第26話 スラム街
現在――馬車は街の北西、人目につかぬ裏道のさらに奥、崩れかけた石壁の影にひっそりと停められていた。
往来の喧騒から切り離されたその場所は、まるで街そのものに忘れ去られた空白地帯のようで、風の音さえ控えめに感じられる。
そこで、私とマヤはアールの帰りを待っていた。
彼女は数分前、「スラムに相応しい服を調達して参ります」とだけ言い残し、躊躇いもなく路地の奥へと駆けていった。その背中には、迷いも不安も見当たらなかった。
「――お待たせ致しました」
タッ。
次の瞬間、音もなく視界にアールが現れた。
あまりに自然な出現に、一瞬、元からそこに立っていたのではないかと錯覚するほどだ。
……早い。
あれから、まだ五分も経っていない。
「あたしたちより、よっぽどスラムっぽいね」
「……確かに」
思わず、同意してしまった。
アールの服装は、いつもの清潔なメイド服ではなかった。
擦り切れ、色褪せた男物の衣服。サイズも合っておらず、裾や袖は無造作に捲られている。まるで、長年この街の底で生きてきた物乞いの成れの果てのようだ。
正直に言えば、私やマヤの服装より、よほど“本物”だった。
そして、その衣服には――ところどころに、乾ききらない血のような染みが付着している。
赤黒く、しかし妙に新しい。
彼女は、一体どこで、どのようにしてこの服を手に入れたのだろう。
一瞬、その問いが喉元までせり上がったが――私は、何も聞かなかった。
聞いてはいけない類の答えが返ってくる気がしたからだ。
「それじゃあ、いざスラムへ! Let’s go!」
緊張感など微塵も感じさせず、マヤはまるで散歩か遠足にでも向かうような足取りで歩き出した。
「……ここが、スラムの入口ですの?」
「そだよ」
街の北西。
そこには洞穴のように口を開けた巨大な空間が広がっていた。
底が見えぬほど深く、薄暗い。
その中央を貫くように、常軌を逸した規模の階段が下方へと伸びている。
まるで、地獄の底へ誘う裂け目だ。
ここが、王都最大のスラム街――その入口。
「お嬢様、絶対に私の側を離れないでください」
低く、しかし有無を言わせぬ声だった。
「……え、ええ」
気づけば私は、隣を歩くアールの服の裾を、ぎゅっと掴んでいた。
「ストーーップ!」
突然、マヤが大声を張り上げた。
驚いて振り返ると、彼女は頬をぷくっと膨らませ、自分の服の裾を私の前に差し出している。
……これは。
掴め、ということかしら?
逡巡していると、横から冷静な声が入った。
「背丈を考えるに、それは無理があります」
「そんなことない!」
マヤの身長は百二十センチにも満たない。一方で、アールは百六十を優に超えている。
そして私は、マヤと大差ない身長だ。
どちらの裾を掴みやすいかなど、考えるまでもなかった。
納得がいかないのか、マヤは河豚のように頬を膨らませている。
これ以上ここで時間を浪費するのも危険だと判断し、私は提案した。
「……行きはアール、帰りはマヤ。それでどうかしら」
その一言で、ようやく場は収まった。
「それと」
マヤが人差し指を立てる。
「アールは“お嬢様”禁止! 一発でバレるから」
「しかし、それは……!」
「イデアでいいわよ」
「……っ、善処いたします」
アールは一瞬だけ唇を噛みしめた。
メイドとしての矜持が、私を名で呼ぶことに強い抵抗を示しているのが、手に取るように分かる。
――それでも。
彼女は従う。
その忠誠に、少しだけ笑ってしまった。
「王都に、このような場所があったなんて……私、存じませんでしたわ」
階段を下りきった先に広がっていたのは、想像とはまるで異なる光景だった。
そこは地下街――だが、圧迫感はない。むしろ驚くほど天井が高く、見上げれば岩盤の奥深くまで続く暗がりが、空洞の広がりを感じさせていた。
そして何より。
街全体が、淡く幻想的な緑色の光に包まれている。
蝋燭でも、魔法灯でもない。柔らかく、しかし確かな明かりが、建物の輪郭や人の影を静かに浮かび上がらせていた。
「光苔っていうんだよ」
「ひかり……苔?」
「岩壁にこびり付いてる苔。あれが光ってるの。だから灯りはいらないんだってさ」
「……不思議ですわね」
思わず感嘆の息が漏れる。
王都の地下に、こんなにも幻想的な街が眠っていたとは。
だが――。
視線を正面へ戻した瞬間、その淡い幻想は音もなく剥がれ落ちた。
そこにいたのは、暗い表情を貼りつけた人々だった。
背を丸め、視線を落とし、歩くというより“流れている”ような群れ。どの顔にも、希望と呼べる色は見当たらない。
そして。
「……臭いますわね」
遅れて、鼻腔を刺すような悪臭が意識に届く。思わず眉をひそめた。
「下水も流れてるからね。多分、それの臭い」
「人体に害はないと思いますが、長居すべき場所ではありません」
