2.13 最後の抵抗
クルー・ドラゴン「エンデバー」は、3基のメインパラシュートに吊るされ、メキシコ湾上空を降下していた。正確には、完全展開されたのは2基、そしてもう1基は半開きで機能不全を起こしている状態だ。 高度は数百メートルを切り、船内は奇妙な浮遊感に包まれている。ユウキ・タナカの身体にかかる重力は、もはや地球上と変わらないレベルまで戻っていた。しかし、その心臓は、これから訪れる最後の瞬間への期待と緊張で、微かに高鳴っていた。
窓の外に広がるのは、息をのむような青一色の世界だ。上空から見下ろしていた雲の絨毯ははるか上方に去り、眼下にはどこまでも続く青い水平線が、美しい弧を描いている。それは、宇宙から見下ろした地球の地平線とはまた異なる、より身近で、現実的な水平線だ。太陽の光が水面に反射し、キラキラと輝いている。
高度がさらに下がるにつれて、その青い水平線は急速に迫り、細部が鮮明になっていく。ユウキの目には、メキシコ湾の波が、かすかに視認できるようになった。波頭が白く砕け、それが繰り返される様子は、生命に満ちた地球の鼓動そのものだった。遠くには、かすかに船影が見える。彼らを回収するための船団だ。
「ヒューストン、エンデバー。着水まで、あと30秒」
コマンダーのサマンサ・ライトの声が、ヘルメットの通信機を通じて響いた。彼女の声は落ち着いているが、その中に、最終局面への張り詰めた集中が感じられた。
ユウキは、身体をシートに深く沈め、シートベルトを締め直した。着水時の衝撃に備えるためだ。訓練で何百回も経験した着水シミュレーションが、脳裏を駆け巡る。水面への衝突は、決して穏やかなものではない。たとえパラシュートで減速されていても、時速24キロメートル未満という速度は、それでも人間にとってかなりの衝撃となる。
パオロ・ベネットもまた、緊張した面持ちでシートベルトを締め直し、深く息を吐き出した。彼の陽気な笑顔は消え、その顔には、これから来る瞬間への真剣な覚悟が刻まれている。3人のクルーは、互いに視線を交わした。言葉は要らない。彼らの瞳の奥には、同じ緊張と、そしてこの長い旅を終わらせるという、確固たる決意が宿っていた。
高度計の数値が、秒速で減少していく1000メートル、900メートル……。
その時だった。
「コマンダー!垂直速度が異常です!制御不能な加速!」
パオロの叫び声が、ヘルメットの通信機に響き渡った。
ユウキのMFDに表示された垂直速度計の数値が、狂ったように跳ね上がっていた。時速24キロメートルどころではない。30km/h、40km/h、50km/h……と、信じられない速度で上昇していく。これは前章でユウキが確認した「メインパラシュート、一つが未展開、もう一つは半開き」という状況が、想定以上の減速不足を引き起こしている証拠だった。
「メインパラシュート、負荷限界を超過!断裂の恐れ!」
サマンサが、怒鳴るような声で叫んだ。窓の外に目をやると、未展開だったパラシュートが、強風にあおられて激しくバタつき、そのキャンバスの一部が「ビリビリッ!」と音を立てて裂けていくのが見えた。 さらに、半開きだったもう1基も、完全に風を捉えきれず、激しい振動を起こしながら、その形状を保てなくなっていく。 他の完全に開いているはずの2基も、過度な負荷に耐えきれず、わずかに歪み始めている。
「パラシュートが、もたない!」ユウキが絶叫した。彼の脳裏には、数分前にMFDに表示された「PARTIAL DEPLOYMENT」の黄色い警告と、「CANOPY NOT DEPLOYED」の赤い警告が、鮮明に蘇っていた。あの時、完全に開かなかったパラシュートが、今、彼らを死へと導こうとしている。
「ヒューストン!メインパラシュートが機能不全!緊急用逆噴射を試みます!」
サマンサが通信ボタンを握りしめ、必死に叫んだ。だが、その返答はなかった。ブラックアウトは解除されたはずなのに、通信はまたしても途絶えているかのように、ヒューストンからの応答はない。
「くそっ!緊急噴射!マニュアル起動だ!」
サマンサは、操縦桿の隣に設置された、緊急逆噴射ロケットのマニュアル起動ボタンに手を伸ばした。彼女は、それを躊躇なく押し込んだ。だが、コクピットには何も変化は起きない。ロケットの噴射音も、起動を示すランプも点灯しない。
「まさか……ロケットもダメなのか!」パオロが、絶望に顔を歪ませた。
MFDの緊急噴射システムのダイアグラムには、依然として**「THRUSTER SYSTEM: ERROR. MANUAL OVERRIDE DISABLED」**の文字が、彼らを嘲笑うかのように赤く点滅している。再突入時の姿勢制御エラーの伏線が、最後の最後で彼らに襲いかかったのだ。
