第15話 犠牲と代償
「イデアお嬢様。旦那様がお呼びです」
帰宅して間もなく、執事長ハーディが静かな声でそう告げた。
その一言で、背筋に冷たいものが走る。
……来ましたわね。
一瞬、心臓が跳ねたが、それを悟られるわけにはいかない。
私はすぐに表情を整え、いつものように背筋を伸ばしてハーディの後に続いた。
長い廊下を進むにつれ、靴音だけがやけに大きく響く。
この屋敷において、父の書斎へ向かう時間ほど、空気が重くなる瞬間はない。
――コン、コン。
ハーディが慣れた手つきで扉を叩く。
「入れ」
返ってきたのは、感情の温度を感じさせない短い一言。
ハーディに軽く顎で促され、私は書斎へ足を踏み入れた。
「お呼びでしょうか、お父様」
「うむ」
父は一度もこちらを見ようとせず、机上の書類にペンを走らせ続けている。
インクの擦れる音だけが、静まり返った室内に規則正しく響いた。
……相変わらずですわね。
娘である私に向けられる関心は、ほとんどない。
かつてアレン殿下との婚約が決まった際には、ほんの僅か――父の態度が和らいだ。
もしかしたら、と淡い期待を抱いたこともある。
けれど、それも昨日までの話。
私が聖女の指輪の力を思うように扱えなかった――その一点だけで、父の態度は婚約以前の冷え切ったものへと戻っていた。
「……その後はどうだ」
短い問い。
父との会話は、いつも難解だ。
この人は無駄を徹底的に嫌う。言葉も、感情も、説明も。
だからまず考えるべきは、この「その後」が何を指しているのか。
――間違いなく、指輪の件だろう。
その力を、私は使いこなせているのか。
「……指輪の力を使い、アレン王太子殿下のお怪我を癒しました」
「その報告は、すでにメイド長から受けている」
……メイド長から?
私は思わず内心で舌打ちした。
あのことは、彼女には伝えていないはずだ。
やはり、あの太っちょメイド長――油断ならない。
きっと、どこかで抜け目なく覗いていたに違いない。
「針で刺したような傷だった――ともな」
その言葉と同時に、ぎょろり、と父の眼がこちらを向いた。
獲物を値踏みするような、冷たく鋭い視線。
「……はい」
思わず、視線を伏せてしまう。
父に対する根深い苦手意識と、指輪の力を完全に制御できない自分への後ろめたさが、胸の奥で絡み合う。
だが、父はそれを許さない。
「その指輪の価値を――お前は、本当に分かっているのか」
声は低く、氷のように冷たい。
「……」
喉まで言葉は上がってきているはずなのに、形を成さない。
私はただ沈黙を選ぶしかなかった。
父はそんな私を一瞥すると、眉間に指を当て、小さく――本当に心底呆れたように首を振った。
「その指輪を手に入れるため、多くの者が犠牲になった」
淡々と、まるで天候の話でもするかのように語られる声。
「……お前が聖女となるための、生贄になった者たちだ。彼らの犠牲の上に、お前は立っている」
胸の奥が、ひどく冷える。
「お前はその者たちのためにも、聖女として――正しく、その力を使いこなさねばならん」
正しく。
その言葉が、やけに重く響いた。
「……わかるな」
「……はい」
返事をした瞬間、自分の声が自分のものとは思えなかった。
「大いなる力には、犠牲と代償が付きものだ」
父はそう言い捨てると、椅子から立ち上がる。
「……付いてきなさい」
それだけ告げて、こちらを振り返ることもなく書斎を出て行った。
どこへ行くのか――考えるより先に、身体が強張る。
嫌な予感が、背骨を這い上がってくる。
「イデアお嬢様」
執事長ハーディの声で、ようやく我に返る。
「……ええ」
私は慌てて父の後を追った。
背後から、能面のように無表情なハーディが音もなく付き従う。
――ここは……。
辿り着いたのは、屋敷の奥。
普段は決して立ち入ることのない、地下へと続く階段の入口だった。
隠し通路を抜けると、壁に掛けられた蝋燭が、足元をぼんやりと照らしている。
炎が揺れるたび、影が歪み、まるで生き物のように壁を這った。
父は一切立ち止まることなく、階段を下りていく。
一段、また一段と降りるにつれ、空気が冷たくなっていく。
湿った石の匂い――それだけではない。
鼻を突く、腐臭。
そして、微かに混じる、鉄錆のような――血の匂い。
胸が詰まり、呼吸が浅くなる。
永遠に続くかと思われた階段が終わりに差し掛かる頃、その臭いははっきりとした形を持って、私を包み込んだ。
「……っ」
息を呑む。
そこは、地下牢だった。
左右に並ぶ鉄格子の牢。
中には、趣味の悪い拷問器具が無造作に放り込まれ、床には――人骨らしきものが転がっている。
王都の別邸に、このような場所があることに、眩暈を覚えた。
……いいえ。
シュベルッツベルグ家の別邸に、これがない方がおかしいのかもしれない。
この家が、この世界において“何者”なのかを、否応なく突きつけられる。
地下牢の最奥。
鉄格子の牢とは別に、分厚い鉄扉がひとつ、鎮座していた。
父は迷うことなく、その扉へ向かう。
扉の前で立ち止まると、ハーディが静かに鍵を取り出し、錠を外した。
――ギィィィ。
耳を引き裂くような、不快な金属音。
そして、鉄扉が開いた、その瞬間。
「……っ!」
私は、思わず声を上げていた。
「アール……!」
そこにいたのは、鎖に繋がれ、背中から血を流す新人メイド――
アールの、変わり果てた姿だった。




