幸福度99.8%なので別れます
俺の視界の右端には、いつもエマの幸福値が浮かんでいた。
『現在の幸福度:High』『相性値:99.8%』
数値が高ければ安心し、少しでも下降すれば不安になる。いつからか俺は、エマの反応よりも数値の方を気にする様になっていた。
その通知が来たのは、三月の終わりだった。
空中庭園のテラス席で、エマがアイスティーのストローに口をつけたタイミング。視界の中央に赤いアラートが割り込んできた。
『Life-Path重要通知:関係性のピーク到達を確認。推奨交際終了日まであと3日』
エマも同じものを見ている。彼女のARコンタクトが、わずかに光を反射した。
「やっぱり」
エマの声には、悲しみよりも、どこか安堵に似た色があった。
「最近、幸せすぎて怖いと思ってた」
俺は何も言えなかった。こんなに楽しいのに、という言葉が喉まで出かけて、飲み込んだ。楽しいかどうかを決めるのは、もう俺たちではないのだと、どこかで知っていた。
AIが用意した『クロージング・デートプラン』に従って、一日目と二日目を過ごした。
過去の検索履歴から割り出された「行きたかった場所」。会話が途切れるたびに表示される「盛り上がるトピック」のサジェスト。店員ロボットの完璧な対応と、最適なタイミングで運ばれるデザート。
すべてが滑らかで、引っかかりがなかった。
俺はエマと話しているのか、AIの用意した台本を読んでいるのか、わからなくなっていた。
二日目の夜。ホテルのラウンジで夜景を前にして、俺は口を開いた。
「本当にこれでいいのか」
エマはグラスの縁を指でなぞりながら、しばらく黙っていた。
「……全然よくない」
その声は震えていた。
「でも怖いの。このまま続けて、AIの言う通りになったら? あなたが少しずつ不幸になって、最後に私のことを憎むようになったら、耐えられない」
「未来の失敗を先取りして、今を諦めるのか」
「違う。あなたを傷つけたくないだけ」
エマの目が潤んだ。
「昔、お父さんとお母さんがそうだった。愛し合ってたのに、最後は憎み合って別れた。でも、一番綺麗な思い出のままで私たちは終われる」
「……それって、本当に幸せなことなのか?」
その問いに、エマは答えなかった。
三日目。最後の日。
自動運転タクシーが、AIの最終プラン――「最も美しく夜景が見える丘」へと向かっていた。そこで感動的な別れをして、綺麗に終わる。
窓の外の景色は美しい。けど、本当にそれでいいのか? 終わるにしても、本当にこのままで……。
「ルート変更。目的地設定解除」
「カイト、何してるの」
「寄り道」
「寄り道って、今日は最後の――」
車内に警告音が鳴り響く。『推奨ルートから逸脱しています』。俺はその表示をスワイプして消した。
「……どこ行くの」
「つくまでの楽しみ」
そう言い、俺は目的地を再設定した。
到着したのは、路地裏のラーメン屋だった。
ARの視界には『衛生スコア:低』『推奨度:★1』の警告が並ぶ。狭い店内に豚骨の匂いが充満していて、床は少しぬるついた。
「いらっしゃい! お、こりゃまたハイカラな美男美女が来たねえ!」
カウンターの奥から、やたらと声の大きい店主が顔を出した。六十くらいだろうか。額の汗を手ぬぐいで拭いながら、目尻の深い皺をくしゃくしゃにして笑っている。
エマが俺の袖を引いた。
「こんな店、AIのプランにはないわよ」
「だから来たんだよ」
ラーメンを二つ頼んだ。店主は「デートか? 兄ちゃん、こんな古い店に彼女連れてきちゃ駄目だろ」と豪快に笑った。
「まあでも、来てくれたのが嬉しいからさ。これ、オマケな」
頼んでもいない煮卵が、ぽとり、と丼に落ちた。
その瞬間、ARの視界が騒がしくなった。
『摂取カロリー超過』『店主の行動:予測不能』
エマが吹き出した。
「AI、煮卵なんかでパニックになってる」
俺もつられて笑った。
「このラーメン、すごく美味しい」
エマがそう言ったとき、鼻の頭が赤くなっていた。泣いているのか笑っているのか、たぶん両方だった。
店を出ると、路地裏に夜風が吹いていた。豚骨の匂いがまだ髪に残っている。
俺たちはあてもなく歩き、小さな公園を見つけた。住宅街の中にあるそこは、綺麗な夜景なんて見えない。だけど、ベンチに座って見るどこかの家庭の生活の明かりが、とても美しいものに見えた。
日付が変わる。
視界の中央に、最終通知が浮かんだ。
『関係を終了し、次のパートナー候補を表示しますか? YES / NO』
「……来た」
「うん」
泣いた跡のある目で、エマが俺を見ていた。
「AIは完璧だよ。でも、あの親父さんの気まぐれまでは計算できなかった。俺たちの未来も、そうなんじゃないかって。計算だけがすべてじゃない。そう思うんだ」
「……バカみたいな選択ね」
「そうかもな」
エマの手が、俺の手に触れた。
そうして、俺は《《NO》》をタップした。
『予測評価:E(非推奨)』
『この選択によるリスクは補償されません』
スワイプして、消した。
表示が視界から消えると、路地裏の古い街灯が思ったより明るいことに気づいた。
「行こう。まずはコンビニで胃薬でも買う?」
「……ラーメン、ちょっと重たかったもんね」
エマが笑った。
夜の街を、俺たちは歩き出した。どこへ行くかも決めないまま。
99.8%の未来を捨てて、0.2%の明日に足を踏み入れた夜だった。
決めてもらうのは楽ですが、決めるということの意味は楽以上に大きいと思います。
そんな気持ちを込めました。
読んでいただいた方の心に、何かいい波を起こせたなら嬉しいです。




