・カレント公爵令嬢は雨に濡れながら泣いていた。
雨は容赦なくマルメディアの身体を濡らす。
お気に入りの深紅のドレスはびしょ濡れで、マルメディアは泣きながらも、前を向く事をやめなかった。
王宮の庭の小道をまっすぐ見据えて歩く。
行く先はこれから夜会が開かれるであろう王宮。
マルメディアは濡れたドレスのまま、王宮の入り口に立った。
近衛騎士達がびしょ濡れのマルメディアを見て、止めようとする。
マルメディアは堂々と、
「わたくしは、バセル王太子殿下の婚約者のマルメディア・カレントですわ。そこを通しなさい」
近衛騎士が、マルメディアに向かって、
「しかし、そのような濡れた格好で」
「時間がありませんわ。わたくしは遅れる訳にはいかないのです」
強引に押し通った。
夜会が始まろうとしていた。
案の定、バセル王太子とその隣には妹のリィーナが、寄り添うようにしている。
バセル王太子は金髪碧眼の凄い美男だ。妹のリィーナも金髪に幼い顔立ちの可愛らしい女性である。
マルメディアも自分の容姿には自信があった。
ただ、今は美しい金髪は雨に濡れ、深紅のドレスもびしょ濡れ。
バセル王太子はマルメディアに向かって、
「なんて格好だ。みっともない。雨を避ける事も出来ぬのか?そんなびしょ濡れで」
マルメディアはキっと妹のリィーナを睨みつけて、
「リィーナに馬車から突き落とされたのですわ。だからこのように濡れてしまって」
リィーナはバセル王太子に縋りながら、
「お姉様はいつもそう。わたくしを悪者にしたいのですわ。わたくし、そんな怖い事はしていません。お姉様が勝手に転んで濡れたのをわたくしのせいにしようと」
ぽろりと涙を流すリィーナ。
いつもそうだ。
いつもいつもいつも、リィーナは、マルメディアを悪者に仕立て上げてくる。
一つ違いの妹。だが、仲はとても悪かった。
今日だって、公爵家の馬車に共に乗り、王宮へ向かう。
王宮に着いた途端、リィーナに雨の中、馬車から突き落とされた。
石畳は雨で濡れていたから、ドレスも汚れてしまって、身体もびしょ濡れになってしまった。
リィーナは笑いながら、
「お姉様ったら、本当に注意が足りないんだから、この分じゃ夜会は無理ね。わたくしがバセル様のお相手をしてあげるわ」
酷い酷い酷い。
バセル王太子殿下の事を愛していた。
王国一の美しさを誇るバセル王太子殿下。
マルメディアは彼の為に出来る事は無いかと、勉学にも励み、マナーも完璧にこなし、婚約者に決まってから始まった王太子妃教育も頑張ってこなしてきたのだ。
妹のリィーナにだって婚約者はいる。
マセル伯爵家のベルトレッドだ。
だが、ベルトレッドは黒髪で冴えない男だ。
だからリィーナは不満そうだった。
「お姉様はベルトレッド様と結婚すればいいんだわ。わたくしが王家に嫁ぎます」
と言ってリィーナは両親に訴えた。
だが、リィーナは壊滅的に勉強が苦手で、真面目に学ぼうとしなかった。
ベルトレッドは優秀なマセル伯爵家の次男だ。
だから、ベルトレッドを婿に迎えれば、カレント公爵家は安泰だと、両親が決めた婚約だったのに。
でも、今更、婚約者を変更することは出来ない。
王太子妃教育も上手くいっている。
バセル王太子との仲は良好だった。当たり障りのない付き合いをしてきた。
リィーナがバセル王太子に近づくまでは。
リィーナはあからさまに嫌がらせをしてきた。
今日だって、雨が降っている中、馬車から突き落としたのだ。
だから、庭で泣いていた。
こんな汚れたドレスで好きなバセル王太子に会う事なんて出来ない。
でも、王宮の夜会に招待されているのだ。出席しない訳にはいかない。
バセル王太子は自分にも他人にも厳しい人だ。
朝早くから国王陛下につき、執務を手伝い、王国の為に働く素晴らしい人だ。
マルメディアはそんなバセル王太子を尊敬していた。
愛していた。
この人の為なら、身を粉にして働きたい。そう思っていたのだ。
だが、彼はマルメディアに対しても厳しかった。
「君は私の婚約者だ。だから失敗は許されない。私に恥をかかせるようなことはしないように」
「解っておりますわ」
王国の頂点に立つ、国王になるバセル王太子殿下。
彼の言う事はもっともだと思えた。
だから、寝る間も惜しんで、勉強した。
将来、バセル王太子と結婚した時に役立つように。
あちこちの家のお茶会に顔を出して、色々な家の女性達と交流を持った。
ともかく、完璧でなくては。
バセル王太子の為にも、この王国の為にも。
それなのにリィーナは、バセル王太子に近づいて、しなだれかかるように、甘えて。
バセル王太子も満更でもない様子なのだ。
マルメディアは信じていた。
彼はリィーナなんて愛したりしない。
自分にも厳しいお方だ。
曲がった事は決してしない。
でも、今宵の夜会は違った。
「リィーナ。可哀そうに。マルメディアの不注意の責任をなすりつけられてしまって。マルメディア。自分の落ち度をリィーナに擦り付けるなんて最低だな」
マルメディアは傷ついた。
自分より、バセル王太子はリィーナを信じたのだ。
リィーナがちょっとしなだれかかっただけで。
今までだって思い返せば彼はリィーナには甘い所があった。
バセル王太子殿下は恋をしているの?リィーナのか弱い演技に惹かれている?
