第16話 父の言葉
「――なんということを……!」
叫びは、地下牢の石壁に虚しく跳ね返った。
気づけば私は、考えるより先にアールのもとへ駆け寄っていた。
何度打たれたのかも分からない。
彼女の背中は、もはや“傷”と呼べる域を越えていた。皮膚は剥がれ、赤黒い肉が露わになり、血は乾く暇もなく床へと滴り落ちている。
顔色は死人のように白く、胸が浅く、かすかに上下するたび、その命が今にも途切れそうだと嫌でも分かってしまった。
「……ひ、ひどい……ですわ……」
声が震えた。
アールは血溜まりの中に膝をつき、倒れることすら許されていない。両腕は天井から垂れた鎖に繋がれ、無理な姿勢のまま、逃げ場もなく苦痛を受け止め続けていたのだ。
「ハーディ! 今すぐアールの手枷を解きなさい!」
叫びに近い命令だった。
だが、それを切り捨てる声は、あまりにも冷え切っていた。
「ならん」
これ以上、冷酷になりようがあるのかと思うほどの一言。
父の視線はアールに向けられていたが、そこには生き物を見る光がなかった。ただの“処理対象”を見る目――黒く、濁り、何も映していない眼。
――ああ、そうでしたわね。
マヤから聞かされていた。
私が悪役令嬢として覚醒する、その要因のひとつが、この父であることを。
すべては、何者かが定めた運命に従って進む。
私も、アールも、そしてこの父ですら――その盤上に並べられた、ただの駒にすぎない。
本物の聖女が光り輝くためだけに用意された、残酷な舞台装置。
そのために流される血と、踏みにじられる命。
――本当に、ふざけた話ですわ。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
私は、生まれて初めて父を睨みつけた。
否――正確には。
父を“こういう役”に仕立て上げた、見えない何者かを睨み返すように。
「お父様……! これは、いくら何でもやり過ぎですわ!」
本来なら、もっと早く言うべきだった。
アールの左目が奪われた、その瞬間に。
恐怖に負けず、父に抗うべきだったのだ。
そうすることで運命が変わるのかは分からない。
けれど、一つだけは確信している。
この筋書きを書いた“何者か”が想定している私のままでは、何も変えられない。
私は、変わらなければならない。
与えられた役をなぞるだけの悪役令嬢ではなく――
自らの意志で、運命そのものに爪を立てる存在になるために。
「……自らの不出来を棚に上げ、私に意見するか」
父の声は低く、感情の起伏を一切含まない。
まるで裁定文を読み上げるかのような口調だった。
「すべては、お前自身が招いた結果ではないのか?」
「……っ」
喉が詰まり、言葉が出ない。
反論したいのに、胸の奥で何かが絡みつき、声になる前に押し殺されてしまう。
「お前が正しく聖女の力を使いこなしてさえいれば、その娘は痛みに苦しむ必要もなかった。左目も、本来ならば疾うに戻っていたはずだ」
父は淡々と続ける。
「……だが。時間が経ちすぎた今となっては、仮にお前が指輪の力を完全に扱えたとしても、左目を完全に復元できるかどうかは分からん」
冷酷な宣告だった。
可能性を語っているようで、その実、切り捨てている。
「――私の、せいだと……そう言いますの……?」
震える声で、どうにか絞り出す。
父は、わずかに視線をこちらへ向けただけで、即座に答えを返した。
「そうだ」
迷いのない断言。
「人は、何かの犠牲なしに大地に立つことなど、決してありえん」
父の声は、まるで世界の理を語る神官のようだった。
「立場によって、犠牲にするものの“数”は変わる。一国の王であれば、数万の命を犠牲にすることすら厭わぬだろう」
私は唇を噛みしめる。
その理屈が、あまりにも“正しい形”をしているからだ。
「現に世界では今も、貧困に喘ぎ、餓死者は年々増え続けている。なぜだか分かるか?」
問いかけでありながら、答えを求めてはいない。
「魔王が復活すれば、戦争のために莫大な食糧と金が要る。戦に備えて備蓄を増やせば、穀物の値は跳ね上がる。国は財政を維持するため領主に税を課す――その税を払うのは、常に領民だ」
淡々とした説明。
そこに憐れみは一片もない。
