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呪文師樒

呪文師樒の萬相談所前日譚 〜それは噴水から始まった〜


「だから! 帰りに食事に行こうと言っているだろう!」

ランコムはなかなか頷かないエルネスタに声を荒げた。


またやっている、と少し不快感を滲ませた表情で周囲の学生がチラッと二人を見る。騒ぎの中心にいるのはランコム・クルーゲ伯爵令息とエルネスタ・キージンガー侯爵令嬢。


「俺が誘ってるのに嬉しくないことあるか? 婚約者の俺が!」

「嬉しくはないです。なぜあなたからのお誘いを私が喜ぶ前提で話を進めるのですか?」

「は?」

「そもそもランコム様との婚約は白紙に戻っていますので、婚約者ではありません。今は好意もないので一緒に食事をするなど、拷問と変わりありません」


「拷問……白紙?」

「二週間くらい前に白紙になりましたよ? ご存じないのですか? 常々私に対するご不満がおありだったのでしょう?」

「俺が? そんなことを言ったことがあったか?」

「ランコム様ではなく代わりの方が」


「代わり?」

「ええ。罵詈雑言が書かれた大量のお手紙もいただきましたし、ゲルダ様から直接『彼はあなたを愛してなどいない。解放して』と」

「ゲルダ……俺の従姉妹のゲルダか?」

「バーディ伯爵家のゲルダ様と名乗られましたよ? 従姉妹の方でしたか。そういえばよく似ていらっしゃいましたわ」

「会う機会などあったか?」

「屋敷に突然いらっしゃいまして」


「屋敷に?」

「ええ。学園がお休みの日に先触れもなく。使用人が静止する声が聞こえたかと思うと、女性が温室に入ってこられたのです。その上二鉢の植木を持ち去られてしまいました。左手と右手に一つずつ」


「ゲルダが鉢植えを許可なく持ち去ったと言ったのか? とんでもない濡れ衣だ。恐らく彼女は善意で鉢植えを持って出たのだ。それをなぜその様に悪し様に言うのだ」

「善意で? あの鉢植えは温室の中でないと綺麗に咲きません。やっと蕾がついたところでしたのに、外に出してしまってはもうこの暑さで枯れてしまったでしょうね。王妃様のための薔薇ですのよ? どういう了見での行動なのか御教えいただけますか?」


