第18話 泣き声
「……イデアお嬢様」
呼びかけても、返事はない。
あれからすでに丸一日が経ったというのに、お嬢様はなお、深い眠りの底に沈んだままだった。胸が上下するのを確かめるたび、ほっと息をつき、そしてまた不安が胸に差し込む。
つい一月ほど前――この屋敷に来るまでは、私はお嬢様を恐れていた。
自分が仕えることになった少女が、どのような“化物”なのかと。
確かに、お嬢様には気性の荒い一面があった。
気に入らないことがあれば、食事の席で皿を投げつける。
額を床に擦りつけさせ、その上から頭を踏みつけられたメイドは、一人や二人ではない。
だが――それは、お嬢様自身の本性ではなかった。
そうするように、教え込まれてきただけ。
平民は見下すもの。使用人は物同然。
シュベルッツベルグ家で施されてきたのは、歪みに歪んだ貴族教育だった。
事実、お嬢様は旦那様の目がある時にしか、そのような横暴な振る舞いを見せなかった。
まるで、期待される役を演じるかのように。
――今でも、はっきりと覚えている。
連日の激務に追われ、私が疲れ切った顔で黒薔薇庭園を歩いていた時のことだ。
重たい足を引きずる私の前に、ふいに小さな影が現れた。
「あなた、見ない顔ですわね」
振り返ると、そこにはお嬢様が立っていた。
「新人メイドのアールと申します」
「ふうん……」
値踏みするように私を一瞥したあと、お嬢様はドレスのポケットに手を入れ、何か小さな包みを取り出した。
「これ、あげるわ」
差し出されたそれを、私は反射的に受け取れずにいた。
「チョコレートっていうのよ。あなた、食べたことないでしょ」
「……はい」
食べたことどころか、存在を知ったのも、この屋敷に来てからだ。
チョコレートは高級菓子。
奴隷であった私など論外で、一般の平民ですら口にする機会はほとんどない。
本来ならば、高貴な生まれの者だけに許された甘味だ。
「な、なりません! お嬢様の大切なおやつを頂くなど、そのようなこと……」
「私がいいと言っているのですわよ」 「で、ですが……」
「チョコレートには疲労回復の効果がありますの。それに――」
お嬢様は声を潜め、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「太っちょメイド長、いつもこっそり食べていますわ」
「……え、そうなんですか!?」
思わず声が裏返る。
それは、あまりにも衝撃的な事実だった。
「使用人は皆、同じ食事のはずですもの。なのに、あの人だけぶくぶく太るなんて、おかしいでしょう?」
確信に満ちた口調には、妙な説得力があった。
「……ですが、それでも、私がお嬢様のおやつを頂くわけには……」
「しつこいですわね」
ぴしりと、叱るような声。
「私が差し上げると言っているのですから、素直に受け取りなさい!」
「あっ……!」
気づけば、私のエプロンのポケットに、チョコレートは押し込まれていた。
お嬢様はそれだけすると、振り返りもせず、黒薔薇の向こうへ歩いて行った。
「ふっふふーん♪」
残された私は、しばらくその場から動けずにいた。
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じながら。
私はエプロンの内側に手を差し入れ、そっとチョコレートを取り出した。
本当に、受け取ってしまって良かったのだろうか――そんな思いが、胸の奥に小さく芽生える。
そのとき、ふと気づく。
お嬢様は、なぜ庭園にまで足を運ばれていたのだろう。
それも、誰の供も連れず、お一人で。
「……まさか」
疲れ切っていた私を気遣って、わざわざチョコレートを渡しに来てくださった……?
私なんかのために、そんなことをしてくれる人間が、これまで一人でもいただろうか。
――いない。
思い返しても、思い当たる者は誰一人としていなかった。
一部の使用人たちの間では、お嬢様を「天性の性悪女」だと陰で囁く声がある。
だが、あのとき、何も言わずにエプロンへそっとチョコレートを忍ばせてくださった姿は、どうしようもなく可憐で、愛らしく――私には天使のように見えた。
「……おいしい」
生まれて初めて口にしたチョコレートは、ほろ苦くて、けれど確かに甘かった。
その味は、不思議とイデアお嬢様を思わせる。
「……確かに、疲れも吹き飛びますね」
独り言のように呟きながら、私は胸の奥がじんわりと温まるのを感じていた。
ああ、私は――お嬢様の優しさが、ただただ嬉しかったのだ。
だからこそ。
あの日、旦那様に左目を奪われた時のことを、私は今もなお、後悔し続けている。
突然の激痛に耐えきれず、取り乱してしまった私を、お嬢様は迷いなく聖女の力で癒してくださった。
その結果として、お嬢様が倒れてしまったと知った瞬間、私は自分を呪わずにはいられなかった。
『……お、おじょうさま……はやく……はやくぅ……』
痛みによる混乱があったとはいえ、なぜ私は――あんな言葉を、お嬢様に向けてしまったのか。
私の左目など、どうでもよかった。
そんなもののために、お嬢様を傷つけ、無理をさせてしまった自分が、どうしようもなく憎い。
それなのに――。
この左目は、愛しくもある。
イデアお嬢様が、自らの身を削り、私のために癒してくださった証だから。
矛盾した想いに戸惑いながらも、私は無意識のうちに眼帯へと手を伸ばしていた。
指先がそこに触れただけで、心の澱が洗い流され、救われていくような気がする。
