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一度、荒い息が落ち着いた。
母は変わらず心配そうにしていたが、呼吸音は気にならなくなった。
少しすると彼女は母の腕から抜け出した。
暑かったらしい。ぷるるっと軽く身震いすると、いつものように私の座る椅子の下に伏せた。
一瞬、私と母は安堵の息を吐く。
しかし、五分もしないうちに彼女はまた、浅い息を繰り返し始める。伏せをやめ、四足を困ったようにうろっとさせながら。
「笑美ちゃんどしたのまた〜」
なんて声をかけただろうか。
慌てて抱き上げ、声をかけたのは覚えているが、内容までは燦然としない。
今、これを書いている最中に、ぽろりと食事を食べこぼしたが、犬が食べないようにすぐ拾わなければ、と無意識に身体を動かしてしまい、落ち込んでいる。
彼女との生活が身体に染み込んでいる。
話を戻そう。
彼女は、母に抱かれながら私を見ていた。
呼吸が静かになっても脈は速く、腕に身を任せているほうが楽だろうに、頭を持ち上げてこちらを見ていた。
それが何かを伝えようとしているようにみえて、私はずっと彼女に話しかけた。
「どうしたの笑美ちゃんそんなにこっちみて」
「甘えたいのか?」
「こっち来たいか?」
おどけた。
わざとらしく笑顔で。
もしかしたら、この時撫でてほしかったのだろうか。
この日の彼女に対して心残りがあるとすれば、この瞬間に触れなかったことかもしれない。
「病院行ったほうがいいかな……」
ぽそりと呟く母に私ははっきりと言った。
「病院いっておいでよ。診てもらったほうが間違いないでしょ」
ーー嘘だ。
きっとそんな言い方をする余裕はなかった。
「すぐ行ったほうがいい」
それくらい断言した。
母もハッとした様子でこちらをみて、また彼女に視線を落とし、指先で彼女を撫でる。
「そうだよね……うん、行ってくる」
母が頷いてくれることに安心しながら、不安は消えなかった。
それでもどこかで、いつものように、安静にしててね、と帰ってきてくれると、根拠のない希望を抱いていた。
恋人からの電話。
出勤前の大切な一時。
私は彼女のことを話すべきか少し迷ったが、恋人が体調不良だったこともあったし、口に出すのも怖かった。
いつもより短い電話に、恋人の辛さを感じたものの、自分にできることの少なさに歯噛みした。
恋人はしんどいのに、そう思いながら、聞きなれた恋人の声が私を少し冷静にしてくれた。
電話を終えて戻ると、母は出かける支度をしていた。いつもなら混むからと避けている朝に病院へ行こうとしてくれていることが嬉しかったし、彼女のつらさを物語っているようでもあった。
「じゃあ行ってくるね」
「うん、気をつけて」
それくらいあっさりしたやり取りをして、足早に母は病院へと向かった。
私は彼女のおでこを軽く撫でた。
母が父に声をかけているのを聞きながら、自分は仕事に向けて意識を切り替えようとした。
ちなみに、私は「明日必ず持ってきて」と言われていたものを見事に忘れーー偶然に鞄に入っていることに気づいたので事なきを得たがーー振り返れば全然切り替えられていなかったのである。
昼休憩で携帯を見た時は、なにも連絡がなかつた。
まだ病院なのだろうか、なにかあったのか、いや、いつも通りで連絡がないのかもしれない、休憩中にも関わらず上司に声をかけられた事もあり、そんな思考は頭の隅においた。
知らせは、もう少し後、三時になる前だった。
『笑美 入院になりました
夕方面会に行くので、仕事終わったら、
動物病院で、待ち合わせ
仕事終わったら連絡して下さい』
母の文面に「入院か」と思った。
比率でいえば、入院で済んだか、の割合のほうが多かっただろう。それでも良い報告とは言えず、私は上司にすぐ報告した。
同僚にも助けて貰い、一時間ほど早く退勤できることになった。
大嫌いなケージにいる彼女を想像する。
ぐったりしているのだろうか、はやく行かなければ、逸る心に振り回されないように仕事に取り組むが、携帯が気になってしまう。
そして、母から新しい連絡が来た。