「ゲルダが持ち帰ったのだとしたら、善意以外のナニモノでもない。彼女はそういう人なんだ。お前と違ってな」


「あの、温度管理を徹底している状況下でないと花開けぬ植物を野生に持ち出すことの意義とは何でしょう」


「意義だの何だの相変わらず頭でっかちな事を言う。お前が望んだ婚約なのになぜ俺をもっと尊重しないんだ!」

「侵入経路の調査と警備体制の見直しなど、こちらは大変だったんですよ? あと、私は望んでいません!」

「嘘をつくのはやめろと言うのに」


「エルネスタ、そろそろ授業が始まるぞ」

アルフォンス・フリューア公爵令息がエルネスタに声をかけた。アルフォンスはエルネスタの同級生で、公爵家の三男。文武両道で実直だと評判の男性。


「アルフォンス、今授業どころではないんだ」

学年が上なだけの伯爵令息ランコムは公爵令息アルフォンスを睨んだ。アルフォンスはランコムを視界には入れず、エルネスタに微笑みかけながら言った。

「エルネスタはどう思う?」

「私は」

「女に意見を聞いてどうする!」

声を荒げたランコムはアルフォンスに鋭い視線をぶつけられて口を閉じた。


「婚約は白紙です。あなたの指図には従いません」

今までに見たこともないようなエルネスタの冷たい視線。

「やっとあなたとの婚約が白紙になったと言うのに、もう関わらないでください」


アルフォンスはエルネスタの肩に手を置いて笑いかけた。

「エル、戻ろう」

「アル、ありがとう」

「今、エルネスタは僕の婚約者だ」

アルフォンスは振り返ってそう告げると、エルネスタをエスコートして教室へ入って行った。


ランコムはその様子を呆然と見送った。理解が追いつかない。教室の入り口を見たまま立ち尽くしていた。するとアルフォンスが戻ってきた。

「ゲルダは君の従姉妹だそうだな?」

「ああ。従姉妹であり、幼馴染だ。バーディ伯爵家の第一子。女だがな」


「バーディ伯爵家のゲルダ嬢は数年前に儚くなられたと聞いたのだが、君が会ったと言うゲルダ嬢はどちらのゲルダ嬢なのか」

「儚く? 確かに幼い頃は病弱だったが……」

「病弱だという認識はあったのだな? 君が噴水に彼女を突き落としたというのも事実か?」


「突き落としただなんて誤解だ。噴水に座っていたゲルダに挨拶をしただけで」

「挨拶、か。物陰から突然現れて驚かせたのだろう? 驚いてバランスを崩したゲルダ嬢は噴水に落ちた」


「あの時のゲルダはまるで化け物の様だった。水の中から長い髪を振り乱して這い上がる姿。それにも怯まず、俺は彼女を助けた」

「君はもう一度彼女を噴水に沈めているね?」

「誤解だ。水が滴る彼女の形相に驚いてしまって、うっかり手を離してしまっただけだ。その後駆けつけた彼女の護衛がゲルダを抱き上げたのだから、特に問題はない」


「うっかり、ね。全て事実だったのか」

「何がだ?」

「ゲルダ嬢はその時の汚染されていた水が原因で亡くなっている。長く病んでいただろう?」

「いや? 元気になって俺としょっちゅう遊んでいたが?」


「そもそも葬儀があっただろう?」

「ここ数年の間に誰のだかよく分からない葬儀はいくつかあったが、それがゲルダだったと言うのか? 彼女は毎回俺と一緒に参列していたぞ」


「なるほど。では質問を変えよう。バーディ家の噴水に何か入れたことはあるか? 生き物とか飲み物とか」

「え? ああ、そういえば浜で捕まえた綺麗な生き物を入れたことはある」

「青かったか?」

「そうだな。青くて綺麗だったからゲルダに見せてやったんだ。あまり外に出かけないから」


「自分で捕まえたわけではないね?」

「もちろんだ。使用人が。そういえばあいつ最近見ないな」

「自覚もなし、ね。何にせよ、今後エルネスタに近付くのはやめてくれ。流石に分かるな?」


「権力をチラつかせて愛し合う婚約者を引き裂くというのか? 横暴だ」

「いやいや、エルネスタはお前を愛していない。いい加減現実を見ろよ」

「クルーゲ伯爵家から抗議させてもらう」

「……ご自由にどうぞ」

フンッと言い捨ててランコムはその場を去った。


長いため息を吐いたアルフォンスが教室に戻ると、エルネスタが駆け寄って来た。

「どうだった?」

「彼はもうダメだ」

「そう……」

「帰りの馬車で話そう。キージンガーに僕も同行させてほしい。屋敷内まで送り届けたい。いや、そのまま僕も滞在させてもらおうかな」


「いずれアルには侯爵家に入ってもらう予定だし、ちょうどいい機会かもしれないわ。では、今日はこのまま一緒に」

「ああ。先触れを出しておこう。ヴィン!」

アルフォンスが手招きをすると、同級生の一人が近づいてきた。


「エル、こちらは僕の専属の執事をしてくれているヴィン。ヴィンツェント・メイニュート伯爵令息だ。文武両道のとても優秀な男なんだ。最近別件で動いていたから紹介するのは初めてだったよね」


「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。ヴィンでございます。末永く主人共々お仕えできましたら至極の喜びでございます」

簡易ではあるが、エルネスタはヴィンの騎士としての忠誠を受け取り、名を呼ぶ許可を与えた。ヴィンは軽く会釈をしてから教室を出て、諸々の手配をしに行った。


「ヴィンは僕の執事兼護衛としてこの場にいるんだ。細身だが自分よりも体格の良い者にも負けない。僕の影の者と戦っても半分くらいには勝てるんじゃないかな。もし興味があったら鍛錬の日に見学することもできるよ?」


