第19話 嗅いでますわよね?
「――痛っ……」
思わず零れた声は、静まり返った部屋に小さく吸い込まれた。
地下牢での一件から、すでに丸二日が経っている。
目を覚ました時、丸一日眠り続けていたと聞かされた。驚きはしたものの、納得もしていた。闇属性である私が、光の上位互換――聖属性を、しかも無理に行使したのだ。肉体にかかる負担が、軽いはずがない。
マヤのいう通り、いまの六歳の体に聖女の力は負担が大きい。
それでも――今回は、前回のような失敗はしていない。
アールの背中の傷は、痕跡すら残さず、見事に癒えていた。
皮膚の色も、温度も、まるで最初から傷など存在しなかったかのようだ。
本来なら、地下で幾度も繰り返されるはずだった聖女の“特訓”も、今は鳴りを潜めている。
あのまま進めば、避けられなかったはずの最初の闇堕ち――それは、回避できたと考えていいのだろうか。
だが。
その代償は、決して小さくなかった。
左腕に、力を込めようとした瞬間、ずきりとした激痛が走る。
いや、激痛などという生易しいものではない。骨の奥を直接抉られるような、思考を遮断するほどの痛みだ。
できることなら、すぐにでも医者に診せたい。
だが、それは許されない。
そんなことをすれば、あの父が何を考えるか――想像するまでもない。
聖女の指輪の力を使った結果、腕に継続的な痛みが残ったなど、絶対に知られてはならない事実だ。
もし露見すれば、地下牢での無茶も、アールの覚悟も、すべてが水泡に帰す。
それに――。
「お嬢様、お飲み物をお持ち致しました」
「ありがとう」
盆を手に、控えめに頭を下げるアールの姿を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼女は、私のために身を挺してくれた。
私が目を覚ますまでの間、片時もそばを離れなかったという。
これ以上、この子を悲しませるわけにはいかない。
それどころか、アールは今も、私が倒れ、寝込んでいたのは自分のせいだと思い込んでいる。
本当の原因は、別にある。
父が、私を“偽聖女”に仕立て上げようとしたこと――それがすべての始まりだ。
アールは、シュベルッツベルグ家の思惑に巻き込まれただけの被害者に過ぎない。
気に病む必要など、どこにもない。
……ないのに。
何度言っても、彼女は聞き入れてくれない。
思い詰めた末、自らの喉元に刃を押し当てていた、あの光景。
寝起きだったにもかかわらず、心臓が口から飛び出すかと思うほど、肝を冷やした。
あの瞬間、私は悟ったのだ。
この子は、私の想像以上に――私を、重く受け止めてしまっているのだと。
マヤからは、本来の世界線では――地下牢で実験台として幾度となく傷つけられたメイドは、やがて衰弱し、静かに命を落としたと聞いている。
そのメイドこそ、アールなのだろう。
――彼女が生きている。
それだけで、運命は大きく変化していた。
小さな蝶の羽ばたきが世界を変える――マヤは確かにそう言っていた。
けれど、アールの生存は、もはや小さな羽ばたきなどではない。
これは、運命そのものを揺さぶるほどの、大きな羽ばたきだ。
「ローズティーでございます」
「頂くわ」
カップに口をつけ、ほのかな香りとともに喉を潤す。
その間も――感じる。
視線だ。
正確には、彼女の視線しか感じない。
顔を上げると、案の定、アールは私を見つめていた。
まるで絵画でも鑑賞するかのように、満ち足りた微笑みを浮かべて。
「……」
目を覚ましてからというもの、ずっとこの調子だ。
四六時中、視線が張り付いている。
守られている、というより――見張られている、と言った方が近い。
「……他に、仕事はなくて?」
できるだけ柔らかく、遠回しに告げたつもりだった。
「大丈夫です」
「……そう」
何がどう大丈夫なのか、さっぱり分からない。
このままでは、後でメイド長に雷を落とされるのは、間違いなく彼女の方だろう。
……それにしても。
距離が、近い。
控えるにしても、真後ろというのは少々――いや、だいぶ近い。
本来なら部屋の隅、あるいは壁際に立つものだ。
そう思った、その時だった。
――くん。
――くん、くん。
「……」
……今。
明らかに、私の頭頂部の匂いを嗅ぎましたわよね?
ゆっくりと首をまわして視線を後ろにやると、アールははっとしたように顔をそらした。
無言でカップに視線を戻す。
――くん、くん。
……確信する。
嗅いでいる。
しかも彼女、気づかれていないと思っているらしい。
だが、その奇怪な姿は、窓硝子にくっきりと映り込んでいた。
私の頭に顔を寄せ、夢中で息を吸い込むアールの姿が。
「……嗅いでますわよね?」
「嗅いでません!」
即答だった。
あまりにも。
私は一度、こほんと咳払いをして心を落ち着ける。
「私の髪を、嗅いでいましたわよね?」
「嗅いでません!」
「使用人が主人に嘘をつくのは、感心しませんわよ」
「すみません嗅ぎましたすっごくいい匂いでした!」
「……」
早い。
観念するまでが、早すぎる。
そして何より――その顔だ。
罪悪感よりも、満足感が勝っている。
私は深く息を吐いた。
この子は、間違いなく。
――マヤと、同類ですわ。
しかもこちらは、感情と執着が絡み合った分、なおさら厄介そうだった。
「お嬢様、どちらへ行かれるのですか?」
時刻は昼過ぎ。
私は重く疼く左腕を庇いながら、部屋を後にした。
この厄介な腕をどうにかせねばならない。放置すれば、いずれ日常に支障をきたすのは明らかだ。
「学園へ行きますわ」
「本日は休校のはずですが……?」
「ええ、承知していますわ。用があるのは、寮の方ですの」
「寮……まさか、殿方と密会ですか!?」
なぜ、そこでその発想に至るのか。
思わず足を止めかけるほど、見事なまでの飛躍だった。
目覚めてからというもの、アールの反応はどこか大袈裟で、感情の振れ幅が大きい。
以前の、影のように静かな彼女を思えば、まるで別人だ。
これもまた、運命が歪んだ余波なのだろうか。
「同性の友人ですわ」
「同性の……ご友人……? お嬢様に……?」
そこまで驚く必要があるかしら。
学園に通い始めて一月も経っているのだ。友人の一人や二人、できても不思議ではない――はずなのだけれど。
そう思って、頭の中で顔を思い浮かべる。
……浮かばない。
真っ先に現れたのは、マヤ。
だが彼女は、つい最近まで「狂人」の範疇にいた存在で、友人と呼ぶにはだいぶ距離があった。
次に浮かんだ名前。
――ライリー=レガリアント。
……即座に、却下。
あれは論外。
断じて友人ではない。
「……」
沈黙が答えになってしまった気がして、私は軽く咳払いをする。
「……お嬢様のご友人……う、羨ましくなんか……っ」
アールはなぜか、悔しさを噛み殺すように視線を伏せ、奥歯をぎり、と鳴らした。
――なぜ、そこで張り合うの。
私は一度だけ彼女を横目に見やり、それ以上触れないことにして歩みを進めた。
「――付いてくるのでしたら、馬車の手配をお願いしますわ」
「只今!」
声は異様なほど明るく、返事は即答だった。




