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骨壺に納められた彼女は、祖父母の仏壇に静かに佇んでいる。
帰ってきて貰った動物用の線香に火をつければ、甘い匂いがした。パッケージには『野に咲く花の香り』と書いてあったが、なんとはなしに「恋人が好きそうな香りだな」と思った。
犬嫌いの祖母の遺影に、母と二人「いじめないでよね」と声をかける。
母は、買い物に行かなきゃと外出していった。代わるべきか考えつつ、きっと身体を動かしているほうが気持ちが沈まずにいられるんだろうと見送る。
どっと身体に疲れが出た気がした。
自室に戻り寝転ぶと、ゆるゆると睡魔が襲ってきた。寝てしまおうか。
一時間ほどうとうとしていただろうか。
起きていたはずだが、夢を見た気がした。
母が帰宅し、また少し賑やかになる。
眠気があるものの、寝れそうにはなくてスマホのメモ帳にゆるゆるとあったことを綴る。
外した首輪をいつもの位置で輪にして母が「笑美ちゃん首こんなにちっちゃかったのにね」と言った。
それでも指二本入るくらい余裕あったよ、とは言わなかった。
昼も海鮮だったが、夜は刺身だった。
母は今日は飲みたいと缶を開けた。
私は変わらずに文字を綴っていた。
時折、彼女の姿を探した。
椅子の下にもいない。ソファーの上にもいない。椅子の上で丸まっていることもない。
食べこぼしに反応したり、飲水をねだりに来ることもない。
不思議な感覚だ。
確かな喪失感がありつつも、心は冷たくなかった。時折ふとした拍子に視界が滲んだが、耐えらないほどではなかった。
酒で口を滑らかにした母が言った。
「笑美ちゃんはまだここにいるから」
四十九日まではここにいるんだから、と繰り返すのは、自分に言い聞かせているようでもあった。
「寂しがり屋だからね」
私も頷いた。
この世に思い残すことなく成仏して欲しいという気持ちがありつつ、彼女は死してなお私たちのそばにいるほうが気持ちが安らかなのかもしれないと思う。
呼んでも「わん!」と鳴かない犬だった。
来客に吠えることはあるかな、トラックや猫が来ると外に向かって吠えていたなと思う。
「笑美」
そう呼べば、いつだってぱっと振り返った。
大きな瞳はいつもしっとりと濡れていて、黒い瞳が「なあに?」というようにこちらを見ていた。
文字を綴る指が止まらない。
夕方の眠気はどこかに消えてしまった。
このまま、寝てまた少し忘れてしまう前に、全て書き留めてしまおうかーー。
零時半を過ぎた後、ふと耳をすませた。
彼女が深夜にクシャミをしたりする時の名残だった。異常があってはこまると、時折耳をそばだてていたのだ。
ああ、暗闇から彼女の息遣いが聞こえることももうないのだ。
それがなんだかどうにも虚しくて。
私は携帯をぽいと放った。暑さがじんわりと滲む中、冬用のかけ布団を抱いて目を閉じた。
朝、彼女のいない道をひとり歩く。
運動の理由付けに彼女の散歩があった日々が遠い昔のようだ。
昨日の雨が嘘のように今日の空は青みの強い快晴だ。昨日寝付けなかったぶん、寝不足の気だるさに私は顔をしかめた。
今日、母と妹は、彼女の写真を印刷してくるのだという。
私も気持ちが落ち着いたら、自分用に小さなアルバムを作ろうか。夏の訪れを感じさせる陽射しは私を少し明るくさせた。
ふと、ペットが亡くなったことを『虹の橋を渡った』と表現することを思い出す。
ーー今日、うちの子が虹の橋を渡りました。
SNSにそんな書き出しが綴られているのを見たことがあった。
火葬場でそんなことをかかれているであろう一枚の紙を渡されたが、その時は読む気になれずにいた。
貰った紙を見ずに、Google検索に『虹の橋を渡る』と打ち込むと、今時らしくAIが要約してくれたものが表示された。
目を通すと、彼らは虹のふもとで私たちを待っているのだという。
元気な姿を取り戻し、草原を駆け、楽しくすごしているが、たったひとつの心残りが共にすごした飼い主がいないことだという。
私たちが死んだ後、虹のふもとで彼らと再会し、寄り添いあって天国へ行くらしい。
そうなのか。
虹の橋を渡ったーーと表現するけれど、虹の橋は渡らないのか。
すとんと、心にそれは落ちた。
そうだよな。
寂しがり屋で甘えん坊で、でもちょっと猫っぽさがあって素直じゃない彼女のことだ。
ひとりさっさと天国に行くことなんてあるはずなかった。
私よりは、母が先に逝くだろう。
母が天国へ行く時、彼女も母と連れ添って本当の意味で天国へと向かうのだろう。
ぴぃぴぃとどこかで鳥が鳴いている。
彼女はまだ私たちの家にいるだろう。
家にいるのが難しくなったなら、虹のふもとで大人しくしているのだろう。
彼女はまだ、虹の橋を渡らない。
気持ち一つで書き始めましたが、今日の朝を記し、ここに一旦完結とさせていただきます。
彼女がいなくなったことをまだ上手く受け止められないのか、逆に受け入れているのか、自分が薄情なのか、涙があまりでませんので、私が思いっきり泣くことができる日が来たら、いつかページが増えるのかもしれません。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。彼女の安らかな冥福を祈って。