赤いランドセル
ゆうは、かわいいものが好きだった。
――いや、好きだった、なんて言い方だと、少し弱いかもしれない。
ものすごく好きだった。
ふわふわした色の小物とか、丸っこい字で書かれた文房具とか、女の子の持っている、きらきらしていて、やわらかそうで、見ているだけで気分が上がるもの。そういうのを見ると、胸の奥がむずむずした。
別に、自分が女の子になりたいとか、そういうのとは少し違う。
ゆうは自分のことを、ふつうに男だと思っていた。
男子の名前で呼ばれて、男子として生活して、それを変えたいとまでは思っていない。
ただ。
かわいいものを身につけている自分、というのは、たぶんすごく楽しいんだろうな、とずっと思っていた。
それだけだ。
それだけ、のはずだった。
なのに、その“それだけ”は、ゆうの中で思っているよりずっと大きかった。
「おーい、ゆう。もう帰るぞー」
教室の後ろから声が飛んできて、ゆうは窓の外から目を戻した。
「先帰って」
「またかよ。おまえ、最近なんか残ること多くね?」
「ちょっとだけ」
「ふーん」
同じクラスの男子は、それ以上深く聞かなかった。四年生の男子なんて、だいたいそんなものだ。
ゆうはあいまいに手を振って、そのまま席に座っていた。
教室の中には、もうあまり人がいない。先生もいない。窓の外では、夕方の光が少しずつオレンジに寄ってきていた。
今日も、行くつもりだった。
校舎の端にある、小さな備品室みたいな部屋。
掃除用具入れほど狭くはないけれど、教室ほど広くもない。行事で使う道具とか、古い備品とか、よくわからない箱とかが適当に置かれている部屋だ。鍵はかかっていないけれど、用がある子なんてほとんどいない。
ゆうがそこを知ったのは、たまたまだった。
掃除当番で廊下の端まで行ったとき、少しだけ開いている扉の向こうに赤いものが見えたのだ。
最初は、バケツか何かだと思った。
でも違った。
古いランドセルだった。
赤いランドセル。
しかも、かなりきれいな赤だった。
新品みたいではないけれど、ぼろぼろでもない。長いことそこで眠っていたみたいに見えるのに、なぜかその赤だけは、ちゃんと赤かった。
ゆうはそれを見つけてから、何日かずっと気になっていた。
どうしてそんなところにあるのかわからない。
忘れ物なのか、寄付されたものなのか、もう使わない備品なのかも知らない。
ただ、そこにある。
そして誰も気にしていない。
それが、ゆうにはたまらなかった。
赤いランドセルは、かわいい。
しかも、女の子のものだ。
それを背負ったら、どんな感じなんだろう。
ただそれだけのことが、何日も頭から離れなかった。
だから、その日の放課後。
廊下が静かになって、先生の足音もしなくなってから、ゆうは立ち上がった。
胸がちょっとだけ速い。
いや、ちょっとじゃない。かなり速い。
悪いことをするつもりみたいで、自分でも少しおかしかった。
けれど、実際、少し悪いことなのかもしれない。
無断で持ち物に触るのだから。
それでも、今日はどうしても見たかった。
ただ背負ってみたかった。
それだけだった。
ゆうは廊下を歩いて、校舎の端まで行った。放課後の校舎は静かだった。遠くで子どもの声が少しするくらいで、廊下にはもうほとんど人の気配がなかった。
備品室の前で一度だけ立ち止まる。
誰もいない。
ゆうは、そっと扉を開けた。
少しだけほこりっぽい匂いがする。
棚。段ボール。よくわからない備品。使いかけのポスターの筒。そういうもののあいだに、その赤はあった。
やっぱり、赤かった。
ゆうはしばらくそれを見ていた。
近くで見ると、表面には少しだけ擦れた跡がある。金具も新品みたいではない。でも、それでもかわいいと思った。
おそるおそる手を伸ばす。
触る。
かたい。
でも、思っていたより軽かった。
その瞬間、ゆうの胸の中で何かがばっと明るくなった。
やばい。
これ、すごく好きかもしれない。
ゆうは周りをもう一度だけ確認して、それから、ゆっくりとランドセルを持ち上げた。
肩ひもを通す。
背負う。
その瞬間、ぞくっとした。
「……っ」
思わず声が出そうになって、ゆうは自分で口を押さえた。
楽しい。