びしょ濡れの身体が寒い。
皆がこちらを注目している。
そこへ、ミレーヌ・アシェル公爵夫人が優雅に近づいてきた。
彼女は自分より10歳は年上だ。
茶会で交流を持ったが、とても素敵な女性で、親切にしてくれた。
ミレーヌは微笑みながら、
「これは王太子殿下。婚約者であるマルメディア嬢を心配もせずに、そこのメギツネの肩を持たれるのですか?」
そして、マルメディアに向かって、
「わたくしの予備のドレスがありますわ。そちらにお着替えになって。このままでは風邪を引いてしまいますわ」
嬉しかった。ミレーヌの心遣いが。
そこへ知り合いの伯爵夫人達や、令嬢達。大勢の女性達がやってきた。
皆、お茶会で知り合いになった女性達だ。
マルメディアを心配してくれて。
「このままでは風邪を引いてしまいます」
「早く着替えないと」
「本当に王太子殿下はそこのメギツネにたぶらかされておりますわね」
「女を見る目がない」
「そもそも、婚約者を大事にしないで、メギツネの肩を持つだなんて」
「人を見る目がなさすぎですわ」
「夫は王太子殿下の事をべた褒めしていますけれども、最低ですわね」
「本当に、こんな人が国王になるだなんて」
本当なら不敬に当たるのだろう。それなのに、皆、言う言う。
バセル王太子は怒りまくって、
「お前達、不敬だぞ。私の悪口を言った者は、牢に入れてくれるっ」
リィーナも涙を流しながら、
「わたくしをメギツネだなんて酷いっ。わたくしは心も体もか弱いのです。それなのに」
プリメイラ王女が現れた。
彼女はバセル王太子の二つ上の姉に当たる。
「何事です?」
バセル王太子が、プリメイラ王女に、
「姉上。マルメディアが、自分の不注意で雨に濡れてドレスが汚れたのに、それをリィーナのせいにしたのです。こんな酷い恰好で夜会に出席するだなんて。私の婚約者は完璧でなくてはなりません。それに比べてリィーナは心優しい女性で。私はリィーナを守ってやりたくて」
プリメイラ王女は、
「で?リィーナという女は完璧なの?」
リィーナはプリメイラ王女に向かって、
「お勉強だって、頑張ってやります。わたくしの方がお姉様より、バセル様にふさわしいわ。お姉様は酷いんです。自分で転んで濡れてしまったというのに、わたくしが馬車から突き落としたってわたくしのせいにして。こんな酷い女、バセル様にはふさわしくありません」
「で?言いたい事はそれだけかしら?」
プリメイラ王女は一言、
「勉学もマナーも優秀、社交性もあるマルメディアを選ばないで、勉強も出来ない、社交性も皆無のリィーナという女を選ぶメリットを教えて欲しいわ。バセル」
バセル王太子は黙り込んだ。
マルメディアは思った。
感じていた。リィーナに惹かれているバセル王太子殿下を。
わたくしは、それでも尊敬していたから、いえ、愛していたから、必死に完璧になろうとしていた。
涙が零れる。
プリメイラ王女に向かって、
「わたくしは、バセル様のお心に添えなかった。完璧な女性ではありません。ですから、婚約の解消を願いたいと思っております」
ドレスが重い。水を吸って‥‥‥
身体が寒い。雨に濡れて。
背を向けて、夜会の会場から外へ出た。
雨はまだ降っている。
微笑みながら、王宮の方を見つめて、追いかけてきた人々に向かって、
「わたくしは完璧ではありませんわ。ですから、婚約を解消して下さいませ」
雨の冷たさを感じながら、気が遠くなった。
気が付いたら、着替えて、王宮の客間のベッドに寝かされていた。
プリメイラ王女が入って来て、手を握ってくれた。
「皆、貴方の事を心配しているわ。貴方は色々な家の夫人や令嬢達に慕われているのね。貴方が一生懸命、努力している姿をみてきたわ。貴方の事をわたくしは素晴らしい令嬢だと思っているのよ」
涙がこぼれる。
「王女様。わたくしが完璧でないのがいけないのですから」
プリメイラ王女は囁いた。
「ねぇ。貴方、わたくしの味方になってくれないかしら。わたくし、バセルに喧嘩を売ろうと思っているの。いいわね?」
喧嘩を売る?バセル王太子殿下に?
