表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

フォークダンスをこの僕と

「というわけで、同僚の梅ちゃんでーす!」


 じゃーんと慣れないくらいのテンションを無理やり作り、両手をお隣の華へと向ける。


「改めまして梅木です」

「サラちゃんのお友達って梅ちゃんのことだったんだね! こちらこそよろしくね」


 仕事終わり、会社近くのタイ料理屋の小さな個室。

 エスニックな音楽が流れる店内は、ここが日本であることを忘れてしまうような感覚にさせてくれる。象のような鼻を持つ神様の肖像画が貼られた壁、色とりどりのビーズで作られた魔除けのような飾りが空調でキラキラと輝いていた。


 哲平さんが去ってから早一週間。翔太くんはわたしのことを心配してか、この一週間は頻繁に連絡をくれていたのだ。

 実は、彼からのご飯の誘いは初めてのことではない。しかし、毎回本気なのか社交辞令なのか分からず、わたしはうまく答えることが出来なかったのだ。

 しかし今夜はタイ料理。タイ料理と言えば梅ちゃん。そこでわたしは良案を思い付いた。それがこの、梅ちゃんを翔太くんとのご飯に連れて行くということだったのである。


「梅ちゃんって、タイ料理好きなの?」

「そうなんです、大好きで。このお店はいつ来ても並んでて入れなくって。翔太さん、よく個室なんて取れましたね」

「ここの店長のパチャラさんと友達なんだよね」


 よく職場を訪れていた翔太くんは梅ちゃんのことをしっかりと認識していたけれど、こうやって直接話すのは初めてのことだろう。しかし、ふたりはとても自然に会話が弾んでいる。いい感じだ。

 こんなイケメンモデルの翔太くんを相手にしても、媚びるわけでもなくわたしに接するのと何も変わらない梅ちゃんに対して、やっぱりこの子は素敵だなぁと改めて思う。


 パッタイがオススメとメニューを指差して笑う翔太くん。トムカーガイが大好きなんですと楽しそうに答える梅ちゃん。

 実に絵になる。


「トムカーガイってなに?」


 タイ料理ビギナーモブ、咲村サラ。今回こそは、しっかりと恋のキューピッドをやり遂げてみせます!






「待ってくださいトムカーガイ天才!」


 二十分後。わたしはアツアツの白いスープを口に含み天を仰いでいた。


「だからさ、パチャラさんはマジで天才料理人なんだって!」


 梅ちゃんがだいすきだというトムカーガイは、簡単に言えば鶏肉の入ったココナッツミルクのスープだ。レモングラスなどの独特なスパイスとまろやかなココナッツミルクが、何とも言えない後を引く旨味を引き出している。鶏肉はとても柔らかく、体が芯から温まった。


 他にも、有名な生春巻きやグリーンカレーなどを注文し、わたしたちは美味しいタイ料理に舌鼓を打つ。


「梅ちゃんって、思ってたよりずっと話しやすいね。会社ではいつも気を張ってるように見えてたけど」


 そんな翔太くんに「愛想よくしていると、容姿を褒められることが増えるから」と、一度聞いただけではよく分からないことを口にした。


「何かと窮屈なことが多くないですか?」


 梅ちゃんはもうほとんど空っぽになっている小さなポットから、一滴も残すまいとトムカーガイをお玉ですくいながら口を開く。


「美人だからいい気になってるーとか、美人だからこうだろうとか。イメージみたいなのがあって、みんなそれに当てはめたがるでしょう?」


 わたしが黙って半分にカットされた生春巻きをお箸で持ち上げると、中に入っていた春雨がするりと皿の上に落ちた。ああ、失敗。


「美人だなんて自分じゃ思わないし、本当はコンプレックスだらけですよ。わたしから見たら周りの人たちの方がよっぽど綺麗だし素敵。いつも自分には何かが足りない、何かが抜け落ちている、って感じながら過ごしています」


 梅ちゃんの言葉を聞きながら、チリソースの上にぺちゃりと広がった春雨を掬い上げ、小さな隙間が空いた生春巻きの中へともう一度戻して口に入れた。

 もしかしたら梅ちゃんも、自分にはないものを探しながら、時には自分自身で補いながら、毎日を生きているのかもしれない。


「その割には、梅ちゃんはとても自信があるように見える」


 翔太くんのセリフは、言葉だけで捉えるならば嫌味にも取れるような意味合いのものだ。しかし、翔太くんがそんなことを言う人ではないことをわたしは知っているし、梅ちゃんもそういう意図がないということは分かっているようだった。


 それに正直、わたしも同じことを思っていたのだ。


 いつも女神のようにキラキラと輝いている梅ちゃん。いつもかわいく、綺麗で思いやりがある。誰にでも分け隔てなく優しく、でも言うことはずばっと言う才色兼備。

 そんな彼女がコンプレックスだらけだなんて。それなのに、あんなに堂々としているだなんて。


 わたしだってコンプレックスだらけだ。

 小さな身長に寸胴な体型。まるっこい鼻に離れた両目。カサカサと乾燥した手にいつも荒れてしまう指先。

 唯一自信を持てるとすれば、それは中島蓮さんに「綺麗だ」と褒めてもらったこの髪の毛くらいだろうか。


 いつも下を向いて人と関わらないように生きてきたわたしと、いつも笑顔で誰とでもコミュニケーションを取れる梅ちゃん。


 こんなにも違うわたしたちに、コンプレックスだらけという共通点があるだなんて考えたこともなかった。


 しかし梅ちゃんは、いつものように顔をしっかりと上げながらこう言った。


「コンプレックスはたくさんあるけど、自分のことを嫌いにはなりたくないからかな」


 その言葉はわたしの心に大きな衝動を与え、思わず咀嚼を中断してしまう。


「コンプレックスがあるならば、それを克服したい。だけど必ず克服できるとは限らない。それならば他の部分で、自分がいい、と思うことをやりたい。自分がいいと思える自分でいるために、努力はしてますから」


 梅ちゃんは語ってしまったことに照れくささを感じたのか、飲み干したはずのスープの器にもう一度口をつけると「あーおいしい」と空気を変えるように笑った。


 ちらりと翔太くんの方を見れば、彼も感銘を受けたように、じっと梅ちゃんを見つめている。


「梅ちゃんとサラちゃんって、なんだか似てるね」


 そう言った翔太くんは、ふっと優しく微笑んだのだった。


 ◇


 歩くたびに、お腹がのしっのしっと足に重さをかけてくるように感じる。調子にのって食べすぎたかもしれない。

 あのあとわたしたちは、追加で揚げ餃子や辛い麺を注文、食後には白くて小さなつぶつぶがおいしいタピオカがたっぷり入ったココナッツミルクまで楽しんだのだ。


「うー苦しい……」

「僕も」


 駅で梅ちゃんと別れたわたしたちは、並んでマンションへの帰路を歩いている。


「めちゃくちゃに美味しかったです」

「だからさ、パチャラさんは天才シェフなんだよなぁ!」

「梅ちゃんもすっごく喜んでましたし!」

「うん、梅ちゃんいい子だね。話しやすかったし。さすがサラちゃんのお友達」

「ふふふ、そうですよね」

「でも僕は、サラちゃんの方がいいけどね」


 自然な会話の中でさりげなく発せられる、翔太くんの柔らかなピンクの言葉。だけどわたしは、それに気付かないふりをした。

 これは、いつもの翔太くんの社交辞令だ。これから翔太くんは、梅ちゃんに恋をするのだから。


「今日さ、梅ちゃんが、‶自分がいいと思える自分でいたい〟みたいなこと言ってたじゃん?」


 翔太くんは両手を頭の後ろで組みながら、長い足を一歩ずつ前に出す。


「あの時に、サラちゃんが前に言ってくれたセリフを思い出してたんだ」


 ちょうど歩道橋に差し掛かり、わたしが三段ほど上ったところで隣を歩いていた翔太くんが横にいないことに気が付いた。振り向けば、彼はまだ歩道橋の下で立ち止まっている。


「‶自分の本当の気持ちを、大事にしてください。翔太くんは、翔太くんがいいと思ったことをしてください〟」


 彼はわたしが発した言葉を、一言一句間違えずになぞらえた。確かにそのセリフは、わたしが彼に伝えた言葉だ。


 優しい光を持ったブラウンの瞳が、明るい月明かりに照らされて優しく揺れる。ふわふわの綺麗な髪の毛。すっと通った鼻筋に形のいい唇。

 今まで翔太くんは太陽のような子だと思っていた。だけど今夜の彼は、いつもとは少しだけ違って見える。

 そう、例えるならば──、月の王子様みたいだなんて、そんな夢物語のようなことを思った。


 翔太くんがゆっくりとした動作で階段を一段上ると、わたしの目の前に綺麗な瞳がすっと近づく。


 月明りに照らされるように、彼の頭上にいつかのデジタル表示が浮かぶ。


『イケメンモデルの素顔を暴け。好きになったらゲームオーバー』


「──サラちゃんのこと、もっと知りたい」


 翔太くんはそう言って、静かに優しく、微笑んだ。



 目の前の翔太くんの瞳が揺らめいている。その瞳の中に、わたしの顔とその上に輝く白い月が映り込んでいるのも見えた。


 わたしは少しだけ体を引くと、ぐっと翔太くんの右手を握った。


「──わたしも翔太くんに頼ってもらえるような、そんな関係になりたいと思ってます」


 今回のミッションは、彼の素顔を暴けというもの。つまり翔太くんには、まだ見せていない本当の顔があるということだ。


 伊藤さんが去ってしまい、心細さを感じているのかもしれない。

 ましてや彼は人気モデル。芸能人というのは色眼鏡で見られることが多くて本当の姿をさらけだす機会がなかなかない。そのことを苦にする人も多いと、以前お付き合いをしていた俳優の彼──絶対ヒミツ☆スターの恋、というゲーム内での元彼である──も言っていたじゃないか。


