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悪役令嬢のまま死んでたまるか! 偽聖女ですが、何か問題でも?  作者: 葉月


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第33話 北の地

「うわぁー、すごい! 本当に何にもないね!」


 お茶会から数日後――

 私たちは、フェンダの実家がある北方、ミソエル地方へとやって来ていた。


 ――ミソエル地方が、ここまで遠い場所にあるだなんて……。


 王都から魔導列車で丸一日。

 さらにそこから、パソネス家が手配した馬車に揺られること数時間。

 移動に次ぐ移動。揺れに次ぐ揺れ。

 地図で見れば一本の線に過ぎない道のりが、実際に辿れば、これほどまでに人の体力と精神を削るものだとは思わなかった。


 ようやくフェンダの実家近くまで辿り着いた頃には、私は椅子の背に身を預け、優雅さとは程遠い疲労を全身に溜め込んでいた。


 ――それなのに。


 馬車の窓辺に張り付くマヤだけは、まるで遠足にでも来たかのように元気いっぱいだった。


「見て見て! 地平線まで何にもないよ!」

「……感想として、それはどうかと思いますわ」


 こちらは慣れない長旅でぐったりしているというのに、彼女は疲労という概念そのものを知らないらしい。

 先ほどから窓の外を眺めては、地方貴族の領地としてはあまりに率直すぎる感想を連発している。


 私がフェンダの立場なら、すでに二度ほど馬車から叩き出しているところだ。

 だが当のフェンダは、なぜかマヤの隣で穏やかに微笑んでいる。


 ――どうやら、懐いていますわね。


 おそらく、マヤがパソネス家の絹糸を私に売り込んだ件について、強い恩義を感じているのだろう。

 実に律儀で、誠実な性格である。


「あそこに見える一帯が、パソネス家の所有する鉱山なんです」

「龍の背骨って呼ばれてる場所だよね?」

「……マヤは本当に物知りですのね。最初は、ただの変人だと思っていましたのよ」


 ――ええ、その評価は正解ですわ。


 同じ男爵家という共通点もあり、二人は意外と気が合うらしい。

 もっとも、数代にわたって爵位を継いできたパソネス家と、今代で貴族となったキリング家とでは、家格に明確な差がある。


 けれど、フェンダ自身はその違いを気にしている様子はなかった。

 ならば、私が余計なことを言う必要もない。

 このまま、そっとしておくとしよう。


 ――問題は、別のところにあった。


「わ、わたくし……そろそろ……限界かもしれませんわ……ゔぅっ……」


 アメリアのか細い声が、馬車の中に漂った。


 度重なる移動の末、彼女は見事に乗り物酔いを発症していた。

 もともと乗り物が得意ではないと聞いてはいたが、ここまでとは。


 白磁のようだった肌は見る影もなく、今や死人めいた蒼白さで、ぐったりと背を丸めている。

 まるで、意識だけが辛うじて現世に留まっているリビングデッドである。


「……ま、まだ……着きませんの……」


 さらにその隣では、長時間の揺れにより、別の意味で限界を迎えた令嬢が顔を歪めていた。

 六歳にして痔を患う貴族令嬢――あまりにも前途多難である。


 ――本当に、こんな面々が、私の数少ない仲間なのでしょうか。


 これから先の道のりを思うと、胃の痛みが、またひとつ増えた気がした。



「うぅ〜ん、空気がおいしい!」


 パソネス家の敷地内に馬車が止まるや否や、マヤは誰よりも早く飛び降り、大きく背伸びをした。

 深呼吸とともに胸いっぱいに空気を吸い込み、そのまま満足そうに笑う。


 ――本当に、淑女らしさというものが欠片もありませんわね。


 長旅の疲れを微塵も感じさせないその姿は、田舎育ちというより、野生動物に近い。


「お二人とも……本当に、大丈夫ですの?」


 私は振り返り、後方の馬車に目を向けた。


「……だ、だいじょうぶ……です、わ……」

「い、イデア様の……お手を、煩わせるなんて……」


 言葉とは裏腹に、アメリアは死人のような顔色で、ミゼルに至っては立ち上がることすらままならない。

 この状態で「大丈夫」と言える胆力だけは、ある意味見習いたいものだ。


「そんなことを言っている場合ではありませんわよ」


 私はため息を一つ噛み殺し、二人の肩を支えながら馬車から降ろしていく。

 重さよりも、そのか細さが、胸に引っかかった。


 その様子を見て、後列の馬車からアメリアとミゼルの侍女たちが慌てて駆け寄ってくる。


「ありがとうございます、イデア様……!」

「まさかご自ら……!」


 アメリアとミゼルからは、まるで聖女を見るかのような崇拝の眼差しを向けられ、

 侍女たちからは、これでもかというほど深々と頭を下げられた。


 ――本当に、大したことはしていないのですけれど。


 むしろ、こちらの方が居心地の悪さを覚えてしまう。


 ふと、左手に視線を落とした。

 聖女の指輪。

 この程度の体調不良であれば、力を使ってしまっても――。


「おやめください」


 低く、しかしはっきりとした声。


 気がつけば、斜め後ろにアールが立っていた。

 いつの間にそこに、と言いたくなるほど自然な距離だ。


「この程度で聖女の力を使うべきではありません」

「……そう、ですわね」


 確かに、その通りだ。


 今回の旅には、当初メイド長が同行する予定だった。

 だが、アールが必死に懇願した結果、メイド長は屋敷で留守番をすることになった。


