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悪役令嬢のまま死んでたまるか! 偽聖女ですが、何か問題でも?  作者: 葉月


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第17話 名もなき女

「――お嬢様!」


 私の目の前で、あんなにも気高く、強く在られたお嬢様が、真赤な顔をして崩れ落ちた。


 本能的に手を伸ばす。

 けれど――届かない。


 鎖が、じゃらりと音を立てた。

 天井から吊られたこの腕では、倒れゆくお嬢様を抱きとめることすら叶わない。


 私はただ、泣きながら見ていることしかできなかった。


 執事長が駆け寄り、お嬢様を慎重に抱き起こす。

 その光景を、血と涙で滲んだ視界で追う。


 ――お願いです。

 どうか、生きて。


 声にならない祈りだけが、胸の奥で何度も砕け散っていた。



 ◆



 私は、メイド長の前に膝をつき、額が床につくほど深く頭を下げた。


 お嬢様が目を覚まされるまでの間、せめて、そのお側に控えさせてほしい――と。


 普段は、厳格で、恐ろしいほど隙のないメイド長。

 けれど、私の全身――

 鞭の痕、血の染み、歪な姿勢のまま必死に縋る私を見て、ひとつ、大きな嘆息を落とした。


「……目が覚めるまでです」


 それだけ告げると、視線を逸らされた。


 ――それで、十分だった。


「……お嬢様……」


 自室のベッドの上で、

 イデアお嬢様は、まるで死んだように眠っておられる。


 規則正しい呼吸だけが、生きている証だった。


 ――私のせいだ。


 私なんかのために。

 私なんかを救うために。

 無理を通して、力を使いすぎてしまわれた。


 お嬢様のお力になりたかっただけなのに……私は、またお嬢様を傷つけてしまった。


『お前は本当にドジでのろまな役立たずだね』


 不意に、懐かしくも忌まわしい声が、耳の奥で蘇る。


『本当に、あたしの子かい?』


 ――ああ。


 まだ村にいた頃の記憶。

 私が「母」と呼んでいた、その人の声。


 いつも酒の臭いをまとい、理由もなく殴り、蹴り、私を見下ろしては罵声を浴びせ続けた。


 生きているだけで、迷惑だと。

 存在そのものが、罪だと。


 ――そう教えられて育った。


 だから、私は知っている。


 誰かが、自分のために血を流すということが、どれほど異常で、どれほど――尊いことなのかを。


 ――お嬢様。


 あなたは、私にとって初めて――

 「存在を肯定してくれた人」でした。




 我が家は、言い訳のしようもなく貧しかった。


 兄妹は五人。

 食卓に並ぶものは乏しく、満足に腹を満たせる日は二日に一度あればいい方だった。


 耐えきれない空腹が襲う夜には、私は音を立てぬよう裸足で外へ出た。

 月明かりの下、井戸の縁に手をかけ、冷たい水を汲む。

 喉を通る水は、胃に落ちると同時に、すぐさま消えていったが、それでも飲まずにはいられなかった。


 けれど――

 井戸の水ですら、ただではない。


 村人たちは毎月金を出し合い、その使用料を領主に納めることで、ようやく井戸を使う許しを得ていた。

 我が家は、その金を払っていなかった。


「二度と勝手に飲むんじゃねぇぞ!」


 見つかれば、殴られた。

 拳が飛び、足が飛び、倒れても容赦はなかった。


「この、こそ泥がっ!」


 井戸の水は有限であり、金を払わぬ者が飲む水は、盗みと同義だった。


 血に塗れた私たちを見ても、母は眉一つ動かさない。

 ただ、興味なさげに視線を逸らし――


「あんたも早く、あの子みたいに金を作れるようになりな」


 そう言って、酒をあおる。


「何のために腹を痛めて産んでやったと思ってるんだい」


 五人の兄妹のうち、女は私と、十歳年上の姉だけだった。

 男たちは羊飼い、豚飼い、馬丁――どんなに貧しくとも、体さえ動けば仕事にありつけた。


 だが、女にそれは許されなかった。


