第32話 噂の真偽
「(シュベルッツベルグ家がパソネス家の絹糸を仕入れることで、聖女側の味方を一人――消せる、という考えでよろしいのかしら?)」
――消す。
我ながら、随分と物騒な言葉を選んだものだと思う。
けれど、結果が同じであるなら、ここで言葉だけを丁寧に繕ったところで、何の意味もない。
社交界も、政治も、そして運命も――本質はいつだって冷酷だ。
「(残念だけど、それだけじゃ足りないかな)」
マヤの声は、あまりにも軽やかだった。
「(実はね、別世界でもシュベルッツベルグ家はパソネス家の絹糸を仕入れてるんだ)」
「(……あら。でしたら、運命は変わらないのではなくて?)」
その通りだ、とでも言うように、マヤの沈黙が肯定を示す。
私は微笑みを貼り付けたまま、内心で小さく首を傾げていた。
「(でも、違いがある)」
少しだけ、声の調子が変わる。
「(別世界では、シュベルッツベルグ家が動くのが“遅い”。絹糸を仕入れる時期が、かなり後なんだ)」
「(……それでは?)」
「(村は助からない)」
淡々と告げられたその一言が、胸の奥に重く沈んだ。
重要なのは“結果”ではなく、“時期”。
パソネス家の財政難を、一日でも早く和らげなければならない。
そのために、シュベルッツベルグ家が最初の一手を打つ時期を早める――それが、マヤの描く筋書きだった。
「(つまり、絹糸を仕入れるのは、本命ではなく下準備……ということですのね)」
自分でも驚くほど、声が冷静だった。
「(話は理解しましたけれど……本当に、それで財政難は解消されますの?)」
我がシュベルッツベルグ家が絹糸を多少仕入れたところで、男爵家が抱える負債を帳消しにできるとは思えない。
その疑念を隠さずに投げかけると、マヤは即座に答えた。
「(問題ないよ)」
迷いのない声音。
「(シュベルッツベルグ家がパソネス家と懇意にしている、って事実が社交界に広まればね)」
その先を、私はすでに理解していた。
「(“したたかな”貴族たちは、こぞって同じ動きをする)」
ブランドとは、質だけで成り立つものではない。
誰が手に取ったか――それが、何よりの価値になる。
「(時間はかかるけど、確実にパソネス家は救われる。それで村の増税が阻止できれば、七割方は目的達成かな)」
紅茶の表面に、私の微笑みが映り込む。
優雅で、慈善的で、申し分のない振る舞い。
私はカップを置き、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
この運命を描いた何者かに、一泡吹かせる――。
それは、ただの意趣返しではない。
未だ顔も知らぬ聖女に、こちらから先制の一撃を叩き込む、千載一遇の機会でもあった。
私は静かに執事長ハーディを呼び寄せ、低く、しかし確かな声音で告げる。
「今後、我が家で用いる絹糸の仕入れ先を変更しますわ。友人の――パソネス家から、優先的に仕入れてちょうだい」
理由を細かく説明する必要はなかった。
絹糸の仕入れ先を変えるなど、シュベルッツベルグ家にとっては些細な判断に過ぎない。
実際、父の右腕たる執事長は一瞬だけ眉を動かしたものの、すぐに恭しく一礼した。
「承知いたしました、イデア様」
それだけで話は終わる。
――それが、この家の力だった。
「イデア様……!」
正面に向き直ると、フェンダが両手を胸の前で握りしめ、今にも泣き出しそうな瞳でこちらを見つめていた。
その姿に、アメリアとミゼルまでが感極まったように息を呑む。
「なんて……なんて慈悲深い御方なのかしら……」
ミゼルの呟きに、アメリアが深く頷く。
慈悲。
私の行動を、彼女たちはそう受け取ったようだ。
――この際だから、利用できるものは利用しておこうと思う。
従って、いずれ我が家を裏切ることになると聞かされているバンブレッド商会にも、パソネス家の絹糸を買わせることにする。
――裏切り者は、とことん利用させてもらうことにしますわ。
「……やはり、あの噂は本当だったのかもしれませんわね」
ふと、アメリアが意味深な声色でそう呟いた。
噂?