いや、楽しいっていうのも違う気がする。もっとこう、頭の上から一気に何か降ってきたみたいな、変な高揚感だった。
備品室の奥の、少し曇ったガラスに自分が映る。
そこにいるのは、いつもの自分なのに、少しだけちがう。
ランドセルが赤いだけで、なんでこんなにちがって見えるんだろう。
制服でもない、女子の服でもない、ただの男の子みたいな格好のままなのに、それでも胸がどくどくした。
かわいい。
ランドセルが。
いや、違う。
それを背負ってる自分が、ちょっとだけかわいい側にいる感じがして、それがたまらなくおもしろかった。
「……やば」
小さくつぶやいた声が、少しだけ震えていた。
ずっとこうしていたい、と思った。
でも、それは無理だ。
ここで背負ったまま立っていてもしょうがないし、誰かが来たら終わる。
ゆうはランドセルを下ろそうとして、そこでふと止まった。
――明日の朝、早く来て返せばいいんじゃないか。
思いついた瞬間、自分でもあきれた。
いや、それはさすがにだめだろ。
でも、もう少しだけ背負っていたい。
家まで持って帰って、ちょっとだけちゃんと見て、明日の朝、誰も来る前に戻せば、たぶんバレない。
たぶん。
たぶん、だけれど。
ゆうはそこで、たっぷり十秒くらい迷った。
普通なら、その十秒でやめるべきだった。
けれど、その日のゆうには、それができなかった。
「……返すし」
誰に言い訳しているのかわからないまま、ゆうは小さくつぶやいた。
「朝、返すだけだし」
そうして、ランドセルを背負ったまま、備品室を出た。
胸はまだ速かった。
でも、さっきの緊張とは少しちがう。
ばれたらまずいのに、気分はかなり上がっていた。
校門を出て、住宅街の道を歩く。
赤いランドセルが背中にある。
それだけで、世界が少しちがって見えた。
誰も、自分のことなんて見ていない。
でも、もし見たらどう思うんだろう。
女の子に見えるだろうか。
そこまで期待していたわけではないのに、想像するとまた楽しくなった。
ゆうは自分が笑いそうになっているのに気づいて、慌てて口元を引き締めた。
やばい。
ほんとにやばい。
でも、楽しい。
そんなふうに浮かれていたからかもしれない。
空が暗くなっていることに、気づくのが少し遅れた。
ぽつ、という音がした。
顔に冷たいものが当たる。
次の瞬間、またひとつ。
「え」
ゆうが空を見上げた、その数秒あとには、雨粒はもうはっきりした雨になっていた。
「うそ」
まずい。
その言葉が、頭の中で一気に大きくなる。
自分が濡れるのは、まだいい。
でも、ランドセルはまずい。
これを濡らしたら、明日の朝に返しても絶対わかる。赤い革に水の跡なんかついたら、それだけで終わりだ。
「やばいやばいやばい……!」
ゆうはランドセルをかばうようにして走った。
近くに屋根のある場所。どこか。学校まで戻るのはもう遠い。家までもまだある。コンビニもない。公園の東屋も、この道にはなかったはずだ。
どうしよう、と本気で焦ったそのときだった。
「ちょっと、そこの子!」
声が飛んできた。
道の横の古い家。その門のところに、おばあちゃんが立っていた。
「濡れるよ、早く入りなさい!」
ゆうは一瞬だけ迷った。
でも、ランドセルのことを考えた瞬間、その迷いは吹き飛んだ。
「す、すみません!」
小走りで門をくぐる。
屋根の下へ入った瞬間、雨の音が一段大きく聞こえた。
助かった。
それが最初の気持ちだった。
ランドセルは、ほとんど濡れていない。
ゆうは背中の感触を確かめて、心の底からほっとした。
「まあまあ、こんなに濡れて」
とおばあちゃんが言う。
「かわいそうに。風邪ひいちゃうよ」
その言葉で、ゆうは顔を上げた。
おばあちゃんは、まっすぐゆうを見ていた。
そして、その視線には、何の疑いもなかった。
赤いランドセルを背負った、雨に濡れた女の子。
たぶん、それが今のおばあちゃんに見えているものだった。
ゆうはそこで、言葉を失った。
ちがいます、の一言が出てこない。
ランドセルのせいだ。
いや、せい、じゃない。
たぶん、赤いランドセルを背負っている自分を、ゆう自身が少し楽しんでいたからだ。
だから、否定できなかった。
「ほら、早く上がりなさい」
