第28話 公爵令嬢と悪魔
「お婆さんが貴族嫌いなのは理解してるよ。……でもさ、本当に一番嫌ってるのは――聖女、じゃないのかな?」
その言葉が落ちた瞬間、店の空気がぴたりと止まった。
「……あんた、何をどこまで知ってるんだい?」
老婆は目を見開いた。
だが、そこに先ほどまであった露骨な敵意はない。あるのは、値踏みでも警戒でもなく――純粋な興味だった。
まるで、長い年月、誰にも触れられなかった古傷を、正確に指でなぞられたかのように。
「……うーん。一応ね」
マヤは気負いもなく、指を一本立てる。
「お婆さんが、初代聖女たちと本気でやり合ってた、凄腕の“悪魔”だってことくらいは知ってるかな」
――……悪魔?
いま、この子は。
この老婆を、そう呼びましたの……?
言葉の意味を理解するより早く、背筋に冷たいものが走る。
私の後ろで、アールもまた、信じがたいものを見る目で老婆を凝視していた。
人ではない。
この老婆がかつて大陸を恐怖させた悪魔だとでもいうのか。
「ヒッヒッヒ――」
歯の隙間から漏れ出る笑い声が、薄暗い店内に反響する。
愉悦と嘲弄と、そして――懐旧。そのすべてが混ざり合った、不快な音だった。
「それを知って、ここへ来てたってのかい?」
「うん」
「……あんた、頭おかしいって言われないかい?」
試すような問い。
だが、その声音は、どこか楽しげですらあった。
「言われないよ」
即答。
――言われていますわよ!!
思わず心の中で叫んでしまった。
この状況でよくもまあ、顔色ひとつ変えずにその返答ができるものだ。
あまりの迷いのなさに、私は目を丸くする。
マヤは相変わらず飄々としていたが、その瞳の奥には、確かな計算と覚悟が宿っていた。
老婆の渦巻く瞳が、ゆっくりと細められる。
この店で、初めて。
彼女は“客”ではなく、“対等な相手”として、マヤを見ている――そんな気がした。
「それで――あんたの望みは【闇のしずく】かい?」
老婆の声は、乾いた石を擦り合わせるように低く響いた。
「うん。イデアの光壊を治したいんだ」
「……そうかい」
ひと呼吸。
渦を巻く瞳が、私を値踏みするように眇められる。
「残念だったね。あたしゃ貴族ってだけでも虫唾が走るのに、その中でも“公爵”ってのが心底嫌いでね」
「……」
「そこのお嬢ちゃんに売るような【闇のしずく】は、この店にはないよ。他所を当たりな」
拒絶は、あまりにも明確だった。
「――待ってくださいまし!」
気づけば、声が出ていた。
二人の会話から、この左腕を治すために【闇のしずく】という品が不可欠であることは理解している。
ならば、私に残された手段はひとつしかない。
「……その【闇のしずく】をお譲りいただけるのでしたら、お婆様が望まれる額をお支払い致しますわ」
屋敷へ戻れば、金は用意できる。
公爵家として、支払えぬ額など存在しない――そう、思っていた。
「……金?」
老婆は、心底可笑しそうに鼻で笑った。
「おやおや、聞いてなかったのかい。あたしゃ悪魔だよ?」
「……」
「金なんてね、重たいだけで邪魔な代物さ。興味も価値もありゃしない」
――……そんな。
胸の奥が、ひやりと冷える。
では、どうやって。
どうすれば、この老婆から【闇のしずく】を得られるというのか。
「そうさねぇ……」
老婆は顎に指を当て、わざとらしく考え込む素振りを見せたあと――
「どうしても欲しいってんなら、交換だね」
「……交換?」
「そこの、反抗的な女の――右目と、引き換えなら譲ってやらなくもないよ」
老婆の指先が、私の背後を指し示す。
アール。
「――――!?」
息が詰まる。
冗談で済ませていい言葉ではない。
「ふざ――」
声を荒げようとした、その瞬間。
「いいでしょう」
凛とした声が、私の言葉を遮った。
「私の右目と引き換えに、お嬢様の左腕が治るのであれば――安いものです」
アールは一歩、前へ。
迷いはない。
恐れも、躊躇も、そこには存在しなかった。
ただ、絶対の忠誠だけが、澄んだ瞳に宿っている。
――この子は、本気だ。
「やめなさい!」
私は叫ぶように言っていた。
「アール……あなたを傷つけてまで、この左腕を治したいとは思いませんわ」
「しかし――」
「問題ありません。少し痛むだけで、動かせないわけではないの」
「……ですが、このことが旦那様に知られれば……」