胸の奥で、嫌な予感が小さく波打つ。
居住まいを正したアメリアは、緊張を隠しきれない様子で、こちらを見つめてきた。
「あの……イデア様」
「なにかしら?」
表情は崩さず、声音も平静を装う。
「イデア様が……選ばれし聖女様だという噂が、社交界でまことしやかに囁かれていると耳にしたのですが……それは、事実なのでしょうか?」
「……」
思わず、息を呑んだ。
天を仰ぎたい衝動を、かろうじて理性で押さえ込む。
――落ち着きなさい。
父が国王陛下に告げた、その瞬間から、こうなることは分かっていたこと。
今さら慌てる理由など、どこにもない。
予定通り――“聖女”を演じるだけ。
「あら……もう、そのような噂が広がっておりますのね」
震えそうになる指先を、ティーカップの温もりで誤魔化しながら、私はゆっくりと紅茶を口に運んだ。
優雅に、淑やかに。
何も知らぬ者が見れば、ただ微笑んでいるだけの令嬢に映るだろう。
「!」
次の瞬間。
「やはり! やはりあの噂は本当でしたのね!」
「イデア様が聖女様だなんて……納得しかありませんわ!」
「イデア様以上に、聖女様にふさわしい方などおりませんもの!」
歓喜の声が、庭園に弾ける。
アメリア、ミゼル、フェンダ――三人の瞳は、疑いようもない信仰の色に染まっていた。
私は微笑みを崩さぬまま、その光景を見つめる。
「では、あの噂も本当なのでしょうか?」
――偽聖女の他に、まだ何かあるの?
私は彼女たちに気づかれないよう、胃のあたりをそっと押さえた。
「このたびアストラル王国の王太子となられた、アレン殿下とのご婚約の噂ですわ!」
「まだ正式には発表されていませんけれど、アレン殿下こそが女神様に選ばれた“光の勇者”だと、社交界ではもっぱらの噂ですの」
「それ、本当だよ。アレン殿下、この間お忍びでイデアに会いに来てたもんね」
――また、マヤが余計なことを……。
アレン殿下と私の婚約が事実だと知った途端、彼女たちの声は一段と弾み、熱を帯びていく。
「え、ええ……。まあ、そうですわね」
――胃が……胃が、痛いですわ。
胸の奥に沈殿する罪悪感が、じわじわと内臓を圧迫してくる。
先ほどまでの歓声が嘘のように、私は一人、見えない重みに耐えていた。
それでも顔には微笑を貼りつけ、背筋を伸ばす。
(偽)聖女たる者――少なくとも、弱味を見せてはならない。
グッ。
視線を逸らすように、ちらりとマヤの方を見る。
彼女はといえば、何事もなかったかのようにクッキーを口いっぱいに頬張りながら、私にだけ見える位置で親指を突き出していた。
――……なぜ、そのように振る舞えますの?
その能天気さ。
世界の重みを一切背負っていないかのような、その態度。
正直なところ、心の底から羨ましかった。
「あ、そうだ! 今度の連休ね。あたしフェンダの実家に遊びに行きたい!」
あまりにも唐突なマヤの宣言に、場が一瞬、静まり返る。
フェンダは困ったように口元を緩め、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「え、ええと……」
すかさずアメリアとミゼルが身を乗り出し、淑女らしい笑みを浮かべてマヤを制止しようとする。
「それはさすがに――」
「ご実家にもご都合が――」
だが、マヤはその動きを読んでいたかのように、ひょいとこちらを見る。
「イデアも行きたいよね? ミソエル地方に興味あるって、前に言ってたもんね?」
――……この子。
これはもう誘いではない。
淑女の駆け引き? そんなものはどこにもない。
私の名前を盾にした、完全なるパワープレイである。
しかし、聖女の味方がミソエル地方にいる以上、行かないという選択肢はなかった。
「……ミソエル地方、実は私も一度行ってみたかったんですのよ」
咄嗟にそう口にすると――
「まあ! イデア様も!?」
「実は、私もなの!」
アメリアとミゼルが、まるで待ってましたとばかりに声を弾ませた。
「あら、ミゼル。あなたもなの? 本当に奇遇ですわね」
「本当に……奇遇ですわね!」
その変わり身の早さ。
あまりの見事さに、思わず感心してしまうほどである。
親友二人の華麗なる手のひら返しに、フェンダはついに苦笑を漏らした。
「イデア様に……皆さんをお招きできるような立派な場所ではないのですが……」
一瞬、逡巡するように視線を伏せた後、フェンダは意を決したように顔を上げる。
「……わかりました。次の連休、イデア様たちと帰省する旨を、父に伝えておきます!」
その言葉に、場の空気がぱっと明るくなる。
こうして、次の連休は――
フェンダの実家がある、北のミソエル地方へ。
私たち全員で足を運ぶことになったのだった。
――胃痛の原因が、さらに増えた気がするのは、気のせいではありませんわね。




