2.1 地上との交信開始(T-2時間前)
クルー・ドラゴン「エンデバー」の内部は、ISSからの完全な物理的隔離を終え、まるで宇宙の深淵に浮かぶ孤島のようだった。船内の空気はECLSSによって完璧に制御され、穏やかな機械音だけが響く。だが、その静けさの中にも、これから始まる大気圏再突入という、生命を賭けた最終章への微かな予感が漂っていた。帰還まで、あと2時間。
ユウキ・タナカは、宇宙服のヘルメット越しに、目の前のMFD(多機能ディスプレイ)を凝視していた。彼の隣にはコマンダーのサマンサ・ライト、そしてその向かいにはパオロ・ベネットが座している。3人とも、完全に座席に固定され、指先で計器類を操作する以外、身体を動かすことはほとんどない。この姿勢は、来るべきG負荷に備えるためのものだった。
その時、ヘルメットの通信機に、微かなノイズの後に、聞き慣れた声が響いた。それは、何千キロも離れた地球、テキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センターに設置された、フライトコントロールセンターからの声だった。
「エンデバー、ヒューストン。通信テスト、どうぞ」
その声の主は、今回の帰還ミッションのリードフライトディレクター、サラ・コナーだ。彼女の声には、常に確かな自信と、微塵の曖昧さも許さない厳格さが宿っている。彼女は、何百ものサブシステムと、地球と宇宙に散らばる何千人ものチームメンバーを、その声一つで動かすことができる。
コマンダーのサマンサが、通信ボタンを押した。
「ヒューストン、エンデバー。通信クリア。準備はいいか?」
サラの問いかけは、単なる定型文ではない。それは、クルーの精神状態を推し量るための、最初のチェックポイントでもあった。この緊迫した状況下で、クルーがどれだけ冷静に、的確に応答できるか。
「ヒューストン、エンデバー。準備万端です、コマンダー」
サマンサの声は、一切の動揺を見せず、クリアだった。彼女の声には、重厚な落ち着きと、揺るぎないプロフェッショナリズムが宿っている。彼女の返答が、地上のサラ・コナーの顔に、ごくわずかな、しかし確かな満足の表情を浮かべさせたことを、ユウキは想像した。
次に、パオロが自身のステータスを報告した。
「ヒューストン、パオロ。身体状態も良好、システムも良好。いつでも行けるぜ!」
彼の声は、いつも通りの陽気さを保っていたが、その言葉の端々には、張り詰めた集中が感じられた。緊張とユーモアを絶妙に混ぜ合わせるのが、パオロの得意技だった。
ユウキも、自身のMFDのチェックリストを確認しながら、落ち着いた声で報告した。
「ヒューストン、ユウキ。ECLSS、電力、推進系、全てグリーン。異常なし」
彼の一言一句は、正確で、無駄がない。日本人宇宙飛行士特有の、細部へのこだわりと、徹底した確認の習性が、彼の報告にも表れていた。
「了解、エンデバー。では、最終確認に入る。MFDにミッションタイムラインを表示。各員、自分のチェックリストと照合せよ」
サラの指示が響く。ユウキのMFDには、ミッションのタイムラインが秒単位で表示された。軌道離脱噴射(Deorbit Burn)の時刻、大気圏再突入のポイント、パラシュート展開の高度、そして着水時刻。全てが緻密に計算され、そこに一分の狂いも許されない。
ユウキは、自身の視線誘導装置(Eye Tracking System)と連動するカーソルで、MFD上のチェックリストを一つずつたどっていった。
* T-1時間50分前:通信系最終リンクチェック — 完了。
* T-1時間40分前:ナビゲーションシステム再同期 — 完了。ISS分離後の軌道計算の再確認だ。
* T-1時間30分前:Dracoスラスター最終ステータス確認 — 燃料残量、ノズル温度、圧力。全てが規定値内。
この数時間で、彼らが確認すべき項目は膨大にあった。しかし、彼らは訓練で、これらのチェックリストを何百回、何千回と繰り返してきた。指先が、考えるよりも早く、ディスプレイを操作していく。
船内には、これから始まる重要かつ不可逆なプロセスへの、微かな、しかし確かな緊張感が漂っていた。それは、物理的な圧力というよりも、精神的な重圧に近い。一度軌道離脱噴射を行えば、彼らは地球へと向かう弾道軌道に乗り、宇宙空間へと引き返すことはできない。彼らの運命は、この小さなカプセルと、地上の管制チーム、そして彼ら自身の訓練とプロフェッショナリズムにかかっていた。
しかし、彼らクルーは、その緊張感をプロフェッショナリズムで押し殺していた。彼らの顔には、感情よりも、来るべきタスクへの集中が明確に見て取れる。訓練とは、この瞬間を「日常」に変えるための、途方もない努力の積み重ねなのだ。
サマンサは、時折、二人のクルーの顔をちらりと見ていた。ユウキの静かな集中。パオロの陽気さの奥に潜む真剣さ。彼女は、彼らの能力を信じていた。そして、彼らもまた、コマンダーとしての彼女の判断を信じていた。この、見えない信頼の連鎖こそが、ミッションの成功を支える最大の要素だった。
「エンデバー、次。再突入経路の最終パラメータ確認。MFDメインディスプレイに表示」
サラの声が再び響く。MFDには、複雑な数学的軌道を示す線が描かれ、再突入地点、着水地点が明確に示されていた。これは、彼らが帰還するべき、地球上のピンポイントを示している。わずか1度のズレが、着水地点を数百キロメートルも狂わせることを、彼らは知っていた。
ユウキは、その数値を彼の頭の中でシミュレーションした。地球の自転、大気の密度変化、風向、風速。全てが、この軌道に影響を与える要素だ。しかし、クルー・ドラゴンの自律システムは、それらの要素を考慮し、最も安全で正確な経路を算出してくれている。彼らは、そのシステムの99%以上の成功率を信じていた。
「エンデバー、ヒューストン。最終確認は順調だ。素晴らしい作業だ、クルー」
サラの言葉には、ごくわずかな、しかし温かい賞賛の響きが込められていた。それは、彼女の厳格なプロフェッショナリズムの裏にある、クルーへの深い信頼と尊敬の表れだった。
ユウキは、その言葉に、静かな満足感を覚えた。彼の視線は、MFDから、ヘルメットのバイザー越しに見える窓の外へと移った。漆黒の宇宙空間に、青と白の地球が、息をのむほど美しく輝いている。あの青い星が、彼の故郷であり、家族が待つ場所だ。そして、彼は今、その故郷へと帰還するための、最終的な扉を開こうとしていた。その扉の向こうには、灼熱の試練が待ち受けているが、彼にはそれを乗り越える覚悟があった。