表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢のまま死んでたまるか! 偽聖女ですが、何か問題でも?  作者: 葉月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/44

第26話 スラム街

 現在――馬車は街の北西、人目につかぬ裏道のさらに奥、崩れかけた石壁の影にひっそりと停められていた。

 往来の喧騒から切り離されたその場所は、まるで街そのものに忘れ去られた空白地帯のようで、風の音さえ控えめに感じられる。


 そこで、私とマヤはアールの帰りを待っていた。


 彼女は数分前、「スラムに相応しい服を調達して参ります」とだけ言い残し、躊躇いもなく路地の奥へと駆けていった。その背中には、迷いも不安も見当たらなかった。


「――お待たせ致しました」


 タッ。


 次の瞬間、音もなく視界にアールが現れた。

 あまりに自然な出現に、一瞬、元からそこに立っていたのではないかと錯覚するほどだ。


 ……早い。


 あれから、まだ五分も経っていない。


「あたしたちより、よっぽどスラムっぽいね」

「……確かに」


 思わず、同意してしまった。


 アールの服装は、いつもの清潔なメイド服ではなかった。

 擦り切れ、色褪せた男物の衣服。サイズも合っておらず、裾や袖は無造作に捲られている。まるで、長年この街の底で生きてきた物乞いの成れの果てのようだ。


 正直に言えば、私やマヤの服装より、よほど“本物”だった。


 そして、その衣服には――ところどころに、乾ききらない血のような染みが付着している。


 赤黒く、しかし妙に新しい。


 彼女は、一体どこで、どのようにしてこの服を手に入れたのだろう。


 一瞬、その問いが喉元までせり上がったが――私は、何も聞かなかった。

 聞いてはいけない類の答えが返ってくる気がしたからだ。


「それじゃあ、いざスラムへ! Let’s go!」


 緊張感など微塵も感じさせず、マヤはまるで散歩か遠足にでも向かうような足取りで歩き出した。


「……ここが、スラムの入口ですの?」

「そだよ」


 街の北西。

 そこには洞穴のように口を開けた巨大な空間が広がっていた。


 底が見えぬほど深く、薄暗い。

 その中央を貫くように、常軌を逸した規模の階段が下方へと伸びている。


 まるで、地獄の底へ誘う裂け目だ。


 ここが、王都最大のスラム街――その入口。


「お嬢様、絶対に私の側を離れないでください」


 低く、しかし有無を言わせぬ声だった。


「……え、ええ」


 気づけば私は、隣を歩くアールの服の裾を、ぎゅっと掴んでいた。


「ストーーップ!」


 突然、マヤが大声を張り上げた。


 驚いて振り返ると、彼女は頬をぷくっと膨らませ、自分の服の裾を私の前に差し出している。


 ……これは。


 掴め、ということかしら?


