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スペースX帰還  作者: 未世遙輝
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2.2 姿勢制御システムの最終チェック(T-1時間30分前)


クルー・ドラゴン「エンデバー」の内部に、微かな、しかし独特な音が響き始めた。「シューッ……シューッ……」という、短いガス噴射の連続音だ。それは、宇宙服越しにもはっきりと伝わる、ごくわずかな振動を伴っていた。船体に設置された複数のノズルから推進剤が噴出し、それを感知したセンサーが、自動的に次の噴射を促しているのだ。

ユウキ・タナカは、MFD(多機能ディスプレイ)に表示されたDracoスラスターのシステムダイアグラムを凝視していた。そこには、クルー・ドラゴンの球体状の船体に配置された16基のDracoスラスターが、それぞれ独立した緑色のランプを点滅させていた。これは、姿勢制御システムの最終テストが始まったことを意味する。ISSからの分離後、そして地球へと向かう軌道離脱噴射の際に、クルー・ドラゴンが自律的に正確な姿勢を維持するために、このシステムは不可欠だ。宇宙船の姿勢がわずかでも狂えば、大気圏への再突入角度に致命的な影響を及ぼし、燃え尽きるか、あるいは地球の表面を跳ね返ってしまうかのどちらかになる。

「Dracoスラスター、テストシーケンス開始。燃料ライン圧力、確認」

コマンダーのサマンサ・ライトが、冷静な声で指示を出した。彼女は自身のMFDで、システム全体の健全性を監視している。画面には、各スラスターの燃料タンク残量、推進剤の供給圧力、ノズル温度など、おびただしい数の数値がリアルタイムで更新されていく。

「圧力、安定。燃料残量、規定値内です」

ユウキは即座に応答した。彼の視線は、数値を正確に追っていた。液体燃料推進剤である一メチルヒドラジンと四酸化窒素の反応によって得られる推力は、宇宙空間での精密な機動を可能にする。その供給ラインに異常があれば、命取りになる。彼の経験上、このシステムは極めて信頼性が高いが、それでも最終確認は絶対に怠れない。

隣の座席にいるパオロ・ベネットは、別のMFDで個々のスラスターのデータを詳細に確認していた。彼の目は、計器の数値一つ一つを、まるで生き物の鼓動を聞くかのように丁寧に読み取っていく。

「Draco-1、噴射圧力、3.5バール、持続時間0.1秒。Draco-2、3.4バール、0.1秒……全てグリーン、コマンダー。ノイズレベルも異常なし」

パオロは、いつも冗談を口にする陽気な男だが、この瞬間ばかりは真剣そのものだった。彼の顔からは、一切の茶目っ気が消え、代わりに鋭い集中と、技術者としての厳しさが浮かんでいた。彼の耳は、スラスターの微かな噴射音の中に、わずかな異音や不規則な振動がないかを聞き分けていた。宇宙空間では、人間の感覚が頼りになることもあるのだ。

「よし、パオロ、ありがとう。ユウキ、推進剤消費量も確認」

「了解、コマンダー。テストシーケンス中の消費量、予測値と一致します」

ユウキは、計算された予測値と実際の消費量を照らし合わせ、その誤差が限りなくゼロに近いことを確認した。これは、スラスターが期待通りの性能を発揮しており、推進剤の無駄な消費がないことを意味する。

その間、数千キロメートル離れた地球のヒューストン。ジョンソン宇宙センターのフライトコントロールセンターでは、リードフライトディレクターのサラ・コナーが、巨大なメインスクリーンと彼女自身のコンソールに表示されるDracoスラスターのテレメトリーデータをリアルタイムで監視していた。彼女の厳格な目は、何千もの数値の中から、わずかな異常の兆候をも見逃さない。

彼女のコンソールには、クルー・ドラゴンから送られてくる全てのデータが、瞬時に表示される。スラスターの点火回数、各ノズルの温度、燃料流量、圧力、そしてカプセルの姿勢変化を示す角速度計のデータ。これらの数値が、彼女の脳内で高速に処理されていく。

「Draco-5、パルス長、微細なバラつきあり。トレンドを確認」

サラは、コンソールに向かって指示を飛ばした。隣に座る推進系担当のフライトコントローラーが、すぐにそのデータに焦点を当てる。数秒後、そのコントローラーから報告があった。

「ディレクター、Draco-5、過去のログと照合しましたが、許容範囲内のバラつきです。異常なトレンドは見られません」

「よし。全体の燃料残量、再確認。デオービットバーンに十分な量か?」

「ディレクター、メインタンク、補助タンクともに、規定値を大きく上回っています。予備も十分です」

サラは、小さく頷いた。彼女は、全てのシステムが完璧に機能していることを確認しなければならない。宇宙飛行士たちの命を預かる彼女の責任は、計り知れないほど重い。彼女の判断一つが、ミッションの成功と失敗、そしてクルーの生と死を分けるのだ。

クルー・ドラゴン船内では、テストシーケンスが最終段階に入っていた。Dracoスラスターは、微細な推力を発生させながら、クルー・ドラゴンの姿勢を宇宙空間で完璧に安定させていく。まるで、見えない手がカプセルを宙に固定しているかのようだ。

「Dracoスラスターテスト、コンプリート。全てのパラメーター、グリーン」

サマンサの声が、コクピットに響き渡った。彼女の顔には、安堵と共に、次のステップへの集中が浮かんでいた。

パオロは、自分のMFDの画面を閉じ、身体をシートに深く沈めた。冗談は一切ない。彼の陽気な笑顔は、任務の完了を示すプロフェッショナルな表情へと変わっていた。

ユウキは、改めてMFDのタイムラインを確認した。Dracoスラスターのテストが完了したことで、地球への帰還に向けた大きな関門の一つがクリアされたことになる。彼の心に、確かな手応えが生まれる。

ヒューストンでは、サラ・コナーが全てのデータが「グリーン」であることを確認し、大きく息を吐いた。彼女の顔の緊張が、ごくわずかに和らぐ。

「エンデバー、ヒューストン。Dracoスラスター、クリア・フォー・デオービット。次のステップへ進め」

サラの声には、微かな達成感が込められていた。彼女の指示は、クルー・ドラゴンを、そしてその中の3人の宇宙飛行士を、地球への最終的な旅路へと送り出す、最終的な許可となった。宇宙は広大で容赦ないが、その過酷な環境に挑む人類の技術と、それを支えるチームの連携は、常にその一歩先を行っていた。

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