第7話 焦がれる恋の行方
シュベルッツベルグ家の屋敷を後にしたアレン王太子殿下は、王家の紋章を刻んだ馬車の中で、静かに揺られながら自らの人差し指を見つめていた。
先ほどまで、確かにそこにあった傷。
刃が触れ、血が滲み、そして――消えた。
イデア=シュベルッツベルグ。
あの少女が引き起こした癒しの奇跡の光景が、瞼の裏に鮮やかによみがえる。
「さて……いかがでしたかな、殿下」
向かいの席から声をかけたのは、老騎士――バデラッド=ゴルドンであった。
白髪混じりの眉をわずかに動かしながら、主君の顔色を窺う。
アレン=ロードナイトは、指先からそっと視線を外し、馬車の窓越しに流れゆく王都の街並みへ目を向けた。
「……そうだね」
幼い声には、不思議と年齢にそぐわぬ落ち着きがあった。
「あれは、紛れもなく聖女の力だった」
「まさしく。聖女のみが扱うことを許された、癒しの奇跡に相違ありません」
バデラッドは迷いなくそう断じた。
だが、アレンはすぐには頷かなかった。
「ただ――」
言葉を切り、眉をひそめる。
「何か、気になることでも?」
「……どうしても、女神様の使徒の言葉が引っかかっていてね」
女神の神託を受け、アレン=ロードナイトが“勇者”であると告げた女神の使徒。
その存在が、確かにこう言ったのだ。
――聖女は、まだ目覚めていない。
その一言が、胸の奥に棘のように刺さったまま、抜けずにいる。
「殿下も仰っていたではありませんか。女神様の使徒とて、神託を完全に聞き取れるものではない、と」
「……それは、そうなんだけど」
理屈では納得できる。
だが、感情がそれを拒んでいた。
アレンは再び、窓の外へと視線を落とす。
「バデラッド。歴代の勇者たちが、初めて聖女と出会った時の話を知っているかい?」
「確か……皆、運命に導かれるように胸が高鳴った、と伝えられておりますな」
「うん。僕も、そう聞いていた」
一瞬、言葉を探すように唇を閉ざし――静かに続けた。
「……だから、少し期待していたんだ」
胸が熱を帯びるような感覚。
恋と呼ぶには幼く、それでも抗いがたい引力。
だが――
イデアの部屋で、眠る彼女の顔を見つめていたあの時から、そこには何ひとつ、恋慕を思わせる感情は芽生えなかった。
むしろ。
胸の奥が、ざらりと掻き乱されるような、奇妙な違和感。
言葉にしようとすると、すり抜けてしまう得体の知れない感情。
それは、勇者として選ばれた“何か”が、彼女に対して微かな警鐘を鳴らしている――そんな感覚に、アレンには思えた。
「イデア=シュベルッツベルグ……」
呟きは、ひどく小さかった。
「不思議な子だ」
六歳の子どもとは思えぬほど、陰りを帯びた横顔で、アレンは窓の外を見つめ続ける。
老騎士はその様子に、わずかに困ったような笑みを浮かべ、頭を掻いた。
「殿下は、まだお幼い。時が来れば、歴代の勇者様方のように、イデア嬢に恋慕の情を抱かれることでしょう」
「……だと、いいのだけど」
その言葉には、願いとも、不安ともつかぬ響きがあった。
馬車は、静かに王城へと向かっていく。
その先に待つ運命が、祝福か、それとも――試練か。
まだ誰も、知る由もなかった。
◆
「つ、疲れましたわ……」
自室に戻るなり、私はベッドへ背中から倒れ込んだ。天蓋の内側に張られた薄絹が、視界の端でわずかに揺れる。胸の奥に溜め込んでいた息を、ようやく吐き出せた気がした。
――露見しなかった。
その事実だけが、今は何よりの救いだった。
偽りの聖女である私が、勇者にして王太子であるアレン殿下の前で、どうにか“聖女”を演じ切った。その安堵が、遅れて全身を襲ってくる。
「……はぁ」
気が抜けた途端、身体の重さが一気に現実味を帯びた。指一本動かすのも億劫で、しばらくは天井を見つめたまま、何も考えないようにしていた――はずなのに。
「……ん?」
鼻の奥が、むず痒い。
くしゃみとも違う、じわりとした違和感に、私は眉をひそめた。何気なく鼻の下へ手をやると、指先に伝わる、ぬめり。
「……鼻血?」
嫌な予感に身を起こし、鏡台の前へ歩み寄る。鏡に映った私の顔――そこには、鼻先から細く赤い筋が、つぅ、と伸びていた。
「……あらまあ」
思わず、他人事のような声が漏れる。
「やはり、チョコレートの食べ過ぎはいけませんわね」
そう、自分に言い聞かせるように呟いた。
先程の心労も相まって、メイド長が気遣いだと持ってきてくれたチョコレートを、私は一人で全て平らげてしまったのだ。
――お菓子の食べ過ぎは良くない、などと今朝も注意していたというのに。
その張本人が自ら差し出してくるのだから、実にたちが悪い。
「……お陰で、鼻血まで出てしまったではありませんの。まったく」
文句を言いながら、ハンカチーフで鼻を押さえる。白い布に、じわりと赤が滲んだ。
その赤を見た瞬間、ふと、今朝の光景が脳裏をよぎる。
床に倒れ伏し、血を流していたメイド。
父の手に握られていた、あの冷たい刃。
