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エピローグ

 締め切っていた窓のブラインドを引き上げて、ロックレバーを手前にずらし窓を押し開ける。きん、と澄み切った空気が部屋の中へと入り込むのを感じてわたしは目を閉じた。


 コーヒーの残り香にインクの匂い、窓辺に咲いたシクラメン。


 一週間ほど休みをもらっていたため、シクラメンの水やりが出来ないのを心配していたのだが、それは薄いピンクと白のマーブル色の花を綺麗に咲かせていた。土もしっとりと湿っている。誰かが代わりに水をやってくれていたのだろう。


「……咲村さん?」


 早朝のオフィスで鈴の音が転がるような声。まるでデジャヴのようだと、わたしは小さく笑ってしまう。

 向こうでは、梅ちゃんが声をかけてくれたよね。だから今度は、わたしから声をかけようって決めてたんだ。

 きっとわたしたちは、いい友達になれると思うから。


「おはよう、桜木さん」



 連休明け初日は、今までの毎日が嘘のように賑やかに過ぎていった。というのも、周りのみんながたくさん話しかけてくれたからだ。

 わたしが不在の間に靴下のメーカーから問い合わせが来たけれど引き継ぎ資料のおかげですぐに対応出来て助かったとか、冬休みはどこかへでかけたのかとか、その靴はどこの?だとか、リップの色がとてもかわいいなど、今までは業務以外の話をしたことがなかったような人々から、様々な声をかけてもらった。


「なんだか今日、すごく色々な人に話しかけてもらった気がするんだけどなんでだろう……」


 ランチタイム、わたしは桜木さんと美味しいパスタを食べていた。


「それはきっと、咲村さんが変わったからだよ」


 わたしが、変わった──?


「今日ランチに誘ってくれたのも意外で、だけどすごく嬉しかった」


 彼女の言葉は、わたしの心に静かに響いた。

 確かにそうなのかもしれない。


 ドントラブミーの世界へ行くまで、毎日は退屈だった。自分は空気のような存在だと思いこんでいた。乙女ゲームをひっそりと楽しみ、地味な色だけを身に付け、目立たないようにひっそりと生きていく。それだけが自分の人生だと決めつけていたのだ。

 だけど本当はそうじゃない。わたしは、わたしがしたいように生きていい。

 そのことを、みんなが教えてくれたのだ。


「明日の午後、色彩の勉強会があるんだって。咲村さん、参加する?」

「もう定員オーバーだって聞いたよ」

「ああーやっぱり講師がめちゃくちゃ人気だからなぁ」

「そうなの?」

「なんかね、色自体を作る会社の人らしいんだけど、《《佐藤さん》》って言ってとてつもないイケメンなんだって。高身長、高学歴、超美形。それでもって教えるのがうまい!」

「まるでミスター・パーフェクトだね」

「確かに」


 ふふっとわたしは笑いながら食後のバニラアイスを食べる。哲平さんがごちそうしてくれた喫茶店のパフェ、溶けてしまってもったいなかったな。哲平さんは今頃、どこでどうしているのだろう。もう知ることは出来ないけれど、彼は彼の人生をしっかりと歩いているに違いない。


「今年の夏も課のみんなでバーベキューやるって。咲村さんも参加してよ」

「まだ冬なのに、もう夏の話が?」

「アパレルは先のことを考えるのがその常でしょー」

「前向きに、検討してみます……」


 初めて出会った人たちとの飯盒炊爨。翔太くんってば、何も考えずにあんなにたくさんの人を連れてきちゃうんだもん。だけどそういうところも本当、翔太くんらしかった。光子ちゃんとは無事に恋人同士になれたのかな。


「あ! あとねここだけの話なんだけど、新しいブランドの立ち上げメンバーを社内で募るみたいだよ!」

「桜木さん、よく知ってるね」

「社内にいろんなパイプがあって。ゲーム会社とのコラボブランドなんだって」

「ゲーム会社かぁ」

「なんかね、新しくリリースされるゲームの中に登場するアパレルブランドなんだけどデザインがすっごくかわいいの。プレスリリース、送ってもらったの。あ、これこれ。ほら見て」

「……昴くん……」


 桜木さんのスマホの画面に現れたのは、わたしがいつか見た桜色のワンピースを身にまとったモデルさん。白色の背景に桜の花びらが舞っており、ベンチに座った彼女は満面の笑顔をこちらに向けている。ブランドイメージともなるその画像には、‶SARA〟というロゴが大きく入っていた。

 彼はこのワンピースをきちんと完成させたのだ。田村さんにアドバイスをもらいながら、不器用ながらにミシンを操り、ひとつひとつのボタンを吟味し、何度も何度もやり直して、そして完成させたのだろう。やっぱり彼は、ただの坊ちゃんなんかではなかったのだ。


