第4話 王太子登場
「……う、うぅ……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
瞼を押し上げると、見慣れた天蓋が視界に入る。淡い色のカーテンが、微かな風に揺れていた。
――自室の、ベッドの上。
状況を理解するまでに、わずかな時間を要した。
なぜ私は、ここで眠っているのだろう。
そう考えた途端、胸の奥に冷たいものが走り、記憶が一気に蘇る。
父が、あのメイドの左目にナイフを突き立てたこと。
血の匂い。悲鳴。
そして、私が聖女の指輪をはめ、必死に彼女を癒そうとしたこと。
――そこから先が、思い出せない。
……あのメイドは……。
結局、私は彼女の傷を――
奪われかけた左目を、元に戻せたのだろうか。
胸に小さな不安を抱えたまま、確認しに行こうと身を起こし、扉の方へ視線を向けた、その時だった。
「やあ、気がついたかい?」
不意に、柔らかな声が降ってきた。
「――――!?」
反射的に息を呑み、私は跳ね起きると、ベッドの隅へと身を引いた。
視線の先に立っていたのは――
色白の肌に、陽光を溶かしたような金髪。澄み切った碧眼を持つ、美しい少年だった。
……だ、誰……?
驚きと困惑で、思考が追いつかない。
それ以上に――
なに、この……。
言葉にしがたいほど、整いすぎた容貌。
思わず胸がざわめき、心臓が早鐘を打ち始める。
私は高鳴る鼓動を誤魔化すように、両手で胸元を押さえ、改めて少年の顔を見つめた。
年の頃は、私と同じか、わずかに幼いだろうか。
六歳ほど――まだあどけなさを残した顔立ち。
丁寧に整えられた金髪が、目元で静かに揺れ、光を受けて淡く輝いている。
碧い瞳は、底の見えない湖のように澄み切っていて、見つめ返された瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
「……大丈夫? まだ体調が優れないかい?」
声は高く、少年らしい柔らかさを帯びている。
それなのに、不思議と落ち着いていて――年齢に似つかわしくない余裕と品が、自然と滲み出ていた。
白磁のような肌。
長い睫毛に縁取られた瞳が、心配そうに細められる。
その一挙一動が、まるで絵画や絵本の中の人物のようで。
私は、いつの間にか息をすることすら忘れていた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
……本当に……何なの、この感じ……。
知らない感情だった。
けれど、不快ではない。
むしろ、甘く、どこかくすぐったい。
「貧血で倒れたって聞いていたけど……うん。顔色は、もう大丈夫そうだね」
そう言って、少年は小さく微笑んだ。
その瞬間――
心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
世界が、わずかに眩しくなった気がした。
――ああ。
理由はわからない。
けれど、私は確信してしまった。
この人が――
アレン王太子殿下なのだと。
生まれて初めてだった。
誰かを見ただけで、世界の色が変わったように感じたのは。
「あ、あの……あなたは、アレン王太子殿下で……よろしかった、ですわよね?」
恐る恐る確かめるようにそう口にすると、少年――アレン王太子殿下は、ぱっと花が綻ぶような笑顔を浮かべられた。
「僕のこと、覚えてくれていたの?」
その無邪気さに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
あまりに愛らしい笑みだったせいで、私は思わず身体の力を失い、そのまま後ろへ倒れそうになってしまった。
「――たしか、会ったのは二歳の時だけだったよね?」
「……え、ええ。そ、そうでしたわね……」
覚えているわけありませんでしょう!?
心の中で全力で叫びながら、私は曖昧な笑みを貼り付ける。
そもそも、二歳の時の記憶なんてありませんわよ。
それにしても。
とんでもない……美少年ですわね……。
噂では、王太子は粗暴で高飛車、気に入らない者には容赦がないと聞いていた。
髪の色も朱に近い赤だと――。
けれど、目の前にいるのは、柔らかな金髪に澄んだ碧眼、穏やかな微笑みを湛えた、まるで絵本の王子様そのものだった。
この方が私の婚約者。
偽聖女を演じることには気が引けますが、演じるだけの価値はあると思ってしまう。
「でも驚いたよね。まさか僕たちが、勇者と聖女に選ばれるなんて」
「……え、ええ。そ、そうですわね」
――しまった。
つい、反射的に肯定してしまった。
いや、まあ……。
あの悪魔のようなお父様が背後に控えている以上、否定など最初から選択肢にはないのだけれど。
「歴史的に見ても、こんなに早く勇者と聖女が揃うことは珍しいんだって。知ってた?」
「……も、もちろん存じておりますわ」
初耳ですわ。
そんな重要情報、誰一人として教えてくれませんでしたけれど。
「勇者と聖女はね、互いに親交を深めることで、女神様から授かった“光の力”が強まるって言われているんだ。もしかしたら僕たちは、歴代最強になるかもしれないって、父上が言っていたよ」
「……そ、そう、ですわね……」
聞いてませんわよ、お父様!?
もしそれが本当なら――
いずれ、私が“本物の聖女ではない”ことも、露見してしまうのではないでしょうか。
胸の奥が、ひやりと冷える。
……だめ……考えるだけで、気持ちが悪くなってきますわ……。
「やっぱり、少し顔色が良くないね。念のため、熱を測ってみようか」
「――――――///!?」
そう言うや否や、アレン王太子殿下はベッドに片手をつき、ぐっと身を乗り出してきた。
次の瞬間――
こつん、と。
額と額が、軽く触れ合う。
ち、近……っ!?
息がかかるほどの距離。
今にも唇が触れてしまいそうで、頭が真っ白になる。
というか――
睫毛、長すぎませんこと?
下手をすれば、私より長いのでは……?
「……うーん。少し、熱っぽいかな」
あなたの顔が近すぎるからですわよ!!
というか、貧血で熱が出るという理屈も、正直よくわかりませんし。
そもそも、私は貧血などでは――。
「へ、部屋に籠もっていては気が滅入ってしまいますわ。少し、お庭をお散歩なさいませんこと?」
「そうだね。……じゃあ、歩きながら“今後”について話そうか」
「……ですわね」
“今後”――
それが、勇者と聖女としての未来を指していることは、疑いようもない。
……ああ……。
胃のあたりが、きりきりと痛み始めた。
甘やかな微笑みと、逃れられぬ運命。
その狭間で、私の心は、早くも悲鳴を上げていた。




