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 六月二日。

 我が家の家族でありかけがえない愛犬が、天国へと旅立った。


 彼女との最後の別れを少しでもしっかり覚えていられるよう、ここに記しておこうと思う。




 彼女がこの家に来たのは突然の出来事だった。

 父が、酒の席で知り合いから産まれた子供を貰ってくれないか、と言われ引き取ってきたのだ。

 当時、自分は青天の霹靂だった。

 犬が好きで、小さい頃から飼いたいと言っていたものの「おばあさんが動物嫌いだから」「世話ちゃんとしないとだめだから」「お金がかかるから」そんなふうにいつも断られていたからだ。


 祖母は、大正生まれで犬なんて「畜生」として見ていたし、四人兄弟の長子だった自分は、満足に食べさせて貰っているとはいえ、有り余るほど裕福な家庭でないことは幼い頃から理解していた。


 そんな我が家に突然可愛らしい仔犬が来たのだ。

 自分の驚きもさもありなんというところである。



 仔犬は、薄茶の身体は腹側が白く、鼻先は黒い毛が生えていて、カプチーノのようだった。

 ーー否、正直にいえば、手乗りのタヌキだった。


 近年、たぬき顔女子なる愛らしい顔立ちがあると知った私ではあるが、ダンボールの隅で震える彼女はそんな愛らしい顔をしていた。


 小さい頃はゴールデンレトリバーを買ってみたかった私の目の前の彼女は、ポメラニアンだった。犬全般好きだとはいえ、特に好きだと思っていなかった犬種を飼い愛でることになる。


 ダンボールの中で震えている小さな生命は、新しい環境に怯えているようだった。この家に来た日から、舌が一部欠けていた彼女は、どうやら末っ子だったのか身体が小さかったからか、虐められていたようだった。



 それでもそんなことは私達には関係なく、家族全員で可愛らしい彼女を愛で、躾け、散歩に連れ、一生懸命愛情を持って育てた。

 育て方の本を読み、食べさせられない食べ物リストを印刷して、全員に共有した。


 ご飯をがっつかない、音のなるオモチャを怖がる、おやつは選り好みする、お客様にはすぐ懐く。

 猫のように気分屋で、それでいて犬らしくよく懐いて寂しがり屋な彼女は、我が家の太陽だった。






 彼女が生まれて十数年。

 生まれて数ヶ月の頃から見ていた彼女も、年々動きが緩慢になってきた。私たちが元気に走り回っても余力があった彼女も、散歩で息を切らし、散歩に行きたがらない日も出てきた。


 病院では、心臓があまりよくないと言われた。

 もう若くないから、仕方ないと。

 人間だって年とともに、ガタがくるのだ。小さな身体の彼女も、不調知らずという訳にはいかないだろう。



 心臓の薬を飲み始めて更に一年以上。

 散歩に行きたがらない日が増え、睡眠時間もどんどん増えて来ていた。それを気にしても仕方ないと知りつつ、気にしてしまう自分がいた。


 病院で定期的に検査を受けても、年齢もあり、小型犬なので、手術への負担は大きすぎて勧められないと、経過観察と薬で様子を見ていた。

 体重は少し減り、食事量も減り、毛もだいぶ少なくなっていたが、彼女はまだ生きていた。







 彼女との別れは、唐突だった。



 毎日別れを覚悟していた。

 いつか、お別れが来てしまうのだと、今日彼女が動いていることをもっと見ていよう、そう思いながら過ごしていた。


 もし、寝たきりになったら、入院になったら、息も絶え絶えな彼女をみたら、自分は泣かずに世話ができるだろうか。

 彼女を見送った後、思い詰めずに前を向けるだろうか。


 急に来てしまったらきっと耐えられない。

 そう思った私は、よくそんな想像をしていた。




 しかし、現実はこんなに呆気ないのだと、思い知らされた。


 朝、目を覚ますと、珍しく彼女は玄関前にいた。最近は、寝る時間が増えて朝も丸まっていることが多かった彼女にしては、珍しいなと、ふと思った。


 とはいえ私も朝には弱く、また、朝の忙しい時間ということもあり、家事をして自分の身支度を始めた。

 時間差で母が起きてきた後、ふとするとキッチンに現れた彼女がハカハカと、息を切らしていた。

 まるで全力疾走したかのように、ハッハッハッハッと短く浅い呼吸を繰り返す。


「様子おかしくない?」


 そう言いながら母が彼女を抱き上げる。

 舌を出してはおらず、浅く開いた口からは、依然として浅い呼吸が繰り返された。


「心臓がドクドクしてるし、脈が速い。おかしい、やだよ、よしよし」


 眉間に皺を寄せ、憔悴を滲ませた母は、皺の多い手で優しく彼女を撫でた。

 しかし、彼女の息切れしたような様子は治らない。


「笑美ちゃん、どうしたの?」


 言いながら、私はいつものように彼女に触れた。

 いつも嫌がることのない彼女だが、しかし、いつものような反応は返さない。


 あからさまにぐったりしている訳ではなかったが、普通ではないのは、明らかだった。

 心臓の負担を減らそうとしたのか、匂いで落ち着かせようとしたのか、母は手近にあった母の脱いだばかりのパジャマで彼女を包んで抱き抱えた。


「笑美ちゃん……でもお父さんの支度が……」


「私が抱っこしておくよ」


 言い終わる前に朝の支度がある母と交代して、彼女を抱いた。

 若い頃は2.6kgほどあった彼女も、最近は2.3kgほどしかない。赤子より軽い彼女は、布越しでもわかるほどにドンドンとうるさいくらいに心臓を揺らしていた。


「よしよし、大丈夫だよー」


 この時、正直なんと声をかけたか覚えていない。

 この緊張を悟られないように優しい言葉をかけ続けよう、母の不安が増えないよう「生命の心配なんてしていない」「きっとすぐに元気になる」そんな顔をしようとしていた。

 ーー私は、笑えていただろうか。


 父に朝食を出した母に彼女を返し、身支度をする。仕事着に着替えて、荷物の用意をする。


「笑美ちゃん……やだよやだよ、まだ心の準備してないよ……」


 母のこの言葉が、あんまりにも震えていて。

 強く優しい母の脆い部分が出ていたようにも、母が一番彼女の死期を悟っていたようにも見えた。


 その時私がしたのは、彼女を動画に収めることだった。


 どこかで、自分も母と同じように、彼女の首に死神の鎌がかかっているように見えたのかもしれない。


 死に瀕しているかもしれない彼女にカメラを向けることは、良くない行いだろうか、そう思いながらも、まだ生きているうちに母が彼女を抱く様子を、と思う心があった。

 もし、それで自分が誰かに悪く言われてもよかった。





 こうして今、彼女との別れを書き記すことも、私が彼女をエンタメとして扱っているように見えるだろうか。


 彼女との楽しかった日々と違い、別れはうまく消化できなくて。独り言のように今、綴っている。



 

本当に昨日の出来事です。

まだうまく受け止めれておりません。

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