 わたしが翔太くんを支えよう。翔太くんを応援しよう。彼が頼れる、親友となろう。きっとそれが、わたしがこの世界から抜け出す道にも繋がっている。


 翔太くんは丸い目をビー玉のようにさらにくるりとさせてから、くしゃりと笑った。


「やっぱさ、サラちゃんって本当に今まで出会ったことないタイプ!」

「ええっ、そうかな。わたしって多分この世の中で一番多く生息しているタイプの人間だと思うんだけど。モブ的な」


 翔太くんはタタンっとわたしの横まで階段をあがって並ぶと、ぎゅっとわたしの手を握り返してこちらに見せるように顔の前へと掲げた。


「あっ、馴れ馴れしくごめんなさい!」


 熱意が溢れて思わず手を握ってしまったが、相手は人気モデルなわけだしモブであるわたしが軽々しく触っていいものではない。慌ててほどこうとするも、翔太くんはさらに手に力を込めてにぃっと笑う。


「なんか、高校生の時みたいじゃない?」


 へ? と首を傾げるわたしに、彼はつないだままの手をぶんぶんと左右に振りながら階段を上がり、わたしもそれに合わせて一段ずつ上がっていく。


「文化祭の後夜祭でキャンプファイヤーとかやってさ。その周りでフォークダンスすんの」


 翔太くんはそう言うと、軽くステップを踏むように階段をあがりフンフフフフンと懐かしいダンスのメロディを口ずさんだ。


「ほんのちょっとの時間だけなんだけどさ。一瞬でも、気になる子と手をつなげる瞬間が待ち遠しくて、だけど永遠に来ないでほしくて。手を繋ぐっていう簡単な動作なのにね」


 翔太くんの瞳には白い月が映っているけれど、彼が見ているのはその懐かしきキャンプファイヤーに照らされた誰かの顔なのかもしれない。


「翔太くんは、その気になる子と踊ってどんな気持ちだったの?」


 そう問えば彼はどこか遠くを見て、そのあとにわたしを見つめた。


「踊れなかった。次がその子の番、ってなったところで曲が終わった」


 まるでドラマみたいだよね、と翔太くんはあっけらかんと笑う。だけどそこには、彼の小さな切なさが残っているように感じ、わたしの胸の奥はぎゅっと締め付けられる。多分これは、彼の切なさが右手を通して伝染したからかもしれない。


「──本当に手を繋ぎたい相手とは、つなぐことが出来ないのが僕の運命なのかもしれないね」


 そう言った翔太くんは、そのあとにパッとわたしの手を離す。


「うん、やっぱりサラちゃんが僕の運命の相手かも!」


 いつも笑顔の翔太くん。どんな女の子からも人気のある翔太くん。優しくて明るい翔太くん。


 あなたの運命は、そんな悲しいものではないよ。


 ふわふわと月の明かりで透き通った茶色い髪の毛を見上げながら、きちんと彼のことを知っていこうとわたしは心に誓ったのだった。



 ◇



「サラさん……ですよね?」


 ある日曜日、楽しみにしていた映画を見に行ったわたしは、自分の名前を斜め後ろから呼ばれた。

 現実世界でわたしが合計五回は映画館で見たアニメ映画の続編が、なんとこちらの世界でも公開となったのだ。見てみたら案の定、キャラクターの名前がほんの少し違ったりしていたけれど大筋のストーリーは同じで、続編としても十分に楽しめた。


 基本的に涙もろいわたしは、映画でもすぐに泣く。本日も終始泣いており、エンドロールが終わり明るくなった館内でぐずぐずとパーカーの袖先で鼻水やら涙やらを拭っている最中。なお、タオルは忘れた。


「……ひがるごぢゃん……?」


 振り向いたわたしが思いきり泣いていたからだろう。声の主──東条光子ちゃんはびっくりしたような顔をしてから、綺麗なレースのハンカチをこちらに差し出してくれたのだった。




「とっても良かったですよね!」

「コタがユキちゃんの前でぽろっとマグカップの話をしちゃった時なんか、最高だった!」

「わたし、コタも颯斗も好きだったんで、最高のエンドでしたよね!」

「うう〜分かりみが深い……」


 伊藤さんの元婚約者・光子ちゃんとわたしは、映画館が入っているファッションビルのカフェでお茶をしている。

 彼女と会うのは、あの日中島蓮さんのサロンで話した時以来なので二回目ということになる。それでも同じ映画を見た後だからか、会話が途切れることはなくわたしたちは前からの友人のようにその時間を楽しんでいた。


 東条家のご令嬢である光子ちゃん。しかし、彼女は実に一般的な価値観を持っている女の子だった。

 昴くんならば、ホームシアターで権利を買い取って最新映画を見るとか言いそうだけど、光子ちゃんは映画館に足を運びそれを楽しむ。ポップコーンを買ったけれど食べきれなかったらしく、お店の方に持ち帰り用の袋をもらって大事そうにそこへ入れていた。


 話を聞けば、都内──こちらでは東宮都である──の国立大学の四年生だという。サークルには参加しておらず、バイトは両親に禁止されているため「世間知らずなんです」と彼女は少し申し訳なさそうに下を向いた。


「そんなこと言ったら、わたしだって世間知らずだよ! 海外に行ったこともないし、仕事だって自分の関わっていること以外知らないし。友達とのパジャマパーティだってしたことないし、恋愛だって一度もしたことな──」


 怒涛に言葉を繋いでからハッとする。案の定、光子ちゃんは戸惑った表情でこちらを見ている。当然だ。だって彼女はわたしのことを──。


「哲平くんと、付き合っていたんですよね……?」

「ご…ごめんなさい…」



 心からの謝罪と事情を説明すると、光子ちゃんは「大変でしたね」と眉を下げてから今度は深々と頭を下げた。頭を下げるのはわたしの方なのに。


「本当にありがとうございます」


 え、とわたしは少しだけ顔をあげる。光子ちゃんは、ほんの少し目を赤くした状態で顔をあげると、まっすぐにわたしを見つめる。


「サラさんのおかげで、哲平くんもわたしも、自由になることが出来ました」


 光子ちゃんは、カバンの中からハンカチを取り出そうとして、わたしに渡してしまったことを思い出したのか下を向いてくすんと鼻を小さくすすった。

 洗ってから返すと伝えていたため、彼女のレースのハンカチは現在わたしのカバンの中にある。しかし、涙と鼻水でしっとりとしてしまったそれをもう一度渡すことも出来ない。


 仕方なくテーブルの端にたててあった紙ナプキンを数枚取り出し、彼女の方へと差し出した。光子ちゃんはそれを見ると、少し笑って両手で受け取り、目元を抑える。


「哲平くんからは、海外に行くことになったから別れたって聞いていたんです。直接お礼を言いたかったんですけど、哲平くんも翔ちゃんも、サラさんの連絡先教えてくれなくて」


 お礼が遅くなってしまってごめんなさい、と彼女はまた頭を下げた。


「光子ちゃんが婚約というものから自由になれたのだとすれば、それは伊藤さんのおかげだよ」


 ああ、伊藤さんは今頃新しい場所で、どんな生活を送っているのだろうか。


 あの優しい笑顔を懐かしく思う。彼は光子ちゃんのことを、大事な妹のように思っていた。彼女の未来を自分との婚約で奪ってしまうことを嘆いていた。だけど大丈夫。いま光子ちゃんは、自由を手に出来たことに喜びを感じているから。


「偽の恋人だなんて、わたし本当に全然気付きませんでした」


 光子ちゃんはそう言って、なぜか申し訳なさそうに眉を下げた。それから「少なくとも哲平くんは、サラさんのことを本当に好きだったように思います」と鋭いことを言う。しかしそれには曖昧に笑うことしか出来なかった。


「と、ところでっ! 光子ちゃんは気になる人とかいないの? もう婚約もなくなったんだし、これからは自由に恋愛が出来るんじゃない?」


 話題を変えようと自分の得意分野ではないはずの恋バナなるものを軽率に繰り出してしまう。これは、若い女子たちの盛り上がるトークテーマは恋バナに違いないという、実に世間知らずなこじらせモブ女の思い込みによるものだ。

 だが仕方ない。もう出てしまった言葉なのだから。


 光子ちゃんは、何度か目を瞬かせたあと、ゆっくりと手元の紙ナプキンへと視線を落とした。


「──いたとしても、絶対に叶わない永遠の片思いです」


 そう小さく語った光子ちゃんはとても綺麗で儚くて、わたしはなぜかそこに白く輝く月の姿を重ねたのだった。




「ええっと、あの、これは一体どういう……?」


 チャパラさんのお店に初めて来て以来、梅ちゃんと翔太くん、そしてわたしで飲みに行くことは増えていた。時々わたしが残業で遅くなるときにも、ふたりは先に飲んでいるということなんかもある。なかなか良い感じだ。

 そして今日も、約束の時間から一時間経ってわたしはお店に足を運んだのだ。


「お疲れサラちゃん!」

「サラの好きなトムカーガイ頼もう! チャパラさーん!」

「こんな時間までって、相変わらず馬鹿真面目だな」


 だいぶビールを飲んでご機嫌な翔太くん、飲み物より先にとトムカーガイを頼む梅ちゃん、相変わらずクールだけど若干頬を赤くした中島蓮さんが、ひとつのテーブルを囲んでいた。


「えーと、あの、中島蓮さんが、どうして」

「は? 俺がいたら悪いわけ?」

「イッ、イエイエイエイエ!」


 話によると、翔太くんが中島蓮さんのことも誘ったらしい。わたしとしては、梅ちゃんをめぐる恋のライバルである相手に声をかけるなんてと思うものの、翔太くんらしいなとも思ってしまった。

