第9話 もう一人の公爵令嬢
「……来てしまいましたわ」
小さく、しかし確かな諦観を込めて、私は呟いた。
結局のところ――左手中指にあの忌まわしき指輪を嵌めたまま、王立ヒステリック学園初等部の門をくぐってしまったのである。
アレン殿下も、バデラッドも、あれほど近くにいながら何一つ指摘しなかった。
ならば、学園内に初代聖女が身につけていた指輪の形状を正確に知る者など、まず存在しないだろう。
理屈では、そう理解している。
――けれど。
どうしても、気になってしまうのだ。
私は不審者のようにきょろきょろと視線を走らせ、まるで臆病な野良猫のように肩をすくめて歩いてしまう。
シュベルッツベルグ公爵家の令嬢として、あるまじき振る舞いだという自覚はある。むしろ、痛いほどある。
それでも――
この指輪が、私の意識を離してくれない。
「ご、ごきげんよう……」
挨拶の声が、どこか上ずる。
すれ違う生徒たちの視線が、すべて私の左手中指に注がれているような錯覚に襲われた。
――疑心暗鬼。
きっと、それなのだろう。
そう思おうとした、その瞬間だった。
「あら、どこのこそ泥かと思えば。イデア=シュベルッツベルグではなくて?」
廊下の先。
まるで待ち伏せでもしていたかのように、悠然と立ちはだかったのは――レガリアント公爵家三女、ライリー。
私が心の中で「嫌味のチョココロネ女」と呼んでいる人物である。
顔を合わせれば、必ず飛んでくるのは厭味、皮肉、嫌悪。
厭味と書いてライリーと読むと言っても過言ではないほど、彼女の舌は毒に満ちている。
同じプラチナブロンドであることが、これほどまでに不快に思える相手も珍しい。
ちなみに“チョココロネ”とは、彼女の特徴的な、くるりと巻いた髪型を指している。
「そういうあなたは、相変わらずスカンクのように害を振り撒いていますのね」
「なっ!? 誰がスカンクですの!」
「あなた以外に、どなたかいらっしゃって? 私は鼻がか弱いようなので、あなたが近くにいると吐き気を催してしまいますの」
私はすかさず扇を取り出し、これ以上ないほど大仰に、ぱたぱたと仰いでみせた。
ライリーの瞳が、一瞬だけ野良犬のように険しく細められる。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように貴族然とした余裕の微笑へと切り替わった。
――その変わり身の早さだけは、認めざるを得ない。
「これは社交界で貴婦人に人気の香水ですのよ! シュベルッツベルグ公爵家の令嬢ともあろう方が、流行りのひとつもご存じないなんて。時代遅れですわね。オーホッホッホ!」
勝ち誇ったような、耳障りな笑い声。
――けれど。
この程度で、私が言い負かされるとでも?
「もちろん存じていますわ」
私はにっこりと、完璧な笑みを貼り付ける。
「淑やかで優雅な大人の女性が身につけるフレグランス――ラヴィアンローズ。確か“バラ色の人生”という意味でしたわよね」
そのまま、間を置かずに続ける。
「――ですが、それは社交の場でこそ映える香り。ご存じなくて? 香水というものは、時として子供の身体に悪影響を及ぼすことがある、という事実を」
「え……? そ、そうなの?」
ライリーは慌てて取り巻きたちに視線を向ける。
だが、もう遅い。
のろまなスカンクを待つほど、私は慈悲深くはない。
「頭痛、吐き気、気管支ぜんそくの悪化――これらを引き起こす【香害】になり得ますのよ? これをスカンクと言わずして、何と呼ぶのかしら。あなた方も、そう思いません?」
取り巻きたちは一斉に言葉を失い、視線を泳がせる。
――当然だ。
私に喧嘩を売るには、百億万年ほど早すぎる。
ライリーは真っ赤な顔で、チョココロネのような髪を振り乱しながら、廊下の奥へと逃げ去っていった。
私はその背中を一瞥し、小さく息を吐く。
「……まったく。優雅さに欠けますわね」
そう呟いた声だけが、静かな廊下に、かすかに残った。
――ガラガラ。
教室の扉を開いた瞬間、空気が一斉にこちらへ傾いたのが分かった。
クラスメイトたちの視線が、示し合わせたかのように私へと集まる。
私は反射的に、左手を背中へと隠していた。
「ごきげんよう」
できる限り平静を装い、挨拶を交わしながら教室を進む。
靴音がやけに大きく響くのは、きっと気のせいではない。
いつもの定位置へ腰を下ろした、そのときだった。
――刺すような視線。
無意識にそちらへ目を向けてしまい、私は小さく息を呑んだ。
「――っ!?」
いた。
例の狂人――あの男爵家の娘が、瞬き一つせず、じっとこちらを見据えている。
まるで獲物を見つけた捕食者のような視線。
背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。
――いったい、何だっていうのですの。
なぜこの私が、あのような男爵家の娘に怯えねばならない。
道理がない。理屈が合わない。
畏れるべきは向こうだ。
シュベルッツベルグ公爵家の令嬢である私を前に、頭を垂れるのが本来の在り方ではなくて?
「ひ、ひぃっ……!?」
――などと、頭の中で必死に自分を鼓舞していた、その矢先。
狂人が、すっと席を立った。
そして、迷いなく――一直線に、こちらへ向かって歩いてくる。
足音が近づくたび、心臓が早鐘を打つ。
視線を逸らそうとしても、どうしても定まらず、情けなくも目が右往左往してしまう。
「隣、座ってもいい?」
あまりにもあっさりと、当然のように投げかけられた言葉。
「……ええ」
返事は、我ながら驚くほど素直に口をついて出た。
――断る理由がない。
そう、理屈の上では。
けれど本音を言えば、全力で断りたかった。
この教室は指定席ではない。自由席だ。
生徒は各々、好きな場所に座ることが許されている。
だからといって――
公爵令嬢である私の隣に、断りもなく腰を下ろす者など、これまで一人として存在しなかった。
それは貴族社会において、明確な無礼にあたる行為だからだ。
本来であれば、私の方から「隣にどうぞ」と声をかけて、初めて成立する関係。
それが暗黙の了解であり、礼儀というもの。
「……ちょっと、何なのあれ」
「ありえないんだけど」
「男爵家、よね……?」
ひそひそと、抑えきれぬ声が教室のあちこちから漏れ聞こえてくる。
当然だ。
マナーを軽んじれば、こうして周囲の反感を買う。
それに、この一月というもの――
クラスメイトたちは皆、私から「隣に座る許可」が下りる瞬間を、虎視眈々と待ち続けていたのだから。
おそらくは実家からも言われているのだろう。
――シュベルッツベルグ家と良好な関係を築け、と。
それほどまでに、アストラル王国内における我が家の権力は絶大だ。
……いえ、正確には。
「いざという時、粛清の対象から外してもらえるかもしれない」という、下卑た期待。
彼らの視線に混じる打算を感じ取りながら、私は胸の奥で小さく溜息を吐いた。
――まったく。
よりにもよって、一番関わり合いたくなかった狂人の方から近づいて来るなんて。




