第23話 屈辱ですわ
「……ちょっと、腕を動かしてみて」
「――っ……痛……」
言われるままに左腕を持ち上げようとした瞬間、鈍く、しかし確かな痛みが走った。
私は顔色を変えぬよう努めたが、反射的に漏れた声までは抑えきれなかった。
地下牢での一件以来、左腕に違和感――否、はっきりとした痛みが残っている。
それを私は、マヤに打ち明けた。
彼女なら、何かを知っているかもしれない。
そうでなくとも、見当違いな慰めを口にすることはないだろう――その程度の信頼は、すでにあった。
「……聖女の指輪、かなり無理して使った感じかな」
「ええ。……少々、無茶をしすぎましたわ」
否定の余地はなかった。
あの瞬間、私の身体が悲鳴を上げていることなど、承知の上だった。
それでも、指輪の力を止めるという選択肢は存在しなかった。
あそこで力を緩めていれば、アールの背の傷は癒えきらず――父は私に、迷いなく「無能」の烙印を押していたはずだ。
そうなれば、私も、アールも、今なお地下牢の冷たい石壁の中にいた。
だから、あの時の選択は正しかった。
私は今も、それを誇りに思っている。
――ただ一つ、想定外だったのは。
その代償が、左腕だったということ。
痛みはある。
不便でもある。
けれど、後悔はない。
アールを救えなかった未来が訪れるより、この痛みを抱えて生きる方が、ずっとましだと思えるから。
マヤは、私の左腕をじっと見つめていた。
普段の軽薄さが嘘のように消え、そこにあったのは、険しいほどに真剣な眼差しだった。
「……なにか、分かりましたの?」
「うん。少なくとも――相当、無茶したのは確かだね」
「……そう、ですわよね」
後からアールに聞いた話では、あの時私は鼻血だけでなく、目からも血を流していたという。
それほどまでに、肉体に限界を超える負荷をかけていたのだ。
「正直に言うと、今はまだ断定できないかな」
「……」
「ちゃんと調べないと分からないでしょ? 適当なこと言って、外れてたら嫌だもん」
幾つもの運命を知るマヤでさえ、即断を避けた。
それだけで、この腕の状態が一筋縄ではいかないことが伝わってくる。
わずかな沈黙。
だが次の瞬間、彼女はぱっと表情を緩めた。
「あ、でも安心して。調べるって言っても、やり方は簡単だから」
「……?」
「それにね」
彼女は、どこか楽しそうに――けれど、確信を含んだ声音で言った。
「今のイデアの状態が、もしあたしの思ってる“それ”だったら……たぶん、治せる」
「……本当ですの?」
思わず、声が弾んだ。
「うん。あたし自身はまだ試したことないから、断言はできないんだけど」
「……」
「でもさ。ゲームと同じ仕様なら――たぶん、大丈夫」
その言葉には、根拠の薄さ以上に、不思議な説得力があった。
私は左腕を見下ろし、そっと息を吐く。
――治るかもしれない。
その可能性だけで、胸の奥に溜まっていた重みが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「そうと決まれば、まずは――あそこに行くしかないかな」
そう言って、マヤはベッドから勢いよく立ち上がった。その横顔には、先ほどまでの慎重さはなく、どこか胸躍るような軽やかさが浮かんでいる。まるで、面白い遊びを思いついた子供のようだった。
「……どこかへ行きますの?」
「イデアの今の状態を調べるには、専用の道具が必要なんだ」
その道具を、これから買いに行くのだという。
私はてっきり、この雑然とした部屋の中で完結する話だと思っていたので、意外性に小さく瞬きをした。
「イデアは、ここまでは馬車で来たんだよね?」
「ええ。門の前に待たせてありますわ」
「なら、申請はいらないか。あ、帰りも送ってね。さすがに歩くとなると――学園は広すぎるから」
「それはもちろん、構いませんわ」
相手を馬車に乗せるなら、送り届けるのは当然の礼節だ。わざわざ言われるまでもない。
「学園の外へ出るのですわよね?」
「うん、そうだよ」
学園の外。
お父様やシュベルッツベルグ家の使用人以外と出かけるのは、これが初めてだった。胸の奥が、期待とも不安ともつかない感情で、わずかにざわつく。
「――って、な、何をしていますの!?」
その直後だった。
マヤが、何のためらいもなく着ていた服を脱ぎ始めたのは。
恥じらいという概念を忘れてきたかのように、私の目の前で平然と着替えを始めるその様子に、思わず声が裏返る。反射的に立ち上がり、散らかる床の惨状も顧みず、壁際まで後退してしまった。
「……着替えだよ。はい、これ。イデアの分ね」
「…………え?」
差し出されたのは、薄汚れた、見るからに粗末な衣服だった。
布地はくたびれ、色も褪せ、どこか湿ったような匂いすら漂ってくる。
――あり得ない。
シュベルッツベルグ家の公爵令嬢である私が、こんなものに袖を通す? いや、たとえ公爵令嬢でなくとも、名のある貴族令嬢なら、死んでも選ばない代物だ。
「……これを、私に着ろとおっしゃるのですか?」
「そだよ。これから行く場所ね、貴族嫌いが山ほどいるんだ。貴族だって分かった瞬間、蜂の巣つついたみたいになるよ」
……一体、私をどこへ連れて行くつもりなのですの。
「――でしたら、警護を万全にすれば問題ありませんわ。シュベルッツベルグ家の警護は、王国随一ですのよ!」
こんな小汚い服を着るなど、想像しただけで背筋が粟立つ。
何より、家名に泥を塗る行為だ。末代までの恥――断じて許されない。
「却下」
「ど、どうしてですの!?」
「貴族嫌いなのは、これから行く店の店主も同じだから」
「でしたら、シュベルッツベルグ家御用達の商家を呼びつけますわ! 揃えられないものなどありません!」
「それも却下」
「なぜですの!」
「理由は簡単。その商家じゃ、絶対に用意できないから」
「そんなこと――」
「あるよ」
「……」
即答だった。
迷いも逡巡もない断言。まるで、すでにその結果を自分の目で見てきたかのような口ぶりだ。
「念のため聞くけど、シュベルッツベルグ家御用達って……バンブレッド商会だよね?」
「……っ。よく、ご存じですわね」
「シュベルッツベルグ家が傾きかけた瞬間、聖女サイドにべったりだったからね」
「なっ……本当ですの!?」
事実だと、マヤは軽く頷いた。
胸の奥が、かっと熱を帯びる。
お祖父様もお父様も、どれほど厚遇してきたと思っているのか。
――許せない。
帰ったら、必ず商会変更をお父様に直訴すると心に誓った。
「はい。分かったら、これ。着て」
「……くっ、屈辱的ですわ」
「腕治らないよりはマシ!」
「……っ」
奥歯が砕けるのではないかと思うほど、私は強く歯を噛みしめた。