 きっとお酒の力も手伝って、なんとなく場が和んでのこの状況なのだろう。


「ほらサラちゃん、座って座って!」


 自分の隣をぽんぽんと叩く翔太くんの隣に、わたしは遠慮がちに腰を下ろす。だって、中島蓮さんの隣には梅ちゃんが座っているから。

 ふたりはこの間の不自然な空気感などまるでなかったかのように、時折言葉を交わしている。長年の恋人同士のそれに見え、わたしは一瞬目を逸らした。


「ふたりはいつから知り合いなの?」


 翔太くんの質問に、二人はお互いに顔を合わせ、それから少し考えるような仕草を見せた。


「五年前、とか?」

「わたし、大学の帰りだったよ。蓮に初めて会ったの」


 気にしたくなくて、食い入るようにメニューを見つめる。それでも耳はしっかりとその会話をキャッチしてしまう。


「見習いスタイリストの蓮が、モデハン百連敗するところを見てたのが最初」


 当時を思い出すように梅ちゃんはクスクスと笑う。その横で蓮はむすっと肘をついてそっぽを向いていた。


「モデハン……?」


 聞き慣れない言葉に、思わずオウム返ししてしまう。全く話を聞いていないのも変に思われてしまうだろう。わたしはおずおずとメニューから顔を上げる。


「美容師が練習や講習、撮影のためのカットモデルを探すことだよ。モデルハントの略」


 優しく説明してくれる翔太くんに、ほんの少しほっとする。彼の持つ癒しパワーは本物だ。

 中島蓮さんは仕事中もやはり不愛想らしく、一般的な美容師さんのイメージのようにおしゃべりでお客さんを楽しませるようなことはしないらしい。それでも、多くの芸能人が足繫く通うサロンというのだから、一番大事なのはやはり技術ということなのだろうか。

 とにかく、そんな中島蓮さんにとって見知らぬ女性に声をかけるというモデルハントは、どんな試練よりもきつかっただろう。


「そっちは待ちぼうけ食らってたくせに」


 やり返しだと言わんばかりの中島蓮さんの言葉にも、梅ちゃんは「そうそう」と明るく笑う。そんな所にも、ふたりの気心知れた仲が見えてしまう。


「彼氏が待ち合わせに来なくてね。三時間待ち続けてたんだけど、その間ずっと人間観察してたの。まあつまり、モデハンに失敗しまくる蓮を見てたんだけど」


 長時間待ち続けた梅ちゃんにも驚きだが、三時間同じ場所でモデハンし続けた中島蓮さんにも驚かされる。


「結局三時間経ってから、彼氏に別れようって連絡入れて。そのまま蓮に声をかけたんだよね。カットしてくれない?って」


 さらりと話す梅ちゃんだけど、きっとすごくつらかったんじゃないかと思う。こんな梅ちゃんを三時間も待たせる男なんて、許せない。今頃きっと、天罰が下っていることだろう。


「髪の毛切ってる間、ずっと泣いてた」


 当時を思い出すように中島蓮さんがそう言うと、梅ちゃんは二度頷いた。それからシルバーのお箸でチョンと再度注文した生春巻にチリソースをつける。


「ほんっとうに好きだったからね」


 梅ちゃんという女性をひとつずつ知っていく。素直で、まっすぐで、強くて、そして飾らない。


「梅ちゃん、かっこいいね。梅ちゃんと友達になれてわたし、本当によかった」


 ふたりを見ていて感じたもやもやは、いつの間にか消えていた。




「蓮、梅ちゃんのこと頼んだ!」


 楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。たらふく食べて飲んで、気付けば終電の時間が迫っていた。

 わたしたち三人は同じマンションだけど、梅ちゃんは反対方向だ。ゲーム的に、今は翔太くんのターンなわけで、彼に梅ちゃんとの時間を作ってあげたい。

 しかし翔太くん本人が、中島蓮さんの背中を梅ちゃんの方へと勢いよく押したのだ。


「大丈夫、いつもひとりで帰ってるし」

「いやいや何があるか分からない世の中だから」


 中島蓮さんはじっとわたしのことを見た後に、ひとつため息を吐きだすと「送ってく」と梅ちゃんの方を向いた。

 ツキンと痛む胸の奥を気付かぬふりをして、わたしは翔太くんに耳打ちする。


「いいの? 翔太くんも梅ちゃんのこと、送りたかったんじゃない?」

「僕が? なんで?」


 きょとんと首を傾げる翔太くんに、今度はわたしが首を傾げる。


「久しぶりだし、色々積もる話もあるんじゃないかなって思ってさ」

「そっか……。翔太くんは優しいんだね」


 周りをよく見ていて、気遣うことが出来る人。それが翔太くんという人だ。


 小さく振り返ると、梅ちゃんと並んで反対方向へ歩き出した中島蓮さんが、一瞬、ほんの一瞬。

 わたしのことを、振り向いたような気がした。



 ガチャガチャっという鍵が差し込まれる音は、わたしにとっては運動会の百メートル走のパーンというスタート合図のようなものだ。

 しかし百メートルほどの余裕はない。相手は、よーいどんの音から数秒後にはドアの向こうへ消えてしまうのだから。


 ガチャンッと大きな音をたてて玄関扉を押し開ければ、まさに今自らの部屋へ入ろうとしていた中島蓮さんが驚いたようにこちらを見ていた。


「あっ、と……こ……コンビニ行こうかなぁ~……。お、おや? 中島蓮さんじゃありませんか。今おかえりですか? ぐ、偶然~!」


 勢いよく飛び出したはいいものの、衝動的な行動だったためその後のことは何も考えていない。中島蓮さんはドアノブを引いたまま少し考えるようなそぶりを見せてから、ぱっとそれを手放した。


 がちゃん。


 三〇二号室のドアは音を立てて閉まった。


「──行く? コンビニ」




 本当は、ずっと気になっていただなんて、そんなことは言えない。


 何時になったら帰ってくるんだろうとか、もしかして梅ちゃんのところに泊まるのかなとか、梅ちゃんとどんな話をしてるのかなとか、そんな時の中島蓮さんはどんな顔して笑うのかなとか──。


 帰宅してから、ずっとそんなことばかり考えていた。


 時計の針はあっという間にぐるりと回って短い針が深夜の一時を指していた。寝ようと自分に言い聞かせても、普段は気にならない時計の秒針の音や小さな車の音さえもやけにハッキリと聞こえてしまう。目は爛々と冴え、天井の隅のちょっとしたシミがちょうちょの模様をしていることも見つけてしまった。


 わたしは多分、ずっと待っていたのだと思う。彼が隣の部屋に帰宅する、その合図となる鍵の音を。




「タイ料理美味しかったですね!」

「白いスープうまかった」

「トムカーガイわたしの最近の大好物です」

「うん、分かる」


 部屋着姿で飛び出したわたしに「上着くらい着てくれば」と中島蓮さんは小さく笑い、真冬の深夜、わたしたちはこうして並んでコンビニをめざし歩いている。


 本当は、色々と聞きたいこともあった。梅ちゃんとは再会以来よくあってるんですかとか、梅ちゃんと昔何かあったんですかとか、梅ちゃんの家は知ってるんですかとか、梅ちゃんとも肉まんを食べたりするんですか、とか……。


 だけどそんなことを聞いてはいけないことくらいは分かる。聞きたくても口には出来ない。だって、中島蓮さんは梅ちゃんのパートナーのひとりなのだから、このふたりが接点を持ち関係を築いていくのはごく当然のことなのだ。


「肉まんとピザまん、どっちにする?」

「肉まんがいいです!」

「俺も」


 当然のように分け合おうと思ってくれているその言葉に、思わず口元が綻びそうになってわたしは慌ててぐるぐるに巻いたマフラーの中に顔を埋めた。


 二十四時間三百六十五日。いつ来ても変わらない明るさと、変わらない電子音で奏でられる単調なメロディでわたしたちを迎えてくれるコンビニエンスストア。コンビニの匂いというものもあって、それはどのコンビニに行っても同じなのだから本当に不思議だ。

 働いている人や置いてある商品だってそれぞれに多少は異なるものなのに。どうしてこんなにも同じなんだろう。──この明るさも音も匂いも、現実世界のコンビニともまるで同じだ。


「朝飯あんの?」

「食パン買おうかなぁ」

「牛乳とかは?」

「ちょうど切らしちゃったんです。買う」

「あ、俺味噌汁買う」

「飲んだ後の味噌汁、いいですね」


 ふたりで籠にとすとすと商品を入れていく。お母さん以外と食品や日用品を買ったことなんてない。ふと、恋人同士や夫婦はこんな感じなのかな、などという考えた浮かんでわたしはひとりで赤面をした。

 幸いなことに、中島蓮さんは気付いていない。


 ふぅーと息を吐いて心を落ち着かせる。大丈夫大丈夫、別に他意があるわけじゃなくて、ものの例えが出てきただけ。


 前も言ったけれど、気持ちを切り替えるのは得意だ。腹式呼吸を繰り返していれば、中島蓮さんが無の表情でこちらを見て「変」といつだったかのように呟いた。




「おいひい~!」


 コンビニからの帰り道、半分になった肉まんを頬張れば、中島蓮さんが「毎回デジャヴだな」と呆れながらもうひとつの半分に口をつけた。


「冬って寒くて嫌いだったんですけど、最近、そんな悪くないなぁって思うようになりました」


 ごろごろと入った筍の触感を楽しむ。きっと真夏に肉まんを食べても、ここまでこのおいしさを感じることは出来ないかもしれない。


「夏が好き?」


 中島蓮さんはザクザクといつものように道の端を歩いている。


「うーん、夏は暑くてあまり好きじゃないですねえ」


 アイスは美味しいけど、プールや海に行くわけでもないし、フェスとかも全然興味がないし。


「じゃあ春?」

「桜の花は好きです。だけどあの新生活が始まる感じはちょっと苦手」

「ふうん。そんじゃ秋は?」

「さつまいもとか果物は美味しいですけど、ちょっとさみしい感じがするので嫌ですね。ぎんなん落ちると臭いし」

「なんだよ、全部嫌なんじゃん」


 中島蓮さんはぷっと吹き出すと笑った。その横顔に、なんだか胸の奥がきゅっとなる。ただ笑っているだけなのに、それだけで幸せな気持ちになれる。もしかしたら普段あまり笑わない人の笑顔からは、人を幸せにするホルモンみたいなものが放出されるのかもしれない。


