第22話 汚部屋
三人と別れた私は、マヤの案内で寮館へと足を踏み入れた。
石造りの玄関ホールをくぐった途端、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
「あたしの部屋は三階なんだ」
「寮館のことは、まったく分かりませんの。引き続き案内してもらえるかしら」
「うん、任せてよ!」
胸をぽんっと叩く――どう見ても淑女らしからぬ仕草のあと、マヤは大きく腕を振りながら歩き出した。
まるで遠足にでも行く子どものようで、その背中はやけに軽やかだ。
可笑しくて。
そして、どこか――可愛らしい。
「あっちは食堂で、そっちはサロン! ちなみにサロンではスコーンにクッキー、マドレーヌ、フィナンシェ! ぜ~んぶ食べ放題なんだよねー。おかげでもう二キロも太っちゃった」
「……さすがに、それは食べ過ぎですわよ」
「えへへ」
そう言いながらも、私自身、太っちょメイド長によるチョコレートおよびアーモンド完全禁止令の真っ只中にいる身である。
人のことをとやかく言える立場ではなかった。
こっそりと腹部に手を当て、服の上から柔らかな感触を確かめる。
「……っ」
人を笑っている場合ではないと悟り、じんわりと額に汗が滲んだ。
――ダイエット……した方が、よろしいのかしら?
「どうかした?」
「……い、いえ。三階まで、意外と距離がありますわね」
「だよねー。エレベーターがあったら楽なのに」
「えれべーたー……?」
「あっ、こっちの話。気にしないで」
ここではない――どこか。
マヤの前世、別世界の知識なのだろう。
考えても答えが出るはずもない。
私は早々に思考を切り捨てる。
それにしても。
さすがは王立ヒステリック学園の寮館だ。
もはや寮という言葉が似合わない。天井は高く、廊下は広く、装飾の一つひとつが過剰なほどに洗練されている。
「――――!」
マヤの案内で階段を上っていると、時折、他の生徒たちとすれ違った。
そのたびに、彼女たちは決まって二度見をする。
まるで、場違いな珍獣でも見つけたかのように。
――分かっている。
私が、ここにいること自体が異常なのだ。
マヤと知り合っていなければ、寮館に足を踏み入れることなど、決してなかった。
驚かれるのも無理はありませんわね。
「……私の顔に、何かついておりますの?」
そう尋ねると、マヤは私の顔を見て、くすくすと笑った。
「ううん。本当に、闇堕ちしなかったんだなって」
「……?」
意味が分からず、小首を傾げる私をよそに、マヤは楽しそうに続ける。
「もし地下牢での一件で、イデアの“悪役令嬢度”が増してたらさ。あんなふうに二度見された時点で、絶対ブチギレてたと思うんだよねー」
「私、そこまで短気ではありませんわよ!」
「うん、知ってる」
マヤは、階段を上りながら、ふっと声音を落とした。
「本当はさ。イデア、必死だったんでしょ。“イデア=シュベルッツベルグ”であろうって」
「……」
言葉が、喉に詰まる。
すべて――お見通し。
取り繕っていた仮面も、張り詰めていた矜持も、この少女の前では意味をなさない。
本当に。
この子には、かないませんわね。
そう思いながら、私は三階へと続く階段を、一段一段、確かめるように踏みしめていた。
「ここが、あたしの部屋だよ」
三階の角部屋――それが、マヤの居城らしい。
「入って」
「ええ、失礼す――……!?」
――き、汚いですわ。
思わず声が喉の奥で裏返った。
部屋は本来、それなりの広さを備えているはずだった。
にもかかわらず、その床という床には物が溢れ、散乱し、もはや“歩く”という概念そのものが挑戦状と化している。
脱ぎっぱなしの衣服。
半分齧られ、乾ききったフィナンシェ。
中身が何色とも判別できない液体を湛えたティーカップ。
魔導書と思しき分厚い書物が、無造作に何冊も転がっている。
そして極めつけに――
魔法陣が描かれた布の上に、堂々と鎮座する鍋。
「……謎、ですわ」
思わず、本音が零れ落ちた。
一体この子は、この部屋で何をしているのだろう。
研究なのか、実験なのか、それとも――日常なのか。
それにしても。
汚い。
とにかく、汚い。
これが、噂に聞く“汚部屋”というものなのだろうか。
都市伝説の類だとばかり思っていましたが、まさか本当に、この世に存在するとは……。
気のせいか、肌の表面がむず痒くなってくる。
育ちというものは、ここまで身体感覚に刻み込まれるものなのだと、妙なところで実感してしまった。
「少しは……片付けたりしませんの?」
「言っとくけど、この鍋と本はあたしのじゃないよ。同室の子のだからね」
「……そう」
ほとんど、あなたのではなくて?