頷くしかなかった。
マルメディアが家に帰れば、両親はちっとも心配してくれなかった。
両親は妹だけに甘いのだ。
リィーナは父と母に、
「お姉様ったら自分の不注意でずぶ濡れになって、夜会に行って、バセル様に恥をかかせたのよ。本当に恥ずかしいお姉様」
父はマルメディアに、
「お前の不注意で王太子殿下に恥をかかすとはみっともない」
母も眉を顰めて、
「本当に。お前は完璧でなくてはならないのよ」
リィーナに対しては甘いというのに。
リィーナは勉強をさぼっていても両親は諦めているのか、文句ひとつ言わないのに。
リィーナの婚約者である優秀なベルトレッドさえサポートすればいいと思っているのだろう。
翌日、王家から婚約者の変更を言って来た。
両親と共にマルメディアとリィーナと共に慌てて王宮へ駆けつけてみれば、国王陛下が、
「バセルがそちらのリィーナと婚約したいと我儘をな」
バセル王太子はリィーナに近寄っていって抱き締めて、
「リィーナ。私はお前と結婚したい」
「嬉しいですわ。バセル様」
何事も努力家で完璧で、尊敬していて、愛していたバセル王太子殿下。
それなのに、いつの頃かリィーナがしなだれかかるたびに、リィーナの肩を持つようになって。
わたくしに足りなかったのはバセル王太子殿下に甘える事?
わたくしは完璧であろうとした。
それが可愛くなかったというの?
だって仕方ないじゃない。
貴方がわたくしに完璧を求めたのですもの。
それなのに、何故、リィーナには完璧を求めないの?
何故?なんで?どうして?
わたくしは貴方に愛されていなかったの?
抱き締め合う二人に向かって、国王陛下は、
「さっそくだが、バセルとそこのリィーナとで茶会を開いて欲しい。婚約者が変わったのだ。将来の王妃の顔見せを改めてせねばならぬだろう?しっかりと茶会を開くように」
マルメディアも婚約が決まった当初、バセル王太子と共に茶会を催した。
大勢の貴族の女性達を招待するのは大変だった。
手紙を書き、席次を決めて、それはマルメディアの役目だった。
王太子の婚約者としての器が試されるのだ。
リィーナに出来るとは思えないが。
バセル王太子は、
「勿論、完璧にやります。リィーナ。頑張ろう」
「ええ、頑張りますっ」
家に帰ったら両親が、
「お前がベルトレッドと婚約をしてこの家を継ぐしかあるまい」
「そうね。わたくしとしては可愛いリィーナに継がせたかったわ」
ベルトレッドと顔を合わせた。
婚約者を変更するのだ。
ベルトレッドは淡々と、
「カレント公爵様が決められたのならば、こちらとしては従います」
なんだか味気なかった。
貴方とわたくしは結婚するのよ。それなのに、何?この態度は。
同時に悲しく思えた。
プリメイラ王女が、
「お披露目のお茶会を貴方も開いたらどうかしら?」
と提案されたので、確かに、公爵家の婚約者が変わったのだから、改めてベルトレッドを紹介するお茶会を開いてもいいかと思えた。
リィーナがベルトレッドと婚約した時はリィーナが不満に思っていたのもあり、開かなかったのだ。
一週間後、お茶会を開いた。招待状を送ったプリメイラ王女やミレーヌ・アシェル公爵夫人や、色々な家の夫人や令嬢達が出席してくれた。
ベルトレッドを伴って、マルメディアは紹介した。
「優秀なマセル伯爵家の?これでカレント公爵家は安泰ですわね」
「本当に。マルメディア様。良かったですわ」
「これからも懇意にお付き合い願いたいですわね」
と、大成功に終わった。
ベルトレッドと二人、公爵家の庭で話をした。
マルメディアはベルトレッドを労った。
「今日は疲れたでしょう」
「いえ、これも婚約者としての仕事ですから」
「そう‥‥‥」
何だか、砂を噛んでいるようで悲しく感じた。
三日後、バセル王太子とリィーナが茶会を開いたが、さんざんだったようだ。
招待すべき人間が漏れていたり、席次が間違っていたり。
プリメイラ王女はバセル王太子に、
「茶会もまともに開けないのでは、わたくしが王位を継いだ方がよさそうね」
と、はっきりと宣言したそうだ。
リィーナは泣きながら、
「お姉様が妨害しているのよ。わたくしは悪くないっ」
さすがのバセル王太子も苦い顔をしたらしい。
マルメディアはその場にいなかった。これは侍女から聞いた話である。
雨が降って来た。
ドレス姿のまま、庭に出て雨に当たる。
わたくしはどこへ行きたいの?
