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ミスターパーフェクトの憂鬱


「咲村、お前どんな魔法使った?」


 テキパキとコピー機の前で作業する昴くんを一瞥し、伊藤さんは首を捻った。


 あの日を境に、昴くんは大きく変わったように思う。

 相変わらず茶髪にジャケパンというスタイルではあるけれど、チャラチャラと揺れるピアスは姿を消した。椅子に座る時にふんぞりかえることはなくなり、敬語も下手くそながら使おうと努力する姿が見られる。……相変わらず計算と語彙力は怪しいが。

 そして何より、仕事に対して興味を持つようになった。

 性格上、突然素直に、ということは難しいのだろう。それでも確実に、昴くんは変わろうと努力していた。


「わたしは何もしてません。昴くんの意識が変わったんですよ」

「変えたのは咲村だよ」


 変えたのは、わたし──。


 うーん、と少し考えてから、わたしは首をすくめた。もしかしたら伊藤さんのいう通り、一%くらいはわたしの言葉が影響しているのかもしれない。もしそうだとするのなら、それは素直に嬉しかった。梅ちゃんもここ最近の昴くんの変化に驚いていたことだし、サポート第一段階としては悪くない流れと言えよう。


 伊藤さんは、ありがとな、と目尻を下げてわたしの肩をポンと叩く。その爽やかな笑顔が出たところで、わたしはまじまじとそんな伊藤さんの姿を見つめた。


 ミスター・パーフェクト。この言葉こそ、伊藤さんにぴったりと当てはまる。


 若くして課長職に就き、上司や部下からの信頼も厚い伊藤さん。立場を利用することなく誰にでもフランクに接し、それでいて導くところでは的確に言葉をかけるその様は、高校の時、生徒たちにいつも囲まれていた教育実習の先生を彷彿とさせた。



 そんな人格者である伊藤さんは、高学歴に高身長、おまけに誰もが認める整った顔を持っている、本物のハイスペックイケメンだ。

 梅ちゃんも伊藤さんのことは尊敬しているようだし、この人に関してはわたしがサポートする所などはないように思える。

 それとも何か、ひとりでは解決しがたい問題を抱えているとか…?


 ひとり考えを巡らせていれば、わたしの視線に気付いた伊藤さんは、「ん?」と首を傾げた。


「伊藤さんは、本当に完璧ですよね」


 真顔でそう答えれば、彼はなんだそれはと破顔する。この目尻が下がるところがなんともキュートなのだと、先日同僚の子たちが話しているのを聞いた。残念ながら、そこに梅ちゃんの姿はなかったのだが──。


「咲村からは、俺が完璧に見える?」

「はい、見えます」


 こんなに素敵な人を前にしてもときめいたりしないのは、自分とは一切縁のない人だと分かっているからだろう。


 わたしの使命は、梅ちゃんと彼らの誰かの運命を繋ぐこと。

 つまり彼らにとってわたしは、ゲーム的な言葉を使うのならば、《《攻略対象外》》なのだから。


 伊藤さんはふっと息を吐き出した後に、さらりと前髪をかきあげた。


「喜ばないといけないのにな……」


 その呟きは小さな鈍色にびいろのリングとなり、喉元に突如現れた釘に引っかかっる。すとんと下まで落ちてくれないから、思わずわたしは自らの胸元をトントンと二回叩いた。


 伊藤さんの表情は笑顔のままだ。だけど、何も読み取れない──取らせないような無機質な笑顔。


「完璧って書いて、なんて読むか知ってる?」


 相変わらず、鈍色のリングは喉元につかえたまんま。


完璧からっぽ


 ひゅん、という音にもならない息と共に、つかえたリングは何もない暗闇の中へ真っ逆さまに落ちていく。


 その時だった。デジタル表示がわたしの前に煌々と現れたのは。


『ミスター・パーフェクトの憂鬱を晴らせ。好きになったらゲームオーバー』



 ◇


 ついにミッションがスタートした。しかし、伊藤さんの憂鬱とは何なのだろう。梅ちゃんと結ばれることで、それは解決されるのだろうか。


「伊藤さんのこと、恋愛対象としてどう思う?」


 お昼休み、会社近くのお蕎麦屋さん。おいしそうに食べる梅ちゃんに、唐突にわたしは聞いた。本当はもうちょっと気の利いた聞き方をしたかったけれど、恋バナというものをしたことがないので仕方ない。

 梅ちゃんは目をぱちくりとさせると、一旦中断していた咀嚼を再開してごくんと飲み込む。


「恋愛対象も何も、伊藤さんには婚約者がいるでしょ?」

「え?」

「契約結婚って聞いたよ」


 ばちんと頭の中でその四文字が閃光を放つ。まさかこんなに早く、彼の憂鬱の原因が分かるだなんて。

 望まない結婚。想いを寄せる梅ちゃんとは結ばれない運命。それこそが、伊藤さんが抱えている憂鬱そのものだ。


 それならば話は早い。わたしのミッションは、婚約を阻止することだ。そのためにまずするべきことは──。


「咲村たちも、ここで食ってたのか」


 腕組みしたわたしの後ろから、聞き覚えのある声が響く。驚いて振り返れば、そこには噂の張本人、伊藤さん、そして中島蓮さんがいたのだ。


「……蓮」


 ざわりと心の表面が、嫌な音を立てる。

 だってその言葉を発したのは、わたしでもなければ伊藤さんでもなく──。

 梅ちゃんだったのだから。




 ザワザワと、店内の音がやたらと大きく響く。


 中島蓮さんと梅ちゃんが、知り合い──?


