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悪役令嬢のまま死んでたまるか! 偽聖女ですが、何か問題でも?  作者: 葉月


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第27話 スラムの道具屋

「ここが、目的のお店だよ!」


 地下街のさらに奥。

 崩れかけた石壁に押し込められるようにして、その店は存在していた。


 本来なら通りに面しているはずなのに、意識して探さなければまず気づかない。

 煤と湿気を吸い込み、黒く変色した木の扉は歪み、錆びた蝶番が開閉のたびに、喉の奥を引っかくような軋み声を上げる。


 看板らしき板切れが、無造作に釘で打ち付けられてはいるが、文字はすっかり掠れていた。

 何が書かれていたのか――それを知る者は、もういないのだろう。


 唯一、ここが“店”であると主張しているのは、窓の奥に灯る、弱々しい橙色の明かりだけだった。


「……随分と、ボロいですわね」

「このような店に、本当にお嬢様の腕を治す薬があるのですか?」

「たぶんね」


 あまりにも軽い返答に、アールは思わず眉をひそめる。


 マヤは躊躇いもなく、慣れた手つきで扉を押し開けた。


 ――瞬間、空気が変わる。


 黴と油、乾いた薬草、鉄錆の匂い。

 それらが混ざり合った重たい臭気が、一気に鼻腔へ流れ込み、肺の奥へと沈んでいく。


「……どことなく、マヤの部屋に雰囲気が似てますわね」

「えー、あたしの部屋はこんなに物で溢れかえってないよ」

「どの口が言いますの!?」


 足元に物が散乱していないだけ、まだこちらの方が整理されている――そう言いたくなるほどだ。


 店内は薄暗く、天井は低い。

 壁という壁に棚が打ち付けられ、瓶、刃物、護符、用途不明の器具が無秩序に並んでいる。


 中には、触れただけで呪われそうな黒光りする品や、かすかに脈打つように蠢く“何か”まで紛れ込んでいた。


「……はじめて目にする商品ばかりですね」


 アールは警戒を解かぬまま、商品を観察している。

 その指先は、いつでも動けるよう、わずかに緊張していた。


 床板は歩くたびに軋み、その音すら、この店では余計なものに思えた。

 自然と足取りが慎重になる。


「……おやおや。お客人とは、珍しい」


 しわがれた声が、闇の奥から転がるように届いた。


 ランプの明かりの下へ進み出てきたのは、小柄な老婆だった。

 背は深く曲がり、肌は灰色がかり、幾重にも刻まれた皺が年輪のように顔を覆っている。


 だが――何より目を引くのは、その目だった。


 左右の瞳孔が、渦を巻くように、ぐるぐると回っている。

 焦点が合っているのかすら判別できないその視線は、それでも正確に、私たちを捉えて離さない。


 ――このご老人……本当に、人間ですの?


 どう見ても、人とは思えなかった。

 だが、では何なのかと問われても、答えは浮かばない。


 それはアールも同じだったらしく、彼女はわずかに身構えながら、正体不明の老婆を見据えている。


「見た目で値踏みするんじゃないよ」


 老婆――店主は、にたりと歯の欠けた笑みを浮かべた。


「ここにあるもんはねぇ……どれも“役に立つ”」


 その笑顔は親しげでありながら、同時に底知れない。

 まるで――効くかどうかではなく、代償を払えるかを試しているかのようだった。


「お婆さん、虫眼鏡ある?」


 場違いなほど気軽なマヤの声が、薄暗い店内に響いた。


「あんたは……はじめての顔じゃないねぇ。ちょいと待っときな」


 老婆はマヤを一瞥すると、何かを確かめるように鼻を鳴らし、軋む床を踏みしめながら店の奥へと姿を消した。


 数分後。

 戻ってきた老婆の手には、手鏡ほどの大きさの虫眼鏡があった。縁は欠け、硝子は曇っているが、ただの道具とは思えない異様な存在感を放っている。


「これで良かったかい?」

「そーそー、これだよ」


 満足げに頷くマヤを見て、老婆は口の端を吊り上げた。


「ヒッヒッヒ……そっちの子の“状態”を確かめたいんだろう?」


 ――その瞬間。


 視線が、私に突き刺さった。


 理屈ではない。

 ただ見られただけなのに、皮膚の内側を撫で回されるような、不快な感覚が背筋を走る。


「……どうして、私だと思いますの?」


 声が、わずかに強張るのを自覚しながら問い返す。


「そりゃあんた、その左腕を見りゃ一目瞭然さ」


 老婆は虫眼鏡を構え、楽しげに私を覗き込む。


「……おや? それにしちゃ、ずいぶん物騒なもんを身につけているね」


 ――物騒な、もの?


 思い当たる節がなく、無意識に視線を落とす。


「その指輪……あの忌々しい小娘の――忘れ形見じゃないのかい?」


 ――――っ!