カプセルは、制御不能な塊となって、メキシコ湾の海面へと一直線に突っ込んでいく。垂直速度計の数値が、加速度的に上昇し続けている。80km/h、100km/h、120km/h……。時速数十キロでの着水を想定していた彼らにとって、これはジェット機が墜落するのに等しい速度だった。
窓の外の海面が、もはや巨大なコンクリートの壁のように見えた。波の一つ一つが、巨大な山脈のように迫り来る。
「衝撃まで、あと10秒!」
サマンサの声が、もはや指示というよりも、最後の警告のように響いた。彼女は、恐怖に顔を歪ませながらも、毅然とした表情で操縦桿を握りしめ、前方をまっすぐ見つめている。
ユウキは、シートベルトを締め直すことすら忘れていた。彼は、ただ、目の前の海面を凝視していた。娘のアカリの顔が、妻の優しい笑顔が、彼の脳裏を駆け巡る。彼らを抱きしめることは、もうできない。
「神よ……」パオロが、最後の祈りをつぶやいた。彼の目は、大きく見開かれ、恐怖に満たされていた。
5、4、3、2、1……。
そして――。
2.14 砕け散る夢
「ドオォォォォォォンッ!!!!!」
宇宙から響くとは思えない、耳を劈くような、地獄の業火のような轟音が、メキシコ湾に轟いた。Crew Dragon「エンデバー」は、時速100キロメートルをはるかに超える猛烈な速度で、容赦なく海面に激突した。
衝撃は、想像を絶するものだった。カプセルを覆っていた分厚いPICA-X製耐熱シールドは、水面の硬い打撃によって、まるでガラスのように粉砕された。その破片が、灼熱の大気圏突入で受けた損傷と相まって、内部へと無慈悲に突き刺さる。
ユウキの身体は、シートベルトとエアバッグの防御を嘲笑うかのように、シートから叩き出された。激しいGと衝撃が、彼の内臓をねじ曲げ、骨を砕く。ヘルメットのバイザーに、血と破片が飛び散るのが見えた。彼の視界は、一瞬にして真っ赤に染まった。
「ウガァアアアアア!!!」
パオロの、人間とは思えないような断末魔の叫びが響いた。彼の身体は、拘束具ごと引きちぎられ、金属の残骸と化したコクピットの壁に叩きつけられた。彼の宇宙服は破れ、そこから鮮血が噴き出す。
サマンサは、最期まで操縦桿を握りしめていた。だが、その腕も、そして頭部も、激突の衝撃でシートごと粉砕された。彼女の身体は、原形を留めないほどの損傷を受け、瞬時に、彼女の意識は永遠の闇へと消え去った。
カプセル内部は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。爆発的な衝撃によって、全ての計器類が破壊され、配線から火花が散り、システムは完全に沈黙した。海水が、粉砕された外殻から濁流となって船内へ流れ込み、一瞬にして内部を満たしていく。
ユウキの意識は、すでに薄れかけていた。彼の身体は、もはや感覚を失っていた。冷たい海水が、破れた宇宙服の隙間から侵入し、彼の身体を包み込む。彼の視界に映るのは、ただ、水面に映る陽光の、歪んだ輝きだけだった。
「……あ、か……り……」
ユウキの唇から、最後の、そして愛する娘の名前が、泡となって水中へと消えていった。
Crew Dragon「エンデバー」は、メキシコ湾の海面に衝突した衝撃で、原型を留めないほどの残骸へと砕け散った。爆発的な水しぶきが数百メートルにも達し、空には白いメインパラシュートの残骸が、まるで破れた夢のように舞い上がった。
回収船団が現場に到着したとき、彼らが見たものは、メキシコ湾に広がる無数のカプセルの破片と、海面に浮かぶ、微かに残る油の膜だけだった。生命の痕跡は、どこにも見当たらなかった。
2.15 深淵の海へ
ヒューストンのフライトコントロールセンターでは、メインスクリーンに映し出された、激しい水しぶきの後に残された残骸の映像を見て、管制官たちが凍り付いたように立ち尽くしていた。
「…エンデバー、着水衝撃。カプセル、完全破壊」
フライトコントローラーの一人が、掠れた声で報告した。
「クルー……全員、喪失を確認。繰り返します、全クルー、喪失」
サラ・コナーは、通信ボタンを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。彼女の頬を、止めどなく涙が伝う。その涙は、悲しみだけでなく、彼らを救えなかった自責の念、そして宇宙の無慈悲さに対する絶望の涙だった。
この日、メキシコ湾の深淵は、宇宙への挑戦がもたらした、三つの尊い命と、砕け散った夢を飲み込んだ。地球に帰還するはずだったCrew Dragon「エンデバー」は、故郷の海を墓標とし、その悲劇は、宇宙開発の歴史に、決して消えることのない深い傷跡を残した。