 見つめ合うふたりの距離は二メートルほどあるだろうか。その間に挟まれるような形で座っていたわたしは、きゅっと唇を結び呼吸を止めた。


 今までずっと、梅ちゃんと中島蓮さんには接点がないと思ってきた。だからこそ、彼はわたしの案内人であり、攻略キャラクター外だと思い込んでいたのだ。しかし、ふたりの間に面識があるのならば、その仮定は成立しない。


 その瞬間、今更ながらに彼らの頭上に表示されたデジタルの文字を思い出していた。


 四人の男性の頭上に表示された『主要人物』の文字。

 梅ちゃんの頭上に表示された『重要人物』の文字。


 中島蓮さんは、わたしの案内人などではない。

 中島蓮さんは、攻略キャラクターのひとり。


 ──梅ちゃんと結ばれるのは、中島蓮さんかもしれない。


 その事実にわたしの胸は、ぎゅうっと捻り挙げられたような音をたてて軋む。どうしてなのかは分からない。それでも心臓のあたりがとても痛くて、わたしは思わず止めていたはずの息をぷはっと吐き出してしまった。

 本当は、わたしが呼吸をしていようがしていまいが、関係はないのだ。わたしはいつだって、どの世界でも、空気のような存在で、誰の目にも映らなくて──。


「サラちゃん、大丈夫?」


 それなのに、わたしの姿を最初に瞳に映してくれたのはやはり梅ちゃんで。


「どこか痛い? 鎮痛剤いる?」


 その優しく澄んだ瞳に、泣き出したくなってしまうのだ。

 差し出された彼女の手には、小さなカプセルが乗せられている。白くて華奢な梅ちゃんの右手。爪が丸くて格好悪い、乾燥したわたしの右手。ぴりりと人差し指のささくれが小さな悲鳴をあげた。


「ありがとう、大丈夫だよ」


 こんな子は、きっといない。わたしのことをまっすぐに見てくれて、ちゃんと認めてくれて、向き合ってくれる、わたしにとって初めての友達。


 忘れてはいけない。

 わたしには、彼女を幸せに導くという使命があるのだ。


 そんなわたしを、伊藤さんはまっすぐに見つめていた。

 


「サラ」

「てっ……ててててっぺ……無理です無理無理! 絶対無理です勘弁してください!」


 おしゃれなカジュアルフレンチレストランの一角で、わたしは伊藤さんと向かい合って座っていた。テーブルの上には食後のデザート、コーヒーと紅茶が置かれている。


「伊藤さん、じゃ他人行儀すぎるでしょ。愛のない婚約を破棄させるなら、それ相応の関係を見せつけないと」


 ことの発端は今朝、エレベーターで伊藤さんと顔を合わせたところから始まった。

 梅ちゃんの情報通り伊藤さんには婚約者がいるのだが、望まぬ結婚だから恋人のフリをしてくれないかと頼まれたのだ。

「政略結婚については諦めてたんだけどさ。咲村のことを見てたら、あがいてみたくなったんだよね」と。

 これぞ、ザ・乙女ゲームという展開ではある。なぜわたしがその役割を、という疑問はあるものの、ミッションのためには避けては通れないルートではある。


 と、そんなわけがあり、わたしたちは早速ランチタイムを共に過ごしているのだ。


「まあ呼び方は追々でもいいよ。サラがお望みならば先にデートを重ねたり部屋に泊まりに来」

「フリですから! 恋人のフ・リ!」


 必死に言い換えるわたしに、彼は面白そうにくつくつと肩を揺らしている。

 いやいや、笑い事ではない。


「……婚約者さんは、どんな方なんですか?」


 想いがないとは言えども、わたしがこれからしようとしていることはその二人の仲を引き裂くことだ。もしも相手の人がそれによって傷つくことがあるのならば、それはやはり方法を考えなければならないだろう。


「どうって言われてもなぁ。かわいらしくていい子だよ」


 さっぱりと彼はそう答える。


「でも、好きじゃないんですよね?」


 確認するために問えば、もちろんと彼はうなずく。


「相手の方も、伊藤さんに好意はない、と?」


 念のためのワンモアチェック。そう、と伊藤さんはもう一度頷いた。

 それならば、とりあえず彼女を傷つけてしまう可能性は低いと思える。


 続いてのチェックに移る。


「それで……あの……伊藤さんのお母様は……」

「うん、恐いよね」


 サラリと彼はそう言うと、非常にスマートな仕草でコーヒーを飲んだ。


 そう、伊藤さんの提案は‶恋人のフリをして母親に会ってほしい〟というものだ。


「それにしても、ハイスペック伊藤さんとわたしとじゃ、どうにも信憑性がないと思うんですよね」


 ちらりと見上げるようにして言えば、伊藤さんは聞こえていないふりをしたままコーヒーを啜る。


「例えばほら、梅ちゃんくらいの美女ならばお母様も納得されるんじゃないかなぁーなんて……」


 翔太くんに提案したときのようにやんわりと進言すれば「梅木じゃ完璧すぎて逆に怪しまれる」と予想通り相手にしてもらえなかった。


 それにしても、恋愛初心者どころか恋愛未経験者のわたしが恋人のフリをするというのは、実際にかなりハードルが高かった。

 自慢じゃないが、ゲームの世界ではいくつもの難関を超えてきた。それこそ悪役令嬢と戦ったり、恐ろしい継母とのバトルに打ち勝ち、目当てのお相手との結婚式を迎えたこともある。だけどそれは全て画面の中での出来事であって、二次元のキャラクターが相手だった。こんな、生身の人間を相手にするのは全くの別物だ。呼び方ひとつでも、こんなに難航しているのだから。


「とりあえずさ、ちゃんとお互いを知るところから始めようか。俺たち」


 それではまるで、本物の恋人同士がスタートするみたいなセリフじゃないか。


「お母様に会う日だけでいいですよね? 恋人のフリは」


 決戦の日は二週間後に設定された。その日に備えて作戦を立て、当日のみ恋人のフリをすればいいだけのはずだ。

 しかし、伊藤さんは仕事をするときのように両手を組むと、わたしを射抜くように見つめた。


「何事も、日常が表面に出るものだ。突然やろうとしても出来るわけがないだろう?」


 えーっと……それはつまり……?