「でもさ、今は冬も嫌いじゃなくなったんだろ?」


 中島蓮さんと出会ってから、この肉まんの味を知ってから、冬も悪くないなと思うようになった。


 指先や耳の先っちょは寒さでヒリヒリするけれど、その分ぐるぐるに巻いているマフラーの中の温もりの優しさを知ることが出来る。体がぶるりと震えることもあるけれど、温かい部屋に入ったときの脱力感は幸福感にも近いと知ることも出来る。直接触れずとも隣を歩いているだけで、その人の体温を感じられるのは空気がひんやりと冷えているからだ。


「それなら、春も夏も秋も嫌いじゃなくなるかもしれないじゃん」


 コン、と中島蓮さんは足元の小さな石を蹴った。


 確かにそうかもしれない。

 新生活の空気に置いていかれそうだと感じても、隣で笑いかけてくれる人がいてくれれば毎日が鮮やかになるのだろう。桜の美しさを一緒に見上げてくれる人がいるならば、その感動は二倍になるのかもしれない。

 夏のまとわりつくような暑さの時には、アイスを半分にして食べたらいい。こうやって夏の深夜、アイスを買うためだけにコンビニまで散歩して、ジージー鳴く夏の虫の声に耳を傾けながらアイスを齧れば、きっと多分、夏の夜も悪くない。

 寂しさを感じる秋には、落ち葉を集めて焼き芋をしてもいい。小さい頃におじいちゃんの家で食べた焚火焼き芋は、本当に絶品だった。きっとふたりで食べたならば、もっともっと幸せな味だ。


 春夏秋冬どの季節も、一緒にいれたら、彼が隣にいてくれたら──。


 じゃり、とわたしは足を止める。二歩先を歩いていた中島蓮さんが、それに気付いて振り向こうとした。その瞬間、わたしはマフラーを目の下までぐっと持ち上げる。

 視界の半分は、マフラーのチェック柄。残りの上半分は、訝しげな表情をした中島蓮さん。


 ──だめだ。

 ──だめだってば。


 ‶彼〟というのは、まだ出会ってないわたしの運命の誰かなのだ。


 それは、決して数歩前を歩く‶彼〟ではない。


 それなのにどうして、わたしが想像した春夏秋冬には目の前の彼がいたのだろう。


「なんそれ。苦しくねーの?」

「くっ苦しくないですっ」


 だって今、わたしの顔は絶対に見せられないくらいに熱を持ってしまっているから。真っ赤になってしまっているから。


 彼は、わたしの運命の相手じゃない。

 わたしは、誰のことも好きになってはいけない。


 ゲームオーバーになんて、なりたくない。この世界から、彼の前から、消えてしまいたくなんてない。


「やっぱ変」


 左側だけ上がった彼の口元で、小さな八重歯がちらりと覗いた。




「サラちゃんって、恋してますか?」

「こここここっ、恋!?」


 うららかな日曜の昼下がり。わたしは光子ちゃんと映画談義に花を咲かせていた。

 映画館での再会を果たしてから、わたしたちはメッセージで幾度となく映画について想いを交わし、彼女から聖地巡礼しながら語りませんか? というお誘いを受けたからである。


 ちなみに今いるのは、映画の中で登場人物たちが住んでいた街のモデルとなった壱祥寺──現実世界での吉祥寺──にあるカフェだ。


 わたしたちが見た映画は、現実と夢の世界が交差するラブストーリー。そこから恋愛の話になったわけではあるが、映画の話をするのと自身の話をするのでは全く状況が異なる。


 しかもつい先日わたしは、あろうことかサポートをすべき相手に対してとてつもない胸の高鳴りを感じてしまっていたことから若干の気まずさもあった。


「最近ドキドキしたことは?」


 しかし光子ちゃんはぐいぐいと核心に迫る質問をしてくる。

 思い出すのは中島蓮さんの笑った時に覗く小さな八重歯。途端にドキドキと心臓が高鳴り出して、わたしはブンブンと頭を振った。


「ついヒロインに感情移入しすぎちゃって、疑似体験したことならば!」


 そう答えると、光子ちゃんは不思議そうに首を傾げた。


 そう、わたしは決して、中島蓮さんに咲村サラとしてときめいたわけではない。あれは、ヒロインビジョンと呼ばれる──わたしが命名した──過度な感情移入が引き起こす錯覚のようなものだ。乙女ゲームをやりこんでいると、何事もヒロインの目線で捉えてしまうことがある。

 これは乙女ゲーマーの悪い癖だ。ごめん梅ちゃん。



 先日、光子ちゃんに恋愛のことを聞けば彼女は永遠に叶わない片想いだと言っていたけれど、あれはどういう意味だったのだろう。

 聞いてみたいような気もしたけれど、わたしから触れていいものか分からずティーカップに口をつけた。


「好きな人と結ばれるって、どんな感じなんだろう……」


 ぽつんと光子ちゃんが呟く。


 幼い頃から婚約者がいた光子ちゃん。誰かを好きになっても仕方ないと悟ってしまったのはいつのことだったのだろう。

 わたしと彼女は、経緯はもちろん違うけれど、誰かと結ばれたことがないという点では同じなのかもしれない。


「きっと、うんと幸せだろうね」


 想像でしかないけれど、自分が好きな人が自分を好きだなんて、それはきっと奇跡のようなことなのだろう。


 光子ちゃんはパクリと苺を口の中へ入れると、それをゆっくりと味わうようにしてから飲み込んだ。


「──わたし、頑張ってみようかな」


 その言葉は少し震えていて、ほんのりと赤く染まる頬には小さな覚悟が見える。多分これは彼女にとって初めてとなる、恋愛においての第一歩なのかもしれない。

 そんな瞬間に立ち会ったわたしは、なぜかとても心が震えていた。


「叶わなくても……頑張ってみたい……」


 始める前から叶わないだなんて、思わなくていいじゃないか。


 運命は自分で切り開くものだって、哲平さんが教えてくれた。


「光子ちゃん! わたし! 応援する!」


 思わず拳を握ってしまう。このかわいい彼女の恋心を守りたい。全力で応援したい。


 光子ちゃんはわたしの言葉を聞くと、ちょっとだけ驚いたような表情を見せ、それから笑った。


「ところで、その相手は大学の子なの?」


 こんなにかわいい光子ちゃんが想いを寄せる相手は一体どんな人物なのだろうか。むしろ既に両思いの可能性だってある。だって、この光子ちゃんだぞ?


 光子ちゃんは一度俯いて気恥ずかしそうに両手をすり合わせた後、視線をケーキに置いたままに想い人の名前を口にした。


「──翔ちゃん、なんです」



 ◇



「ううううん……」


 まずい。これはまずいことになった。


「ううううーーーーん」


 まさか光子ちゃんの想い人が翔太くんだったなんて。だって翔太くんは梅ちゃんのパートナーの一人であり、確実に彼はこれから梅ちゃんに恋をする。わたしはそんな彼をサポートする使命を担っているのだ。だけど、光子ちゃんの初めての勇気と想いを応援もしたい。

 それとも彼女の片思いにも意味があって、ミッションとなる『彼の素顔』に関わってくるのだろうか。


「うううう……」

「トイレ?」

「違いますっ!」


 鏡越しに目が合えば、中島蓮さんは小さく口角を上げた。これは、微笑んだ、とかそういうのではなく、変なものを見たときの笑いである。きっと心の中で「変」と言っているのだ、いつもみたく。


 ここは中島蓮さんの美容院。前髪が随分と伸びていたわたしは、今晩カットの予約をとっていたのだ。

 美容室のサイトから予約を取っていたからか、店に入ったわたしを待っていたのは、「馬鹿真面目」という言葉と呆れた顔だった。


「悩みなんてなさそうなのに、なんでいつも悩んでんの」


 中島蓮さんは丁寧にわたしの髪すくいあげると、状態を確認するように何度か掌の上で滑らせる。


「悩みっていうか……。中島蓮さんなら、どうしますか?」


 中島蓮さんとは面識のない、わたしの友達の話なんですけど、と強調してから掻い摘んで事情を説明した。もちろん使命であるとか、ゲームがどうとかそういったことは言っていない。


「三角関係ってやつ?」

「まあ……端的に言えばそうですね」

「で、あんたはどっちも応援したいんだ?」

「……はい」

「八方美人」


 グサリと彼の言葉が胸に刺さる。だけどそれは、わたしが光子ちゃんの気持ちを知ってから心の奥に生まれていた言葉と同じだった。


 梅ちゃんと翔太くんを応援する気持ちは嘘ではない。だけど光子ちゃんを応援したいとも心から思う。そんなのは、誰にでもいい顔をしている八方美人と変わらないとわたし自身思っていた。


 それでもわたしには、やらなければならないことがある。忘れてはいけない。ここはゲームの世界であって、わたしは元いた場所に戻るためにも──戻りたくないと願っても──使命を全うしなければならないのだ。


