第10話 あ、聖女の指輪だ!
マヤ=キリング。
それが、この狂人女の名だ。
「……」
突然やって来て隣に座ったかと思えば、それ以降、彼女は一言も発さなかった。
視線だけを、静かに、執拗にこちらへ向けたまま。
――やはり、この狂人……理解不能ですわ。
何を考えているのか分からない存在ほど、恐ろしいものはない。
かつて父が、酒の席で零していた言葉を思い出す。
「厄介なのは、思考の読めぬ人間だ」
なるほど。
今なら、その意味が骨身に染みて分かる。
そして――恐ろしいだけなら、まだ我慢できた。
問題は、鬱陶しさだ。
授業と授業の間、ほんの数分の休憩時間。
気分転換のつもりで教室を出た私の背後に、気配がぴたりと貼り付いた。
振り返らずとも分かる。
マヤ=キリング。
昼食の時間になっても、それは変わらなかった。
食堂では、さも当然という顔で私の隣に腰を下ろす。
それだけではない。
お花を摘みに行く――つまり、お手洗いに向かうその瞬間でさえ、彼女は離れようとしなかった。
……ここまで来ると、もはや背後霊ですわ。
こうなれば、こちらも手段を選んではいられない。
お手洗いを出た私は、わざとらしく声を上げた。
「あ!」
明後日の方向を指差す。
釣られたようにマヤがそちらへ視線を向けた、その刹那――
私は、全速力で逆方向へ駆け出した。
誇り高きシュベルッツベルグ家の令嬢として、あるまじき行為であることは百も承知だ。
だが、悪霊と化しつつある女から逃げるためなら、背に腹は代えられない。
「シュベルッツベルグ家の女を、なめるんじゃありませんわ!」
廊下を疾走し、階段へ。
私は躊躇なく身を投げるように駆け下りた。
――すたっ。
幼い頃より、暗殺一家シュベルッツベルグ家の長子として、最低限の訓練は受けてきた。
大人相手ならともかく、同年代の六歳児に後れを取るはずがない。
……そう、思っていたのだが。
「はぁ……はぁ……」
十分に距離を取ったと判断し、足を止めて振り返る。
そして――凍りついた。
「……な、なんで……」
そこにいた。
涼しい顔をしたまま、マヤ=キリングが。
息一つ乱していない。
まるで、散歩の延長ですとでも言いたげな佇まいで、じっと私を見つめている。
「どうなっていますの!?」
私の問いに答える代わりに、彼女は一歩近づき――
「イデア、かわいい♡」
そう言って、躊躇いもなく私の頭に手を置いた。
「――不敬ですわ!!」
さすがの私も、堪忍袋の緒が切れた。
男爵家の娘が、公爵家の令嬢の頭を撫でる。
それは礼儀の問題ではない。越えてはならない一線だ。
私はその手を叩くように振り払い、鋭く睨みつけた。
しかし――
当の本人は、まるで通じていない。
だらしなく、楽しげな笑みを浮かべたまま。
――間違いありませんわ。
この女、やはり……狂人ですわ。
「マヤ=キリング! あなたは一体、何者なんですの! どうしてわたくしに付きまといますの! わたくしに何か恨みでもあるのなら――今、この場でおっしゃいなさい!」
堪え切れず、私は嵐のように言葉を叩きつけた。
問いというより、もはや糾弾だ。
だというのに。
マヤ=キリングは、ただ、にこにこと笑っている。
それも――先程より、どこか楽しげに。
「わぁー。本物だ!」
「……?」
意味が分からない。
この学園に、私の偽物でもいるとでも言うのだろうか。
相変わらず、彼女の言葉は文脈というものを持たない。
「でも、まだ悪役令嬢として覚醒はしてないみたいだね」
「悪役……っ。あなた、失礼にも程がありますわよ!」
「本編のイデアはもっとすごいよ。闇が深くて、冷酷で、まさに悪役令嬢って感じ」
「意味が分かりませんわ! あなたの発言は、最初から最後まで意味不明ですの!」
私の怒声にも、マヤは怯むどころか、こてりと小首を傾げた。
まるでこちらが不可解な存在であるかのように。
「前に言わなかったっけ。この世界はゲームだって」
「……あなた、本気でそんな妄言を?」
「うん。本当だよ」
ああ、やはり無理ですわ。
会話が成立しない。
これは気の迷いではない。
明確な精神疾患です。
重度です。
――距離を取らなければ。
そう判断した瞬間。
「あっ! 聖女の指輪だ!」
「……え?」
一瞬、脳が理解を拒んだ。
「わー、綺麗。本当に角度で光の色が変わるんだ」
「……」
「ってことは、もうアレン殿下とは婚約した感じ?」
「……………………!」
言葉が、遅れて、刃のように胸に突き刺さった。
「――――――――!?」
その瞬間、私は理解した。
この女、知っている。
知ってはならないことを。
見てはならないものを。
ひゃぁああああああああああああ!?