「その時はその時ですわ」
私は静かに、しかし確かに言い切った。
「また別の手を考えればいいだけのこと。大切なあなたの体を犠牲にしてまで、治す理由などありません」
アールは唇を噛みしめ、何も言えなくなる。
その沈黙こそが、彼女の忠誠の深さを、何より雄弁に物語っていた。
そして私は、改めて悟る。
この左腕よりも、失ってはならないものが、確かにここにあるのだと。
それを知れただけでも、この地下街へ足を運んだ意味はあった。
「お手間を取らせてしまいましたわね」
私は、老婆が心底嫌悪するであろう――
貴族然とした、完璧な所作で踵を返した。
背筋を伸ばし、顎をわずかに上げる。
そのまま、入ってきた歪んだ扉へと歩き出す。
「……おや、本当にいいのかい?」
背後から、粘ついたしゃがれ声が追い縋る。
「光壊はね。自然に治るような、可愛らしい病じゃないよ」
――わかっていますわ。
それでも。
「結構ですわ」
私は振り返らず、冷ややかに言い放った。
「あなたのような、品性を疑う悪魔に媚びてまで、この腕を治したいとは思いませんもの」
「さっきまで、必死に頭を下げていた口が言う言葉かい?」
――ピキッ。
音を立てて、何かが弾けた。
次の瞬間、私はくるりと踵を返し、老婆と正面から向き合っていた。
「……演技ですわ」
にっこりと、完璧な微笑みを浮かべる。
「私のような高貴な生まれの人間が、あなたのような平民以下の悪魔に、本気で頭を下げるとでも思いましたの?」
一拍、置いて。
「……とんだお笑い種ですこと」
「……やっぱりね。あたしゃ、貴族の中でも“公爵”ってやつが一番嫌いみたいさ」
老婆の目が、ぎらりと光る。
「あら、奇遇ですわね」
私も、負けじと微笑みを深くした。
「私も身分や身の程を弁えないババア――」
「お、お嬢様……?」
背後で、アールの声が裏返った。
「――失礼。老婆が、死ぬほど嫌いですの」
私は止まらなかった。
「こうして呼び止められること自体、非常に不愉快ですわ」
そして、まるで思い出したかのように付け足す。
「……ああ、そうそう。この際ですから、我慢していたことを言わせて頂きますわね」
「……何だい」
「あなた、とてもお口が臭くてよ」
老婆の表情が、一瞬だけ固まった。
「悪魔であろうと、客商売をなさっている以上、最低限のエチケットというものがございますでしょう?」
私は一歩も引かず、淡々と続ける。
「そのような当たり前のことすら分からないなんて――さすが、下の下の下」
にこり。
「最底辺の悪魔ですこと」
「……」
「今後は店先に立たれる前に、念入りに歯を磨かれることをおすすめ致しますわ」
すべて言い切った私は、もう一度、完璧な微笑みを浮かべた。
そして、今度こそ踵を返し――
「イデア。もう少しだけ、待ってくれるかな?」
背後から、軽やかな声がかかる。
振り返ると、マヤがにやにやと、実に楽しそうに笑っていた。
「嫌味を言わせたら天下一。イデア=シュベルッツベルグの本領発揮だね」
「……」
褒めているのか、貶しているのか。
相変わらず判断に困ることを言いながら、マヤは満足げに親指を立てていた。
――まったく。
この子だけは、本当に読めませんわね。
「――お婆さんは、知っているかな?」
軽い調子で、マヤが切り出した。
「なにをだい」
「最近、新しい勇者が誕生したこと」
「……ああ。まだ生まれたばかりの、ひよっこ王子のことだね」
老婆は鼻で笑い、興味なさげにそう答える。
「そそ。それじゃあさ」
マヤは一拍置き、楽しげに続けた。
「――今から九年後に、聖女が誕生することも知ってるのかな?」
「……九年後?」
老婆の動きが止まる。
渦を巻く両眼が、マヤを射抜くように見据えたまま、一歩も動かない。
その視線は問いというより、値踏みだった。
この少女の言葉が、虚言か、それとも――。
「随分と具体的じゃないかい」
老婆は低く言った。
「まるで、九年後に聖女が誕生することを、あらかじめ“知っている”みたいな口ぶりだね」
「うん。そだよ」
あまりにも軽い肯定。
疑念は、もはや疑念ですらなく、濃い影となって店内に広がる。
「……」
老婆は言葉を失い、じっとマヤを見つめ続けた。
「お婆さんともあろう悪魔が、予言者の存在も知らないのかな?」
「……予言者?」