 私の村では、女は働くものではなく、売るものだった。


 だから、我が家の稼ぎ頭は姉だった。


 姉は、昼も夜も家を空けた。

 当時六歳だった私は、姉が何をして金を稼いでいるのか知らなかった。


 ――知らなくても、分かった。


 村で一番美しいと評判だった姉は、年を追うごとに変わっていった。

 髪は櫛を通されなくなり、笑顔は消え、気づけば朝から酒を飲む母と同じ目をするようになっていた。


 家には、気色の悪い笑みを浮かべた男たちが頻繁に訪れた。

 視線は私ではなく、いつも姉に向けられていた。


 今なら分かる。


 姉は、母の命令で、売春婦の真似事をさせられていたのだ。


 そして――

 すべてが壊れたのは、姉が首を吊って死んだ、その日からだった。


 稼ぎ手を失った我が家は、急速に、音を立てて、崩れていった。


 ある日、家に小太りの男がやって来た。

 村では見かけぬ、高価な生地の外套をまとい、脂の浮いた笑みを張りつかせた男だった。土の匂いしかしない我が家には、あまりにも場違いな存在だ。


 男は戸口に立つなり、私を一瞥し、値踏みするように顎を撫でた。


「――銀貨六枚だな」


 それだけ言って、まるで家畜でも見るかのように視線を切った。


「たったの、それっぽっちかい?」


 母は唇を歪め、不満を隠そうともせずに言い返す。


「こりゃ若すぎる。それに痩せっぽっちだ。特に女のガキは使いもんにならねぇ。買手がつかねぇんだよ」

「そういう趣味の貴族もいるんじゃないのかい? 貴族には変態が多いって聞くよ?」


 母の言葉に、男は喉を鳴らして笑った。


「はは、確かにな。その考えは間違っちゃいねぇ。だがな、貴族ってのは人目を気にする生きものだ。噂一つで身を滅ぼす。買手を探すとなりゃ、骨が折れるんだよ」


 母は小さく鼻を鳴らし、しばし銀貨の重さを想像するように黙り込んだ後――


「……なら、それでいいよ」


 そう言って、ためらいもなく銀貨六枚を受け取った。


 銀貨六枚。

 一人あたり一日の食費を銅貨六枚に抑えたとしても、十日ほどで消えてしまう額だ。


 つまり、私の値段はそれだけだった。


 母に奴隷商へ売り飛ばされたその日、私の胸に「悲しい」という感情はなかった。

 母にも、あの村にも、そもそも愛着と呼べるものなど、最初から存在していなかったのだ。


 だから、私は泣かなかった。

 ――いや、泣けなかった。


 どれほどの歳月が流れたのだろう。

 私は各地を転々としながら、奴隷商に連れ回された。


 私より後に売られてきた同年代の女たちは、次々と買われていった。それでも私だけは、いつまでも売れ残ったままだった。


「お前は気味が悪い」


 奴隷商はそう言った。


「感情ってもんが感じられねぇ。笑わねぇ、泣かねぇ、怒りもしねぇ。無表情で突っ立ってるだけだ。そりゃ誰も欲しがらねぇさ」


 だから私は、売れない。

 ――そう、思っていた。


「……感情のこもらぬ、良い目だな」


 不意に、穏やかな声がした。


 気がつくと、そこには長い白髪と髭をたくわえた老人が立っていた。

 柔らかく細められた目元、好々爺然とした佇まい。まるで孫を見る祖父のような、穏やかな微笑み。


 しかし、その身に纏う衣服は一目で分かるほど上質で、只者ではないことを雄弁に物語っていた。

 きっと、位の高い貴族なのだろう。


 老人の視線は、私の全身を静かに、だが逃がさぬように撫でていく。

 その目に宿る光を見て、私は思った。


 ――母の言っていた、そういう趣味の貴族なのだろう、と。


 こうして私は、見ず知らずの老人に買われた。


 それが、私の人生が再び動き出した日のことだった。


 その老人は、周囲の人間から「閣下」と呼ばれていた。

 私は当然のように、豪奢な屋敷へ連れ帰られるものだと思っていた。だが、その予想は、あっさりと裏切られる。


 閣下の身なりからは到底考えられぬほど、どこにでもある――ありふれた馬車。

 お付の女に促され、私は黙って乗り込んだ。


 馬車が動き出して間もなく、背後から布を被せられる。