声にならない悲鳴を胸の内で上げながら、私は反射的に後退した。
一歩、二歩――気づけば、全力で。
どんっ。
背中が壁にぶつかり、鈍い音が響く。
もう、逃げ場はない。
マヤは変わらず、楽しげに微笑んでいる。
「やっぱり、幼少期のイデアって可愛い♡ あっ、安心して。高等部に上がっても、イデアはずっと可愛いから」
……だめですわ。
この女。
狂人などという生易しい言葉では、到底足りませんわ。
「……っ」
喉の奥で、言葉にならない息が潰れた。
判断は一瞬――いや、もはや思考ですらなかったのかもしれない。
い、いますぐにでもこの女を始末しなければ……シュベルッツベルグ家は終わる。
胸の内に浮かんだその確信は、理屈ではなく血の声だった。
代々、暗殺を生業としてきたシュベルッツベルグ家。その血は、危機に際して迷いを許さない。私の中で眠っていたそれが、冷たく目を覚ましたのをはっきりと感じた。
「――――」
言葉は不要。
すぱっ、と乾いた音を立て、両手でスカートを払うようにまくり上げる。
同時に、内腿に忍ばせていたナイフを二本、ほとんど反射のように投擲した。狙いはマヤの急所――否、正確には、その両脇をすり抜ける軌道。
ナイフの柄頭はリング状になっており、そこには特殊加工された鋼糸が結びつけられている。
私はその糸を手に取り、勢いよく引き戻した。
二本のナイフが空中で交差し、鋭い軌跡を描きながらマヤへと舞い戻る。
その動きに合わせ、私は手首を巧みに操り、鋼糸を彼女の身体へと絡め取った。
ぎり、と音を立て、鋼糸が締まる。
このまま力を込めれば、骨ごと引き裂くこともできる。
それだけの威力を持つ代物だ。
だが――相手は狂人とはいえ、同じ学び舎に通う同級生。
痛みと苦痛は、最小限に抑えて殺す。それが、私なりの最後の慈悲だった。
ならば、狙うべきは一つ。
喉。
袖口に隠していた三本目のナイフを滑り出させ、身動きの取れないマヤへと距離を詰める。
刹那――
ぱんっ!
「――――!?」
乾いた破裂音と同時に、私の視界の先で鋼糸がはち切れた。
一度絡め取られれば、大人でさえ振りほどくことなどできない鋼糸を、マヤは――顔色一つ変えず、いとも容易く断ち切っていたのだ。
「あ、ありえないですわ……!?」
喉が引き攣り、声が裏返る。
ブラックスパイダーの糸を芯に使った、特別製の鋼糸。
刃でも斬るのが困難なそれを、六歳児の力で引き千切るなど――論外。
「ば、化物めっ……!」
恐怖に竦みかける脚へ、無理やり力を叩き込む。
私は後方へと跳び、一気に距離を取った。
一呼吸。
肺に冷たい空気を押し込み、思考を強引に立て直す。
次の瞬間、私は高速移動に入った。
床から壁へ、壁から天井へ。
縦横無尽に跳躍し、視界の端にしか映らぬ速度で空間を駆ける。
――さすがの化物も、この速さには追いつけないはずですわ!
事実、マヤ=キリングは反応できず、その場に立ち尽くしていた。
「――もらいましたわ!」
死角から飛び出し、マヤの喉元へナイフを突き出す。
刃はそのまま、柔らかな肌を貫――
……通さない?
「う、うそ……?」
ナイフは、マヤの喉元の手前で、ぴたりと静止していた。
「……そ、そんな……あ、ありえないですわ……」
私の必殺の一突き。
高速移動から繰り出した、完璧なはずの攻撃を――マヤは、人差し指と親指だけで、まるで小枝でも摘むかのように挟み取っていたのだ。
指先から伝わる感触は、肉ではない。
硬質で、冷たく、そして――底知れない。
背筋を、氷水が這い下りた。