「その娘は、そうして生まれた犠牲の一つにすぎん」
「……犠牲……?」
思わず、言葉を繰り返してしまう。
「それの母親は、税が払えず、まだ幼かったそれを奴隷商に売り飛ばした」
「――っ!」
息を呑む音が、地下牢に響いた。
「アサシン教団はそれを買い取り、今日まで育ててきた。すべては、我がシュベルッツベルグ家の糧となるためだ」
父の視線が、ゆっくりと私へ戻る。
「そして――お前もまた、その犠牲の上に立っている」
胸の奥が、凍りついたように冷たくなる。
否定したい。拒絶したい。
それでも――理解してしまう自分が、確かにここにいる。
「――だとしても!」
気づけば、私は叫んでいた。
喉が焼けつくように痛むのも構わず、言葉を叩きつける。
「だとしても、彼女を傷つける必要がどこにあるというのです!」
地下牢に、私の声が反響する。
鎖が微かに鳴り、アールが苦しげに息を吸った。
「言ったはずだ」
父は一切声を荒らげない。
「お前が正しく力を使えさえすれば、問題は起きなかった。その娘は――お前に聖女としての覚悟を与えるための、ただの贄に過ぎん」
「そんなの……そんなのは詭弁ですわ!」
胸の奥から、怒りが噴き上がる。
「お父様は、私を政治の道具として使いたいだけですわ! ご自分が権力を得たいがために!」
言ってしまった、と一瞬遅れて気づく。
だが、もう引き返せない。
「……それの、何がいけない」
「――!」
あまりに静かな声だった。
叱責でもなく、否定でもない。ただの問い。
「私も、私の父も、そして先代たちも皆、望んで人を殺してきたと思うか?」
父は、ゆっくりと首を振る。
「違う。誰一人として、好んで血に手を染めた者などいない」
その言葉に、私は息を呑む。
「……私たちは等しく、この国の犠牲者だ」
重く、深い声音だった。
それは言い訳ではなく、長い年月を生き抜いた者だけが持つ諦観に近い。
「現状を変えたい。そう願うことの、何がいけない?」
「……それは……」
即答できない。
父の言葉が、あまりにも理に適っているからだ。
「今が好機なのだ」
父は一歩、こちらへ踏み出す。
「今、変えねばならん。さもなくば――娘のお前も、いずれ生まれるお前の子も」
冷たい視線が、私を射抜く。
「永遠に、血塗られた奴隷として、この国に飼い殺されるだけだ」
胸が締めつけられる。
それは脅しではない。
私はその瞬間、悟ってしまった。
父は狂っているのではない。
この国に最も深く絶望し、それでもなお抗おうとしている――
ただし、その方法が、あまりにも歪んでいるだけなのだと。
だからこそ、私は――
この人を否定しなければならない。
……なのに。
それなのに――。
父を止める言葉が、どうしても喉の奥から出てこない。
正論で押し潰され、覚悟で封じられ、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
「お……じょう……さま……」
かすれた声が、闇の底から届く。
「……アール!?」
鎖が擦れる、弱々しい音。
蒼白な顔のアールが、必死にこちらを見つめていた。
「喋ってはいけませんわ!」
叫んだ声は、祈りに近かった。
「わたし、が……だんな、さま、に……おねがい……したん……です」
「……お願い?」
嫌な予感が、胸を締めつける。
「お、じょう……さま、の……お、ちから、に……なり、たく……て……」
――そんな。
アールは、自ら望んで。
私の“贄”になることを、選んだというの。
「なぜ……なぜ、そんなことを……!」
「お、じょう……さま、に……しあ、わせ……に、なって……もらい、たく……て……」
一語一語、血を吐くような言葉だった。
「こん、な……わたし……の、ため……に……やさしく、して……くれ……た……おじょう……さま……の……ちから……に……なれ……る、なら……」
彼女は、かすかに微笑む。
「わたし……よろこ……んで……この、み……を……ささげ……ます……」
「……ばか」
声が、震えた。
「……あなたは……本当に、大ばかですわ……」
伸ばした手が、彼女の頬に触れる。
冷たい。
地下牢の闇に閉じ込められていた証のような冷たさ。