「素晴らしいわ。キージンガーの騎士団の面々にも見学させてもらいたいわ。彼らは一度不名誉を被っているから」

「なぜ侵入されたかも含め、お義父上を交えて相談しようと思っていたんだ。警備や改装の注文が多くてすまない。僕との縁談で君には負担をかけてしまうね」


「そんな風に言わないで。ランコム様の件では私があなたに負担を」

「エルの安全のためだから負担でも何でもないよ」

「ありがとう。本当に心強いわ。あなたに声をかけてもらえて幸運だったわ」


授業後、二人はヴィンが手配した馬車に乗り、キージンガーの屋敷に向かった。馬車の中では二人きり。ヴィンは御者席に乗っていた。

「僕にはエルが初めてだったんだ。君の手を取るのがなぜ僕ではないのかと考えた自分に驚いた。そんな欲が初めて芽生えたんだ」

アルフォンスが右手を差し出すとエルネスタは自分の右手をそこに乗せた。アルフォンスは優しくその手を持ち上げると、手の甲に唇を寄せた。


「エルは僕が守る。愛しいエル。エルの全てが愛しい。あなたの笑顔が曇ることのないよう、尽力すると誓うよ」

「アル……嬉しい」

馬車が急停車した。体が傾いたエルネスタをアルフォンスが支えた。御者台にいたヴィンが彼の背後にある小窓を開けてアルフォンスに声をかけた。


「申し訳ございません。市井の者が馬車の前で転倒しまして」

「ではその者を避けて進もう。可能か?」

「そう、ですね。はい。大丈夫そうです。少し揺れますのでお気をつけください」


エルネスタは意図していなかった方向への揺れで体がアルフォンスの方へ傾いた。そのままアルフォンスの胸の中に倒れ込んでしまった。

「ごめんなさい」

慌てて離れようとしたエルネスタをアルフォンスが抱きしめた。


「公爵家の馬車を狙ってこちらの善意を逆手に取って襲ってくる者がいるから、こちらから助けを出すことは止められているんだ。冷たいと思うかもしれないが、本当に怪我人だった場合は僕の影の者たちが対応してくれるから心配しないでほしい」


「そのような方々がいるのですね。王家と縁があることの大変さが少しだけ分かったような気がします」

「王家の祖先のやらかしがまだ影響しているんだ。嘆かわしいことだよ。未だに王族は市井の者に弱いと思われているんだ。すぐ恋に堕ちてしまうと。たった一人の王族のせいで、王族の誠実さが疑われるようになった」


『運命の愛』に踊らされた王族の話はほとんどの貴族家の者が子に孫に伝えているだろう。エルネスタも母から聞いた。


「ランコム様もそうなのでしょうか」

「そう、と言うのは?」

「『運命の愛』のお相手がゲルダ様……でしょうか」

「いずれ分かることだが、我々は違う可能性を考えている。そもそも運命の愛なんてどこにでも転がっている。それこそ人の数だけあると僕は思う。僕の読みが正しければランコムの件は通常とは異なる。どうしたい? 恐ろしい目に遭うかもしれないとしても知りたい?」


「そう、ね。知りたいわ。知らないよりは知って後悔をする方がいいと思うの」

「分かった。実は守り切れるかどうか少し不安だったんだ。でもいい伝手があってね、ヴィンが」

ちょうどその時、小窓からヴィンが侯爵家への到着を告げた。


その夜の晩餐は和やかだった。アルフォンスは人を笑顔にするのが上手で、ランコムと婚約していた時には味わえなかった、婚約者がいて両親がいて満たされる心。幸せな未来の予兆。この時のエルネスタは間違いなく幸せだった。


警備の者以外、皆が寝静まった頃のことだった。


「きゃー!!!」


エルネスタの叫び声が響いた。

「エル!」

アルフォンスがエルネスタの部屋に続く扉を開けると、そこには真っ赤なドレスを着た長い髪の女性が立っていた。


アルフォンスはエルネスタに駆け寄って抱きしめた。夜着姿のエルネスタに気付き、近くにあったナイトガウンを手繰り寄せて着せた。彼女の体を抱きしめ、侵入者の女性を見た。


虚なその女性の顔を見てアルフォンスは絶句した。

「……ランコム?」

ランコムが女装しているように見えた。アルフォンスの腕の中でエルネスタは震えていた。その女性はゆっくりとアルフォンスに視線を移した。


「いいえ。私はゲルダよ」

目を見開いたアルフォンスとエルネスタはお互いを見た。機械音が混ざったかのような違和感のある声でゲルダは話し始めた。


「ランコムが許せないの。ねえ、ランコムはまだあなたを諦めていないわ。なぜなの? 彼は私を愛しているの。私を忘れて他の女と過ごそうとする彼が許せない。私以外に良い顔をするあいつが憎い! ねえ、あなたはランコムが好き?」