 胸の奥を、冷たい針で刺されたような衝撃。


 私は思わず目を見開き、半歩、後ずさった。

 老婆は、ただ一目見ただけで、私の左手中指に嵌められた指輪の正体に気がついた。


 刹那。


「お嬢様!」


 鋭い声と共に、アールが私の前へ躍り出る。

 その全身から迸る殺気は、もはや隠す気すらない。


 ――この一歩で、場の空気が凍りついた。


「ああーもうっ! 何やってるの、二人とも!」


 間に割って入ったのはマヤだった。


「アールも、こんなところで殺気立たないでよ! ……お婆さん、ごめんね」


 頭を下げるマヤの姿に、私は思わず目を瞬いた。

 常識という言葉と最も縁遠いと思っていた彼女が、こうして場を収めようとするとは。


「先に言っとくけど」


 マヤは肩越しにアールを睨み、


「あたし達が束になってかかっても、このお婆さんには勝てないからね」


「馬鹿を言うんじゃありません!」


 即座に噛みつくアール。


「私は、このような老婆に遅れを取ることは――」

「はいはい、そこまで!」


 マヤは頭を抱え、「あちゃー」と小さく呻いた。


「……やれやれ」


 老婆は鼻で笑い、虫眼鏡を下ろす。


「あんたら、スラムの人間じゃないね。そんな物騒なもんを持ってる時点で察しはつくさ」


 その視線が、冷たくなる。


「どこぞの貴族……ってところかい?」


 空気が、目に見えて冷えた。


 ――マヤの言葉通りだ。

 この老婆は、貴族を好まない。

 いや、嫌悪していると言った方が正しい。


 それでも私は、逃げることも、視線を逸らすこともできなかった。

 ――この左腕を治すためには、この老婆の存在が不可欠だ。


 その事実が、胸の内で重く沈殿していた。


「アール、下がりなさい」

「なりません、お嬢様!」


 即座に返ってきた声は鋼のように固い。 私を守るという一点において、彼女の意思は揺るがない。


「これは命令です。下がりなさい」


 語気を強めると同時に、視線で押し切る。彼女が私のために剣を振るう覚悟をしていることは痛いほど分かっていた。

 だが――今、この場でそれは最悪の選択だ。


 老婆の機嫌をこれ以上損ねれば、道は完全に閉ざされる。

 それは、珍しく言葉を失い、困惑を滲ませているマヤの表情を見れば嫌でも理解できた。


「……畏まりました」


 短く、しかし苦渋を噛み殺したような返答。

 アールは一歩退き、なおも私の背を守る位置に立った。


 私は小さく息を整え、老婆と正面から向き合う。


「私はイデア=シュベルッツベルグ。あなたの仰る通り、公爵家の人間ですわ」


 口にした瞬間、自身の名がこの場の空気を冷やすのを感じた。


「身分を隠していたこと……騙すような真似をしたこと、お詫びいたします」


 私は、深く頭を下げた。


 それが貴族として“あってはならない”行為であることは承知している。

 だが、誇りよりも、体裁よりも――この腕を治すことの方が、今は重かった。


 老婆は無言で私を睨みつけ、舌打ちを一つ、床に吐き捨てる。


「……よりにもよって公爵かい。あの、くそ忌々しい青髪を思い出すね」


 誰のことを指しているのかは分からない。

 だが、彼女の声に滲む怨嗟は、年月を超えてなお生々しかった。


 この老婆は、貴族を憎んでいる。

 それも、生半可な嫌悪ではない。


「虫眼鏡は売ってやる。それを持って、とっとと失せな」


 投げ捨てるような言葉。


 私は思わず胸を撫で下ろした。

 しかし、その隣でマヤは、なおも険しい顔を崩していなかった。


 ――まだ、終わりじゃないということですの?


「彼女の状態……光壊で、間違いないんだよね?」


 こう……かい。

 聞き慣れぬ言葉が、胸の奥にひたりと貼りつく。


「……知ってたんなら、虫眼鏡なんて要らなかったんじゃないのかい?」


 老婆の声音が、試すように低くなる。


「ううん。確証が欲しかっただけ。……それにね、虫眼鏡だけなら、わざわざここまで来る必要はなかった」

「……だろうね」


 短い肯定。

 その一言が、すべてを物語っていた。


 ――やはり、この腕を治すには、虫眼鏡だけでは足りない。


 そして、その“何か”は、この店でなければ手に入らない。

 そうでなければ、マヤがここを選ぶはずがない。


 胸の奥で、不安がゆっくりと形を持つ。


 貴族嫌いのこの老婆が――果たして、私に“治療薬”を売ってくれるのか。


 橙色の灯りが揺れる中、老婆の回る瞳が、再び私を捉えた。その視線は、値踏みする商人のようであり、同時に、過去を断罪する者のそれでもあった。

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