 逡巡していると、横から冷静な声が入った。


「背丈を考えるに、それは無理があります」

「そんなことない!」


 マヤの身長は百二十センチにも満たない。一方で、アールは百六十を優に超えている。

 そして私は、マヤと大差ない身長だ。


 どちらの裾を掴みやすいかなど、考えるまでもなかった。


 納得がいかないのか、マヤは河豚のように頬を膨らませている。


 これ以上ここで時間を浪費するのも危険だと判断し、私は提案した。


「……行きはアール、帰りはマヤ。それでどうかしら」


 その一言で、ようやく場は収まった。


「それと」


 マヤが人差し指を立てる。


「アールは“お嬢様”禁止! 一発でバレるから」

「しかし、それは……!」

「イデアでいいわよ」

「……っ、善処いたします」


 アールは一瞬だけ唇を噛みしめた。

 メイドとしての矜持が、私を名で呼ぶことに強い抵抗を示しているのが、手に取るように分かる。


 ――それでも。


 彼女は従う。


 その忠誠に、少しだけ笑ってしまった。


「王都に、このような場所があったなんて……私、存じませんでしたわ」


 階段を下りきった先に広がっていたのは、想像とはまるで異なる光景だった。


 そこは地下街――だが、圧迫感はない。むしろ驚くほど天井が高く、見上げれば岩盤の奥深くまで続く暗がりが、空洞の広がりを感じさせていた。


 そして何より。


 街全体が、淡く幻想的な緑色の光に包まれている。


 蝋燭でも、魔法灯でもない。柔らかく、しかし確かな明かりが、建物の輪郭や人の影を静かに浮かび上がらせていた。


「光苔っていうんだよ」

「ひかり……苔?」

「岩壁にこびり付いてる苔。あれが光ってるの。だから灯りはいらないんだってさ」

「……不思議ですわね」


 思わず感嘆の息が漏れる。


 王都の地下に、こんなにも幻想的な街が眠っていたとは。


 だが――。


 視線を正面へ戻した瞬間、その淡い幻想は音もなく剥がれ落ちた。


 そこにいたのは、暗い表情を貼りつけた人々だった。

 背を丸め、視線を落とし、歩くというより“流れている”ような群れ。どの顔にも、希望と呼べる色は見当たらない。


 そして。


「……臭いますわね」


 遅れて、鼻腔を刺すような悪臭が意識に届く。思わず眉をひそめた。


「下水も流れてるからね。多分、それの臭い」

「人体に害はないと思いますが、長居すべき場所ではありません」

「……そうですわね」


 胸の奥が、じわりと重くなる。


 体調を崩す前に、用事だけ済ませて、速やかに地上へ戻る――そう心に決めた。


 マヤは慣れた足取りで、迷いなく路地を折れていく。まるで、この街の地図が頭の中に刻まれているかのようだ。

 一方アールは、時折こちらに視線を落としながらも、常に周囲を警戒している。人の流れ、物陰、背後――そのすべてを、鋭く、無駄なく。


 私はというと、物珍しさから街並みや人々の顔を目で追っていた。


 ――意外と、子供が多いですわね。


 私と同じくらいの年頃の子供たちが、路肩や建物の陰に座り込んでいる。

 だが、その姿には年相応の活気がない。頬はこけ、肌はくすみ、瞳は――光を失った水面のように濁っていた。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 私は反射的に、掴んでいたアールの裾に力を込めていた。


 その小さな変化に気づいたのだろう。アールは一瞬だけ足を緩め、私を見下ろす。

 その表情には、労わりとも、諭しともつかぬ複雑な色が浮かんでいた。


「人は平等ではありません」


 低く、断定するような声だった。


「……ですから、お嬢様が気に病まれる必要など、ないのです」

「……わかっておりますわ」


 可哀想だと思うこと自体が、傲慢なのだ。


 人にはそれぞれ価値があり、命には優劣がある。

 彼らのような人々がいるからこそ、私たちのような貴族が存在する。


 上があり、下がある。

 それこそが、この世界を成立させている理なのだから。


『人は、何かの犠牲なしに大地に立つことなど、決してありえん』


 地下牢で聞いた父の言葉が、脳裏に蘇る。


 私は慌てて、頭を振った。


 ――今は、他人のことではありませんわ。


 神に見放されたのは、彼らではない。

 この私なのだから……。


「お嬢様!」


 鋭い声とともに、アールが立ち止まる。

 その腕に制される形で、私も足を止めた。


 何事かと前方へ視線を向けると――。


 マヤの前方から、三人の男が歩み寄ってきていた。

 粗野な身なり。隠す気もない敵意。空気を切り裂くような、剣呑な気配。


 この街の“現実”が、ようやく牙を剥いたのだと、理解する。


「おめぇら――地下街(ここ)の人間じゃねぇな。……見りゃ、すぐわかる」


 蟷螂を思わせる、異様に背の高い痩躯の男が、ねっとりとした視線でこちらを舐め回す。

 その指が、慣れた動作で懐へと伸び――鈍く光るナイフが姿を現した。


「服装だけ真似りゃ、バレねぇとでも思ったか?」


 男は肩を揺らし、嗤う。


「顔も、肌も、指先も……おめぇらは、綺麗すぎるんだよ」


 それは“見抜いた”というより、“値踏み”に近い目だった。

 獲物を前にした獣の、いやらしい確信。


 その男の背後から、残る二人も歩み寄ってくる。逃げ場を塞ぐように、緩やかに、しかし確実に。


「おじょ……イデア。私の後ろに」


 低く、鋭い声。

 アールが半歩前に出て、私を庇う位置を取る。


 ――この程度の相手なら、片腕でも問題ありませんけど。


 そう思いはしたが、ここは従うべきだと判断し、私は素直に一歩引いた。


 その、次の瞬間だった。


「……へ?」


 間の抜けた声を上げたのは、ナイフを構えていた男本人だった。


 彼の視界が、突如として天地を反転させる。


 ――否。


 彼自身が、天へと放り上げられたのだ。


 何が起きたのか理解する暇すらなく、男の身体は弧を描き、壁へと叩きつけられる。鈍い音。息が潰れる音。


 ほぼ同時。


 もう一人が足元を払われ、宙に浮いた刹那――


 ――ズン。


 小さな拳が、正確に鳩尾へ突き込まれた。


 短く、重い衝撃音。


 三人目が状況を把握するより早く、彼の意識は闇に沈む。


 ほんの数秒。


 スラムの悪漢三人衆は、文字通り“何もできず”に地に転がっていた。


「……」


 その光景を、唖然として見つめていたのはアールだった。

 先ほどまでの警戒と緊張が、そのまま凍りついたような表情。


「……ほんとうに……あれ、六歳児ですか……?」


 震えるような声で、そう呟く。


 無理もない。

 つい先日、私自身がまったく同じ反応をしたばかりなのだから。


 マヤ=キリング。

 そのレベルは、26。


 一般人が太刀打ちできる領域ではない。

 暗殺貴族――シュベルッツベルグ家で鍛えられたこの私ですら、文字通り惨敗した“怪物”だ。


「……あれ、本当にお嬢様の味方、なんですよね?」

「ええ。マヤは、間違いなく味方ですわ」

「そ、そうですか……」


 目に見えて安堵の息を吐くアール。

 どうやら彼女も理解したらしい――あれは、敵に回してはいけない存在だと。


「目的のお店、すぐそこだよ!」


 ぱっと振り返ったマヤは、先ほどまで人を三人叩き伏せていたとは思えないほど、無邪気な笑顔を浮かべていた。


 ――きっと彼女にとっては。


 スラムの悪漢を叩きのめすことなど、蚊を一匹、叩き潰した程度の出来事に過ぎないのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