とおばあちゃんは言う。
「そんなところにいたら、もっと濡れちゃう」
「あ……」
「いいから、いいから」
勢いが強い。
そして、やさしい。
ゆうはそのやさしさに押されるように、靴を脱いだ。
家の中は少し暗くて、でもあたたかかった。雨の匂いと、畳の匂いと、お茶みたいな匂いがする。
「ランドセル、こっち置きなさい。拭いとくから」
「え、あ、だ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ。濡れてるじゃない」
おばあちゃんはそう言って、ゆうの背中から赤いランドセルを下ろした。
ゆうは一瞬ひやっとしたけれど、丁寧に扱ってくれているのが見えて、少しだけ安心した。
「服もだめだねえ」
とおばあちゃんは言った。
「着替え、出してあげるから」
「い、いえ」
「風邪ひくよ」
「でも」
「でもじゃないの」
その勢いに、ゆうはまた黙るしかなかった。
どうしよう。
まずい。
でも、ランドセルは助かった。
しかも今、自分は“女の子”として扱われている。
その現実に、怖さと、変な高揚が混ざる。
まずいのに、少しだけうれしい。
そんな気持ちになっている自分のほうが、もっとまずい気がした。
「ちょっと待ってなさいね」
とおばあちゃんは奥へ引っこんだ。
ひとり残されたゆうは、濡れた袖を握りしめながら、息を止めるみたいに立っていた。
ランドセルを返すだけのはずだった。
明日の朝、早く学校に行って、元の場所に戻して、それで終わるはずだった。
なのに今、自分は知らないおばあちゃんの家の中で、着替えを出されようとしている。
わけがわからない。
でも、完全に嫌なわけでもない。
それが、いちばん困った。
少しして、おばあちゃんが服を持って戻ってきた。
「ほら、うちの孫のだけど、たぶん大丈夫よ」
差し出されたのは、女の子の服だった。
やわらかい色の上着と、下も、たぶん女の子のもの。しかも、それを見た瞬間、ゆうの胸はまた変に高鳴った。
かわいい。
まずい、と思うのと同じくらい、そう思った。
「シャワーも使いなさい」
とおばあちゃんは当然のように言った。
「下着もあるから大丈夫」
その一言で、ゆうはほんとうに固まった。
でもおばあちゃんは、そんなゆうをただの遠慮だと思ったらしい。
「風邪ひくよりいいでしょ」
と、まるで何でもないことみたいに言う。
ゆうは喉の奥で言葉を探した。
言わなきゃ、と思った。
でも、何をどう言えばいいのかわからない。
しかも、ここまで来てしまうと、今さら「赤いランドセルは勝手に借りただけで、自分は男で」なんて言える気がしなかった。
混乱していた。
でも、それ以上に、心臓がずっとおかしかった。
かわいいランドセルを背負って、女の子の服まで差し出されている。
そんな状況が、怖いのに、信じられないくらい楽しかった。
こんなの、普通じゃない。
でも、普通じゃないからこそ、たぶん忘れられない。
ゆうは、差し出された服を両手で受け取った。
「あ……ありがとうございます」
自分の声が、少しだけ上ずっているのがわかった。
おばあちゃんは、にこっと笑った。
「いいのいいの。早くあったまんなさい」
そのやさしさに、ゆうはもう何も言えなかった。
服を抱えたまま、案内された洗面所の前で立ち止まる。
鏡がある。
濡れた髪。濡れた服。赤いランドセルはもう背中にはない。
でもさっきまで、たしかにそこにあった。
かわいいものを背負っていた。
それが、すごく楽しかった。
今はその続きみたいに、女の子の服が腕の中にある。
ゆうは鏡の中の自分を見ながら、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。
しっくりくる、とまでは思わない。
でも。
めちゃくちゃ楽しい。
それだけは、はっきりしていた。
ランドセルは明日の朝に返す。
それで終わる。
本当なら、そうなるはずだった。
でも、このときのゆうはまだ知らない。
赤いランドセルより先に返さなければいけないものが、もうひとつ増えてしまったことを。
そして、それを返しに行くには、たぶんもう一度、今日みたいな自分にならなければいけないことを。