エルネスタは泣きながら首を横に振った。

「……いいえ。いいえ! 大嫌いです!」

「ならいいわ。許してあげる。ランコムを愛するのは私だけでいいの」

ゲルダは自分の体をを愛おしそうに抱きしめた。


「ふふふ。ランコム、あなたを愛しているのは私だけよ。他は全部まやかしなんだから。早くこっちにいらっしゃい。ああ、楽しみで仕方がないわ。ずっと一緒よ? ねえ、ランコム。なぜ私を噴水に突き落としたの?」

バシャッという音がした。続いてドサッという音がして、ゲルダから剥がれ落ちるようにランコムはその場に倒れ込んだ。


「え? 水……?」


ゲルダは両手を広げて交互に見た。アルフォンスにはゲルダからランコムがこぼれ落ちたように見えた。一人から二人に分かれたゲルダ。宙に浮いた赤いドレス姿のゲルダと床に倒れ込んだランコム。ゲルダは若干色が薄い。怯えたエルネスタはアルフォンスに縋りついた。アルフォンスもエルネスタをしっかりと抱き締めた。


「聖水よ、その者を浄化せよ!」

突然一人の男性が現れ、聖水をその女性に振り掛けた。

「嫌あぁー!!!」

聖水が当たった所が溶けるように消えていく。溶けてなくなった箇所を慌てて見つめる。ゲルダはランコムの体に逃げ入ろうとしたが、弾かれて入れない。苛ついた様子で周囲を見回し、鋭い眼差しを四方に向けた。


「許さない。お前も呪ってやる。くそ! どこから聖水をかけてるんだ! 見えない!」


その間もゲルダは水をかけられていた。ブツブツと何かを言いながら水を掛ける。かなりの水をかけた後手を止めて、その男性は胸元から鏡を取り出した。東国の着物のような服装をしている。彼はゲルダに鏡を向けた。


「ギャー!!!」


鏡はゲルダを吸い込んだ。全て吸い終わると男性はすぐさま首からかけていた長い数珠で鏡をグルグルと巻いた。鏡にゲルダを封じ込めることができたようだ。


「シキミ様! ありがとうございました!」

アルフォンスが喜色満面で声をあげた。

「間に合って良かった。ヴィンから連絡を貰って急いで駆け付けました。完全な悪霊になる前で良かった。この者は責任を持って持ち帰り、ご供養させていただく」


「エルネスタ!」

ちょうどそこへエルネスタの両親が駆け付けてきた。

「良かった。無事だったのね。まさかこんなに急に物事が動くなんて思っていなかったわ」


深夜ではあったが、シキミから簡単に説明を、と言われてエルネスタの部屋に椅子が運び込まれた。シキミは封印用の箱にゲルダを封じた鏡を入れた。長い時間をかけて彼女の霊を慰める必要があるのだと言う。


エルネスタは白湯を受け取って一口飲んだ。身体に染み渡るその温かさに涙が溢れた。アルフォンスは侍女から受け取った布で涙を丁寧に拭いた。仲睦まじい二人の姿に両親はホッと息を吐いた。今度の婚約は上手くいきそうだ。


シキミは部屋の中を確認するように一巡すると、静かに話し始めた。

「ゲルダ嬢の霊がランコム殿に取り憑いていたのだと思われます。彼への恋情、嫉妬、そういった感情も強いですが、何よりも命を落とすきっかけになった出来事が尾を引いているようです。怒り、恨み、嘆き。何の落ち度もない自分がなぜこのような目に遭うのか、最初はそのような感情だったようです。成仏できず、ランコム殿への執着に縛られて彷徨ううち、様々な感情を拾い集めてしまった。たくさんの負の力を集めてついに可視化できるほどになった。私はそのように感じました。本来のゲルダ嬢は読書を愛する物静かな女性だったのではないでしょうか」


室内に何とも言えない感情が満ちた。部屋の床にはまだランコムが倒れている。ランコムの周囲には三角錐に盛られた塩が小皿にのせられ、四方を囲うように置かれていた。シキミと一緒にきた男性が並べていた。