そして、私の手の中で七色に輝いた――聖女の指輪。
「……私は、ちゃんと治せたのかしら?」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
あの時、確かに傷は塞がった。
けれど、それは“完全”だったのだろうか。
嫌な想像を振り払うように、私はベルを鳴らし、メイド長に今朝のメイドを呼ぶよう伝えた。
数分後。
「――失礼いたします」
控えめなノックとともに、扉が開く。
「……」
部屋に入ってきたその姿を見た瞬間、私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
彼女の左目には、白い眼帯が巻かれていた。
「あ……ええと……その……」
私の視線に気づいたのだろう。メイドは慌てたように言葉を探し、「えへへ」と無理に笑ってみせる。
「だ、大丈夫です。もう、何ともありませんから」
――嘘。
一目でわかった。
その笑顔は、私を安心させるために貼り付けられたものだ。
六歳の私が言えることではないけれど、彼女はまだ十四歳。
見習いとして働き始めたばかりの、うら若き乙女。
その年で片目を失うということが、どれほどの意味を持つのか。
私は、知らないふりをできるほど、子どもではなかった。
※六歳は子どもです。
「……そう」
喉の奥に引っかかった言葉を、無理に飲み込む。
――治せなかった。
その事実が、はっきりと形を持って胸に落ちてくる。
シュベルッツベルグ家に仕えなければ。
私の偽聖女としての生贄にならなければ。
彼女が、こんな傷を負うことはなかった。
「……ちょっと、そこに座りなさい」
私の声音は、思っていた以上に強張っていた。
メイドは一瞬ためらい、戸惑ったように視線を伏せたが、私は逃がすつもりなどなかった。半ば強引にその細い腕を掴み、ベッドの縁へと座らせる。
「お嬢様……本当に、もう大丈夫ですから……」
震える声。
その遠慮が、かえって胸を刺した。
「いいから」
短く言い切り、私は左手を掲げる。
指にはまった聖女の指輪が、ぴくりと脈打つように熱を帯びた。
――今度こそ。
そう念じ、再び力を込める。
七色の光が、掌から溢れ出した。柔らかく、しかし不自然なほど眩い光。部屋の空気が一瞬、別物にすり替わったかのように歪む。
「お嬢様、お止めください!」
その叫びと同時に、鼻の奥がつんと痛んだ。
「……っ」
次の瞬間、熱いものがつぅ、と唇の上を伝う。
ぽたり。
ぽたり。
床に赤い雫が落ち、淡い絨毯に、無遠慮な染みを作っていく。
「……なめるんじゃ、ないわよ」
それでも、私は指輪から意識を離さなかった。
歯を食いしばり、無理やり力を押し込む。
「……ゔぅっ……」
――来ましたわ。
あの感覚。
目に見えない何かが、私の心臓を鷲掴みにする。
ぎゅう、と。
内側から潰されるような、逃げ場のない圧迫感。
「……っ、は……」
胸を押さえ、その場に崩れ落ちる。視界が暗く滲み、光が遠のいていく。
「お嬢様!」
「はぁ……はぁ……ごめんなさい……」
床に膝をついたまま、か細い声を絞り出す。
「あなたの目……治してあげたかったのだけれど……」
指輪の光は、いつの間にか消えていた。
残ったのは、失敗の現実と、胸を締めつける後悔だけ。
「私なんかのために……」
メイドは泣きそうな顔で、首を振った。
「私なんかのために、お嬢様が苦しまれるなんて……そんなの、私が耐えられません! どうか……どうか、もうこのような無茶はなさらないでください……!」
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
「……っ」
返す言葉が、見つからなかった。
使用人ひとりの怪我すら、完全には癒せない。
それで私は、聖女を演じ続けられるのだろうか。
――もし。
もし、いつかアレン殿下が深い傷を負ったなら。
もし、その時、私がこの力を使えなかったなら。
聖女として、勇者を支える資格が――私に、あるのだろうか。
歯噛みするほどの苛立ちが、胸の奥に渦巻く。
その瞬間、不意に、脳裏に浮かんだ顔があった。
どこか不思議な存在感を放つ、あのクラスメイト。
――違う。
私はすぐに首を振り、その像を追い払う。
公爵家令嬢――イデア=シュベルッツベルグが、あのような狂人じみた戯言を、真に受けるなど――あってはならない。
「……このわたくしが……」
拳を握りしめ、声を張り上げる。
「このわたくしが……悪役令嬢なわけ、ありませんわ!」
「お、お嬢様……?」
戸惑うメイドをよそに、私は胸を張った。
震える身体を、無理やり奮い立たせる。
私は、イデア=シュベルッツベルグ。
公爵家の令嬢であり――何れこの国の妃となる女、なのだから。
「根性で……」
掠れた声で、しかし確かに言い切る。
「根性で、この指輪を使いこなしてみせますわ」
それが、虚勢だとしても。
今は、それしか縋るものがなかった。




