第14話 レベルについて
中庭に、鉛のような沈黙が落ちた。
風は吹いているはずなのに、木々の葉擦れさえ、どこか遠い。
この息苦しさに耐えきれず、先に口を開いたのは――私だった。
「……でも、私が倒されなかった未来も、あったんですわよね?」
声が、思いのほか乾いて響いた。
「裏ボスになる、と……先ほど、そう仰っていましたわよね?」
「うん。なるよ」
あまりにも即答だった。
「その世界線では……聖女は、パワーアップしなかったということなのかしら?」
「……ああ、そうだよね。そういうふうに、聞こえちゃうよね」
マヤは困ったように口角を上げた。
いつもの軽やかな笑顔――けれど、それは一瞬で消え、代わりに重たい沈黙が彼女の表情を覆う。
言ってはいけないことを、言わねばならない。
そんな覚悟が、はっきりと見て取れた。
「その時はね……」
マヤは、私から視線を外したまま、淡々と続ける。
「アレン殿下によって、イデアの左腕が斬り落とされたんだ」
「…………」
「……斬り……そう、だったのですわね」
喉の奥で言葉が引っかかり、かろうじて、それだけを絞り出した。
ぞっとして、私は反射的に左腕を抱くように擦っていた。
自分で指を切り落とそうとしたくせに、今さら何を恐れているのか――そう思わなくもない。
けれど。
指と、腕とでは、あまりにも違いすぎる。
「左腕切断死亡エンドかと思ったらさ」
マヤの声は、どこか投げやりだった。
「実は生きてて、闇の女王になってたんだよね」
「……そ、そうですの……」
返事をしながら、私は理解していた。
つまり――
この指輪を外す道は、今のところ存在しない。
一度死を回避したとしても、別の形で“死”はやって来る。
仮に命を繋げば、その代償として、人としての何かを失う。
因果律。
シナリオの強制力。
それは、選択の余地を与えているように見せかけて、結局は逃げ場を塞ぐためだけに存在する、極めて悪質な檻だ。
「……本当に」
私は指輪を嵌めた左手を見つめながら、静かに息を吐いた。
「この世界は……ずいぶんと、意地が悪いですわね」
中庭の空は、どこまでも澄み切っているというのに。
「……それはそうとして」
私は、あえて軽い調子で言葉を切り替えた。
中庭に澱んでいた重苦しい空気を、少しでも動かしたかった――というのは建前で、本音を言えば、これ以上あの話題を続ければ心が先に摩耗してしまいそうだったのだ。
別の話を振って、意識を逸らす。
それもまた、長く生き延びるための立派な処世術である。
「マヤの強さには、本当に驚かされましたわ。同年代の相手に敗北するなんて……正直、想定外でしたのよ」
「四歳から、レベリングしまくったもん!」
えっへん。と胸を張るマヤ。
「……レベリング?」
また一つ、聞き慣れない言葉。
私は小さく首を傾げた。
「レベル上げのことだよ。水晶石でレベルが確認できるでしょ?」
「ええ、それは存じておりますわ」
「じゃあ、イデアの今のレベル、聞いてもいい?」
「最後にお父様に見ていただいた時は……確か、8だったはずですわ」
「六歳でレベル8!? それ、かなり凄いよ!」
マヤは目を見開き、感心したように息を吐いた。
「それだけシュベルッツベルグ家の訓練が、過酷だったってことだね……」
――過酷。
その一言で片付けられるほど、生易しいものではない。
シュベルッツベルグ家に生まれた時点で、「強くなる」ことは選択肢ですらなかった。
それは、呼吸と同じくらい自然で、拒否など許されない前提条件。
離乳食には、ほんの微量ずつ毒が混ぜられる。
赤子の頃から、あらゆる毒耐性を体に刻み込むためだ。
五歳までに、基礎から応用までの暗殺術を徹底的に叩き込まれる。
遊びの時間? そんなものは存在しない。
はじめてモンスターを倒したのは、四歳の頃だった。
「そろそろピクニックにでも行くか」と父に微笑まれ、何も疑わずについて行った先で、私は山奥に一人置き去りにされた。
十日間。
死ぬ物狂いで、私は屋敷へと戻った。
血と泥に塗れ、意識も朦朧とした私を迎えたメイド長は、涼しい顔でこう言ったのだ。
『随分と、長いピクニックでしたわね』
あの声と表情は、きっと一生忘れない。
――その他にも、死にかけた記憶なら、星の数ほどある。
「ちなみにさ」
私の回想を断ち切るように、マヤが言った。
「平民の大人の平均レベルって、知ってる?」
「……存じませんわね」
そもそも、水晶石は高価な代物だ。
平民が気軽に手にできるようなものではない。
冒険者であれば、ギルドに賃金を支払って測定してもらえるが、そうでなければ――自分のレベルを知ることなく一生を終える者も珍しくない。
「だいたい、3から5が平均かな」
「……随分と、低いのですわね」
「普通はこんなもんだよ。モンスターを倒して経験値を得る生活なんてしないからね」
マヤは、指を立てて説明を続ける。
「経験値っていうのは、モンスターや人を倒すと得られる、目に見えない“なにか”なんだけど……それが一定数溜まると、レベルが上がるの」
なるほど。
だから、私は――否応なく、こうして数を重ねるよう訓練を受けてきたのだろう。
ちなみに冒険者の平均レベルは、等級によって大きく異なるらしい。
だが、少なくとも一つだけ、はっきりしている。
六歳でレベル8という数値は、決して「恵まれていた」結果などではない。
それはただ――
生き残るために、そうなるしかなかったというだけの話だ。
「それで……マヤのレベルですけれど」