 眉を寄せて困惑するわたしを見て、伊藤さんはクスリと笑った。


「今日から二週間、俺の恋人になってよ」





 どんなに気温が低くても、太陽の光が降り注げばあたたかさを感じられる。やっぱり太陽は偉大だと、柔らかく輝く光を眺めながらそんなことを考えた。


 伊藤さん──、哲平さんの提案から初の週末。恋人のフリをすることになったわたしたちは、ふたりで出掛けることになっていた。

 待ち合わせ時刻まではあと十五分ほどある。本当は午前中から出かけようと伊藤さんからは言われていたが、急遽打ち合わせが入ってしまったとのことで午後からの待ち合わせになったのだ。

 この変更は、わたしにとっては非常にありがたかった。長時間哲平さんのようなイケメンとふたりで過ごすのは、モブ子であるわたしにはちょっとハードルが高すぎるのだ。


 髪型は普段通りストレートにおろしたまま。服装だっていつも通り、グレーのニットに黒の膝丈スカート。その上には黒いウールコートを羽織っているため、最終的には全身黒づくめのスタイルだ。昔、近所の小学生たちに「魔女がいる……」と恐れられたことを思い出して少し笑ってしまう。

 並んで歩く哲平さんまでもが魔王に思われることがないように、マフラーだけはかろうじてグレーのカシミヤを巻いてみた。これが今のわたしに出来る、精一杯の気遣いだ。


「ごめん、待たせたかな」


 顔をあげれば、私服姿の哲平さんが片手を上げて駆け寄ってくる。

 形の良いグレーのチェスターコートの中は、細身の白いニットと黒のチノパン。いつもはかけていない黒縁のメガネが、オフの日という雰囲気を醸し出していた。

 魔女であるわたしが横にいても、絶対に魔王に間違われることはない爽やかさ。その前に、この顔面があれば魔王に間違われることはあるまい。──いや。“キュンキュン☆サタンに嫁入りラプソディ”なる乙女ゲームでは、とてつもないイケメン魔王が出てきたではないか。ある、あるぞ。イケメンサタン、可能性ある。


「サラ?」

「あっ! えっと……いえ! わたしが早く着きすぎただけです!」


 しっかりしろサラ! ここにいるわたしは、もうサタンの嫁ではないのだ。


「それじゃ、行こうか」


 フリ、とは言え、わたしにとっては人生初のデートである。こんな風に男性と肩を並べて歩くこと自体、小学校の遠足で整列したまま歩いた動物園以来だ。

 ちなみに、中島蓮さんとのコンビニはノーカウントだ。


「サラは、何色が好き?」


 哲平さんの質問で、わたしは靴先から視線を上げた。中島蓮さんのことはどうでもいいじゃないか。今は自分の役割に集中をしなければ哲平さんにも申し訳ない。


「……色、ですか」


 持っている服の色は、黒、茶色、グレーあたりが多い。一般的には「暗い」や「地味」と言われるような色味だ。だけど好きな色か、と聞かれるとよく分からない。わたしが選んでいるのは、似合う色──というよりは、わたしが着ても不自然にならない色なのだ。わたしが黙ったまま、まじまじと自分の服装を眺めていたからかもしれない。


「その呂色ろいろのコートと、黒鳶くろとびのスカートの組み合わせもすごくいいと思う」


 哲平さんは聞き慣れない単語を使って、今日の服装を褒めてくれた。


「ろいろ……くろとび……」


 確認するように復唱すると、哲平さんは優しく頷く。一流アパレル会社の花型部署の課長である彼は、人一倍色彩への知識が深いのかもしれない。


「今日のサラが身に付けている色だって、一般的に見たら‶黒〟なのかもしれないけどさ。本当は黒にだってたくさんの種類があるんだ。呂色は、黒漆のような深く濡れたような色。黒鳶は赤褐色が少し交じった色だ」


 そう言った哲平さんは、大きく息を吐き出した。


「別のものとして存在しているのに、どうして人間はなんでもひとつにくくりたがるんだろうな」


 それから、話が逸れたな、と哲平さんはまた小さく笑った。その笑顔に、わたしはまた小さなもやもやとした違和感を覚える。どうして彼は、こんな風に何かを諦めたような表情で笑うのだろう。


「哲平さん……」

「ん?」


 しかし、その次の瞬間には彼の表情はいつもの綺麗な笑顔に戻っていて。結局わたしは「ロイヤルブルーに憧れています」だなんて、何の芸もないセリフを言っただけだった。


 ◇


「……こ、こんばんは」


 どうしていつも、この人とは玄関前でばったり顔を合わせてしまうのだろうか。


 無事に初デートを終えたわたしたちは、マンションのエレベーターで別れた。というのも、哲平さんは四階、わたしは三階に住んでいるためだ。玄関まで送ると言った哲平さんの申し出をどうにか断り、わたしはひとりで三階の廊下を進んできたところだった。