 じわ、と涙が滲んだわたしは、おしぼりを目元にあてた。


 みんなが恋しい。

 みんなに会いたい。


「大丈夫?」

「目にゴミが入っちゃって」


 ありゃま、と顔をしかめコンパクトミラーを手渡してくれる桜木さんはやっぱりわたしにとっては女神に見える。だけどきっと、それだけじゃないのだろう。彼女もわたしも同じ人間で、色々な面を持っている。

 梅ちゃんがわたしを受け止めてくれたように、わたしも自分の周りの人を大切にしよう。そうすることが、梅ちゃんへの恩返しにもなるはずだから。


 わたしは目元をきゅっともう一度強くおしぼりで押し上げると、勢いよく顔を上げた。心配そうにこちらを見ている桜木さんの瞳は、深い茶色だった梅ちゃんのそれとは違い、淡いベージュ色をしていた。


「桜木さん」

「なあに?」

「……下の名前で、呼んでもいいかな?」

「……ほんと? じゃあわたしも、さくらちゃんって呼んでいい?」

「もちろんだよ、ほのちゃん」

「それじゃさくらちゃん。改めまして、よろしくね」


 少しだけ照れくさそうに笑った彼女は、綺麗な手をわたしの方へと差し出した。


 こうやって、きっと世界は変わっていく。自分の姿をきちんと見つめて、自分のことをちゃんと信じて、大事なひとを大事にして。なりたい自分になれたのならば、きっと世界は変わるのだ。


 わたしはこの世界を、生きていく。


 みんながいないこの世界を、前を向いて、胸を張って、自分の足で歩いていくのだ。



「さくら、ブランドコンセプトの文章、最終チェックお願い」

「分かった。ほのちゃん、モデルさんの日程押さえておいてもらえる?」

「了解! 自然光がいいと思うから、何日か候補日出してもらう」


 大手アパレル企業・株式会社アキヤマと、大手ゲーム企業・株式会社ドリームメイカーのコラボブランド、‶SARA〟のリリース準備は着々と進んでいた。


 ほのちゃんの言った通り、あれから数日後にメンバーを募る公示が社内で出され、希望を出したわたしたちは見事プロジェクトチームに参加することとなった。


 このブランド、SARAが登場するのは、恋する☆幸せクローゼットという新たなゲーム。実はこのゲームは現在、恋クロ、などと呼ばれ空前の大ブームを巻き起こしている。

 緻密に練られたストーリーにうっとりとしてしまうほどの美しいスチール画像、魅力的なキャラクターに人気声優のボイスまでもがついているという豪華版だ。しかし恋クロがここまで大ヒットしている一番の理由は、ゲーム内で自分のアイコンを着飾ることの出来るファッションアイテムの多さとかわいさだった。


 ゲーム内には様々なジャンルのブランドがいくつも用意され、そこには毎週のように新しいデザインのアイテムが追加されていく。ユーザーたちは実生活での洋服を楽しむのと同じような感覚で、時には非日常を楽しむ目的で、着せ替えに夢中になっているのだ。


 その中でも一番人気があるのが‶SARA〟というブランド。実際の服がほしいという多くの要望を受け、今回のプロジェクトが立ち上げられたというわけだ。

 尚、このデザインについてドリームメイカー側は「デザインによる詳細は企業秘密」としているが、わたしには分かっている。

 

 こんなに自由で、軽やかな洋服を作れる人は、きっとこの世にひとりしかいない。



 ◇



「運び入れは以上になります! こちらにサインか印鑑をお願いします」


 バインダーの上で何かを書くのはすごく苦手だ。文字がこう、ふにゃっとなってしまうから。

 青いキャップを被ったお兄さんは、わたしのへたくそなサインを確認すると、ありがとうございました! と帽子をとって頭を下げるとドアの向こうへと消えていった。


 しん、と広がるひとりの空間。


 ついに今日、わたしは一人暮らしをスタートさせる。新しい一歩を踏み出す勇気が持てたのは、ドントラブミーの世界で出会ったみんなのおかげだ。


 新しい家は、六階建てのマンションの一室。部屋を探し始めた時に不動産屋さんに連れてきてもらった場所で、わたしはひと目でここが気に入った。どことなく、向こうの世界で住んでいたマンションに似ていたからだ。


 駅からもほど近く、会社へのアクセスも抜群。実家から通っていた時よりも三十分ほど短縮することが出来そうだ。


「さてと……ダンボールを開けないとな……」


 実家で荷造りをしていた時にはそんなに荷物が多いとは思わなかったのに、ここへ運び入れた途端にものすごい量に思えるのは、きっと置いている場所の広さのせいなのだろう。四人家族が暮らしていた一軒家と一人暮らし用のマンションでは、そもそもの大きさからして違うのだ。