 黒地の、厚く、光を一切通さぬ布だった。


「私が良いと言うまで、外すな。――いいな」


 閣下に付き従う女が、氷のように冷えた声で告げる。

 その声音には、命令以上の意味があった。従わぬ者に、次は無い――そう語っている。


 私は一度だけ、小さく頷いた。


 どれほどの時間、馬車に揺られていたのかは分からない。

 恐怖も、緊張も、いつの間にか疲労に呑まれ、私は眠りに落ちていた。


「……着いたぞ。外せ」


 目隠しを外し、馬車を降りる。

 夜だった。


 月明かりの下に広がっていたのは、意外なほど静かな、どこにでもある小さな村。

 石畳も、城壁もない。私は、もっと大きな街――領主の治める地を想像していた。


 どうやら、それも違ったらしい。


「今日から貴様には、ここで訓練を受けてもらう」


 女が淡々と告げる。


「貴様が使えぬと判断した時点で、私が貴様の首をはねる。――以上だ。質問はあるか?」

「……いえ」


 本当は、聞きたいことが山ほどあった。

 ここはどこなのか。何をさせられるのか。私は、何になるのか。


 だが、女の眼がそれを許さなかった。

 少しでも口を開けば、次の瞬間には腰の獲物が閃く――そんな確信があった。


「さすがは閣下のお眼鏡に叶っただけはある。察しがいい」


 女は感情を交えぬまま、言葉を続ける。


「貴様、名は?」

「……ありません」


 母から、名前を与えられたことはなかった。

 呼ばれるときは、いつも「おい」か、「役立たず」だった。


 名前を持たぬことが、今さらのように胸に刺さり、私は視線を落とす。


「そうか。それは、丁度いい」

「……え?」


 思いがけない言葉に、私は顔を上げていた。

 名前がないことで蔑まれたことはあっても、肯定されたことなど一度もなかった。


「今日から、貴様は――アールだ」

「……アール」


 その音を、私はゆっくりと噛みしめる。


 それが、私の名。

 私が、私として呼ばれるための言葉。


 ドクン、と――

 死んだはずの心臓が、ほんの一度、確かに跳ねた。


「私のことは教官と呼べ。……返事は?」

「……は、はい」

「私が貴様を、一人前のアサシンに育て上げてやる。光栄に思え」

「はい!」


 アサシン。

 その言葉の意味を、私はまだ知らない。


 それでも――生きるために。

 私は、与えられた名に、必死でしがみついた。


 村を出てから、八年の歳月が流れた。


 私はアストラル王国に属する大貴族――シュベルッツベルグ家に仕えるアサシンとなるべく、人里離れた里で訓練の日々を重ねてきた。


 剣。

 毒。

 隠密。

 偽りの笑みと、嘘の名。


 朝は血の匂いで目を覚まし、夜は死を想定して眠る。

 そんな日々の中で、私の身体と心は、静かに削り直されていった。


 気づけば、私は十四になっていた。


 そして――ついに、初めての任務が与えられる。


 シュベルッツベルグ家長子。

 イデア=シュベルッツベルグお嬢様の側使い。


 その内容は、三つ。

 お世話。護衛。――そして、監視。


 里を発つ直前、任務から戻ったばかりの同僚が、何気ない口調で教えてくれた。


「……知ってるか。イデア=シュベルッツベルグに送り込まれたメイド、もう二人死んでる」

「……そう」

「事故じゃない。処刑だ」


 その言葉は、あまりにも静かで、だからこそ重かった。


 胸の奥で、何かが、ひやりと蠢く。


 貴族の屋敷では、人が死ぬことなど珍しくない。

 だが――同じ役目を与えられた者が、すでに二人も「処理」されているという事実は、十分すぎるほどの警告だった。


 この時の私は、まだ知らなかった。


 自分が、どのような少女のもとへ送られるのか。

 どのような運命が、私に待ち受けているのか。


 ただ、ほんの僅かに――

 私は不安を覚えていた。


 いったい、私は。

 どれほどの“化物”に仕えることになるのだろうか、と。

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