 三〇二号室の前を通過しようとした時、そのドアが開く。


「……なにそのカッコ」


 いつものようにスウェット姿にスニーカーで出てきた中島蓮さんは、わたしの姿を見るとそう言った。


 今日のデートは、正直言えば少し疲れてしまったものの、もちろん楽しく過ごすことが出来たと思う。よく街中で見かける普通のカップルのようにカフェに行ったり、ウインドウショッピングを楽しんだりした。

 その途中に入ったショップで、あるワンピースが目に入ったのだ。トルソーが着用していたそれは、奇しくもわたしが好きだと言った上品なロイヤルブルー。

 わたしが目を奪われている間に、哲平さんが店員さんを呼び止めていたらしい。気付けばわたしは試着室に案内され、あれよあれよとそのワンピースを身に纏っていたのである。


「……哲平さんに買ってもらったわけ?」


 中島蓮さんにずばりと事実を言い当てられ、わたしは思わず一歩後ずさった。ブランドものであるこのワンピースは、ただの会社員であるわたしには到底手を出せない代物だった。しかし、似合っていると微笑んだ哲平さんは「このまま着ていきます」と店員さんに伝え、何食わぬ顔でクレジットカードを渡したのだ。

 わたしが困ると伝えても、「決戦の日のための勝負服」と頑として譲ってはくれない。さらには、目の肥えている母親を説得するにはいいものを着ていなければ無理だ、とまで言われてしまえばわたしは黙ってその厚意を受け取る他なかった。

 そんなロイヤルブルーのワンピースを、今わたしは身に纏っている。


 ハッ、と中島蓮さんは吐き捨てるように笑った。


「恋人ごっこして、浮かれてんのな」


 その言葉は、ぐさりとわたしの胸をえぐる。ちりちりと、そこから何かが流れる感覚がした。血なのだろうか。心も傷を負ったら、血が流れるものなのかな。

 次の瞬間、その何かは、わたしの頬を伝って落ちる。それが涙だと気が付くまで、そう時間はかからなかった。


「なんで、そんな意地悪言うんですか……?」


 どうしてわたしは、涙なんて流しているのだろうか。


「中島蓮さんには、梅ちゃんがいるじゃないですか……」


 どうしてこんな言葉が出てくるのだろう。まだ、梅ちゃんが中島蓮さんを選んだわけでもないというのに。


 それはもう、頭から口への指示があるというよりは、心がそのまま口を動かしているような感覚だった。その証拠に、頭の中にはあの日、お蕎麦屋さんで見つめ合っていた梅ちゃんと中島蓮さんの姿が浮かぶだけ。


 正面に立つ彼は、まるで時間が止まってしまったかのように目を見開いたまま固まっている。


 中島蓮さんといると、自分では分からない感情ばかりが生まれてしまう。どうしてこの人といると素直になれるんだろうとか、どうしてこの人には仕事への想いを話せたんだろうとか、どうしてこんなに苦しいんだろうとか、どうして泣いたりしてるのかなとか。


 だけどそんなわたしにも、分かっていることだってある。

 

この場所は、わたしがいるべき場所じゃない。

 わたしには、果たさなければならない使命がある。


「……やらなきゃいけないことが、あるんです」


 そう言ったわたしは小さく頭を下げると、彼の前を通過して自分の部屋のドアを開ける。鉄製のドアノブは、驚くほどに冷えていた。

 ばたんと閉まったドアに背をつけたわたしは、そのまま崩れ落ちる。


「……いたい……なにこれ……」


 胸が潰れそうに痛い。水の中みたいに呼吸が苦しい。ばくばくと体中が脈打つ。涙がぱたぱた溢れてしまう。それは丸い粒となり、ワンピースの生地の上をつうっと滑る。まるでロイヤルブルーの涙のようだ、と心の隅でそんなことを考えた。


 あの人は、毒だ。

 一緒にいると嬉しくて

 一緒にいると苦しくて

 一緒にいるとつらくて仕方ない。


 彼は、攻略対象のひとり。絶対に彼のことを、「好きになったりしてはいけない」のだ。






 ピンポーン、と普段は鳴ることのないチャイムが鳴り響いた。


 お風呂上り、中学の頃のジャージ──引っ越しの段ボールに入っていた、現実世界での部屋着と同じデザインのものだ──を着たわたしは、突然の誰かの来訪に飛びあがった。


 フライパンを片手に、物音をたてないように玄関へと向かう。絶対に開けるつもりはないけれど、万が一のための武器は必要だ。息を殺して覗き穴から外を見れば、そこには鼻を赤くした中島蓮さんが立っていた。

 悩みながらも鍵を外せば、ふら、と中島蓮さんは右側へとよたつく。


「え……、大丈夫ですか!?」


 慌てて両手で彼の肩を支えると、ふわりと柔らかな香りが揺れる。それは香水などとはまた違う、彼の生活自体のもののような気がして思わず心臓が跳ねた。

 しかしそれ以上に──


「お酒臭い……」


 すると今度はエレベータの方から、どたどたっという音が響いた。次いで、中島蓮さんを呼ぶ大きな声。

 非常識なその声の主は、同じように顔を真っ赤にした哲平さんだった。


「飲みなおそぉう!」


 ガサッとやたらと大きなビニール袋を掲げた哲平さんは中島蓮さんの肩に手を回すと、へらっと笑った。



 そうして現在、我が家のリビングにて中島蓮さんと哲平さんが続々とお酒の缶や瓶を開けているという状況が出来上がっているのだが、未だに現実味があまりない。男性が、しかもイケメンがふたりもわたしの生活空間にいるだなんて、あまりにも現実とかけ離れているからだ。