 あのさ、と俯いたわたしの顔を、中島蓮さんは以前したのと同じように前へと向かせた。鏡の中のわたしは、今にも泣き出しそうな顔をしている。


「人間関係なんて、どうなるか分からない。そっちが応援しようが口出ししようが、実際そんなのは何の影響も与えない。決めるのは当人同士なんだから」


 そのまま彼は器用に鋏を滑らせた。シャンシャンという軽い金属音は、心地よく鼓膜を揺らす。


「力になりたいと思うなら、フラットな状態で話を聞いてやるくらいでいいんじゃないの」


 ぱさりと目の前が開けた。目にかかるほど伸びていた前髪を、中島蓮さんの鋏が取り払ってくれたのだ。


「いつもいつも、一人で勝手に背負いすぎ」


 彼はそう言って、少しだけ眉を下げて笑った。そこに柔らかな色を見て、穏やかな温度を感じ、思わず涙が滲んだわたしは顔ごと上に向けた。落ちるな落ちるな、涙よ落ちるな。


「泣き虫」

「これは髪の毛が目に入って」

「この俺がそんなミスするわけないだろ」

「そうでした申し訳ありません」

「あーもー……」


 ガシガシと後頭部を混ぜた中島蓮さんは、棚にあったタオルをわたしの顔にふわりとのせる。そのままくしゃくしゃっと手を動かした。


「せっかくの前髪がっ、乱れますっ……!」

「俺が直してやる」

「メイクもっ、落ちちゃうっ……!」

「大してメイクしてないだろが」


 ひとしきり顔を拭かれれば、その時には涙の蛇口もきゅっと締まっていた。


 鏡に映ったのは、宣言通り前髪があちこちに乱れたわたしの顔。メイクは──彼の言う通り大していないため変わりはない。


 中島蓮さんは小さく息を吐くと、今度は丁寧にブラシを使って髪をブローしてくれた。そして最後にメイクボックスから鮮やかな赤いルージュを取り出し、色をわたしの唇にそっとのせる。


「──もっと、自信持て」


 鏡の中のわたしは、新しい自分だった。唇に色をのせるだけでこんなに変わるなんて。以前のわたしならば、絶対に選ばない赤いルージュ。

 だけどその赤は、わたしの真っ黒な髪の毛や肌の色、グレーの瞳によく似合う。


「あんたがいるだけで、みんな救われてる」


 鏡越しの彼はそう言って、ふいっと顔を逸らせた。その耳がほんのりと赤く染まっていることに気付いたわたしは、胸の奥の高鳴りがばれてしまわぬよう、両手の平で包み込むのに必死なのだった。




「わたし、告白しました」

「ええええっ!?」


 夜十時。光子ちゃんから突然かかってきた電話を取れば、驚きの報告が待っていた。


 確かに今日、光子ちゃんは翔太くんと出かけるのだとは言っていた。ここ最近、彼女は宣言通り翔太くんにまめに連絡をしたりデートに誘ったりと行動にうつしていたことも聞いてはいる。しかし、こんなに早く彼女が告白をするなんて。


 電話の向こうから重苦しい雰囲気は伝わってこない。まさか、翔太くんは光子ちゃんの想いに応えたのだろうか……。それじゃあ梅ちゃんは……?


「振られちゃいましたけどね」


 しかし光子ちゃんは、同じトーンの声であっさりと報告をする。


「え……」


 どうしてわたしは、うまい言葉を伝えることができないのだろう。光子ちゃんの告白がうまくいかなかった。それはとても残念なことで、とても悲しいことだ。しかし心の何処かで、やはりそうかと思ってしまう自分がいるのも確かだった。

 シナリオ通りであれば、翔太くんは梅ちゃんに恋をする流れとなっているからだ。


「最初から付き合えるとは思っていなかったから。それでも頑張りたかったんです。ちゃんと好きだって気持ちを伝えたかった」


 だから、大成功です。と光子ちゃんは笑う。


 そういうものなのだろうか。わたしは恋をしたことがないから分からないけれど、想いが実らなくても伝えられただけで満足だなんて、そんなことがあるのだろうか。

 結局最後までふさわしい言葉が何か分からなかったわたしは、「いつでも連絡してね」なんていう陳腐な言葉を口にして電話を切った。


 ばふっと大きなクッションに顔を埋める。これはわたしがここへやって来た初日、中島蓮さんから手渡された大きな荷物の一つ。今やこのクッション無しでは眠れないくらい、わたしにとっての必需品となってしまっている。


 今夜光子ちゃんは、ゆっくりと眠れるのだろうか。気丈に振る舞っていたけれど、振られて悲しくないはずがない。

 そして──、翔太くんは大丈夫なのだろうか。




 はあ、とため息を一つついたわたしは、カラリと窓を開けてベランダへ出た。


 しん、と空気がその音を発しているみたい。聞こえないのに、その音は確かにわたしの瞳に映る。空を見上げればオリオン座の三つ星が綺麗に並んでいた。


 カララ……と隣からも音がする。次いで「さみ……」という聞き覚えのある声。


 反射的にわたしは、ベランダから身を半分乗り出した。だってその声は、わたしが今心に思い浮かべていた翔太くんのものだったのだから。





「へ、サラちゃん?」


 ふわふわとした髪の毛を揺らしながら、翔太くんは突然ひょっこりと顔を出したわたしを見て目を丸くした。少し酔っているのかもしれない。目の辺りが赤かった。


「こんばんは」


 中島蓮さんの家のベランダにいる翔太くん。いつものように彼は中島蓮さんの家で夕ご飯でも食べていたのだろうか。


 翔太くんは、ちょっと待ってて、とわたしに言うとぱっと視界から姿を消した。


「なあ! 僕さ、ちょっと酔い覚ますから! だから絶対誰もベランダに来るなよ? いいな? 約束!」


 などという声が聞こえてから、再びカララと窓を閉める音がするから笑ってしまう。誰も、と言っていたから、もしかしたら昴くんも来ているのかもしれない。

 そして再び現れた翔太くんは、わたしを見るとへへっと笑った。


「サラちゃん寒くない? 大丈夫?」


 翔太くんは優しげな表情で首を傾げる。長い睫毛に大きな瞳、通った鼻筋に優しげな口元。本当に綺麗な顔立ちをしている。だけど彼の魅力は、そんな外見だけではない。


「翔太くんは……大丈夫……?」


 いつもよりも弱々しい笑顔についそんな言葉をかけてしまう。男の女の問題は、当人同士にしか分からないことだ。中島蓮さんの言う通り。わたしが口を挟む道理などない。

 それでもやっぱり、わたしは彼のことが気にかかっていた。


 誰よりも人の痛みを感じ、誰よりも人の心に寄り添う人。そんな翔太くんだからこそ、光子ちゃんの想いを知った今、それを受け入れることができなかった彼は深く傷ついているのではないかと思ってしまったのだ。


 しばしの沈黙の後、ふう、という小さな息を吐き出す音が5℃の外気を震わせる。


「一番幸せでいてほしい相手を、傷つけなきゃいけないのはなんでなんだろうね」


 翔太くんは独り言のようにそう呟くと、冬の空を見上げる。その横顔は、月明かりに照らされてとても綺麗だ。やはり彼には、月がとてもよく似合う。もしかしたら翔太くんの本当の素顔は、太陽ではなく月に近いのかもしれない。


「幸せでいてほしい、笑っていてほしい、ってずっと思ってきたんだ。彼女の笑顔を守れますようにって、いつも思ってきた」


 光子ちゃんのことだと、わたしはもちろん分かっている。もしかしたら翔太くんも、わたしが全てを知っていることに気付いているのかもしれない。


「今から変なことを話すから、聞き流して」


 そう前置きをした彼は、これまでの半生について語ってくれた。


 翔太くんには、幼い頃の記憶がない。それは自分がどうやって育ってきたか、どんなものを見てどんな風に感じてきたか、どうやって自分自身が作られていったのか、そういった部分が抜け落ちているということでもあった。


「これは本当に不思議なんだけど、純粋に過去の記憶だけがなかったんだ。気付いた時には‶小さい頃の記憶がない今野翔太〟として普通に生活を送ってた」


 記憶がなければ家族もいなかった彼は、全寮制の中学、高校に通った。お金は縁のあった会社が実施している奨学金制度を使用。モデルの仕事を始めたのも、この奨学金を返済するためだったという。


「そんな中で、彼女に出会った」


 彼女──、光子ちゃんと翔太くんは高校の同級生だった。同じクラスで図書委員になったのがきっかけで、二人は会話をするようになった。

 学校でも有名なお嬢様だった光子ちゃん。それが仇となり、学校で浮いていた彼女に「俺の幼馴染になって」と翔太くんは突然言ったのだ。


「多分、彼女の孤独に自分の孤独を重ね合わせていたのかもしれない」


 そう言った翔太くんは、「自分勝手だよなぁ」と自嘲気味に笑った。


「僕さ、その子が泣いてるところを見たことがなかったんだ。いつも凛としていて、強くて、だけど優しくて。それが今日、初めて涙を見た気がした」


 光子ちゃんは、彼の前で泣いたのだろうか。


「……実際には笑ってくれてたんだけどね……」


 ああ、きっと翔太くんには見えたのだろう。光子ちゃんの笑顔の裏の、心の涙が。


 つん、と鼻の奥が痛くなる。


 これほど大切に想っているのに、その想いは恋や愛とはまた違うのだろうか? いつも笑っていてほしい、幸せでいてほしい、笑顔を見ていたい、傷つけたくない守りたい。翔太くんの言葉からは光子ちゃんへのいつくしみしか感じられない。しかし、彼は光子ちゃんの想いを受け取らなかったのだ。