「ん。んん」

ランコムが気付いたようだ。


「うっ。誰だ? ここはどこだ?」

「ランコム君」

キージンガー侯爵が声をかけた。

「どこまで覚えている?」

「なぜ侯爵がここに? どういうことです? 風呂に入ろうとした所までは覚えています」


「ゲルダ嬢のことで、何か言いたいことはあるか?」

キージンガー侯爵はシキミに視線で促されてランコムに尋ねた。


「ゲルダは私の従姉妹で、凄く親切で良い人です。エルネスタには見習ってほしいとずっと」

「シキミ様、いかがですか?」

キージンガー侯爵がシキミに声をかけると、無視されたと感じたのかランコムはムッとしたようだった。


「誰なんです? さっきから不愉快でなりません」

ランコムを見る周囲の人が全員残念そうな表情をした。

「さっきからなんなんですか! その不愉快な男を部屋から出してください! 侯爵!」

苛立ったランコムは感情を爆発させて大きな手振りで訴えた。


「ランコム殿」

シキミは一枚の紙をランコムに渡した。人の形のようにも見える白い紙をランコムは嫌なものを見たとでもいうように眉間を寄せた。

「この紙の形代にあなたの穢れを移します。形代に息を吹きかけて体に擦り付けてください」


「それ嫌だ。触りたくない」

ランコムは立ち上がって塩で作られた四角の中から出ようとしたが見えない壁があるようで出られなかった。

「いったい何をしたんだ! なぜだ? 出られない!」

苛立った様子のランコムはエルネスタを睨んだ。


怯えたエルネスタをアルフォンスはランコムから見えないように包み込んで自身の背中を彼に向けた。

「こんなに人の恨みを集めたのは珍しいですよ」

シキミが嬉しそうにランコムに笑いかけた。突然真剣な顔つきに変わった。


「その結界から出られないのは、あなたがタチの悪いのに取り憑かれているからです。ああ、あなた山で悪さをしましたね。山神様の怒りもかったようだ。そんなにてんこ盛りでなぜ無事だったんでしょう? ああ、ゲルダ嬢が守ってくれていたのですね。ゲルダ嬢がご自身の死の真相を知り、守るのをやめた。その間も次々と掃除機のように怨霊を吸っていった。いやはや、特異体質ですね」


「うるさい! 早く俺をここから出せ!」

ランコムの形相が変わる。目が血走り、大きく広がった口元には牙のような鋭い歯が見える。

「異形の者になってしまいましたか。人の心というのはただ人としてあるだけでは満足せず、なぜ他者を虐げて自身のみが良くあろうとするのか、なぜそれを許されると思うのか。哀しいことです。『永久に開かれし天の道よ。塩の四角に囚われし者を清め賜え。この者に集まりし数多の者よ、全てを放し悠久の彼方に旅立たれよ。我、この世と彼方の船頭なり。光の川を上る船を操る者なり。唵其全解捨光航渡世』」


無数の叫び声が聞こえる。宙に浮いたランコムは手のひらを上に向け、身体は反り気味で、虚空を睨みつけながら怨嗟の表情を浮かべている。老若男女の苦しそうな声が聞こえて、エルネスタは耳を両手で塞いだ。


シキミはブツブツと聞きなれない文言を呟きながら、瓶に入った水をランコムに何本もかけ続けた。シキミと一緒に入室した男性たちが次々と部屋へ水入りの瓶を運び込んでいる。


「きえーい!!!」


数珠を掲げ、険しい顔つきでシキミが叫んだ。あまりの迫力に部屋が揺れたように感じた。その気合いを浴びてスッと穏やかな顔に戻ったランコムはそのまま床に倒れ込んだ。また気を失ったようだ。かなりの量の水が撒かれたはずなのに、不思議なことに床は全く濡れていなかった。