喉元までせり上がった言葉を、私は飲み込んだ。
もはや指摘してどうこうなる段階を、軽々と通り過ぎている。
「食べる?」
「……いえ、結構ですわ」
差し出されたのは、もはや石材に近い硬度を誇るフィナンシェ。
これを“食べ物”として認識できる人間が、果たして存在するのだろうか。
「……あ」
私の視線の先で、マヤはそれを何の躊躇もなく口に放り込んだ。
――本当に、食べましたわね。
咀嚼するたび、かすかな音が聞こえる気がする。
それが歯なのか、焼き菓子なのか、判別したくはなかった。
……お腹、壊しませんの?
思わず、そんな心配をしてしまうほどだった。
私は、足元の安全地帯を探しながら、そっと溜息を吐いた。
「そこに座って」
――そこ、と言われましても……。
「……どこ、ですの?」
思わずそう問い返し、部屋に視線を走らせる。
しかし、腰を落ち着けられそうな場所は、どこにも見当たらなかった。
「またまた」
マヤは、意味不明な相槌とともに「冗談はよしこさん」などと口走り、埃を纏ったベッドへと気安く腰を下ろす。
その所作に躊躇はなく、まるでここが世界の中心であるかのようだ。
「……座れる、場所は……」
本気で困惑したまま立ち尽くしていると、マヤは私の方を見て、ベッドの隣をパンパンと叩いた。
――どうやら、そこに座れということらしい。
覚悟を決め、私はそっと腰を下ろす。
軋む音が、妙に大きく響いた。
「――で、二人きりじゃないと言えないことってなにかな? まさかとは思うけど、愛の告白とかじゃないよね?」
「ええ、断じて違うわ」」
即答だった。
にも関わらず、にたーっと悪戯めいた笑みを浮かべ、彼女は距離を詰めてくる。
肩が触れるか触れないか、その曖昧な間合い。
「近いですわ」
「そう? これくらい普通だよ」
「普通の基準が、少々おかしいですわよ」
つん、と指先が頬に触れた。
……一度ならまだしも、二度、三度と続くのは看過できない。
「マヤ」
「はーい♡」
名前を呼ぶだけで、彼女は嬉しそうに返事をする。
注意すべきだと理性は告げているのに、なぜか言葉が続かない。
――叱るべきだ。
――距離を正すべきだ。
それなのに、あの無防備な笑顔を前にすると、胸の内で何かが鈍る。
躾のために厳しくしようとして、結局甘くなってしまった――あの時の感覚に、よく似ていた。
「……」
彼女の顔が、やけに近い。
吐息が触れそうな距離に、私は思わず身を引いた。
「……近いですわ」
そう告げても、マヤは少しも悪びれず、むしろ楽しげに肩をすくめる。
「またまたぁ〜。嬉しいくせに」
「前にも増して、馴れ馴れしさが増していますわよ」
「だって、あたしたちの仲じゃない」
屈託のない笑顔。
その無邪気さが、余計にたちが悪い。
「……どのような仲だと、おっしゃっているのかしら?」
私が静かに問い返すと、マヤはわざとらしく顎に指を当て、首を傾げた。
「部屋で二人きりになれる関係?」
「……語弊がありますわ」
即座に否定すると、彼女はぱっと目を輝かせた。
「そんなことばっかり言ってると――襲っちゃおうかな♡」
「――衛兵に突き出しますわ!」
反射的に言い放ち、私は見の危険を感じて立ち上がる。
この場に留まる理由など、ひとつもない。
「わああああ、待って待って! うそうそ! 今のなし! 冗談だから、ほんとに!」
退室する意思をはっきりと示した途端、マヤは慌てて両手を振り、先ほどの言葉をなかったことにしようとした。
けれど。
その口元には、抑えきれない笑みが浮かんだまま――
まるで、こちらの反応すら楽しんでいるかのようだった。
私は小さく息を整え、改めて彼女に向き直った。
「……本題に入りますわよ」
「はーい。今度はちゃんと聞く」
信用していいのかどうか。
その判断は、もう少し先に延ばすことにした。