「わたしは誰かを好きになったことがないから分からないんだけど」


 そう前置きをしてから、わたしはひとつひとつ自らも確認するように言葉を紡ぐ。


「翔太くんのその気持ちは、‶好き〟とは違うの?」


 彼の気持ちが、当たり前に存在するようなものではないことくらいはなんとなく分かった。それとも、幼い頃から様々な面を見てきた幼馴染だからこその感情なのだろうか。


 翔太くんは考えるように三つ並んだ星を眺めた後、うーんと小さく唸った。


「生きてるとさ、それぞれに役割があるじゃない? やらなきゃいけないこと、守らなきゃならないこともたくさんあって、それぞれに相応しい相手がいたりする。だから多分僕は、‶好き〟という感情をどこかに捨ててきたんだと思う」


 それからこうも続けた。


 ──好き、ってなんだろうね。


 それは、恋愛経験が豊富そうに見える翔太くんからは意外とも思える言葉だった。


 好きとは、どういうことなのか。


 叶わないと知りながら、ずっと翔太くんを好きでい続けた光子ちゃん。

 去ることを決めていたであろうに、わたしに好きだと伝えてくれた哲平さん。


 好きという気持ちには、人を突き動かすほどの、強い何かがあるのかもしれない。定められている役割やシナリオを超えてしまうほどの、強い力が。


「……なーんて! ちょっと今日見た映画で感化されちゃった! 僕らしくないってね! 湿っぽい話してごめんね」


 翔太くんは、わざと空気を変えるように明るい声を出した。だけど本当は、太陽を演じているのだとわたしはもう知ってしまった。


 誤魔化したりしなくていい。強がらなくていいし、いつも明るく周りを照らす役割じゃなくていい。


「ありのままの翔太くんでいいよ。どんな翔太くんも、わたしの大事な友達だから」


 自信のないわたしを見つけてくれた翔太くん。わたしの気持ちを考えて、頭を下げた翔太くん。いつも明るく声をかけ続けてくれた翔太くん。


 いつの間にかわたしにとって彼は、心を許せる大切な友人となっていたのだ。


「……友達?」

「うん、友達」


 彼は、わたしにとって人生で初めての男友達だ。


 翔太くんは目を細めてわたしを見ると、ゆっくりと口元に弧を描いた。それは今まで見たどの翔太くんよりも優しくて、穏やかで、わたしは彼の幸せを心の底から祈る。


 どうか彼が、本当の自分の気持ちと向き合える日が来ますように。


 彼のまるい瞳の中には、綺麗な白い三日月が揺らめいていた。



「は? キャンプファイヤー?」


 目の前の中島蓮さんは、おもむろに眉にシワを寄せる。


「そうなんです、そんな大きくなくてもいいので……なんなら焚き火でもいいのでとにかくフォークダンスができる環境を……」


 そう伝えると、「フォークダンス……?」と彼の眉間のシワはさらに深くなった。




 翔太くんと話したわたしは、一晩考えた後にひとつの可能性を見出していた。

 彼が以前話してくれた高校時代のフォークダンスのこと。翔太くんが言っていた「手の繋げなかった相手」というのは光子ちゃんのことではないだろうか。もしかしたらその時の思いが心の中に強く残っていて、翔太くんの気持ちはそこで止まってしまっているのかもしれない。


 今後彼がどのような選択をするのかわたしには分からない。

 シナリオ通り梅ちゃんに惹かれていくのかもしれないし、もしかしたら彼なりの目的に向かって歩むのかもしれない。どちらにしても、止まってしまった彼の時計の針を動かさなければならない。そのためには、残っているであろう想いを完結させるのが良いのではないだろうか。

 それこそが『彼の素顔を暴く』ということに繋がるのではないか。


 そう思ったわたしは、あの夜を再現しようと頭を悩ませ、中島蓮さんを訪ねたのである。


「そんなの、学生がやるもんだろ?」

「大人がやってもいいじゃないですか」


 玄関先で中島蓮さんは突然の青臭い青春の象徴とも言える言葉に、おもむろに嫌そうな顔をしている。分かりますよ、まあね、そりゃさ、いい年した大人がキャンプファイヤーはまだしもフォークダンスなんてね! そりゃさ、気恥ずかしいのも分かりますよ。だけど、今大切なのは我々の羞恥心ではなく、大事な友人の気持ちでしょ?


 まあ、わたしがぺらぺらと二人の思い出を勝手に話すわけにはいかないので、中島蓮さんにとっては唐突すぎるモブ女の拗らせた青春への憧れなどと思われているかもしれないけれど。


「大体キャンプファイヤーができる場所なんて──」

「あるけど?」


 ふと、わたしの後ろから自信満々の声がする。


 キャンプファイヤーには火の使用が許される大きな場所が必要だ。例えばそう、だだっ広い私有地とか。

 キャンプファイヤーにはぼおぼおと燃やすための薪も必要だ。それなりにお金もかかる。


 ──そんな数々の難関を軽々と飛び越えられる人間が、この世には少数存在する。


「昴くんっ!!」


 きっとわたしの瞳の脇には、漫画だったらキラキラという擬態語が添えられていたと思う。


 富とは──時として人を救うのだ。



 ◇



「あっちが温泉。んで、こっちのコテージは女子、男どもはこっち」


 ずらりと並ぶおしゃれなコテージ郡。その中でも一際大きなコテージを指して昴くんはわたしに鍵を手渡した。


 綺麗に整備された大きな川の脇にはランタンが並べられている。夜にはさぞ幻想的な景色になるのだろう。この川に沿うような形で、階段のように段をつけながらコテージが並んでいる。


 前にテレビで見たことがある。これは、春山リゾート。いま日本で最も勢いのある企業によるリゾート施設だ。まさかここも、昴くんのご両親が経営していただなんて。


 キャンプファイヤーにフォークダンス! と中島蓮さんに詰め寄っていたわたしに昴くんが提案したのは、彼の家族が所有する宿泊施設への一泊二日のちょっとした旅行だった。


「あの、本当にいいの……?」


 なかなか予約の取れない宿として有名な春山リゾート。それなのに今日はここまで、従業員含め誰ともすれ違ってすらいない。


「今日と明日はもともと休館日なんだよね。休息があってこその仕事、ってのが母親のポリシー」


 だから気にしないで使っていいよと昴くんはダウンのフードについたふわふわを顎の下で寄せるようにしながら、さみぃ!と肩を持ちあげた。


 かわいい一人息子のためならば最低限の数の従業員を出勤させてもよさそうなものだが、どうやら彼のご両親は昴くんを猫可愛がりしているわけではないらしい。


「ものすごく素敵」と目を輝かせるのは梅ちゃん。

「初めて来ました!」とはしゃぐ声は光子ちゃん。

「最初で最後の贅沢だ……」と圧倒されるわたし。


 こちらが本日の女性陣の顔ぶれ。一方の男性陣は、昴くんに中島蓮さん、そして撮影が終わり次第こちらに向かうという翔太くんだ。


 まさかこんな形で、お母さんの漫画などで出てきた男女混合旅行みたいなものに自分が参加するとは夢にも思わなかった。

 そもそも、わたしには一緒に旅行に行けるような友達がいなかったのだ。それが今、わたしは五人もの──哲平さんを入れれば六人もの──信頼できる人との出会いを果たしている。


「今回はキッチン付きのコテージにしたから夕飯は蓮くん中心にみんなで作ればいいと思う。それまでは散策してもいいし、とりあえず自由行動ってことにする?」


 昴くんの声に、隣にいた梅ちゃんがスパッと右手を挙げた。


「温泉! ひとまず温泉入りたい!」


 こうして女性陣は温泉へ、男性陣は部屋でゲーム──昴くんが持参した、中島蓮さんのテレビゲームだ──をすることになった。






「温泉なんて、本当久しぶり!」

「わたしもです」


 脱衣所でウキウキしながら服を脱いでいくふたりの横で、わたしは彼女たちの半分のスピードでコートから腕を抜いた。


 光子ちゃんと梅ちゃんは今日が初対面だ。本来であれば翔太くんを囲むトライアングルとなってしまうふたりを会わせる事は避けたいところであった。しかし、旅行の話を聞いた翔太くんが「それなら梅ちゃんも誘おうよ! 人数多い方が楽しいし!」と言ったため、メインキャスト勢揃いといったような形になったわけである。


「光子ちゃん、お肌すべすべだね〜」

「梅木さんも肌が白くて羨ましいです」


 ところがこのふたり、移動時間だけですっかりと打ち解けてしまっている。さすが、出来る女子というのはコミュニケーション能力も高いのかもしれない。


 恥じらう様子もなくするすると服を脱いでいくふたり。わたしはなぜかドキマギしながら、ゆっくりとニットから両腕を抜いた。


「サラ、ずいぶんゆっくり脱ぐね?」

「へっ、あっ……いやぁなんていうか……」


 美人な二人はすでにタオル一枚。友達と一緒に温泉に入るなんてこと自体、わたしには初めてのことだ。こういう時ってどこを見たらいいの? 脱ぐ時もなるべく隠れるようにしながらするべき? なんて分からないことだらけで、恥ずかしくなってしまう。


 ふたりにも、そんな気持ちは伝わったのかもしれない。


「ゆっくりでいいよ。先に入ってるね」


 梅ちゃんは優しく笑うと光子ちゃんと曇りガラスの向こう、白い湯気の中へと消えていった。


 梅ちゃんの、こういうところがとても好きだ。自然と空気を感じてくれて、茶化したりすることもなくわたしのペースを大事にしてくれる。


 彼女も、やはりわたしにとって大切な友達だ。こちらの世界に来てから、わたしは感じたことのない思いや喜びをたくさん感じている。現実世界では知らなかった世界を、こちらで──。

 ふと、自分はいつかここから消える存在なのだという事実が浮かび、わたしはぶんぶんと顔を振った。


 今はまだ、そんなことは考えたくない。


 思い切って全ての衣類を脱ぎ捨てたわたしは、ふたりの待つ白い世界へと足を踏み入れたのだった。




「サラ、こっちこっち」


 ふたりの姿は露天風呂にあった。広々とした岩風呂の向こうには美しい枯山水が広がっている。青々とした竹林が美しく、温泉のあたたかさを感じながら自然の風を感じることもできて、贅沢とはこういうことを言うのだろうなぁと感じた。