「あたしは予言者、マヤだよ。予言者だから、お婆さんのことも知ってるんだ」
私の背後で、アールが小さく息を呑むのが分かった。
「予言ってのは、未来を知る力のことじゃないのかい?」
老婆は静かに返す。
「……あんたは、あたしゃの“過去”を知っていた」
確かにそうだ。
過去を知ることは、予言とは呼ばれない。
しかし――
マヤは、にやりと口角を上げた。
「あたし、凄腕だからね」
何でもないことのように言い放つ。
「そんじょそこらの予言者とは格が違うよ。ある程度なら、過去も見れるんだから」
えっへん、と胸を張る。
あまりにもふざけた仕草。
だが、その言葉には――奇妙な重みがあった。
嘘をついている者の軽さではない。
真実を知っている者の余裕だ。
「……」
老婆は歯噛みするように唇を歪め、やがて小さく舌打ちした。
「……で?」
低い声。
「あんたが予言者だったら、何だっていうんだい」
「お婆さん、聖女と勇者が嫌いなんだよね?」
「それが、どうしたっていうんだい」
「だったらさ」
マヤは、ちらりと私の方を見て、言った。
「イデアの腕――治すべきなんじゃないかな?」
ギロリ。
一瞬、老婆の異様な瞳がこちらを射抜いた。
敵意が、確かにあった。
だが、その視線はすぐにマヤへと戻る。
「……敵の敵は味方、って言葉を知らないのかな?」
「こんなのが、あたしゃの味方だっていうのかい?」
吐き捨てるような言葉。
それでも、マヤは一歩も引かない。
「少なくとも、敵じゃないね」
「……一体、何の根拠があって、そんなことを言えるんだい」
「根拠?」
マヤは、当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
「――あたしが、お婆さんの“過去”を知ってる予言者だからだよ」
老婆は黙り込んだ。
渦巻く瞳を伏せ、時折こちらへと視線を投げながら、深く、深く考え込む。
この地下街の闇で。
長い年月を生きてきた悪魔が。
――少女ひとりの言葉に、揺さぶられている。
その事実に、私は言いようのない寒気を覚えていた。
「……あんたが視る未来で」
老婆は、ゆっくりと、確かめるように言った。
「――そこの小生意気な娘と、聖女はどうなる?」
店内の空気が、ぴたりと張り詰める。
マヤは一瞬も迷わず、いつもの調子で答えた。
「いつかは――殺し合うことになるだろうね」
その一言に。
この場にいた誰もが、息を呑んだ。
私も、アールも。
時間そのものが、一拍、止まったかのようだった。
そして――
「……ヒッ、ヒッヒッヒ……」
押し殺した笑いが漏れ、
「ヒャぁはははははははは!!」
次の瞬間、老婆は堪えきれぬとばかりに腹を抱えて笑い出した。
膝を叩き、背中を仰け反らせ、両手を打ち鳴らし、まるで人生で一番面白い漫談でも聞いたかのように、狂った笑い声を店内に響かせる。
先程までの不機嫌も、猜疑も、敵意も。
すべてが嘘だったかのように。
「――――!?」
感情の高ぶりに呼応するように、老婆の尻から、夕暮れの影のように黒い尾が伸びた。
背中からは、革のように硬質な蝙蝠の翼が、ばさりと音を立てて広がる。
――悪魔。
紛れもなく、それは悪魔の姿だった。
アールは反射的に私の前へと身を投げ出し、震える体で構える。
その手には、いつの間にか暗器が握られていた。
だが、老婆はそんなことなど意にも介さず、顔の前に人差し指を立てた。
「人間が、聖女と殺し合う、だって?」
愉悦に歪んだ声。
「……これ以上に、愉快な話があるかい?」
小さく、首を横に振る。
「――ないね」
悪魔は言った。
「千年以上、生きてきたが……そんな人間は、一人もいなかった」
渦を巻く瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
――私を、正確に捉えた。
「……いいだろう」
低く、重く、確定の声。
「そこのクソ生意気な嬢ちゃんの腕――治してやる」
胸が、強く脈打つ。
だが、悪魔はすぐに言葉を継いだ。
「――ただし、条件がある」
「……条件、ですの?」
私は、ごくりと喉を鳴らし、その先を待った。
逃げ場は、もうない。
老婆――否、悪魔は、にたりと笑う。
「あたしゃのこの“目”と――」
その指が、自らの瞳を指し、
「――あんたの“目”を、繋ぐ」
その瞬間。
背筋を、氷水が流れ落ちた。