――ああ、やはり。
イデアお嬢様は、聖女そのものなのだ。
だからこそ――
再び、私の左目を治そうと仰られたとき。
『お嬢様……本当に、もう大丈夫ですから……』
声が、震えた。
自分でも驚くほど、情けないほどに。
また、私のせいでお嬢様が倒れられたら――。
そう思うだけで、背筋に冷たいものが走る。
結果から言えば、私の左目は治らなかった。
意識を失われることはなかったものの、お嬢様は痛々しいほどの鼻血を流され、顔色は紙のように白かった。
『あなたの目……治してあげたかったのだけれど……』
その言葉に、胸が締めつけられる。
――なんと、慈悲深く、お優しい御方なのだろう。
私は、この小さな主に仕えられることを、心の底から神に感謝した。
この方のためなら、自分のちっぽけな命など、いつ差し出せと言われても構わない――その覚悟は、すでにできていた。
そして、その機会は、思っていた以上に早く訪れる。
「あれに、聖女としての力を学ばせる機会を作らねばならん。事は一刻を争う」
偶然――本当に、ただの偶然だった。
廊下の角で、旦那様と執事長の会話を耳にしてしまったのは。
「そこに居るのは、誰ですかな?」
完璧に気配を殺していたつもりだった。
それでも、執事長は一瞬でこちらを見抜いた。
――この人も、私と同じ。
直感が告げる。
このシュベルッツベルグ家には、いったい何人のアサシンが紛れ込んでいるのだろう。
アサシン教団とシュベルッツベルグ家。
両者が、ただならぬ関係であることは疑いようがなかった。
「申し訳ありません……立ち聞きするつもりは……」
「……あなたでしたか」
鋭い視線を向けられた瞬間、身体が強張った。
教官に睨まれたときと、同じ感覚だ。
「どのような処罰を致しましょう」
「教団関係であれば、問題はない」
「……よろしいので?」
「構わん」
――助かった。
内心で、息を吐く。
正直なところ、殺される覚悟はしていた。
「あれが飼っていたペットが、本邸にいたな。連れてこさせろ。聖女の治療実験に使う」
「畏まりました」
話の意味は、すぐに理解できた。
お嬢様が聖女の指輪を使いこなせるように。
そのために、お嬢様が大切にしているペットを使って、力の実験を行う――。
そんなことをすれば、あのお優しい方が、どれほど傷つくか。
考えるまでもない。
私に、唯一、優しさを向けてくれたお嬢様。
そのお顔が歪むところなど、見たくなかった。
「……だ、旦那様!」
気づけば、私は声を上げていた。
恐れ多いことだと分かっていた。
それでも、口が勝手に動いた。
――その役目を、私に。
私なら、どれほど傷ついても構わない。
私なら、どれほど痛めつけられても、お嬢様の心を悲鳴に晒さずに済む。
私は、あの方を守る盾になると――
この瞬間、はっきりと、決めたのだ。
――だというのに。
「……また、失敗した」
喉の奥から零れた声は、情けないほどに掠れていた。
本当は、何度でも私を実験台にしてほしかった。
そうすれば、時間をかけて、少しずつ――お嬢様に“力”の扱いを学んでいただけたはずだった。
なのに。
私は、決定的なことを忘れていた。
お嬢様が、あまりにも慈悲深く、あまりにもお優しいお方であるということを。
あの時も、そうだった。
私の左目を見て、お嬢様は躊躇いもなく手を伸ばされた。
「未来に不自由を残してはいけない」と、そう言わんばかりに。
そして、今回も――。
私の背に残るはずだった傷を案じ、お嬢様は無理をなされた。
結果として、その代償を負ったのは、お嬢様ご自身だ。
静かに眠るその姿を前に、胸の奥が、ぎしりと軋んだ。
すべては、私の責任だ。
見通しが甘かった。
覚悟が、足りなかった。
「……もしも……このまま、お嬢様が目を覚まされなかったら……」
口にした瞬間、世界が音を失った。
私は懐に忍ばせていた暗器を取り出し、その冷たい切っ先を、自らの喉元へと当てる。
――命をもって、償うしかない。
それが、従者としての、唯一の答えだと信じて疑わなかった。
その時だった。
ぴたり、と。
「――――っ!?」
私の腕に、温もりが触れた。
あまりにも小さく、あまりにも柔らかな感触。
恐る恐る視線を落とす。
そこには、目を覚ましたお嬢様がいた。
悲しげに、けれど確かに私を見つめて。
「……バカなことは、おやめなさい」
その声は、優しく。
それでいて、逃げ場を許さぬほど、凛としていた。
「お……お嬢……様……」
膝から、力が抜けた。
どさり、と。
手の中から零れ落ちた暗器が、厚い絨毯に深く沈み込む。
「あ゛……ぁ……」
理解が、追いつかない。
現実を受け止めきれず、視界が歪む。
次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
そんな私を見て、お嬢様は少しだけ困ったように、けれど確かに微笑まれた。
――それが、限界だった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――」
私は泣いた。
理性も、誇りも、すべて投げ捨てて。
両手で顔を覆い、まるで幼子のように、声を上げて泣きじゃくった。
「――何事です!」
やがて、私の泣き声に驚いたメイド長たちが駆けつけてくる。
その間ずっと。
お嬢様は、何も言わず、ただ黙って――私の頭を、ゆっくりと撫で続けてくださっていた。
それは、赦しの手だった。
私には、あまりにも重く、あまりにも温かな。