 お待たせと言いながら、ゆっくりと足をお湯の中へと沈ませていく。じんわりと伝わる熱は、冷え切った足先をぴりりと震わせ、それから優しく全身に広がっていった。ふぅーと思わず深い息が漏れ出てしまう。


 人間というものは幸福感でいっぱいになった瞬間、その分の空気が口から出ていくようになっているのかもしれない。


「今、わたしの失恋話を聞いてもらっていたところなんですよ」


 光子ちゃんが温泉でほんのりとピンクに染まった頬を手で撫でながらそう言って、思わずわたしはごくんと息を飲み込んだ。


「わたしが思うに、翔太くんって恋愛感情にすごく疎いような気がするんだよね」


 分析するような口ぶりで話すのは梅ちゃん。つまり、梅ちゃんはもう、光子ちゃんが告白した相手が翔太くんだと既に知っているということだろう。それにしても彼女の分析は非常に的を得ている。


「昔からよくモテていたし、本人も惚れやすいみたいで大体いつも女の人の影があったんですけどね」

「彼女がいたってこと?」

「うーん……。彼女という感じではなかったけど、いつも何かと気にかけている女性がいたみたいというか」


 光子ちゃんと梅ちゃんのやりとりには、不穏な気配は一切感じられない。もしも梅ちゃんが翔太くんに対して少しでも気持ちがあるのだとすれば、この話題は穏やかなものではないはず。それなのに梅ちゃんの態度は、いつものそれと全く変わらないのだ。


「光子ちゃんと翔太くんって、幼馴染なんだよね?」

「はい、そうです」

「一番近くにいるからこそ、難しいのかなぁ」


 梅ちゃんがそう言って顎を湯船にちゃぽんと浸けた。


「……一番近くて、一番遠いです」


 光子ちゃんはそう言って目を伏せる。これは自惚れだとか自意識過剰だとか笑って貰っても構わないんですけど、と前置きしてから言葉を繋げた。


「翔ちゃんにとってわたしは《《大切》》ではあるんだと思います。今までずっと、何があってもわたしのことを信じて、守って来てくれましたから。だけどそれは、恋愛対象としてではないんですよね……」

「ど、どうしてそんなこと分かるの?」


 恋愛未経験のわたしはここまでずっと黙っていたが、ベランダで見た翔太くんの言葉を思い出して思わず口を開いた。こんなわたしの直感なんてアテにならないのは百も承知だ。それでも、翔太くんは好きということがどういうことなのか分からないと言っていた。それはもしかしたら、その正体に気付いていないだけという可能性もある。


 ぴるりと竹林から鳥の鳴く声がする。


 光子ちゃんはわたしを見たあと、だってわたし振られているんですよ?とおどけながら笑った。


「告白する前から分かっていたんですけどね、翔ちゃんがわたしを恋愛対象として見ていないということは。だってね、翔ちゃんは誰にでもスキンシップが多い人なんですけど、わたしには指一本触れようとしたことがないんです」


 普通、好きだなと思ったら触れてみたいと思いますよね? わたしなんて、翔ちゃんのバイクの後ろに乗っている時ここぞとばかりにしがみついちゃうのに。と光子ちゃんは口元をきゅっとさせて無理矢理に微笑んだ。


「諦めちゃうの?」


 それまで黙ってわたしたちのやりとりを聞いていた梅ちゃんの声が湯気を揺らす。


「振られたら気持ちもリセット出来たら楽なんですけどね……。きっと翔ちゃんとわたしはそういう運命なんだと思います。それに、親にも見合いをするように言われていて」


 きっと食べるには困りませんからラッキーですね、なんて冗談めかして笑う光子ちゃん。その笑顔は、初めて彼女に出会った時の全てを諦めたあの表情と同じ色をしていた。


 せっかくキラキラとした、年齢相応の表情に戻っていたはずなのに。


 それでも光子ちゃんにとっては、翔太くん以外の男性ならば、誰と一緒になっても同じなのかもしれない。


 言葉が見つからず黙ってしまうと、目の前のお湯がどろんと動いて、ざばーっと梅ちゃんが勢いよく立ち上がった。


「一回の失恋なんて序章の序章だよ! 光子ちゃん、こっからが勝負だよ! 運命なんて、自分で作っちゃえばいいんだよ!」


 ぱた、ぱた、と彼女の体から落ちる水滴が湯船にいくつも丸い円を描いては消えていく。そこに光子ちゃんの一粒の涙が混じっていたことに、わたしは気づかないふりをしたのだった。




「……なにあれ……」


 温泉を楽しんだわたしたちが建物から一歩出ると、どやどやとした賑やかな光景が目の前で広がっていた。

 ざっと見て三十人くらいはいるだろうか。両手に大きなビニール袋などを持った男女が列をなして男性陣のコテージへと向かっている。みな、すごーいなどと言いながら周りを物珍しげに見渡しており、なんだかとても楽しげだ。


 今日明日は、もともと休館日なのだと昴くんが言っていたが、何かの間違いだったのかもしれない。どう見ても団体客にしか見えないのだ。


「あっ! サラちゃーん!!」


 その列の一番後ろから、明るい声が響く。


「翔太くん……?」


 おーいと大きく両手を振るのは、撮影後にこちらへ向かうと言っていた翔太くん本人だった。





「どういうことなのこれ」

「いやさ、キャンプファイヤーって言うから人数多い方が楽しいかなーって?」

「人数考えろよっていうか最初に連絡しろよ、社会人の常識だろ、チンゲンサイって!」


 コテージの玄関前。てへっと舌を出す翔太くんに、お怒りマークを浮かべている昴くん。この状況では言いづらいけれど、それは「チンゲンサイ」ではない。報告、連絡、相談、という社会人が大事にしてほしい事柄を表わす「ホウレンソウ」なのだ。あとでちょっと訂正しておいてあげなければ。


 突然現れた団体御一行。彼らは、翔太くんが連れてきた仕事仲間たちだった。カメラさんにアシスタントさん、メイクさんに衣装さん、依頼先企業の担当者さんたちやスタジオのスタッフさんなど多くの人数が集まっていた今日の撮影。

 あろうことか翔太くんはその全員にまんべんなく声をかけ、急遽参加できるとなった人々がやって来たということだった。


 昴くんは最初、呆気にとられた表情をしていたが、部屋の奥から空いているコテージの鍵を持ってくると「配れ」と翔太くんに手渡した。スタッフさんたちがそれぞれに部屋割りを決めたり荷物を運び始めたところで、先ほどの会話に戻るというわけである。



「なんかせっかくだからさ? みんなで楽しい時間過ごせることって、なかなかないじゃん?」


 それにほとんどは明日も仕事があるから早朝にはここを出るって言ってるし! なんて翔太くんはへへっと笑う。その屈託のない笑顔はいつだって怒りだとかそういうものを取り除いてしまうパワーがある。実際に昴くんも、はあーっと大きなため息をついてから「しょうがねぇなぁ」などとお説教を諦めて部屋へと戻っていった。

 ちなみに中島蓮さんは「誰も連れて来るなって言わなかった昴が悪い」なんて言いながら、昴くんの背中をぽんぽんと叩きながら部屋へと戻る。


「でも本当、すっげ綺麗なとこだね!」


 その一方、翔太くんは両手を広げてめいっぱい深呼吸をした。まだ今日は一度も、光子ちゃんと翔太くんは言葉を交わしていない。


「おー梅ちゃん! ハイターッチ!」


 梅ちゃんを見つけた翔太くんは、手を叩く掲げて梅ちゃんとぱちんと手を合わせる。


「サラちゃん髪の毛濡れたままじゃん!」


 隣に立つわたしには、そう言いながら髪の毛をくしゃくしゃっと混ぜる。


「おー光子、温泉気持ちよかった?」


 そしてその横の光子ちゃんには、やはり決して触れようとはしなかった。

 光子ちゃんはにこっと笑うと、大きく頷く。


「翔ちゃんも後で入った方がいいよ。疲れなんか吹き飛んじゃうから!」


 今日も翔太くんはいつも通り明るくて元気だ。それでも、もしかしたら光子ちゃんにだけは分かる、《《彼の疲れている様子》》というものがあるのかもしれない。

 翔太くんは光子ちゃんのことを優しげな目で見つめると、「じゃあまた後で!」と昴くんたちの後を追ってドアの向こうへと消えていった。


 ◇


「うお! すげいい匂いする!」

「ただのカレールーの匂いだろうが」

「でも蓮くんのスペシャル配合っしょ?」

「最初からカレーにするって分かってれば家のスパイス持ってきたのに」

「今から親父の秘書に持ってこさせようか」

「あほう」


 本来であればコテージ内のキッチンを使って中島蓮シェフによるスペシャルディナーをいただく予定だったのだが、想定外の団体様の参加により、夕飯は飯盒炊爨はんごうすいさんでカレーとなった。

 場所はコテージから車で少し行ったキャンプ場。一般客の利用はもちろん、学生の林間学校などでも使用される施設だ。ちなみにここも、昴くんのご両親が経営しているらしい。

 それにしても、みんな本当に楽しそうにカレーを作っている。年齢は、きっと光子ちゃんと翔太くんが最年少。一番上は今年五十三歳になるというカメラマンさんだ。


 意外なことに、この場を取り仕切っていたのは昴くんだ。相変わらず言葉の間違いはあるけれど、自分の両親が経営する施設でのイベントだからなのか、張り切って自己紹介の場を設けたり飯盒炊飯のグループ分けのあみだくじを作ったりしていた。