 さて、まずは片柳様のクッションから開封をしなければ。あのクッションがなければ、夜もぐっすり眠れない。


 『片柳様!!!』と太いマジックペンで書いた箱を探していれば、パーカーのポケットに入れていたスマホが着信を知らせた。取り出してみれば、電話の相手はお母さんだ。


「もしもーし」

「引っ越し終わった?」

「うん、これからダンボール開けるとこだよ」

「その前に、ご近所さんに挨拶しに行きなさいね〜。蕎麦って書いてあるダンボールを探して。そこにお蕎麦入れておいたから」


 一体いつの間に、そんな箱を紛れ込ませていたのだろうか。さすがはお母さんだ。


「んーっと……ああ、あった!」

「そうよ、ご近所付き合いは一人暮らしのときには特に重要だからね」

「分かった。ありがとうお母さん」

「遅い時間になる前に、最初に行ってきなさいね。もしもイケメンがご近所さんだったらすぐに教えて! 田村要みたいな人だったらお母さん嬉しい!」


 少女漫画ばかりだったお母さんも、現在は恋クロのキャラクターに夢中なのである。


 お母さんとの通話もそこそこに終え、わたしは蕎麦を取り出して同封されていた紙袋へとそれを入れた。若い女の子の引っ越しのご挨拶が蕎麦っていうのも、なんだか渋い感じはするけれど……。まあいいだろう。そもそも引っ越しのご挨拶はお蕎麦だと相場は決まっているのだから。



 玄関を出て、右となりの部屋のインターフォンをそっと押す。男性なのだろうか、それとも女性なのだろうか。

 ぴんぽーんという間が伸びた音と、しばしの沈黙。そのあとに、「……はい」という不機嫌そうな声が聞こえた。どうやら相手は男の人みたいだ。


「あっ、あの! 隣に引っ越してきた者ですが……!」


 インターフォンはぷつりと途切れ、数秒の沈黙が再び訪れた。ドキドキと心臓がやたらと騒ぐ。いつだって、初めての人と会うときは緊張してしまう。ふぅーとその場で深呼吸をする。

 まずは名前を名乗って、お蕎麦を渡して、よろしくお願いしますって頭をさげて……。


 がちゃ、と扉が開かれる。


「わたしっ、隣に引っ越してきた咲村と申しますっ……!」


 そう言って相手の顔を見た瞬間、わたしの動きはぴたりと止まった。なぜかって、目の前にいる男性が中島蓮さんに瓜二つだったのだから。


「……へ……?」

「……は……?」


 目の前の彼は、やはり同じように全ての動きを止めている。


「中島……蓮、さん……?」


 その名前を呟いた瞬間、わたしは強く腕を引かれ彼の腕の中へと閉じ込められる。ふわりと香る、懐かしい彼の匂い。胸の奥がぎゅうっとなって、喉の奥がきゅうっとなって、瞳からは涙が溢れだしてしまう。


 そんなまさか

 なんで、どうして

 彼はゲームの中の人で

 ここは現実世界のはずなのに──


 きつくきつく、わたしを抱きしめる彼の体温。どくどくと聞こえる彼の心音。耳に触れる息遣い。


 そのどれもが、彼の存在がまぼろしなんかじゃないと教えてくれる。

 わたしはぎゅっと、その背中にしがみついた。


「ほんもの……だよな?」


 震える声で彼が言う。


「ほんものですよう……」


 鼻をすすってわたしが言う。


「俺が見つけようと思ってたのに……なんでいつも予想の斜め上から現れるわけ?」


 そんな言葉のあとに体が離されれば、優しい瞳がわたしのことを見つめていた。


「会いたかった──、さくら」


 彼がわたしの名前を呼ぶ。ゲームの世界のわたしではなく、今ここにいるわたしの名前を。




 どうして彼の自宅の表札が、中島ではなく長島となっているのか。

 なぜわたしの本名を、彼が知っているのか。

 ドントラブミーはどうなったのか。

 ──そもそもなんで、彼がこの世界に今いるのか。




 聞かなければならないことは、星の数ほどありそうだけど、そんなのはゆっくりと時間をかけて聞けばいい。


 そんなことよりまず今は──



「長島、蓮さん」

「ん?」

「肉まん、食べに行きませんか?」

「──俺も、言おうと思ってた」






 ふたりじゃなきゃ見えない景色を

 ふたりじゃなきゃ聞こえない音たちを

 ふたりじゃなきゃ味わえない美味しさを

 ふたりじゃなきゃ感じられないもの全てを



 これから一緒に感じていこう。わたしたちには、時間がたっぷりあるはずだから。




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