「サラも飲みな。何が好き? え、俺が好きだって? 知ってる」


 くくく、と何がおかしいのか分からない自分の冗談に笑う哲平さん。もちろんわたしは一言も発していない。


「その呼び方やめろって。あんたも迷惑してんにゃら正直に言えよ」


 中島蓮さんは大きく変わる様子はないものの、ところどころ呂律が怪しい。


 ふたりはまるで競い合うようにお酒を開けていく。その横で、わたしもちびちびと買ってきてくれた梅酒を嗜んでいた。


 久しぶりに飲んだアルコールは、ふわふわと心地よい感覚をもたらしてくれる。梅酒のこの、きゅっと凝縮された旨味がたまらないんだよなぁ。

 わたしがくぅーっと小さく楽しんでいると、じとっとした視線を感じた。


「なんそれ。うめひゅ?」


 頬杖をついてこちらを見る中島蓮さん。哲平さんは、焼酎の瓶と会話をしている。


「梅酒です」

「俺も飲む」


 待ってくださいね、とグラスを取り出そうとすれば中島蓮さんはそれを待たずにわたしのグラスを手に取りぐいっとあおる。


「……甘……」


 右手の甲で口元を拭う中島蓮さんに、わたしの動きはぴたりと止まる。


「かっ……」


 かかかかかかかか間接キッス!!!!!



 男性とのスキンシップにはとことん免疫のなかったわたしにとってそれは、ある意味ではファーストキッスにも値する。


 思わず鼻先を両手で抑えていれば、あろうことか中島蓮さんはもう一度そのグラスに口をつけた。


 くらり。


 まずい、酔いが一気に回ってきた。


 しかし当の本人は、そんなことにはお構いなしで自ら空となったグラスに梅酒を注いでいる。もとはわたしが飲んでいたものだということも、忘れているのかもしれない。

 そう考えれば、ひとりで赤面しているのも実に馬鹿馬鹿しい。すると、その考えを読んだかのように中島蓮さんが突然「ばぁーか」とわたしを見て笑った。


「と、突然の悪口!」


 思わずつっこみを入れてしまう。だけどなんだか、悪い気はしない。いつも仏頂面の中島蓮さんが、ちょっと楽しげにしているから。


 わたし自身、お酒が回っていることもあってかなんとなく気分が軽い。さっきまであんなに苦しかったのが、嘘みたい。

 哲平さんは、床にごろんと横になって寝息を立てていた。あとでブランケットを持ってこなくっちゃ。


「馬鹿真面目おんな」

「だからそれぇ、悪口ですよねぇ?」


 ふふん、となぜか満足げに顎を上げて口角を上げる中島蓮さん。こんなことを言ったら怒られるから絶対に口にはしないけれど、なんだかかわいらしくも見えてくるからお酒って不思議だ。

 今ならば、彼は自分のことをわたしにも教えてくれるかもしれない。

 もっと知りたい。彼のことを。


「中島蓮さんはどんな子供だったんですかぁ?」


 自分のグラスは諦めて新しいものを食器棚から持ってきたわたしは、そこにトクトクと琥珀色の液体を注ぎ込む。ふわりとプラムのいい香りが漂って、またそれが気分を良くさせた。


「子供ぉ……分からん」

「またまたぁ」

「おれ、記憶、ないからなぁあ」

「へ……」


 ぼわんとする頭の中、何か大事なことがそこに含まれているように感じる。だけど、感じるだけでうまく捉えることが出来なかった。それは、海の中で手放してしまった大事な貝を手探りで探す感覚にどこか似ていた。感じるのに、掴めない。絶対にそこにあるのに、触れられない。


「だからぁ、気付いたら美容師ンなってたし、本当は自分の名前も知らん」


 お酒を飲んだことを後悔した。多分、すごく大切な話なのだ。こんな風に酔った状態で話させていいことでも、聞いていいことでもないはずなのだ。それは分かるのに、どうしてもうまく頭が回ってくれない。


「……なぁにまた泣いてんだよう」


 困ったように笑う中島蓮さんの綺麗な指が、こちらに伸びた。


 ──泣いてる?

 ──誰が?


「……さっきも、悪かった……」


 彼の指先はそのまままっすぐとこちらへ向かい、わたしの涙袋のあたりをそっとなぞる。その一秒で、わたしの呼吸が止まった。


「……たくさん、泣いた……?」


 指先からかすかな温度を感じた瞬間、彼の眉を下げた表情と、彼の綺麗な形の爪がぶわりとぼやける。


「……ごめんな……?」


 頬を撫ぜた指先は、そのままわたしの耳を掠め後頭部へと過ぎていく。きゅっと彼の手に引き寄せられれば、ふわりと優しい香りに包まれた。


「……ごめん……」


 その声は、どこか遠く、はるか上の方から降りかかるようだ。


 体がゆっくりと倒れる中、テーブルの上、ビニールに入ったままの肉まんとピザまんが視界に映る。中島蓮さんからの、お詫びの品だったのだろう。


 気付いていたのに手を付けなかったのは、なんとなくもったいないと感じたから。

 彼の気持ちをそのまま部屋に──、置いたままにしたかったから──。


 柔らかい温かさに包まれる中、わたしは意識を手放した。 



「いてて……」


 ずきずきと痛む頭を抑えてよいしょっと体を起こした。どうやら床で眠ってしまっていたらしい。肩や背中があちこち痛い。ぱさりとかけられていたブランケットが下に落ちた。


 あれ──? わたし、昨日どうしたんだっけ──?