 最近の昴くんは、色々なことに意欲的になってきている気がする。先輩としてはその姿は見ていて頼もしいものだ。


「サラちゃん、ごはん炊けた?」


 かまどの前にしゃがんでいれば、ひょこんと隣に翔太くんが腰を下ろした。ふわりと香る彼の甘い香り。わたしが知っている香水の香りは、哲平さんがつけていたムスク系のものと、翔太くんのつける甘い香りの二種類だ。昴くんはいつからか会社に香水をつけてこなくなったし、中島蓮さんは柔軟剤みたいな香りがするだけだから。


「てっちゃんもいたら、きっともっと楽しかったね」


 まさに今、哲平さんのことを思い出していたから心の中を言い当てられたのかと思った。どきりとして横を見るが、翔太くんはぱちぱちと弾ける薪だけをじっと見つめている。


「……哲平さんに会いたい?」


 いつも彼のことを慕っていた翔太くん。今回のことだって、哲平さんにならば彼は相談することも出来たのかもしれない。


「会いたくないって言えば嘘になるけど──。でもてっちゃんは今、ちゃんと自分の信じた道を歩いているからね」


 ぷつぷつと飯盒の蓋の隙間から溢れるあぶく。それは黒いアルミの肌を伝り落ち、薪に落ちてじゅわっと消えた。


「翔太くんだって、自分の信じた道を歩いていいんじゃないかな」


 ふと、彼が顔をあげてこちらを見るのが分かった。周りにはたくさんの人がいて、みんながそれぞれに洗い物をしたり、野菜を切ったり、ぐつぐつと鍋を煮込んだり談笑したりしている。それなのに、わたしにはその雑音は全て取り除かれ、彼の瞬きする音だけが聞こえるように感じた。


「僕の、信じた道──?」


 彼に初めて出会った時から、ずっと感じていた違和感。哲平さんや昴くん、中島蓮さんには感じられなかった小さなひっかかり。


 翔太くんは自分の本音や意志を、どこかへ捨ててきてしまったように、いつもわたしは感じていたのだ。


「翔太くんがいいと思ったことを、信じていいんだよ」

「……そんなこと、考えたこともないよ」

「どうして?」

「だってさ──」


 その先の言葉は、翔太くんを呼ぶ誰かの声によって遮られた。ざわざわとした喧騒がまた耳の中へと戻ってくる。

 ちょっとごめんね、と立ち上がった翔太くん。彼はわたしにまた太陽のような笑みを向けると、声のした方へと駈けていく。わたしはどくどくと痛いほどに大きく波打つ胸を抑えながらその背中を見送った。


 彼の言葉は、きちんとわたしの耳には届いていた。


「──だって僕は、()()()()()()()



 ぱちぱちと弾ける薪の音。煌々と燃え盛る大きな炎。体の正面だけが熱を感じて火の偉大さを感じる。オレンジ色に照らされたそれぞれの表情。照れ臭さを噛み潰したような表情が多いのは、やはりみんながいい大人だからだろうか。


「それじゃあみなさん、恥ずかしがらずにしっかりと手と手を取って、楽しんでくださいね! あと、いくらかわいい子と踊りたいからって独り占めしたりズルをしたりしてはいけません! みんな平等に、対等に、正々堂々と」

「ヨッ! サラ学級委員長!」


 キャンプファイヤーの取りまとめを任されたわたしは、拡声器を使って呼びかける。それを茶化すのは昴くんだ。

 こんな風に、出会ったばかりの人たちに呼びかける役割を自分が担う日が来るなんて。これまでの自分ならば、きっと尻込みしてしまっていただろう。

 人は、変ることが出来る。きっと多分、ちょっとくらいは。



「翔太のため?」


 炎を囲うように円く並ぶ大人たち。本当はコテージの広場でちょっとした炎を用意する予定だったようだが、せっかくこちらのキャンプ場へ来たからということで、それこそ中学生たちが実際にキャンプファイヤーを行う場所で僕たちは薪を積み重ねてそれを作り出した。

 わたしの隣に立った中島蓮さんは、炎の向こうで並んでいる翔太くんと光子ちゃんを見ながらそう言った。


「色々な事情があって、仮面を被らなきゃいけないことってきっとあると思うんです」


 翔太くんが口にした‶アクター〟という言葉。ここはゲームの世界で、彼らが初めて登場した時にはデジタル表示が点滅して。

 翔太くんはそのために、自分の気持ちをどこかへ置いてきてしまったのだ。


「だけど、それで本当の自分を諦めなきゃいけないなんて、悲しいじゃないですか」


 太陽の光を受けて、輝く月。きっと翔太くんにとっての太陽は、ずっとずっと光子ちゃんだった。

 ‶シナリオ〟とか‶ミッション〟とか。それよりも大事なことが、きっとある。


「さ、始めますよ! 中島蓮さんも位置についてくださいね!」


 笑顔でそう言ったわたしは、無言のままの彼を残してラジカセの方へと向かう。

 どうかどうか、翔太くんが素顔を取り戻せますように。

 彼が大事にしたいものを、きちんと大事にできますように。


 小学生の頃に体育の時間で使っていた、白くて古めかしい重たいアンプの再生ボタンを、指先でばちんと押す。いまどきとは思えないほど音質の悪いフォークソングが不安定な波長にのって流れ始めた。


「みなさーん! 今隣にいる人とまず手を繋いでくださいね!」


 オレンジに染められた翔太くんの顔が、まっすぐにわたしを見つめていた。


 ◇


 わたしにとってこれが、人生初のフォークダンス。まさか大人になって経験するとは思わなかった。

 

 赤の他人と手を取り合って、近い距離でステップを踏む。誰かとコミュニケーションをとることが得意ではないわたしにとっては、苦行に近いと思っていた。

 ところがどういうわけか、実際にスタートしてみればそれはとても楽しいものだった。

 みんながある程度年を重ねていて、人との接し方が分かっているからかもしれない。ちょっとした会話を楽しみつつ、つかの間の時間を共有する。

 

 周りの人々も、なんだかんだと楽しそうだ。人数の関係上、男性同士で踊ることもあったけれど、良いコミュニケーションになっているらしい。


「先輩、俺の足踏まないでね? 今日の靴ハルヤマの新作で百万するし」

「ひゃっ、ひゃくまん⁉」


 手を取り合った瞬間、昴くんがそんなことを言う。もちろんそれは冗談で、こんな時でもからかわれてばかりのわたし。


 右出して、左出して、それからくるんとまわりましょ。高校の頃にダンスの練習で体育の先生が言っていた振付の言葉を頭の中で浮かべていれば、あっという間に次の人だ。


「お、僕の太陽」


 次に手を取ったのは、翔太くん。おどけるようにそう言った彼に、わたしはそっと目を細める。

 彼は本当に、素直な人だ。まっすぐで、優しくて、明るくて。だからこそ自分の立場や彼女の想いにも、嘘をつくことが出来ない。いつも周りの幸せを考えているから。


「わたしじゃないよ」


 右出して、左出して、それからくるんとまわりましょ。

 本当は気付いているでしょう? あなたの太陽が、誰なのかって。


 翔太くんは不意を突かれた表情を見せてから「それでもやっぱり、サラちゃんは太陽だよ」と優しく笑った。


 こうしてわたしはたくさんの人々に手を差し出し、お互いに握り合い、ステップを踏んだ。

 時折振り返ってしまうのは、少しずつ近付く中にさらりと揺れる黒髪が見えているから。

 中島蓮さんと踊ることを、楽しみにしている自分がいる。


 高校時代の翔太くんも、こんな気持ちだったのかもしれない。そわそわとして、ドキドキとして。

 右出して、左出して、それからくるんとまわりましょ。

 目の前に、中島蓮さんが現われる。彼の手が、わたしの方へ伸ばされる。

 曲はラストへと向かっていた。きっと多分、彼と踊り終わったところで、曲は終わりを迎えるだろう──。


 その瞬間、少し離れた場所にいる翔太くんの姿が見えた。そこから数人離れたところに、光子ちゃん。

 人数が多いため、ダンスの輪は大きくなった。このままではあの二人は、また手を取ることなく終わってしまう──。


「ごめんなさいっ!」


 目の前の彼に頭を下げたわたしは、輪を抜け出して一目散に駆け出した。周りのみんながわたしに気付かないほどに、素早く、全速力でわたしは走る。


 本当は、中島蓮さんと手を繋ぎたかった。

 本当は、中島蓮さんと踊りたかった。


 だけど、翔太くんと光子ちゃんに踊ってほしい。ふたりに手を、取り合ってほしい。


 大きなアンプの前まで到着したわたしは、今まさに終わりそうになっていた音楽の停止ボタンを押した。そしてキュルルと巻き戻すと、再び再生ボタンをプッシュする。

 ぶつりっ、と不自然に中断した曲が、また最初から流れ始めた。


「もっ……、盛り上がってるのでっ……! もぉ一周っ!!」


 普段走ることに慣れていないからだろう。うまく呼吸も出来なくて、息を切らしながらどうにか叫ぶ。拡声器は、どこかへやってしまったみたいだ。


 すると、また輪の流れが再び動き出したのだ。


 両ひざに手をついてぜえぜえと息を切らしながら、わたしはぐっと顔を上げる。輪の中、驚いたようにこちらを見ている翔太くんを見つけると、わたしは大きく頷いた。


 翔太くん、いいんだよ。翔太くんの思うように、生きていいの。


 翔太くんはまた、泣きそうな笑顔をこちらに見せると、そっとその視線を左前へと滑らせていく。

 そこにいたのは、オレンジ色の光に照らされた光子ちゃんの姿。彼女の目には、キラキラと涙が光っている。


 翔太くんの手が、まっすぐに差し出される。そこに光子ちゃんの手が、そっと大事そうに重ねられた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