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スペースX帰還  作者: 未世遙輝
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1.3 宇宙服という第二の皮膚(T-8時間前)


ISSとの最終交信を終え、クルー・ドラゴン「エンデバー」のハッチが閉ざされるまで、あと数時間。船内は、これから始まる大気圏再突入という過酷な試練に向けた、静かな緊張感に満ちていた。ユウキ・タナカは、自身の座席に身を滑り込ませた。未来的な白いSpaceX製の宇宙服が、ハーネスに吊るされた状態で、彼の目の前に浮かんでいる。まるで彼のために誂えられたかのように、完璧な流線型のデザインだ。

この宇宙服は、ISSでの船外活動に使われるEMU(船外活動ユニット)とは根本的に異なる。EMUが「ミニチュアの宇宙船」であるならば、このSpaceX製スーツは、高G環境下の衝撃から身体を守り、万が一の船内減圧に備える「第二の皮膚」と表現すべきだろう。重さ約10キログラムと軽量でありながら、船内環境に最適化されたこのスーツは、彼らが安全に地球へ帰還するための、最後の防衛線となる。

ユウキは、まず頭からヘルメットをかぶる。一体型のバイザーは広く、視界を遮らない。次に、腕と脚をスーツの袖と脚に通す。ぴったりと体にフィットする素材は、しなやかでありながら、どこか硬質な感触があった。肩から腰、そして太ももへと、自動で密着する機構が作動する。最後に、生命維持用の umbilical がヘルメット後部とスーツ右太ももにある接続ポートにカチリと嵌め込まれる。宇宙服は、彼から独立した存在ではなく、彼の生命活動を支える延長線上のシステムとなる。

「どうだ、ユウキ? サイズは問題ないか?」

サマンサ・ライトの声が、ヘルメット内部の通信機を通じて聞こえてきた。彼女自身もすでにスーツを着用し終え、その姿はまるで未来の戦士のようだった。彼女のスーツもまた、彼女の鍛え上げられた身体に完璧にフィットしている。

「コマンダー、問題ありません。まるでオーダーメイドのようです」

ユウキは、冗談めかして答えた。身体の各部にスーツが密着する感覚は、心地よいとすら言えた。この密着こそが、再突入時に彼らを襲う強烈なGから、身体への負担を軽減するための重要な要素なのだ。

次に、彼らの身体を座席に固定するハーネスを締める。肩、胸、腰、太もも、そして足首。まるでF1レーサーのシートベルトのように、何本ものベルトが彼の身体をがんじがらめにする。締め付けが強すぎれば血流を妨げ、緩すぎれば衝撃吸収能力が落ちる。彼は訓練で培った感覚で、最適な締め付け具合に調整した。

パオロ・ベネットも、隣の座席で同じ作業を進めている。彼の宇宙服姿は、どこかコミカルに見えるが、その手つきは真剣そのものだ。彼はイタリア人特有の陽気さを持ち合わせているが、ことミッションの安全に関しては、妥協を一切許さない。

「よし、全員ハーネスは最終チェックだ。次に、気密試験を開始する」

サマンサの指示が飛んだ。これが、彼らの命を乗せる「第二の皮膚」が、宇宙の過酷な環境から彼らを確実に守れるかどうかの、最初の、そして最も重要なテストとなる。

ユウキは、右手のパネルを操作し、気密試験プログラムを起動した。スーツ内部に空気が送り込まれる微かな「シュルシュル」という音が聞こえ、同時に宇宙服全体が、まるで風船のようにゆっくりと膨らんでいくのを感じた。宇宙服が膨らむことで、内部の圧力が上昇し、微細な空気漏れがないかが検証されるのだ。

ヘルメット内部のゲージが、ゆっくりと上昇していく。ユウキは、その針の動きを真剣な眼差しで見つめた。もし、針が安定せず、微かにでも下がり始めるようなことがあれば、それはどこかに空気漏れがあることを意味する。たとえ髪の毛一本分の小さな穴であっても、宇宙の真空では致命傷になりかねない。

コクピット内は、静寂に包まれていた。聞こえるのは、スーツが膨らむ微かな空気の音と、彼ら3人の、やや荒い呼吸音だけだ。パオロは目を見開き、ゲージの動きから片時も目を離さない。サマンサは、自身とクルーのゲージを交互に確認し、その顔には微かな緊張が走っていた。

数秒後、ユウキのゲージの針が、安定した位置で止まった。完璧だ。彼の心に、安堵の波が広がる。続けて、サマンサとパオロのゲージも「グリーン」ランプを点灯させた。

「よし、全員スーツ気密、問題なし。プロシージャ、コンプリート」

サマンサの声が、張り詰めた空気を打ち破った。その声には、微かな安堵の色が滲んでいた。ユウキは、シートに深く身体を沈めた。宇宙服が、彼の身体の隅々までぴったりと密着し、彼と一体化したような感覚に包まれる。それは、彼がもはや個人の存在ではなく、このクルー・ドラゴンという「生命の船」の一部、いや、「Crew Dragonの一部」として機能するための準備が整ったことを示していた。

このスーツは、彼が地球で着用するあらゆる衣服とは異なる。それは単なる布切れや装備品ではない。これは、宇宙の極限環境から彼を守る、生命維持システムそのものだ。再突入時の衝撃、高G、そして万一の船内環境の異常。この宇宙服が、それら全てに対する彼の最後の盾となる。

ユウキは、目を閉じて、スーツの内部で脈打つ自分の鼓動を感じた。スーツの肌触り、空気の匂い、そしてハーネスの締め付け。全てが、彼を地球へと誘う準備の一部だ。彼は、このスーツを身につけることで、宇宙飛行士という役割を再認識し、同時に地球への帰還という使命を全身で受け止める。

パオロが、小さな声で歌を口ずさみ始めた。イタリアの古い民謡だろうか。その歌声は、緊張を解きほぐし、彼らの心を和ませる。サマンサは、ヘルメットのバイザー越しに、ユウキとパオロの顔を順に見た。彼らの表情には、覚悟と、そして確かな信頼が宿っていた。

「さあ、地球へ行こう」

サマンサが、誰にともなく呟いた。その声は、ヘルメットを通して、ユウキの心に深く響いた。宇宙服は、もはや彼らから独立した装備品ではない。それは、彼らが宇宙から地球へと帰還するための、彼ら自身の延長線上に存在する、まさに「第二の皮膚」だった。

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