第8話 チョコレートと朝刊
「――お嬢様、朝でございます」
「……ん」
意識の底を撫でるようなメイド長の声に、私は薄く目を開けた。
重たい瞼をこじ開けるよりも早く、身体は半ば反射で起き上がっている。
両腕を持ち上げると、メイド長は待っていましたとばかりに私の寝間着へ手を伸ばした。
ためらいもなく布を外し、控えていた眼帯のメイド――アールが、すっと学園指定の制服を差し出す。
次の瞬間には、もう着替えは始まっていた。
――速い。
目にも止まらぬ手捌きで、襟が整えられ、袖が通され、髪が軽く梳かれていく。
毎朝のこととはいえ、これほど見事な連携を見せられると、もはや感心を通り越して呆れるほかない。
「……本当に、芸術の域ですわね」
「お褒めに預かり光栄でございます」
涼しい顔でそう言うあたりが、また腹立たしい。
それから食堂へ向かい、朝食の席に着く。
私は低血圧で、朝はとにかく胃が働かない。本音を言えば、水一杯で十分なのだが――
「なりません!」
そう一喝され、顔をぐいと近づけられてしまえば、逆らえるはずもない。
仕方なく、パンを小さくちぎりながら、私は溜息混じりに朝食を摂る。
「今朝はカモミールティーをご用意いたしました。リラックス効果、美容効果、ともに期待できます」
「それは素敵ですわね。頂くわ」
湯気の立つカップを受け取り、口をつけた、その直後。
「――それと、当分チョコレートは禁止と致しました」
「……」
私は、ぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと唇を尖らせ、真正面からメイド長を睨みつける。
だが彼女は、そよ風でも受け流すかのように、まったく意に介さない。
この屋敷で唯一、私の視線が通じない相手。
それが、メイド長である。
「アールに聞きました。昨夜はチョコレートの食べ過ぎで、鼻血が出てしまったとか」
「……ええ、まあ。そうですわね」
私は視線を逸らしながら答えた。
聖女の指輪を使った反動だなどと、口が裂けても言えるはずがない。
ましてやそれを、お父様に知られるわけにはいかなかった。
そのため、アールには「チョコレートの食べ過ぎ」ということにして、口裏を合わせてもらっている。
――そもそも。
あの大量のチョコレートを持ってきたのは、他でもないメイド長なのだけれど。
「……しばらくは、クッキーでいいですわ」
「チョコチップ入りも禁止です。あと、アーモンドも禁止に致しましょう」
「どうしてですの!?」
思わず声が裏返った。
チョコレート禁止までは、百歩譲って理解できる。
だが、なぜアーモンドまで巻き添えにされねばならないのか。
「アーモンドも、食べ過ぎると鼻血が出ると聞いたことがございます」
「……」
「お嬢様は鼻がか弱いようですので、当然禁止でございます」
「鼻がか弱い人間なんて、聞いたことありませんわ!」
「今、私の目の前にございます」
にこり、と。
実に穏やかな笑みで言い切られ、私は言葉を失った。
――憎たらしい。
思わず睨みつけるが、彼女は涼しい顔のまま。
「……待ちなさい!」
私は食い下がる。
「すでに商人から、大量にチョコレートとアーモンドを仕入れておりますわよね? まさか、腐らせて破棄するつもりではありませんわよね?」
それは許されない。
フードロスは環境に悪いと、王立学園の教師陣も口を酸っぱくして言っていた。
日々成長している私をなめないでもらいたい。
捨てるくらいなら――
やはり私が食べるべきではなくて?
「ご安心くださいませ」
メイド長は一拍、意味ありげに間を置いたあと――
ぽん。
肉付きの良い自らのお腹を叩いた。
「メイド長としての責任をもって、この私が……食べさせていただきます」
「……っ」
だから!
だからあなただけ、いつもふくよかなのですわ!
太っちょメイド長――!
私は内心でそう叫びながら、悔し紛れにカモミールティーを一口、ぐいと飲み干した。
気を紛らわせるため、私は何気なく新聞を手に取った。
ただそれだけのはずだった。
見出しに視線を落とした、その瞬間――
身体の奥で、何かが音を立てて凍りつく。
【パフテック枢機卿が暗殺されていた事が、レイヴァス教会によって公表】
「……」
呼吸の仕方を、忘れたような気がした。
【聖騎士団の調査によると――枢機卿は教皇の指示の下、密かに聖具を輸送している最中、何者かに暗殺された可能性が高い】
「……」
文字は、容赦なく続く。
【盗まれた聖具については――現在捜索中】
――ぱさり。
私は新聞をそっとテーブルに置いた。
震えないように、意識して指先の力を抜く。
そして、ゆっくりと視線を落としたのは、自身の左手だった。
中指には、淡く光を宿す指輪が嵌められている。
初代聖女が、生前その身に着けていたと伝えられる――聖女の指輪。
一国を買える、と噂されるほどの国宝。
否、それどころか、レイヴァス教会そのものの象徴と言っても過言ではない聖具。
「……」
喉が鳴った。
ごくり、と生唾を飲み込んでしまう。
自分でも驚くほど、はっきりと音がした。
――お父様は、これをどこで手に入れたの?