その瞬間、胸の奥が、どうしようもなく痛んだ。
――私が誰かを想い、涙を流したのは。
これが、初めてだったのかもしれない。
「イデアよ」
父の声が、無情に響く。
「聖女の指輪――それに秘められた力を、使うのだ」
「……っ」
やるしかない。
できるかどうかなんて、関係ない。
私がやらなければ――
このままでは、アールが死んでしまう。
「……今度こそ」
唇を噛みしめる。
「絶対に……治してみせますわ……!」
アールへと伸ばした左手に、全身の意志を込める。
淡い光が生まれ、それはやがて、まばゆい七色へと変わっていく。
狭く、薄暗い地下牢が、幻想のような光に満たされた。
「……っ」
傷口が塞がっていく。
肉が繋がり、血が止まり、命が戻っていく。
その代わりに――
私の鼻から、ぽた、ぽたと血が滴り落ちた。
目が、焼けるように熱い。
きっと今の私の瞳は、兎のように真っ赤に染まっているのだろう。
それでも。
それでも、この手を引くわけにはいかなかった。
誰かが描いた、こんな運命の言いなりになど――
なってたまるものですか。
意地だけで、聖女の力を維持し続ける。
すると――
やはり、あの感覚が、胸の内側に忍び寄ってきた。
「……ぐゔぅぅっ……!?」
奥歯が砕けそうなほど噛みしめても、抗えない。
この痛みだけは、どうしても。
視界の端が、ゆっくりと闇に侵されていく。
私を呼ぶアールの声が――
次第に、遠ざかっていった。
「――ま、まだ……ですわ……!」
声は掠れ、喉の奥で砕けそうだった。
それでも、私は手を引かない。
どれほど辛く、どれほど苦しくとも――
せめてこの背中の傷だけは。
一切の痕跡も残さず、完全に治してみせる。
それが、私にできる唯一の罪滅ぼし。
『このあとイデアは屋敷に帰ると、地下牢で酷く打ちのめされることになるの』
脳裏に、マヤの声が蘇る。
『それも一回や二回じゃない。何度も、何度も繰り返される。イデアが、ある程度“力を使える”ようになるまで』
――ああ、そう。
『でもね』
あの時、マヤは一瞬、視線を逸らした。
『イデアに、本当は聖女の力は使えないの』
胸の奥が、冷たくなる。
『イデアの属性は“闇”。光は、毒みたいなものなの』
だから――
どれだけ足掻いても、使いこなせるようにはならない。
その先に待っているのは、絶望と、歪み。
地下牢を出る頃には、今より少しだけ性格が悪くなっている――
そんな未来。
――ふざけんじゃ、ありませんわよ!
「くそっ……たれぇ……!」
吐き捨てるように、唸る。
――やってやりますわよ。
全力で、運命に抗ってやりますわよ!
掌に、さらに力を込める。
心臓を鷲掴みにされ、握り潰されるような感覚。
肺が潰れ、息ができない。
鼻血が石床に落ちる音が、やけに大きく響く。
……いいえ。
きっと、目からも血が溢れている。
それでも。
――成長した私は。
“ある程度なら”、聖女の力を使えていた。
そう、マヤは言っていた。
――ならば。
「いますぐ……使ってやりますわよ!」
叫んだ瞬間、七色の光が爆ぜた。
地下牢を満たす光は、もはや柔らかな祝福ではない。
暴力的なまでの輝き。
毒と分かっていて、無理やり喉に流し込むような光。
「……っ!」
「こ、これは……!?」
背後で、ハーディが息を呑むのが分かる。
父が言葉を失った気配も、確かに感じ取れた。
「うりゃあああああああああああ!」
私は、獣のように吠えた。
淑女の仮面も、偽聖女の体裁も、すべて投げ捨てて。
ただ、生き残るために。
誰かを守るためだけに。
運命を殴りつけるように。
――みっともなく、吠えて。
「……はあ……はあ……」
アールの背中から、傷が完全に消えたことを確認した、その瞬間。
力が、ぷつりと途切れた。
私は、そのまま、ゆっくりと床へ崩れ落ちる。
「――お嬢様!」
暗闇に落ちていく意識の中で、
アールの声だけが、いつまでも、いつまでも――
耳の奥に、こだましていた。
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【☆あとがき☆】
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