第5話 黒薔薇は不吉ですの!?
「殿下、どちらへ向かわれますかな?」
アレン殿下に手を取られ、部屋を出たその瞬間――
天井の高みから落ちてくるような、しわがれた声が私たちを呼び止めた。
声の主は、部屋の前に控えていた老騎士だった。
白髪交じりの髪と、深く刻まれた皺。年齢相応の風貌でありながら、その身体つきは異様だった。
上衣の下に隠されてなお分かる、岩のような筋肉。
背筋は真っ直ぐに伸び、重心は微塵も揺れていない。
……初老の男性、ですわよね……?
どう見ても、長い年月を戦場で生き延びてきた獣のそれだった。
「少し、庭を散歩しようという話になって」
「左様でしたか」
老騎士は低く頷き、視線を私へと向ける。
「……イデア嬢。お初にお目にかかります。私はバデラッド。殿下の周辺警備を任されております。以後、お見知りおきを」
「ええ、こちらこそ。よろしくお願いいたしますわ」
一礼してから、ふと疑問が胸をよぎる。
「ところで……バデラッドが殿下を警護なさっているということは、近衛騎士でいらっしゃるのですの?」
その問いに――
バデラッドとアレン殿下は、ほんの一瞬だけ視線を交わした。
言葉はなく、けれど確かに通じ合う合図。
そのやり取りに、胸の奥がざわりと波立つ。
わずかな沈黙の後、老騎士は静かに口を開いた。
「……そのようなものと、お考えいただいて差し支えありません」
“そのようなもの”……。
つまり、正式なロイヤルガードではない。
けれど、殿下の傍に立つことを許されている存在。
――ただの騎士では、ありませんわね。
「イデア、庭を案内してくれるかい?」
「ええ、もちろんですわ」
そう答えながらも、胸の奥のざわめきは消えない。
先ほどから、アレン殿下とバデラッドは、言葉にしない何かを確かめ合うような視線を交わしている。
……まさか。
喉が、ひくりと鳴った。
私が聖女ではないと――もう、気づかれている……?
思わず、左手へと意識を向ける。
ご信用代わりの“切り札”――聖女の指輪。
……大丈夫。
確かに、左手中指に嵌められている。
けれど。
……できることなら、もう使いたくありませんわ。
あの時。
癒しの光を放った瞬間、私の心臓は、見えない何者かに強く掴まれていた。
息ができず、抗うことも許されない、あの感覚。
考えたくはないけれど――
この指輪に、呪いめいた何かが仕込まれている可能性も、否定できなかった。
「浮かない顔だね。どうかしたの?」
庭園へと続く回廊で、アレン殿下が私の顔を覗き込んでくる。
無邪気で、柔らかな笑顔。
とても愛らしい――のだけれど。
……後ろをついてくる、その老騎士さえいなければ……。
視線の端に映るバデラッドの存在が、どうにも落ち着かない。
背後から常に注がれる、研ぎ澄まされた警戒の気配。
まるで、獲物の一挙一動を見逃さぬ番犬のようだった。
甘やかな庭園の入口を前にして。
私の胸の内では、静かに不安が根を張り始めていた。
「さすがシュベルッツベルグ家の庭園だ。見事としか言いようがないよ」
「ありがとうございます。ここは我が家自慢の――黒薔薇園ですわ」
アレン殿下にそう褒めていただけただけで、先ほどまで胸に巣食っていた不安が、朝霧のようにすっと溶けていくのを感じた。
我ながら現金なものだと思いつつも、浮き立つ心をどうにか抑え、そっと殿下の横顔に視線を向ける。
陽光を受けて艶めく金髪。
その向こうに広がるのは、深い闇を湛えた黒薔薇の群生だった。
「確かに、見事な黒薔薇だ。ここまで揃って咲いているのは初めて見る」
殿下の声は、純粋な感嘆に満ちている。
飾り気がなく、裏もない。その素直さが、胸の奥をくすぐった。
……本当に、非の打ち所がありませんわ。
優しく、誠実で、無邪気。
女神に選ばれたと聞いても、不思議と反発は湧かない。むしろ――納得してしまうほどの愛らしさだった。
「黒薔薇の花言葉には、“滅びることのない愛”という意味がありますの」
「素敵な花言葉だね」
「え、ええ……! 生まれながらにして結ばれる運命――まるで、わたくしたち……こほん。失礼しました」
しまった。
思わず“私たち”と言いかけてしまいましたわ。
はしたない……!
慌てて咳払いし、ちらりと殿下の反応を窺う。
幸いにも、驚いた様子はない――むしろ、少し照れたようにはにかんで視線を逸らしている。
胸の奥で、小さく歓声が上がった。
――可愛いですわ!
「……勇者様と聖女に、ぴったりの花言葉だとは思いませんこと?」
「……そうだね」
――そうだね、ですって。
私は内心で小さく拳を握った。
頬をわずかに染める殿下の横顔が、あまりにも可愛らしい。
照れていらっしゃる……!
「――でも、黒薔薇には別の花言葉もあるんだよ。知ってるかい?」
不意に、殿下がそんなことを言い出した。
「……そ、そうですの?」
「憎しみ、恨み、それから――永遠の死、だったかな」
風が、薔薇園を渡った。
黒い花弁がざわりと揺れ、まるで耳元で囁くような音を立てる。
「……へ、へぇ……」
……もちろん、存じてはおりますけれど。
今、この場で言わなくてもよろしいのでは?
せっかくの雰囲気が、台無しではありませんか。
殿下には、後々きちんと“社交の場での言葉選び”を教えて差し上げる必要がありそうですわ。
……まあ。
まだ六歳ですし。大目に見ますけれど。
「だからね。王宮の庭園には黒薔薇が植えられていないんだ。不吉の象徴だから」
「……そ、そうでしたの。勉強になりましたわ」
だ・か・ら!
そんな補足、要りませんのよ。
もし殿下のお顔がこの世の至宝でなければ、今頃はげんこつの一つも落として“デートマナー”を叩き込んでいるところですわ。
まったく……。
そうして、薔薇園の奥へと歩みを進めた、その時だった。
「ところで――」
殿下が、何気ない調子でこちらを見た。
「イデアは、聖女としての力を、どれくらい使えるのかな?」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
風は止み、薔薇園は静まり返る。
黒薔薇の闇だけが、じっと私を見つめているような気がした。
……。
甘やかな散歩は、ここで終わり。
私の“嘘”が――正確にはお父様の“嘘”が、静かに試されようとしていた。