何をしたいの?
このまま、公爵家の為に働きたいと思えなかった。
雨に濡れてドレスが重い。
空を見上げて、雨に当たって、そしてマルメディアは決意した。
プリメイラ王女の元へ行って、
「わたくしを侍女に雇って下さいませ。わたくしは貴方様の為に役立ちたいと思っております」
「嬉しいわ。貴方の力を借りることが出来たら、とても頼もしいわ」
マルメディアはベルトレッドとの婚約を解消し、プリメイラ王女の侍女になった。
両親はマルメディアを引き止めたけれども、マルメディアは強引に家を出て王室で暮らし始めた。
失態を重ねるバセル王太子を追い落として、一年後、プリメイラ王女が王位継承権を奪い取った。
小さな馬車に乗って、バセル元王太子は王宮を去ることになった。
王家の直轄領の一つで、慎ましく暮らすことになった。
リィーナは田舎は嫌だと、婚約を解消し、公爵家に戻ったと聞いた。
馬車に乗り込むバセル元王太子をマルメディアはプリメイラ王女に付き従って見送った。
バセル元王太子はマルメディアに向かって、
「お前と婚約を解消しなかったら、私が王太子だったな。マルメディア」
「わたくしは婚約を解消してよかったと思っております。貴方はわたくしを見ていなかったのですから。妹ばかり見ていた。リィーナに恋をしていたのですか?」
「そうだな。恋をしていた」
「さようなら。わたくしは貴方を追い落とせて、今、とても幸せを感じております」
そう、悲しみよりも、今は憎いわ。
憎い憎い憎い。わたくしの心を返して。わたくしの想いを返して。
本当なら貴方と共に王国を背負いたかった。でも、それを手放したのは貴方‥‥‥
貴方なのよ。
馬車が去って行く。
プリメイラ王女が背を向けたので、付き従って、背を向けた。
もう、二度と思いださない。わたくしはプリメイラ王女様を支えて、これから生きるわ。
王宮にある図書館でベルトレッドと偶然会った。
ベルトレッドと廊下で話をする。
「リィーナ様と再婚約を打診されましたが、お断りしました。バセル様を破滅に追いやった女性ですから、それを理由にお断りしました。公爵家の婿は魅力的ですけれども、さすがにいわくつきの女性の婿になりたがる輩はいないでしょう」
「そうなの。お父様達は苦労するわね」
「貴方はカレント公爵家に戻らないのですか?」
「戻らないわ。わたくしはプリメイラ王女様の元で一生過ごすわ」
「そうですか。貴方の心は凍り付いてしまったのですね」
そうね‥‥‥きっとバセル王太子殿下への想いが叶わなかった時点で、凍りついてしまったのだわ。
マルメディアは一生、結婚しなかった。
プリメイラが女王に即位した後でも侍女頭として、彼女の為に働いた。
数年後、バセルが、流行病で亡くなったという知らせを受けた時に、
「あの人が亡くなったの‥‥‥そう‥‥‥」
そう言ったきり、二度と話題にもしなかった‥‥‥
リィーナには婿が見つからず、カレント公爵家は親戚から養子を取った。
カレント公爵夫妻とリィーナは、養子の男性が優秀で領地の片隅に追いやられ寂しく生涯を過ごしたと言われている。




