聖女モモネ
空が青いな〜。
海は広いな〜。
ちゃっぷちゃっぷと波がぶつかる音。
体がゆったりと上下に揺れている。
日本で海に行った時は人が多くて、こんなにのんびりできなかった。
今は丸ごと私の貸し切り。
大海原に私一人。
遭難してるとも言う。
厳密には漂流かな。
あのガンファンクルとかいう人がこっそり魔法を使っている事に、私も他の皆も気がつかなかった。
気がついた時には足元の床が無くなって、真っ暗な穴に落ちて…。
次の瞬間には水の中にいた。
本当、訳わかんなかった。
いきなり水中?
冷たいし、息できないし、上下左右も分からないし、水面どこ!? ってパニックしかない。
だけど日本の義務教育のおかげで思い出せた。
人体は水に浮くという事を。
着衣泳、服を着てても人は浮く、女の子で筋肉少なめで体脂肪率高めなら絶対に浮く…と信じて手足の力を敢えて抜いたら、ふわ〜っと体が一定方向に運ばれて、やがて水面が近づいてきた。
後はもう、ひたすら背浮き。
呼吸を整えながら、頭の中で目まぐるしく考えた。
水は塩味。
空は晴れ。
ここは真昼の海。
私は魔王城の地下からどこかの海中に転移させられた。
間違いなくあのガンファンクルって人の仕業だ。
水の中に飛ばすって殺意を感じる。
泳げない人だったら確実に死ぬ。
あの人、私を殺す気でやったんだ。
ゾッとした。
海水の冷たさよりもっと冷たいものを感じる。
周囲を見回すけど、空と海しか見えない。
仲間が一緒じゃないのは良かったのか悪かったのか。
一人は心細いけど、シスター・フィリスだったら装備の関係上、沈んで行く未来しか見えないし、他の二人も泳ぎやすい服装とは言えない。
比較的軽装の私だから、こうして浮いていられるんだ。
そう思うと私だけで済んで良かったのかもしれない。
南国の海なのか、海水温はそんなに低くない。
波も穏やかだし、背浮きしてる分には消耗は少ない。
だけど長時間漂流してたらさすがにマズイことになる。
海水と日光は目や粘膜を傷めるし、サメなどの危険な生き物に襲われないとも限らない。
そもそも陸地にたどり着けなかったら、いずれ体力が尽きる。
助かる方法を考えながら、同時に頭の半分ではこれまでの経緯を振り返っていた。
召喚される前の本当の自分、『百根ルリ』の事を。
※
自分の名前、あんまり好きじゃない。
カタカナでラ行2音節だけって、軽すぎる。
母は最初『ルン』って付けるつもりだったそうだ。
母の名前が『鈴』で、母の姉の名前が『蘭』だから。
並べて『ラン、リン、ルン』にしたかったって…。
ふざけ過ぎだよ!
父の反対で一文字変えて『ルリ』になった。
お父さん、ありがとう。
『ルリ』も軽いけど『ルン』よりはマシだ。
大体、ラ行の響きは綺麗過ぎて、美人の名前という気がする。
地味顔の私には似合わない。
だから友達には『モモちゃん』とか『モモッチ』とか、苗字で呼んでもらってた。
こっちの世界に呼ばれて、元の自分と違うスラリとした細身の体、可愛い顔になれて、それでもやっぱり『モモネ』って名乗った。
『ルリ』、瑠璃、ラピスラズリ。
神秘的な美しい石の名前を名乗るのは、どうしても抵抗があったから。
本当の私はそんなのじゃないから。
※
助かる方法、まず思いつくのは聖杯に願う事だ。
私の切り札は聖杯、これは間違いない。
私の魔力を引き出して、神聖魔法に変えてくれる不思議なアイテム。
祈りとか願いとか、フンワリしたイメージを具象化してくれる。
私が生き延びたいと願えば、叶うはず。
海に浮かぶための救命ボートみたいなのを作るとか。
陸地まで連れていってくれそうな、賢いクジラやイルカを呼び出すとか。
なんなら人魚に変身する事だって。
私が祈れば、本気で願えば。
私の願いって…何?
※
地味で目立たない私は能力も平凡だった。
勉強でも運動でも平均値か、ちょっと上くらい。
極端な苦手科目がない代わりに、得意な科目もない。
特別に夢があるわけでもなく、将来は公務員かな、と思いながら地元の進学校に入った。
進学校の中でも真ん中くらいの成績だったから、偏差値に合った大学を受験して合格した。
入ったサークルで知り合った人と恋人関係になって…半年持たずに破局した。
傷ついてないと自分では思ってたけど、そうじゃなかった。
夜眠れなくなった。
平気なフリして大学に通い、サークルにもそれまで通りに顔を出した。
事情を知ってる友達はヤケ食いに付き合ってくれた。
すぐ立ち直れるって思ってた。
でも一月経っても二月経っても、私の心は傷を負ったままだった。
悔しいとか悲しいとか、感情に言葉を当てはめようとしてもしっくりこない。
自分の気持ちに名前がつけられないまま、ただ少しずつ弱っていった。
顔では笑ってるけど楽しくない。
食べ物もそんなに美味しく感じない。
何をしても味気ない。
私の一生って、ずっとこんな感じなのかな。
あと何年続くのかな。
機械的に勉強して、機械的に人付き合いして、機械的にご飯食べて、機械的に…機械は寝ないので、睡眠は無理。
死んだら、眠れるかな。
そんな感じでボーッと生きてたある日、通学路を歩いてた時に不思議な声が聞こえてきた。
外国語の歌みたいな、単語は聴き取れないし、知らない曲なのに、なんとなく呼ばれた気がして足を止めた。
そしたらフッと景色が変わって…。
私は聖女になっていた。
不思議な事がいっぱいで。
楽しい事がいっぱいで。
この世界は私に優しい。
だって私『ルリ』じゃない。
借り物の体で、借り物の身分で、仮初めの人生を謳歌してる『聖女モモネ』だから!
『聖女』の人生を駆け抜けて、私、思い出せた。
ぐっすり眠る気持ち良さも、ご飯の美味しさも。
『ルリ』じゃない『聖女』になるだけで、こんなにも生きやすい。
心の傷が生々しく血を流していたんだって、今ならわかる。
『ルリ』は苦しかったんだ。
傷つけられて痛くて、苦しくて、泣きたかったんだ、って。
※
「死にたくない。ここで溺死とか最悪!」
自分の気持ち、わかったよ。
生きたい。
もっともっと生きていたい。
まだ死ぬわけにいかない。
家に帰らないと家族に心配かけちゃうし、それに借りたものは返さなきゃ、借りパクなんてダメ絶対。
「聖杯、お願い」
帰ろう。
皆の所へ。
とりあえずガンファンクルは悪人で確定。
怒りの鉄槌を食らわせてやる。
聖女モモネ、戦線復帰します!
どうにかして皆と合流して、あの極悪魔王を討伐してやるんだ!