第1話 死の宣告
「――近い将来、あなたは死ぬよ」
その言葉は、刃物のように鋭く、しかも妙に静かだった。
王立ヒステリック学園初等部に入学して、ようやく一月が過ぎた頃のことだ。
磨き上げられた大理石の廊下を歩いていた私の前に、ひとりの少女が立ち塞がり、前触れもなく、そんな不吉な宣告を突きつけてきた。
「……っ」
本来なら、その場で平手の一つも見舞ってから、礼儀と身の程というものを骨の髄まで叩き込んでやるところだ。
相手が涙を流し、許しを乞うまで罵倒を浴びせる。それが、これまでの私だった。
だが――この時ばかりは、声が出なかった。
ただ、きつく睨み返すことしかできなかったのである。
同い年とは、とても思えなかった。
少女の纏う空気は、幼さとは程遠い。感情の起伏を感じさせない静謐さと、根拠のわからぬ確信が、私の呼吸をわずかに乱した。
――圧倒されたのだ。
この私、シュベルッツベルグ公爵家の令嬢を前にしても、彼女は一歩も引かず、威風堂々とこちらを見据えている。
媚びも、恐れも、計算もない。ただ、事実を告げたにすぎない――そんな目だった。
「な、なんですの、突然……。失礼だとは思いませんの?」
どうにか絞り出した声は、思った以上に硬かった。
彼女の髪と瞳は、この国では珍しい濡羽色をしていた。
光を吸い込むような黒。その奥に、底の見えない影が揺れている。
――ああ、思い出した。
いつも教室の隅に座り、誰とも群れず、誰からも顧みられない少女。
ひどく地味で、存在感が薄いくせに、なぜか記憶の片隅に残るクラスメイトだ。
名前までは覚えていない。
確か、実家は男爵家だったはず――その程度の認識でしかなかった。
対して、私の実家は公爵家。
建国の時代から王家を支えてきた、由緒正しきシュベルッツベルグ家。
その長子である、この私に向かって――
彼女は「死ぬ」と、断言したのだ。
理屈では理解できない。
だが胸の奥で、冷たいものが、ゆっくりと蠢き始めていた。
「あたしはあなたの――イデア=シュベルッツベルグのファンなの」
「…………は?」
耳を疑った。
つい先ほどまで、平然と「近い将来、あなたは死ぬ」と言い放っていた少女が、今度は一転して、まるで舞台女優の告白めいた口調でそんなことを言い出したのだ。
死の宣告の直後に、好意の表明。
常識というものが、彼女の中では粉々に砕け散っているらしい。
――情緒不安定。
この言葉ほど、彼女に相応しいものはないだろう。
「本当はね、干渉せずに、自然の摂理に委ねるつもりだったの」
少女は独白するように続ける。
「でも……あなた、可愛すぎるから無理!」
「え……?」
「こんなに可愛いあたしの“推し”が、悲惨な最期を迎えるなんて、やっぱ無理すぎる! だから決めた。前世の記憶を総動員して、あなたを助けるって!」
「…………」
言葉を失ったとは、まさにこのことだ。
前世。推し。助ける。
意味は一応理解できるが、理解したところで、何一つとして納得はできない。
――この子、完全に精神を病んでいる。
男爵家ごとき分際で、この私に向かって、ここまで無遠慮な物言いができる理由も、それなら説明がつく。
正気の人間でないのなら、礼節も身分も、通用しないのだろう。
関わらないに越したことはない。
そう結論づけ、私は踵を返した。
「イデア」
背後から、名前を呼ばれる。
「あなたは、この世界が“ゲーム”の世界だって言ったら、信じる?」
「……」
――しまった。
突拍子もなさすぎるその問いに、反射的に足が止まってしまった。
立ち止まった自分に、内心で舌打ちする。
だが、ここで何も言わずに立ち去るのは、逃げたようで気に食わない。
シュベルッツベルグ家の名にかけて、そんな真似はできなかった。
ゆっくりと振り返る。
少女は逃げもせず、ふざけることもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見つめていた。
狂人特有の濁りはない。むしろ澄み切った、異様なほど真剣な瞳。
その視線に、ほんの一瞬、足が竦みかける。
「……あなた、一度、精神科で診てもらうことをおすすめしますわ」
「すぐに信じろなんて言わない」
少女は、静かに首を振った。
「だって、あたしがイデアの立場でも、きっと信じられないもん。……でもね」
そこで、彼女は一拍、言葉を切った。
まるで覚悟を固めるように、小さく息を吸い込む。
「これだけは、覚えておいて」
そして――はっきりと、断言した。
「あなたは、悪役令嬢なんだよ!」
その声が、磨き抜かれた廊下に反響する。
空気が、一瞬、凍りついたように感じられた。
――ぷつり。
理性の中で、何かが音を立てて切れた。
気がつけば、私は彼女に向かって歩き出していた。
視界が狭まり、耳鳴りがする。
次の瞬間――
パン!
乾いた音が、はっきりと響き渡った。
我慢の限界だった私は、ためらいもなく、彼女の頬に張り手を叩き込んでいた。
「……私に喧嘩を売りたいのなら」
震えそうになる声を、無理やり抑え込む。
「最初から、そうおっしゃいなさい。――いつでも、買って差し上げますわ」
誇り高き公爵令嬢としての矜持を胸に、私は彼女をきつく睨みつけた。
視線に込めたのは、拒絶と侮蔑、そして――理解不能なものへの本能的な恐怖である。
それ以上、言葉を交わす価値はない。
私はそのまま、再び踵を返した。
「――待って、イデア!」
背後から、あの狂人が私の名を、まるで旧知の友であるかのように気安く呼ぶ。
だが、もう振り返ることはなかった。
あのような正気を疑う者と、これ以上関わり合う理由など、どこにもない。
耳に入ってくる声を雑音として切り捨て、私は前だけを見据えて歩き続けた。
――はず、だった。
「あなたは近々、この国の第一王子となる、未来の勇者――アレン=ロードナイトと婚約することになる!」
歩調が、わずかに乱れる。
「それが、あなたの苦悩の始まりでもあるの!」
背筋に、ひやりとしたものが走った。
「――忘れないで、イデア。どうか、自分を責めないで!」
少女の声は、叫びに近かった。
「お願い……あたしは、あなたに闇堕ちなんてしてほしくない!」
最後の言葉は、切実さを帯びて、廊下の奥へと消えていった。
私は、振り返らなかった。
けれど――その声を、完全に無視できたかと問われれば、答えは否だ。
胸の奥で、何かが微かに、音を立てた。
そして――数日後。
あの狂人の予言は、恐ろしいほど正確に、現実となる。
この私、イデア=シュベルッツベルグが、王国第一王子にして、次代の勇者と目される存在――
アレン王太子殿下の、正式な婚約者に選ばれたのだ。
あの廊下で聞いた言葉が、今さらのように蘇る。
――それが、あなたの苦悩の始まり。
私はまだ、この婚約が意味する“本当の運命”を、何ひとつ理解していなかった。