 私が「そろそろアールを正式に専属のメイドにしたい」と口にしたことも、少なからず影響しているのだろう。


 せっかくの“旅行”なのだ。

 父の目の代わりのようなメイド長よりも、気心の知れたアールがそばにいてくれる方が、私としてはずっとありがたい。


 ――それに。


 この左目と、この指輪の秘密を知っているのは、マヤの他に彼女だけなのだから。


「お父様、あちらがシュベルッツベルグ公爵令嬢――イデア様です」

「おお!」


 弾んだ声に導かれるように視線を向けると、一人の男性がこちらへ歩み寄ってくる。

 大人としては小柄だが、足取りは確かで、視線に迷いがない。


 ――フェンダの父。

 パソネス男爵だろう。


 来客を迎えるためか、男爵は普段よりもいくらか改まった装いをしていた。


 くすんだ青を基調としたロングコートは、明らかに年月を重ねた品だが、隅々まで丁寧に手入れされている。肘や裾には金糸の刺繍が控えめに施され、主張しすぎぬ装飾が、かつての質の高さを静かに物語っていた。前身頃に並ぶ小さな金属製のボタンは鈍く光り、地方貴族としての矜持がそこに滲んでいる。


 首元には、やや黄ばみの目立つレースのクラバット。流行には遅れているが、礼節を軽んじぬ性格が、その結び目ひとつから伝わってくる。


 膝丈の半ズボンに白い長靴下。年相応に細くなった脚を包み、足元の黒革靴には磨かれた光沢と、使い込まれた傷が同居していた。


 頭には簡素な白布の帽子。

 中央の華やかな貴族とは異なる、領地と家を守ることに人生を捧げてきた男の姿だった。


 華美ではない。

 だが、決して軽んじられる装いでもない。


 ――慎ましく、それでいて誇りを失っていない。

 そんな印象を強く受けた。


「この度は、このような辺境までご足労いただき、誠に感謝致します」

「別に、お父様のために来てくださったわけじゃないわよ」


 フェンダがきっぱりと言い切る。

 ……まあ、事実ではある。


 私の目的は、別にある。

 しかし、男爵にとってはそんな事情は些細なことらしい。


「何を言うか。お前の手紙にも書いてあっただろう。シュベルッツベルグ家が、我が家の絹糸を仕入れてくださるよう便宜を図ってくださったのは、他ならぬイデア様だと。それに、あのバンブレッド商会にまで」


 どうやら彼は、私が“絹糸の視察”に来たのだと信じ込んでいるようだ。


 ――今は正直、絹糸のことなどどうでもよろしいのですけど……。


「おっと、これは失礼。私としたことが、まだ名乗っておりませんでしたな」


 男爵は軽く咳払いをして、改めて背筋を伸ばす。


「私はタップ=パソネス。フェンダの父でございます。どうぞ、お見知りおきを、イデア様」


 そう言ったあと、ふと思い出したように視線を宙へ泳がせ、確かめるように続けた。


「……聖女様、とお呼びした方がよろしいでしょうかな?」

「……いえ。そのような呼ばれ方は、どうかご遠慮くださいませ」


 即座に、きっぱりと断る。


 そんな呼び名を許せば、胃痛と永遠に縁を切れなくなってしまう。

 聖女を“演じる”という行為が、ここまで精神を削るものだとは、正直思っていなかった。


「それよりも……先に、あの二人を休ませてあげたいのですけれど」


 私は視線を向ける。

 侍女に抱きかかえられ、半ば意識を手放しかけているアメリアとミゼルへ。


「おや? あちらは……ワルドナルク嬢と、ドリスマン嬢ですかな? ずいぶんお顔の色が……」

「乗り物酔いと……持病ですわ」


 相手は殿方。

 さすがに「痔です」とは言えなかった。


「なるほど……それはお辛かったでしょう」


 理解ある頷きのあと、タップの視線が、今度は別の存在に向けられる。


「……それで、そちらの方は……?」


 貴族らしからぬ立ち姿。

 場違いなほど自由な気配を放つ人物――マヤ。


 タップの頭上に、はっきりと疑問符が浮かんでいるのが見えるようだった。



「お父様、こちらが――マヤ=キリングですわ」

「おお! では、彼女が“幸運の女神”ということか!」


 どうやらマヤは、シュベルッツベルグ家にパソネス家の絹糸を売り込んだ張本人として、この家では半ば伝説の存在になっているらしい。

 いつの間にやら、“幸運の女神”などという、あまりにも大それた称号まで授与されていた。


「はい! 幸運の女神をやらせてもらっていまーす!」


 本人は謙遜という概念をどこかに置き忘れてきたのか、胸を張って堂々と名乗りを上げる。


 ……図太い。

 あまりにも、図太い。


 こちらは「聖女様」と呼ばれるだけで胃がきりきりと痛み、夜中に何度もため息を吐く羽目になっているというのに。


 ――いや、違いますわね。

 私が繊細すぎるのではなく、単純にこの子の神経が異常なのですわ。


 パソネス男爵はそんな事情など露知らず、感極まった様子で何度も頷いていた。


「いやはや、まさかこのような方がいらしてくださるとは。フェンダの手紙に書いてあった通りだ……」

「期待に応えられるよう、今日も全力で幸運を振りまきますね!」

「なんと頼もしい!」


 ――本当にそれでいいんですの、男爵!


 そもそも、どこに向かって、何をどう振りまくつもりなのか。

 私はそっと考えるのをやめた。


「さあ、どうぞ。立ち話もなんですから、遠慮せずお上がりください」


 男爵の一声で、ようやく場が動き出す。

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