 頭に響かないように、ゆっくりと周りを見回す。テーブルの上は綺麗に片づけられ、キッチンにはぴかぴかになった食器が丁寧に重ねられていた。部屋全体を見ても、いつも通り──、いやいつも以上に整えられているように見える。



 確か昨日は、酔っ払った中島蓮さんと哲平さんがうちにやって来て、なぜか一緒に飲むことになった。ふたりとも既に出来上がっていて、わたしも付き合ってお酒を飲むうちにふわふわしてきて──。


 そこからの記憶があやふやだ。


 何か大事なことを聞いたような気もするのに、それは雲の上で瞬く星のようにその姿をとらえることが出来ない。

 ふと、テーブルの上に一枚のメモが置かれていることに気が付いた。


『昨日は悪かったな。楽しかったよ、おじゃまさま』


 綺麗な字でつづられたそのメッセージは、哲平さんからのものだ。改めて部屋を見回してみる。朝早く起きた哲平さんが、綺麗に片付けて帰ったのかもしれない。中島蓮さんはどう考えてもちょっとやそっとじゃ起きたりはしなさそう。ということは、寝ぼけた彼を引きずってこの部屋を出て行ったのかもしれない。


 そんなふたりの姿を想像すると、ちょっとだけおもしろかった。



 ◇



「俺は、サラと結婚したいと思っている」

「はい、わたしも思っています」

「……棒読みだなぁ」

「すみません……」


 大げさに首をすくめてから笑う哲平さんの前で、わたしはもう一度「はい、わたしも思っています」というセリフを三度ほど繰り返した。


 今日はついに、決戦の日──哲平さんのお母様との約束の日である。


 ロイヤルブルーのワンピースに身を包んだわたしは、髪の毛も可憐なハーフアップにし、一見すればちょっとしたところのお嬢さん、くらいには見えるようになっている。

 このヘアスタイルは、朝早く仏頂面でやって来た中島蓮さんが目にも驚く速さで仕上げてくれたものだ。


「それにしても蓮のやつ、なんだかんだ言いながら綺麗にやってくれてんじゃん」


 哲平さんがパールの髪飾りを見ながらそう言う。これも何も言わずに中島蓮さんが、仕上げにつけてくれたものだ。


「哲平さんが頼んでくれたんですか?」

「──さあ、どうだろうね」


 わざとらしく両手を広げる哲平さん。今日の彼はいつもよりもおどけるような表情を見せることが多かった。それは多分、彼自身とても緊張しているからなのだろう。


 いつも頼りになる哲平さん。部下のどんな声にもきちんと向き合い、共に解決策を探してくれる哲平さん。どんな時でも、この人がいるから大丈夫だと思わせてくれる哲平さん。


 だけど今日は、わたしが彼を支える番だ。


 場所は都内の一流ホテルのティーラウンジ。高い吹き抜けの天井と重厚感のあるえんじ色のカーペットは高級感をこれでもかというほどに演出し、背の高いガラス戸の向こうには立派な日本庭園。まさに、ドラマなどで見るような空間だった。


 その一番奥のソファ席に、わたしと哲平さんは座っている。約束の時間まではあと十五分。深呼吸をして「大丈夫」と言い聞かせていたときだった。


「哲平さん、お久しぶり」


 高級ブランドの香水が、わたしたちの前に降りてきた。




「母さん、こちら咲村サラさん」

「はじめまして、さささ咲村サラと申しますっ……」


 噛んでしまったけれど仕方ない。落ち着け落ち着け落ち着けわたし。どんなことを言われるのだろう。最初から「泥棒猫が!」みたいに言われるのだろうか。ドキドキしながら頭を下げる。


「哲平の母です。いつも息子がお世話になっています」


 しかし、返ってきた言葉は想像していたよりもずっと柔らかな声で紡がれていた。


「咲村さんは、どんなお仕事をされているのかしら」

「彼女は私の元で働いてくれています。非常に優秀で、得意先からも彼女指名で仕事が入るほどで」


 アメリカーノを三つ頼んだ哲平さんのお母様は、落ち着いた表情でわたしについての質問をいくつか口にし、それに対して哲平さんが丁寧に回答した。


「さっきから哲平さんが答えてばかりじゃないの。わたしは、咲村さんとお話がしたいのに」


 ねえ? と笑うと目じりが下がるところは、哲平さんにとてもよく似ている。顔が似ているというよりは、笑い方が似ているのかもしれない。


 状況は、想像していたよりもずっと穏やかなものだった。ふかふかのソファはお母様が来てからさらに柔らかさを増したように感じたし、一杯八百円もするアメリカーノはわたしが知っているものとは全然深みが違った。それに、目の前でにこやかにほほ笑む女性は、わたしに対しての敵意があるようには感じられなかったのだ。


