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スペースX帰還  作者: 未世遙輝
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第1章:別れと誓い 1.1 最後の宇宙生活(T-24時間前)


ISSの「きぼう」日本実験棟は、静謐な宇宙の海に浮かぶ、人類の知性と情熱が結晶した巨大な構造物だ。その内部は、金属とケーブルと計器類が織りなす機能美に満ちているが、この半年間、ユウキ・タナカにとっては紛れもない「家」だった。透明な窓枠の向こうには、息をのむほど美しい青と白の地球が、悠然と自転を続けている。あと24時間で、彼はその青い星へ帰還する。

「ユウキ、水分補給は足りてるか? 再突入は容赦ないぞ」

頭上で身体を固定したまま、サマンサ・ライトが声をかけてきた。NASAのベテランコマンダー、彼女の言葉には常に確信と経験に裏打ちされた重みがある。ユウキは首を振って微笑んだ。

「問題ありません、コマンダー。最後の数時間を最大限に活用しています」

彼は、自身の個人区画に設えられた簡易的な運動器具に向かった。ゴムバンドを使った低負荷のレジスタンス運動と、自転車ペダルのようなフットループを回す有酸素運動。無重力環境下での運動は、地球上とは全く異なる。身体を固定しなければ、ペダルを回す反作用で自分が回転してしまう。宇宙飛行士にとって、地球帰還前のこの調整は極めて重要だ。約180日間の宇宙滞在で、彼の筋肉は確実に萎縮し、骨密度も低下している。特に、体液が重力に引かれず上半身に留まる「体液シフト」の影響で、顔はむくみ、下半身は細くなっている。地球の重力が戻れば、この逆転した体液バランスは正常に戻ろうとするが、その過程でめまいや立ちくらみ、最悪の場合は意識喪失を引き起こすこともある。それを軽減するためにも、綿密な水分補給が欠かせない。

ユウキは、専用のウォーターパックから一口、また一口と水を飲んだ。味気ないただの水だが、細胞の一つ一つに行き渡るような感覚があった。隣では、ESAのミッションスペシャリストであるパオロ・ベネットが、腕立て伏せのような動きをしていた。彼もまた、重力への再適応に備えているのだ。

「フゥーッ……いやはや、帰還前の運動はいつまで経っても慣れないね。まるで、重力の準備運動だ」

パオロが額に微かな汗を浮かべながら、いつもの陽気な声で言った。その声に、ユウキの心にも微かな笑みが浮かぶ。宇宙の静けさの中での、仲間との何気ない会話が、彼らの心を支える何よりも大切なものだった。

運動を終え、ユウキは再び窓へと向かった。「きぼう」の窓は、人類が宇宙に開いた目に等しい。そこから見える地球は、生き物のように呼吸している。白い雲が渦巻き、青い海が広がり、大陸の茶色い大地が複雑な模様を描く。半年間、彼は毎日この景色を見てきた。初めて見た時の、全身を震わせるような感動は、今や静かで深い愛着へと変わっている。

このISSで過ごした日々は、彼の人生で最も濃密な時間だった。実験装置のトラブルシューティングに徹夜で取り組んだこと、月齢の違う子どもたちの写真を仲間と見せ合ったこと、そして、宇宙から見るオーロラの幻想的な光景。一つ一つの記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。ここが、まぎれもなく彼の「宇宙の家」だった。その家を、彼はもうすぐ離れるのだ。

しかし、そのノスタルジーと共に、地球への強い思いが募る。彼の心の中には、いつも家族の姿があった。特に、10歳になる娘のアカリの顔が鮮明に浮かぶ。地球を発つ前、アカリは小さな宇宙飛行士の絵を描いてくれた。ヘルメットをかぶった宇宙飛行士が、大きなハートマークの地球に手を伸ばしている絵だ。その絵は、彼の個人区画の壁に、宇宙飛行士の誓約書と共に貼られている。

「パパ、気をつけて行ってらっしゃい。早く帰ってきてね」

あの時のアカリの声が、今も耳に残っている。彼は、指先で窓ガラスをなぞった。地球が、彼を呼んでいる。

「ユウキ、バイタルチェックの時間だ」

サマンサの声が、思考の海から彼を引き戻した。ユウキは軽く頷き、手首に専用のセンサーを装着した。

バイタルサイン(心拍、血圧、血中酸素飽和度)の計測は、宇宙飛行士にとって日常的なルーティンだ。だが、今日はいつもとは違う。これは、地球への帰還に向けた最終チェックの一つなのだ。彼の身体が、これから訪れる過酷な再突入のストレスに耐えうる状態であるか、地上管制が最終的に判断するための重要なデータとなる。

小型モニターに、彼の心拍数が表示される。62bpm。やや高めだが、これは興奮のためだろう。血圧は120/80mmHg、血中酸素飽和度は99%。全てが正常値の範囲内だ。センサーから得られたデータは、直ちにISSのメインコンピューターを経由し、地球上のヒューストンと日本の管制センターへと送信される。

「コマンダー、バイタル、全てグリーンです」

ユウキは落ち着いた声で報告した。サマンサも自身のデータをチェックし、同様に報告する。パオロは「よし、これで地球の医者も安心するだろう」と陽気に言って、データを送信した。

データが送信された後、ユウキは再び窓の外の地球を見た。地球が、彼を迎え入れる準備をしているように見えた。しかし、その美しさは、同時に彼の心に微かな緊張感をもたらしていた。

これまでの宇宙滞在は、全てが計画通りに進んできたわけではない。実験装置の故障、ISSの姿勢制御問題、そして数度のデブリ回避マヌーバー。それらを乗り越えるたびに、彼は宇宙空間における人類の存在の脆弱性と、それに対する技術とチームワークの偉大さを痛感してきた。

しかし、再突入はそれら全てを凌駕する。時速約2万8000kmで大気圏に突入し、灼熱のプラズマに包まれながら、正確な角度で地球へと滑空していく。それは、制御された墜落に他ならない。ほんのわずかな計算ミスやシステムの不具合が、取り返しのつかない結果を招く。

ユウキは、静かに目を閉じた。訓練で叩き込まれた手順、シミュレーションで何百回も経験したブラックアウトとG。頭の中では、すでに帰還のシーケンスが始まっていた。身体の隅々まで、緊張が張り詰めていくのを感じる。

彼は再び目を開け、窓の外の地球をまっすぐ見つめた。そこには、彼の愛する家族がいる。この半年間、彼らもまた、彼が無事に帰ってくることを信じて、地球で待っていてくれたのだ。

「必ず帰る」

心の中で、ユウキは誓った。この宇宙での最後の24時間は、単なる身体の準備期間ではない。それは、宇宙飛行士としての彼が、再び地球人へと還るための、静かで厳かな儀式の始まりだった。


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