シュベルッツベルグ家は、確かに四大公爵家の一角。
けれど、それでも――これは、次元が違う。
王族でさえ手にすることは叶わない。
いいえ、例え国王陛下であっても、初代聖女の指輪を入手するなど不可能。
「……では、これは……?」
問いは、独り言の形を取って、静かに零れ落ちた。
再び、テーブルの上の新聞へと視線を戻す。
そして、そのまま天を仰ぎ、そっとまぶたを閉じた。
……きっと、そういうことなのだ。
パフテック枢機卿を殺した犯人。
それは――お父様。
お父様が自ら刃を振るったかどうかは分からない。
けれど、命じたのが誰かなど、考えるまでもない。
そもそも、このような犯行が可能な者など――
この国に――他国にだってそう多くは存在しない。
シュベルッツベルグ家は、古くよりアストラル王国の“影”を担ってきた。
法の目をすり抜ける不正貴族を、秘密裏に処理する。
それこそが、王家より与えられた我が家の役割。
――要するに。
我が家は、暗殺を生業とする一族。
殺しにおいて、一切の無駄を許さぬ専門家。
それだけでも十分すぎるほどなのに、お父様は先代――お祖父様から、“アサシン教団”なる闇の組織まで受け継いでいる。
しかも、その教団は王家非公認。
お祖父様が、国王陛下に内緒で作り上げた、完全なる私兵組織。
お父様も、お祖父様も――野心家だ。
いずれは、自らが玉座に。
その想いを、隠そうともしない。
アサシン教団。
それは、血と闇で編まれた――
お祖父様とお父様の野心、そのもの。
「……」
まぶたを閉じているはずなのに、世界がぐらりと揺れた。
……ああ、どうして。
どうして、まだ六歳の私が。
こんな重たい真実を、理解してしまわなければならないの。
胸の奥が、じくじくと痛む。
泣きたいのに、涙は出なかった。
もし、このことが公になれば――
シュベルッツベルグ家は、確実に滅びる。
いいえ、それだけでは済まない。
我が家に仕える使用人、その家族、そのまた家族まで。
誰一人、例外なく。
八つ裂きにされ、歴史から消されるだろう。
――だから私は、知らないふりをするしかない。
幼い公爵令嬢として、
何も知らず、何も疑わず、
ただ微笑むしかないのだ。
この左手に嵌められた、あまりにも重すぎる“指輪”の意味を――胸の奥に、深く、深く沈めながら。
――というか。
「……こんなものを付けて、外を出歩くなんて御免ですわ!」
思わず声が荒ぶった。
聖女の指輪がどのような代物かを、正確に知る者はそう多くない。
それでも、“万が一”ということがある。
外しておく。
それが最善。
それが唯一の生存戦略。
そう確信し、私は左手中指の指輪を掴んだ。
「……え?」
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
「……ぐぅっ……!」
力を込める。
抜けない。
「……ど、どうしてよ……!」
もう一度。
今度は意地だ。
だが指輪は、まるで私の皮膚と一体化したかのように、びくともしなかった。
「……な、なんで抜けないのよ!」
引っ張る。
捻る。
引っ張る。
――抜けない。
指が赤くなり、じんじんと痛み始めた頃、私は悟った。
こうなれば――
「メイド長! お湯を!」
指をふやかせば、あるいは。
という淡い期待は、あっさりと打ち砕かれた。
次は油だ。
滑りを良くすれば――という理屈も、同様に敗北する。
「……」
指輪は、相変わらずそこに在った。
誇らしげに。
挑発的に。
「……かくなる上は!」
私は踵を返し、調理場へと駆け込んだ。
驚くシェフを無視し、出刃包丁をひったくる。
冷たい刃が、きらりと光る。
「中指を切り落として差し上げますわ!」
「――お嬢様!?」
「離しなさい!」
「何を馬鹿なことをしているのです!」
「こうする以外に、あなた達を守る方法はないんですのよ!」
――という名目である。
実のところ、私の頭の中は……。
「私が捕まるのは嫌」
「拷問も嫌」
「処刑なんて論外」
で九割を占めていた。
残り一割が、かろうじて公爵令嬢としての体裁だった。
数人がかりで取り押さえられ、包丁は没収され、私は床に座り込む。
はあ、はあ、と肩で息をしながら、左手を見る。
指輪は――
相変わらず、外れる気配すら見せない。
数分間に及ぶ騒動の末、私は中指の切断を断念することとなった。
……無念。
だが同時に、どこかでほっとしている自分がいるのも事実だった。
「……本当に、性質の悪い代物ですわ」
そう呟いた声は、怒りよりも諦観に近かった。
この指輪は、どうやら私が思っている以上に――私を逃がす気がないらしい。




