第30話 空気を読まない女
「……本当に、厄介な目ですわね」
鏡に映る左目から、そっと視線を逸らす。
意識を緩めれば、あの渦が顔を出す。まるで油断を試すかのように――いや、私の内側を嘲笑っているかのように。
スラム街から戻って、すでに数日が過ぎていた。
帰宅したその日は、珍しいことに父と食事を共にした。
幼い頃ですら滅多にないことだったため、最初は戸惑いの方が先に立ったが、その理由はすぐに察しがついた。
食事の合間、父の視線は何度も私の左手へと向けられていた。
執事長か、あるいはメイド長か――どちらかが私の腕の異変について報告したのだろう。
私は何食わぬ顔でナイフとフォークを操り、肉を切り分けてみせる。
左腕に痛みはない。震えもない。
その様子を見て、執事長とメイド長が、ほとんど気づかれぬほど僅かに眉を上げた。
確認は、それで十分だったらしい。
父は満足したのか、あるいは興味を失ったのか。
私の腕に異常がないと知るや、早々に食事を切り上げ、席を立った。
――やはり、そういうことですのね。
そして、本日。
王立ヒステリック学園に入学して以来、初となる――イデア=シュベルッツベルグ主催のお茶会の日が訪れた。
正直に言えば、私が主催するお茶会など、人生で初めてである。
そのため、屋敷内は朝から落ち着かない。
シュベルッツベルグ家の使用人たちは、普段以上に神経を尖らせ、廊下や階段を忙しなく行き交っていた。
万が一、客人に無礼があれば――
それは、シュベルッツベルグ家の名誉に傷がつくことを意味する。
そんな事態になれば、文字通り首が飛ぶ者が出てもおかしくはない。
名誉を何より重んじる、あの父であれば。
「……まだ、慣れませんか?」
控えめな声が、背後からかけられた。
シュベルッツベルグ家の使用人で、私の左目の異常を知っている者は、ただ一人。
新人メイドのアールだけだ。
そして同時に、この屋敷で唯一、私が心を許している相手でもある。
「まだ……油断すると、戻ってしまいますわね」
無意識に左目へ力を込めながら答える。
意識していなければ、あの渦はすぐに姿を現す。
――もし、お茶会の最中に戻ってしまったら。
貴族令嬢たちの好奇と疑念に満ちた視線。
異端、呪い、悪魔憑き――そんな言葉が囁かれる未来が、容易に想像できてしまう。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
私は、湯気の立つティーカップを見つめながら、静かに息を整えた。
この目も、この運命も――
今日だけは、どうか大人しくしていてほしい。
◆
「とてもステキな黒薔薇ですこと!」
「ええ。たしか黒薔薇には――“滅びることのない愛”という花言葉がございますのよ」
「まあ……それはなんてロマンティック。イデア様に、これ以上なくお似合いですわ」
時刻は昼過ぎ。
柔らかな日差しが降り注ぐ中、シュベルッツベルグ家自慢の黒薔薇庭園は、いつになく華やいでいた。
本日訪れたのは、伯爵家の令嬢アメリア=ワルドナルクを筆頭に、子爵家のミゼル=ドリスマン、男爵家のフェンダ=パソネス。
三人は学園の馬車に揺られて、この屋敷へとやって来た。
そして、その馬車には――意外な同乗者がいた。
マヤ=キリングである。
――どういうことですの?