「……そうですわね」
胸の奥が、じわりと重くなる。
体調を崩す前に、用事だけ済ませて、速やかに地上へ戻る――そう心に決めた。
マヤは慣れた足取りで、迷いなく路地を折れていく。まるで、この街の地図が頭の中に刻まれているかのようだ。
一方アールは、時折こちらに視線を落としながらも、常に周囲を警戒している。人の流れ、物陰、背後――そのすべてを、鋭く、無駄なく。
私はというと、物珍しさから街並みや人々の顔を目で追っていた。
――意外と、子供が多いですわね。
私と同じくらいの年頃の子供たちが、路肩や建物の陰に座り込んでいる。
だが、その姿には年相応の活気がない。頬はこけ、肌はくすみ、瞳は――光を失った水面のように濁っていた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
私は反射的に、掴んでいたアールの裾に力を込めていた。
その小さな変化に気づいたのだろう。アールは一瞬だけ足を緩め、私を見下ろす。
その表情には、労わりとも、諭しともつかぬ複雑な色が浮かんでいた。
「人は平等ではありません」
低く、断定するような声だった。
「……ですから、お嬢様が気に病まれる必要など、ないのです」
「……わかっておりますわ」
可哀想だと思うこと自体が、傲慢なのだ。
人にはそれぞれ価値があり、命には優劣がある。
彼らのような人々がいるからこそ、私たちのような貴族が存在する。
上があり、下がある。
それこそが、この世界を成立させている理なのだから。
『人は、何かの犠牲なしに大地に立つことなど、決してありえん』
地下牢で聞いた父の言葉が、脳裏に蘇る。
私は慌てて、頭を振った。
――今は、他人のことではありませんわ。
神に見放されたのは、彼らではない。
この私なのだから……。
「お嬢様!」
鋭い声とともに、アールが立ち止まる。
その腕に制される形で、私も足を止めた。
何事かと前方へ視線を向けると――。
マヤの前方から、三人の男が歩み寄ってきていた。
粗野な身なり。隠す気もない敵意。空気を切り裂くような、剣呑な気配。
この街の“現実”が、ようやく牙を剥いたのだと、理解する。
「おめぇら――地下街の人間じゃねぇな。……見りゃ、すぐわかる」
蟷螂を思わせる、異様に背の高い痩躯の男が、ねっとりとした視線でこちらを舐め回す。
その指が、慣れた動作で懐へと伸び――鈍く光るナイフが姿を現した。
「服装だけ真似りゃ、バレねぇとでも思ったか?」
男は肩を揺らし、嗤う。
「顔も、肌も、指先も……おめぇらは、綺麗すぎるんだよ」
それは“見抜いた”というより、“値踏み”に近い目だった。
獲物を前にした獣の、いやらしい確信。
その男の背後から、残る二人も歩み寄ってくる。逃げ場を塞ぐように、緩やかに、しかし確実に。
「おじょ……イデア。私の後ろに」
低く、鋭い声。
アールが半歩前に出て、私を庇う位置を取る。
――この程度の相手なら、片腕でも問題ありませんけど。
そう思いはしたが、ここは従うべきだと判断し、私は素直に一歩引いた。
その、次の瞬間だった。
「……へ?」
間の抜けた声を上げたのは、ナイフを構えていた男本人だった。
彼の視界が、突如として天地を反転させる。
――否。
彼自身が、天へと放り上げられたのだ。
何が起きたのか理解する暇すらなく、男の身体は弧を描き、壁へと叩きつけられる。鈍い音。息が潰れる音。
ほぼ同時。
もう一人が足元を払われ、宙に浮いた刹那――
――ズン。
小さな拳が、正確に鳩尾へ突き込まれた。
短く、重い衝撃音。
三人目が状況を把握するより早く、彼の意識は闇に沈む。
ほんの数秒。
スラムの悪漢三人衆は、文字通り“何もできず”に地に転がっていた。
「……」
その光景を、唖然として見つめていたのはアールだった。
先ほどまでの警戒と緊張が、そのまま凍りついたような表情。
「……ほんとうに……あれ、六歳児ですか……?」
震えるような声で、そう呟く。
無理もない。
つい先日、私自身がまったく同じ反応をしたばかりなのだから。
マヤ=キリング。
そのレベルは、26。
一般人が太刀打ちできる領域ではない。
暗殺貴族――シュベルッツベルグ家で鍛えられたこの私ですら、文字通り惨敗した“怪物”だ。
「……あれ、本当にお嬢様の味方、なんですよね?」
「ええ。マヤは、間違いなく味方ですわ」
「そ、そうですか……」
目に見えて安堵の息を吐くアール。
どうやら彼女も理解したらしい――あれは、敵に回してはいけない存在だと。
「目的のお店、すぐそこだよ!」
ぱっと振り返ったマヤは、先ほどまで人を三人叩き伏せていたとは思えないほど、無邪気な笑顔を浮かべていた。
――きっと彼女にとっては。
スラムの悪漢を叩きのめすことなど、蚊を一匹、叩き潰した程度の出来事に過ぎないのだろう。