「それで。咲村さんは、哲平さんのどんなところを好きだと思ってくれたのかしら?」


 これはきっと、聞かれるであろうと予想していた質問だ。


「はい、仕事に対しても同僚に対しても、常に誠意をもって向き合ってくれる哲平さんをとても尊敬しています」


 これは、自分で考えてきたものだ。そして嘘ではない。わたしは哲平さんをとても尊敬している。


「それじゃまるで、上司と部下みたいじゃないの」


 くすくすと、だけど鋭いことをお母様はずばりと言った。ぎりりと心臓が縮むのを感じる。


「わたしが聞きたいのはね、咲村さんがうちの哲平をどこまで支えることが出来るのかということなの。上司と部下としてではなく、人間同士としての絆を見せてもらわないと」


 哲平さんの実家が名門一族であるというのは予め彼から聞かされていた。なんでも曾祖父が総理大臣をしていたとかで、親族には現在、政界で活躍している人たちも多くいるらしい。つまり、‶一般家庭〟ではないということだ。


「母さん、その話はいいだろう? 修司おとうとだって結婚して、うちを継ぐんだから」

「それとこれとは別の話でしょう?」


 哲平さんの言葉を、ピシャリとお母様の声が遮る。決して激昂しているわけではない。怒りを滲ませているわけでもない。穏やかな話口調に柔らかな声。それなのに、なぜかお母様の言葉はとてつもない圧を持っていた。


「咲村さん、わたしは決して、あなたのことを嫌いなわけではありません。もし本当に哲平を愛しているのならば、その想いをわたしが納得できる形で証明できる日に、またお会いしましょう」


 そう言うと、お母様は静かに席を立った。


「──わたしは」


 引き留めなければならない。わたしの役割は、哲平さんの婚約を白紙にさせることだ。梅ちゃんのパートナーとして、哲平さんを自由の身にしてあげること。

 それこそが、彼の憂鬱を晴らすというミッションなのだ。


「わたしは……」


 《《哲平さんを愛しています》》。


 本当ならば、そのセリフを言うはずだった。きちんと愛情があるとアピールして、説得して、納得させて、彼の婚約をなかったことにさせるはずだったのだ。


「──三日間だけ待ちましょう」


 何も言えないわたしをまっすぐに見つめ、お母様はそう言うと伝票を片手に去っていく。


 高い天井に響く周りの人々の談笑する声だけが、やたらと鼓膜を揺らし続けていた。




「すみませんでした……!」


 深々と頭を下げれば、哲平さんは苦笑いしながらわたしの頭をぽんぽんと撫でる。


「いいから顔上げて。ごめんな、恐かっただろ?」


 お母様が去った後、哲平さんは駅のそばの古びた喫茶店にわたしを連れ出した。申し訳なさでうつむくわたしに、彼はパフェを注文してくれる。


「そうすんなり納得するわけがないって分かってはいたしね」


 哲平さんはそう言うと、運ばれてきたパフェにスプーンを添え、こちら側へと差し出した。

 レトロな丸みを帯びたグラスには、ザクザクとしたコーンフレーク、生クリームに冷凍が少し溶けたいちご、まるいバニラアイスの上には三角のクッキーと真っ赤なさくらんぼがのせられている。


「ごめんな。あんな母親で」


 そう言って目を伏せる哲平さんに、申し訳ない気持ちが込み上げる。


「いえ、わたしがちゃんとあの時に言えたらよかったんですけど……」


 切り札的なセリフとして用意していたのが、愛しているという言葉だったのに。いざというあの場面で、わたしはどうしてもその言葉を発することが出来なかったのだ。


「小さい頃からさ、あんな感じなんだ。外から嫁いできた母さんも色々と苦労したんだと思う。金には困らなかっただろうけど、逆の言い方をすれば金以外のことでは常に追いつめられていたんじゃないかな」


 恐い、などと自分の母親のことを表現する哲平さんだが、その言葉からは気遣いや情のようなものも感じ取れる。親子なのだから当たり前と言えば当たり前なのだろうが、親に望んでもいない婚約を押し付けられたという状況でのそれは、どこか不思議な感じもした。


「弟さんが、おうちを継ぐんですか?」

「三つ下の弟がいて、政界入りにも前向きでね。大学時代から付き合ってた恋人と去年結婚して、もうすぐ子供も生まれる。どうやら腹の中の子も男の子らしくってさ、よかったよ」


 ほっとしたように息を吐く哲平さん。義理の妹もプレッシャーがすごそうだったから、と付け加える。


「本当はさ、俺は誰とも結婚したくはないんだ」


 哲平さんはそう言うと、わたしを見て目を細めた。


「俺と一緒になった人は、きっと不幸になってしまう──」


 アイスクリームが溶けて支えを無くしたクッキーが、コトンと音を立ててテーブルに落ちた。





 ◇




「うぅーん……」


 その帰り道、仕事があると会社へ向かった哲平さんと別れたわたしは、ひとり帰路についていた。


「うううううん…………」


 歩きながら、様々な考えが頭の中を行き交っていく。

 政治家が揃う一族の中、長男として育った哲平さん。弟さんは結婚して家を継ぐ。そして近い将来、自分もハルヤマを辞めて政治に関わることになるのだろうと哲平さんはそう言った。


 確かに特殊なのだろう。もしかしたらそういう一族の中では、政略結婚などというものが当たり前に存在するのかもしれない。愛のない結婚で、一緒に生活するうちに愛情が芽生えるというのは乙女ゲームでも見たことがある。だが、現実もそううまくいくのだろうか。