私は一拍置いてから、できるだけ平静を装って尋ねた。
「いくつですの?」
「26だよ」
「――ふぁっ!?」
あまりの衝撃に、思考が追いつかなかった。
顎が外れそうになり、喉から意味不明な音が漏れる。
「ど、ど、ど……どうしたら、そのような数値になりますの!? いえ、そもそも同年代ではあり得ませんわ!」
「レベル上げのコツがあるんだよね」
マヤは悪びれもせず、肩を竦める。
「あっ、でもね。正直言うと、これ以上はあんまり上がらないんだ」
「……どうしてですの?」
この世界の理を知り尽くしている彼女なら、理論上はいくらでも強くなれそうなものだ。
その疑問が、素直に口をついて出た。
「手に入る経験値が、少なすぎるんだよ」
マヤは指先で空をなぞりながら、淡々と続ける。
「次のレベルに到達するために必要な経験値がね、今の状態だと全然足りないの。……ま、仮に上げられたとしても、あたしの場合、あと四つが限界なんだけど」
「……限界?」
理解ができなかった。
その気配を察したのか、マヤは少し言いづらそうに、けれど隠すことなく答えた。
「限界値っていうのがあるんだよ。あたしのこの身体――マヤ=キリングはね、モブキャラなんだ」
「……モブ」
「物語の中で、居ても居なくても世界に影響しない存在。だから能力値も低めに設定されてるし、レベルの上限も30までなの」
なるほど。
どれほど足掻こうと、どれほど努力しようと、天井は最初から決められている。
しかも、仮に私とマヤのレベルが同じだったとしても――
能力値の差は歴然。マヤの方が、遥かに劣る。
……なんて理不尽な世界なのでしょう。
この世界を創った愚か者は、人の努力を、いったい何だと思っているのかしら。
努力に上限を設け、存在価値に優劣を付けるなど、傲慢にも程がありますわ。
「ちなみにね」
そんな私の胸中などお構いなしに、マヤは続けた。
「本編開始時のイデアのレベルは、15だよ」
「……意外と、低いですわね」
現在のレベルが8。
九年かけて、7しか上がらない計算になる。
「レベルが上がれば、その分必要な経験値も増えるからね。上がりにくくなるのは当然なんだけど……本編開始時にレベル15って、本来はとんでもなく強いんだよ?」
「……お世辞ではなくて?」
「違う違う。本気」
マヤは即座に首を振った。
「九年後のアレン殿下のレベルは5。本物の聖女に至っては、2だよ」
「……」
それが事実なら、確かに――
レベル15は、規格外と言っていい。
「しかも、イデアの能力値は作中トップクラス」
マヤは、どこか誇らしげに微笑んだ。
「さっきも言ったでしょ? 裏ボスになったイデアはね、聖女パーティーが束になってかかっても、なかなか倒せない相手なんだから」
嬉しいような、嬉しくないような。
……正直、複雑ですわね。
強さを誇られているはずなのに、胸の奥に残るのは、言いようのない苦味だけ。
強くなった先に待っているのが、破滅と孤独だと分かっているのなら――
その称賛は、祝福ではなく、ただの予告に過ぎない。
キーンコーンカーンコーン――♪
澄んだチャイムの音が、中庭に幾重にも降り注いだ。
それでようやく、私は時間の流れを思い出す。
……どうやら、午後の授業をすべて逃してしまったらしい。
シュベルッツベルグ家の令嬢として、あまりにもあるまじき失態。
本来なら、背筋が凍るほどの叱責が脳裏をよぎってもおかしくはない。
それでも――不思議と、胸に罪悪感は湧かなかった。
むしろ、今日この時間は、私の人生において間違いなく“必要だった”と、直感が告げている。
それほどまでに、有意義で、濃密なひとときだった。
ふと顔を上げると、空はいつの間にか茜色に染まり、夕陽が学院の白壁を柔らかく照らしていた。
昼と夜の境目。世界が一瞬だけ、静かになる時間。
「……そろそろ戻りませんと。迎えの者が心配してしまいますわ」
「そうだね。イデアは王都の別邸から通ってるんだもんね」
「マヤは……寮から通っているのかしら?」
「うん。そだよ」
マヤはあっけらかんと笑い、何でもないことのように付け加えた。
「ウチ、貧乏だからさ。王都に別邸なんてないんだよね」
――キリング。
確かに、その名の貴族家に覚えはなかった。
けれど、それを気にする様子は微塵もない。
「……よろしければ、今度お茶会にご招待いたしますわ」
「え、ホントに!?」
次の瞬間、マヤはぱっと私の手を取った。
宝石のように輝く瞳をきらきらと瞬かせ、本当に嬉しそうに笑う。
「すっごく嬉しい!」
……そんなふうに無邪気に喜ばれてしまっては、こちらが照れてしまいますわ。
「うふふ」
「えへへ」
小さな笑い声が、夕暮れの中庭に溶けていく。
本当に、不思議な子。
マヤと一緒にいると、胸の奥に沈殿していた重たいものが、少しずつ溶けていくような気がする。
恐れも、不安も、孤独も――完全に消えるわけではないけれど、確かに薄まっていく。
最初は、あれほど避けていた相手だったというのに。
……本当に、私は人を見る目がないですわね。
いえ、だからこそ――今、こうして彼女と出会えたのかもしれませんが。
「あ、そうだ」
別れ際、マヤが足を止めた。
その表情は、これまでの軽やかさとは違い、どこか張りつめている。
「ひとつだけ……大事なこと、伝えておくね」
真剣な眼差しで、私をまっすぐ見つめる。
「これからイデアに起こること。……とても大事だから」
絶対に、忘れないで。
そう念を押すその声に、夕暮れの空気が、ひどく冷たく感じられた。




