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『今、病院から連絡あった
のでまっすぐ帰って来て大丈夫です』
この通りの文面。
言葉の裏に隠れた意味を理解したくなくて。
私は「ん?大丈夫?面会は?」とあからさまに分からないふりをした。
面会ができなくなっただけかも、
なにか事情が変わったのかも、
病院は打ち間違いで、妹か誰かと連絡が取れて、私が行かなくてよくなっただけかも、
どうにかして、良く考えたかった。
母に言わせたくないであろうことを言わせてしまっていることにも気づかないふりをした。
『ダメだった』
『今から迎えに行ってくるから』
その言葉に私はすっと冷える感覚を得た。
心臓は痛くない。
手も震えない。
涙も出ない。
間に合わなかった。ただそう思った。
「ここまでは終わらせていきますね」
私は笑っていた。
まるでいつも通りに、にこやかに元気に仕事をしていた。
実際は、気もそぞろで精細を欠き、ケアレスミスで二重チェックをやり直す羽目になっていたが、それでも、表面上は私がショックを受けているようには見えなかったはずだ。
急ぐ理由はなくなってしまった。
本当は、それを話して、定時まで仕事をしたほうがいいのだろうか。
ぼんやりとそう考えながらも、自分からやはり残ると言い出すことは難しかった。
同僚や上司には悪いが、間に合わなかったとしても、はやく帰って会いたいと思ったのだ。
「ご迷惑かけてすみません、あとよろしくお願いします」
残りを引き受けてくれた同僚に頭を下げる。
ーーきっと残っても、仕事の質は落ちるはずだ。無理して大きなミスをするよりこれでいい。
私情で仕事に支障をきたすのは未熟だろうかと思いながら、そう理由づけて自らを納得させる。
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
自然と足が早足になり、携帯で短く恋人に「ちょっと色々あって、帰るね」と送る。母にも「帰るね」と送る。
やはり、口にするのははばかられた。
恋人も、彼女に会ったことがある。
動物が好きな人で撫でてくれたし、彼女も初対面とは思えないほどに慣れた距離で腰を下ろしていた。
そんな思い出が浮かびながら、まだ泣けずにいた。
母から折り返しの電話があり、出たが「間違えた」と言われた。電話口の声は、涙に濡れていた。
どんな風に母を励まそう、自分は明るくいなければ。そんなことを考えながら家に着くと、妹の車があり、母の車が無く、母達はいなかった。
もちろん、彼女の姿もない。
私は冷静でいられずに、母に電話をかけた。
必要なものを買おうとしていたと言う母に、連絡不足を責める言い方をした。
家へと言ったのは母で、会社を出る時連絡するとも、出た時に帰るとも連絡もしたのに。
自分が急いで帰った気持ちも、買い出しひとつ頼って貰えない虚しさも、ないもののように扱われた気がした。
母も余裕がなかったのだから、仕方ない話なのだが、暗い家に帰った私の心はそれを汲めなかった。
怒鳴りはしなかった。しかし、笑顔で母を抱きしめるように励まそうと思っていた私の態度ではなかった。
「……気をつけて帰っておいで」
途中で、よくないと気づき、言いかけた言葉を止めて、そう言うので精一杯だった。
「はい」
と返事をした母も、わかっていたのだろう。
どうしようもない苛立ちをなくそうと、私は半端になっていたキッチンに立った。
台所周りを手出しされるのはあまり好きではない母だが、忙しいときに家事をして嫌がる人でもない。
お風呂場をチェックしつつ、少しでも力になれることをしながら無心になり、帰ってきた後は暖かく迎えようと心に決める。
恋人が連絡をしてくれて、このタイミングで恋人には告げた。
「話せそう?」
そう来た時に、恋人の優しい気持ちを有難く思う。ただ、先程の件があり冷静でなかった自分は、恋人に愚痴ってしまいそうだった。
私が、愚痴っぽい自分を嫌いだと思っているからこそ、良くないよね、と指摘してくれる恋人だ。
ーーごめん、今冷静じゃないから、と断りの連絡をくれる。
なにも言わず「わかった」と返してくれることに、恋人の思いやりを感じる。
「ありがとう」と伝えると「ごめん、熱がすごいから寝てしまうかもしれない」と、返信がきた。
夜に時間を取れなさそうだから、声をかけてくれたのか。朝もしんどそうだったし、前日から体調が悪かったのだ。
恋人に甘えていては駄目だ。
切り替えよう。深呼吸して、恋人に電話をかける。努めて笑顔で、明るく話す。彼女の話題を避けることを、恋人はきちんと把握していただろう。
本人の体調の話をして、他愛ないやり取りをして。
帰宅に気づいて電話を終わらせる。
「またあとでね」
そう言いながら、自分はまだ、彼女のことをうまく話せる自信がなかった。
帰ってきてめちゃくちゃ眠かったのに、寝れないっすね。寝て起きたら仕事なのも、ダメだったことを話さなきゃと思うと気が重い。