「お疲れ様でした」

シキミとそのお付きの方々は互いを労い合っていた。

「これで終わります。ランコム殿に巣食っていた悪しき者は全て成仏いたしました。ご安心ください」

キージンガー侯爵にそう伝えると、侯爵はただ首を縦に振った。シキミは床に倒れているランコムを指差して言った。


「お引き取りしましょうか」

「頼めるか? 伯爵家の方でも持て余すと思うんだ」

侯爵がそう言うと、

「もちろんです。全てお任せください。この業界は信用第一ですから」

「助かる。今後何かあれば声をかけてくれたまえ」

「こちらこそ貴重な人材をありがとうございます。相殺出来ぬほどですので、また何かの折にお声がけ頂ければありがたく思います」

シキミは侯爵にお辞儀をして、お付きの方々はランコムを抱え上げて、部屋の掃除を丁寧にしてから帰って行った。


夜中ではあったが、すぐにそのまま眠る気も起きず、談話室で温かい紅茶を飲むことになった。

「まさかエルネスタが狙いだったとは……」

「なぜ私がランコム様をお慕いしているなどという勘違いを……」

「ランコムがあまりにも自信満々だったからではないだろうか」

「確かに。ゲルダ様はランコム様の側にいたんだものね。ランコム様の方を信じるわよね。アルがシキミ様を呼んでくれていなかったら、今頃どうなっていたか分からなかったわ。ありがとう」


「ヴィンのお手柄なんだ。侯爵家の温室に侵入された経路が分からなかっただろう? あの後ヴィンの慎重な聞き取り調査によって、警備に穴がなかったことが判明した。どう考えても通常の『人』だったら不可能な動きだったんだ。ヴィンの交友関係を辿るとシキミ殿に辿り着いた。好奇心旺盛で研究者気質のヴィンのこれまでの全ての行動がなかったら、エルを守ることができなかったと思うと、ヴィンには感謝しかない」


「あの、シキミ様はどういう?」

「呪文師というらしい。その状況に適した呪文を瞬時に作り出し、困り事を解決するのを生業にしているそうだ。東国の出身で全て独学だと言っていた」

「独学で! 凄いお方なのね」

「まあ、でも最近は教え導いてくれる方がいるようだよ」


「そうだわ! 騎士団の皆も労わないと。人ならざる者のせいで、不愉快な思いをさせてしまったわ」

「そうだな」


「アルフォンス様、シキミ殿がお帰りになられました」

「ヴィン、ご苦労。今、ヴィンのおかげで助かったのだという話をしていた」

「痛み入ります。凄いのはシキミ殿です」

「何か感謝の品を贈りたいのだが。ヴィンとシキミ殿二人に」


「シキミ殿はランコムという貴重な霊媒体質の者を手に入れたいご様子。先程玄関先でランコム殿は植木鉢盗難の件で逮捕され、たまたまその場にいたクルーゲ伯爵家嫡男、ランコム殿の兄上ですね。彼から廃嫡を言い渡されたようです。盗んだ王妃様の植木鉢を伯爵家の庭に隠していたのが大きな騒動となりまして。大事(おおごと)にせず処理する代わりにシキミ殿を預かろうと交渉中なのです。可能ならばその費用と後押しをいただきたいのですが」


「分かった。キージンガーの警備に問題があったと思われるのも良くないから、それは僕が交渉しよう。あと、その植木鉢はどうなった?」

「シキミ殿が浄化してもいいと言ってくださっています。というのも、清浄な人による清浄な水が必要な植物なのだそうで、穢れたランコムが関わったことで変質してしまい、庭中が生い茂って大変なことになったようです」


「では、それも含めて僕が対処しよう」

「よろしくお願いします。友人のことですし、私への感謝の品は不要、とお答えしたいところなんですが、そのぉ、店舗を一軒頂けたらと思います」


「ほう! 何の店を開きたいんだ?」

「呪文師(しきみ)の萬相談所を」

「シキミ殿の店か。需要がありそうだな。それに異国の方々には王都内に店を構えるのは難しいことだと聞く。いいよ。エルの命の恩人だ。僕の資産が許す範囲で店舗を構えるがいい」

「私の資産からも一部寄附しますわ。命の恩人ですもの」

「お言葉に甘えて。見積もりが出来次第お持ちします」

「分かった。楽しみにしているよ」



シキミとヴィンの二人はキージンガー侯爵家の後ろ盾を得て相談所を開店した。数年で他国からの依頼も来る程の有名な相談所に発展。名声を轟かせた。その後のキージンガー侯爵家の発展とシキミの関係は知る人ぞ知るお話。






恋愛ジャンルで書き始めたら、途中で話がホラーになった時が一番怖かった

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