庭園へ案内する途中、私は小声でマヤに問いかけた。
すると、あの日――彼女の提案でこの三人をお茶会に誘った日を境に、彼女たちの態度が一変したのだという。
それまでは嫌味や遠回しな攻撃を繰り返していたにもかかわらず、今ではまるで旧知の友人のように接してくるらしい。
「正直、ちょっと鬱陶しいんだよね」
そう言ってマヤは、げんなりした顔をしていた。
だが、彼女たちは私にとって数少ない“味方”でもある。ならば、マヤには多少我慢してもらうしかない。
――そのはずだったのだが。
「それは、わりと最近作られた“良い方”の花言葉だね」
黒薔薇を褒められ、内心上機嫌になっていた私の隣で、マヤが唐突に口を開いた。
「黒薔薇って、本来は“死”の花なんだよ。知ってた?」
……。
その瞬間、庭園を包んでいた和やかな空気が、音を立てて凍りついた。
アメリア、ミゼル、フェンダの三人は、まるで見てはいけないものを見てしまったかのようにマヤを凝視している。
顔色はみるみる蒼白になり、口元は呼吸の仕方を忘れた魚のように、かすかに開閉していた。
――また、やりましたわね、この子。
「貴族社会では不吉の象徴として扱われてることが多いんだよね」
追い打ちをかけるように、マヤは続ける。
「そういう意味でも、権威と血を重ねてきたシュベルッツベルグ家には、すごく似合ってる花だと思うよ」
彼女はそれで褒めているつもりなのだろう。
満足そうに、にっこりと微笑んでいた。
――致命的に、空気が読めませんわ。
私は微笑みを崩さぬまま、内心で深いため息をついた。
この庭園で最も危険なのは、黒薔薇でも、その花言葉でもない。
間違いなく――マヤ=キリング、その人である。
「……所詮は、意味のない花言葉ですわ」
私は、わずかに肩をすくめるようにしてそう告げた。
凍りついた空気を解かねばならない――その一心で。
「それよりも。三人のお召し物、とても素敵ですわね」
声音を柔らかくし、安心してほしいという想いを込めて微笑みかける。
すると彼女たちも私の意図を汲み取ってくれたのだろう。一度、胸の奥に溜まった息をそっと吐き出し、互いに視線を交わしてから、声の調子を一段明るくした。
「お褒めいただき、光栄ですわ!」
「このドレスを選んだ甲斐がありましたわね」
「イデア様こそ、とてもお美しいです!」
ようやく、庭園に和やかなざわめきが戻る。
私は内心で、ほっと安堵の息をついた。
まず目に映ったのは、伯爵家の令嬢――アメリア=ワルドナルク。
淡いクリーム色のドレスは上質な絹で仕立てられており、陽光を受けるたび、控えめに艶めく。胸元と袖口には繊細な刺繍が施されているが、主張は決して強くない。流行を的確に押さえながらも、品位を一切崩さない――いかにも、家格を理解した伯爵家の装いである。
首元には小粒の真珠を連ねたネックレスが一筋。装飾は少ないが、その分、ひとつひとつが確かな価値を持つことが一目で分かる。彼女の落ち着いた立ち居振る舞いと相まって、静かな気品が漂っていた。
次に視線を移したのは、子爵家の令嬢――ミゼル=ドリスマン。
柔らかな水色のドレスは、同じく良質ではあるものの、アメリアのそれほどの重厚さはない。スカートには流行のギャザーが寄せられ、リボンや小ぶりな装飾も多めだ。
若さと可憐さを前面に押し出した意匠で、慎ましさの中に「見てほしい」という気持ちが、どうしても滲み出てしまっている。宝飾品も控えめだが、細工はやや華やかで、少し背伸びをしている印象を受けた。
悪くはない。――けれど、確実に“子爵家らしさ”が見て取れる装いだった。
最後に、男爵家の令嬢――フェンダ=パソネス。
淡い桃色のドレスは、形そのものはきちんと流行を押さえている。だが、近くで見れば生地の厚みや縫製の甘さは否応なく目についた。刺繍は最小限、装飾も簡素で、実用を重んじた仕立てであることが分かる。
それでも色選びは巧みで、全体としては清楚にまとまっていた。限られた中で最善を尽くした――そんな努力がありありと伝わってくる。彼女自身の慎ましさが、そのまま装いに表れているようだった。
……それに引き換え。
「まだここに居る感じかな? あたし、喉乾いちゃった」
場違いにもほどがある声が、空気を裂く。
振り返れば、マヤは相変わらず――学園指定の制服姿だった。
お茶会だというのに、である。
聞けば「ドレスは動きにくいから嫌い」なのだそうだ。
私は一瞬、言葉を失った。
――呆れた男爵令嬢ですわ。
この場において、彼女ほど自由な存在はいない。
そして同時に、彼女のご両親が少しだけ不憫に思えてならなかった。




