2.4 ISSからの分離(T-0)
クルー・ドラゴン「エンデバー」の船内は、張り詰めた静寂に包まれていた。約180日間にわたる宇宙での生活を終え、いよいよISSからの最終的な分離の時が来たのだ。ユウキ・タナカは、宇宙服のヘルメット越しに、目の前のMFD(多機能ディスプレイ)に表示されたカウントダウンタイマーを凝視していた。数字が刻一刻と減っていく。彼の隣にはコマンダーのサマンサ・ライト、その向かいにはパオロ・ベネットが、皆、微動だにせず、来るべき瞬間に備えている。彼らの身体は、既に座席のハーネスに完璧に固定され、カプセルと一体化していた。
その時、ヒューストンのフライトコントロールセンターから、リードフライトディレクター、サラ・コナーの冷静かつ明確な声が、ヘルメットの通信機を通じて響き渡った。
「エンデバー、ヒューストン。分離シーケンス、最終カウントダウンを開始する」
サラの声は、彼らの鼓動と同期するように、コクピット全体に、そして世界のあらゆる管制チームの耳に響き渡った。宇宙空間にいる彼らだけでなく、地球上の何百人もの人々が、この瞬間に息をのんでいることを、ユウキは肌で感じていた。
「T-30秒!」
カウントダウンが始まった。ユウキの心臓が、微かに高鳴る。訓練で何百回と繰り返してきたシーケンスだが、本番の緊張感はやはり別物だった。
「20秒……」
パオロが、ごくわずかに身体を揺らした。その動きは、彼が普段見せる陽気さとは異なる、極度の集中を示すものだ。彼の目もまた、MFDのタイマーに釘付けになっている。
「10、9、8、7、6……」
サマンサは、通信ボタンを握りしめ、前方をまっすぐ見つめていた。彼女の顔には、コマンダーとしての重い責任と、このミッションを完遂する絶対的な決意が刻まれている。
「5、4、3、2、1……」
そして、運命の瞬間。
「T-0、Undocking!」
サラの宣言が響くと同時に、Crew DragonとISSを繋いでいた12基の分離ボルトが爆発的に解放された。
「ドンッ!」
という、ごくわずかな、しかし明確な衝撃が船体に伝わった。同時に、複数箇所から「プシュッ」という、圧縮ガスが解放されるような微かな音が響く。それは、電気的な信号と火薬が連動し、ボルトが瞬時に切断された音だ。まるで、宇宙の巨大な鎖が、音もなく、しかし確実に解かれたかのようだった。その衝撃は、訓練でシミュレートされたよりも穏やかだったが、ユウキの全身の細胞が、その瞬間をはっきりと認識した。
その直後、Crew Dragonは、まるで長い眠りから覚めたかのように、ISSからゆっくりと後退を開始した。その相対速度は、わずか数センチメートル/秒。目に見えるほどの速さではないが、窓の外の景色が、ごく微細な、しかし確実に遠ざかっていくのを感じられる。
ユウキは、窓の外のライブ映像に視線を向けた。眼前に広がっていたISSの結合ポートが、ゆっくりと小さくなっていく。そして、その背後に、巨大なISSの全体像が、徐々に視界に収まり始めた。
「壮観だ……」
パオロが、感嘆とも安堵ともつかない声を漏らした。
ISSは、宇宙空間に浮かぶ人類最大の建造物だ。巨大なトラス構造に、数々のモジュールが連結され、その両翼にはサッカー場ほどの大きさのソーラーパネルが巨大な翼のように広がり、陽光を浴びてキラキラと輝いている。それは、まるで彼ら3人を見送る、未来の神殿か、あるいは宇宙のクジラのような、雄大な姿だった。約半年間、彼らの命を守り、彼らの生活と研究活動を支えてきた、間違いなく彼らの「家」だった。その家が、今、彼らの視界からゆっくりと遠ざかっていく。
ユウキは、静かにISSに視線を向け、宇宙服のヘルメット越しに、心の中で敬礼した。半年間、この「宇宙の家」が、彼らを無事に宇宙空間に滞在させてくれた。苦しい時も、楽しい時も、常にそこにあった、巨大で頼りになる存在。感謝の念と、微かな郷愁が彼の胸に込み上げた。彼らは今、完全に孤独な存在となり、地球へと向かうのだ。
「エンデバー、良好な分離を確認。安全距離を維持せよ」
サラ・コナーの声が、再び通信機に響いた。ヒューストンの管制センターでは、メインスクリーンに、ISSとCrew Dragonが分離していくリアルタイムの映像が映し出され、各担当者がそれぞれのコンソールでデータを監視している。全てが計画通りに進んでいることを確認し、管制官たちの間にも安堵の空気が広がる。
Crew Dragonは、ISSからおよそ200メートル離れたところで、その動きを止めた。そして、次の重要なフェーズが開始される。
「エンデバー、初期離脱軌道クリア。姿勢制御、開始」
サマンサの指示に従い、Crew Dragonの自動システムが作動した。微かなDracoスラスターの噴射音が聞こえ、船体がゆっくりと、しかし確実に回転を始めた。ユウキのMFDには、船体が目標とする再突入方向へと向きを変えていく、リアルタイムの姿勢データが表示される。それは、地球の引力に効率的に捕まり、安全かつ正確な軌道で大気圏へ突入するための、最適な角度だ。
回転が止まったとき、ユウキのヘルメットのバイザー越しに、眼下の地球が、彼らが目指すべき最終目的地として、その巨大な青い姿を現した。地球は、彼らの宇宙での旅の始まりの場所であり、終わりの場所でもある。
「いよいよ、地球への最終的な旅立ちだ」
パオロが、感慨深げに呟いた。その言葉に、ユウキも深く頷いた。彼らの心には、達成感、そしてこれから訪れる過酷な再突入への覚悟が入り混じっていた。ISSとの別れは、宇宙での生活の終わりを意味し、同時に、故郷へと還る新たな旅の始まりを告げる、決定的な瞬間だった。
彼らはもう、振り返ることはない。彼らの前には、地球の青い空と、愛する家族が待つ「約束の地」があるだけだ。