 そして何より、哲平さんのあの言葉。自分と一緒になった人は、不幸になるだなんて。そんな悲しいことを彼が思っていることがつらかった。


 はあ、と何度目かのため息を吐き出したところでマンションの前へと到着する。

 初めて履いたに等しいハイヒールでつま先と踵がぴりぴりとしているし、ふくらはぎは今にもつりそうなくらいにぷるぷると張っている。早く脱いでお風呂に入りたい。

 だけどその前に、髪飾りを返さなければ。

 そう思ったわたしは、三〇二号室のチャイムを鳴らした。


 中島蓮さんは家にいたようで、すぐにドアは開かれる。いつものスウェット姿ではなく、紺のPコートを着ている彼は、どこかへ出かけようとしていたのかもしれない。


「あ、出かけるところすみません。これ、お返ししようと思って」


 後ろ手で髪飾りを抜き取ろうとすれば、髪の毛とひっかかってうまく外れなかった。もたもたしているわたしを見た彼は呆れたように表情を緩めると、そっと両手を伸ばし絡まりを丁寧にほどく。


 その瞬間、わたしの心臓はどくどくと大きく揺れ動いた。ただ髪の毛をほどいてもらっているだけ。ただ髪飾りを取り外してもらっているだけ。それなのに、どうしてこんなに胸が騒がしくなるのだろう。


「ん、取れた」


 一度も髪の毛を引っ張ることなく、彼は器用にパールのそれを取り外しこちらに差し出す。


「あの、これを返しに来たんですけど」

「いいよ、やる」


 中島蓮さんはわたしの右手を掴んで上向きにさせると、そこにポンと髪飾りを置いた。


「今日、ちゃんと頑張ったんだろ?」

「……いいえ」


 中島蓮さんの前だと、どうしてこうも弱音を零したくなってしまうのだろうか。哲平さんとのことは、彼には関係のないことなのに。


 うまく言葉が出ないわたしを見た中島蓮さんは、そのままわたしの右手を引いて玄関の中へと招き入れる。パタンと背後でドアが閉まった。そのまま彼は、コートを脱いで部屋の奥へと進んでいく。


「まだ俺、時間あるから。あがれよ」


 そんな彼の言葉についで、電気ポットにお水を入れる音が響いた。




「……で? おばさんにこてんぱんにやられた?」


 温かいココアの入ったマグカップをわたしの前に置いた中島蓮さんは、自分はペットボトルのミネラルウォーターを口に含んだ。


「いえ、なんというか、すごく穏やかな方だったんです」


 わたしのイメージでは、こういう時の母親像とは恐ろしい女性のはずだった。威圧的で、高圧的で、息子を息子とも思っていないようなそんな母親。自らの権力や見栄のために息子を利用するような、そんな非道な存在。それが、望まぬ婚約を課した母親のイメージだった。


 そう伝えると、恋愛ゲームのやりすぎ、と中島蓮さんは呆れたよう言う。その通りなだけにぐうの音も出ない。


「フリなので当たり前なんですけど……。お母さんの哲平さんへの愛情の前に、偽りの‶愛してます〟って言葉がどうしても言えなかったんです」


 ミッションをクリアするためだった。これが彼のためにも梅ちゃんのためにも、自分のためにもなると思って疑わなかった。しかしここに来て、自分のしていることが正しいことなのか分からなくなってしまっている。


「哲平さんの婚約者に、会ってみれば」

「え……?」


 中島蓮さんはそう言うと、携帯を操作しどこかへと電話をかけた。一言二言話した彼は、通話を切ってもう一度Pコートを羽織る。


「今からうちのサロンに来るから。とりあえず、そっちも着替えてくれば?」


 それから玄関先に揃えられたハイヒールを一瞥するとこう言った。


「スニーカーにも履き替えてくること」


 ぴりり。忘れていた靴擦れが、小さな熱を再び持った瞬間だった。



「はじめまして。東条光子(とうじょうひかるこ)と申します」


 中島蓮さんのヘアサロンに現れたのは、お嬢様という言葉がぴったりとくるような上品で可愛らしい女の子だった。年齢はきっと、わたしより少し下くらいだろう。まだあどけなさの残る瞳には、人懐っこい色が宿っている。


「モデルのSHOTAでーす!」


 ばちーんとウインクまで決める翔太くん。なぜきみがここに……。


 哲平さんの婚約者である光子ちゃんをサロンに連れて来たのは、なんと翔太くんだったのである。


「光子と僕は幼馴染!」


 確認するように光子ちゃんを振り返る翔太くんと、それに頷く光子ちゃん。先程中島蓮さんが連絡をしていたのは翔太くんだったようだ。


「すみません、わたし──」

「哲平くんから聞いています。恋人の、サラさんですよね」


 その瞬間、誰もが息を呑み、サロンの空気清浄機小さな機械音だけが響いたのだった。




「わたしと哲平くんは、従兄妹なんです」


 中島蓮さんが入れてくれたレモンティーに口をつけると、光子ちゃんは穏やかな表情で口を開いた。

 恋人のふり、だということを哲平さんは話していないようだ。それには何か理由があるのだろうと思ったわたしは、あえてそこには触れずに、今日哲平さんのお母様と会ったことを光子ちゃんに説明をした。

 他の二人が偽の恋人であることについて言及しなかったのは、きっと何かを感じ取ってくれたからだろう。


「物心ついたときには、将来は哲平くんと結婚するんだと当たり前のように思っていました。それは恋心ではなくて、親からの刷り込みに近いものだったと思います」


 光子ちゃんは過去を思い出しているのか、遠くを見つめながらそう話す。


「わたしには姉がいるのですが、顔も知らないある財閥の息子さんと婚約させられていて。それに比べたらわたしは哲平くんでラッキーだったなといつも自分に言い聞かせてきました」


 以前哲平さんが、お互いに望んでいる結婚ではないと言っていたが、彼女も決して、哲平さんと何が何でも一緒になりたいというようではないらしい。


 入口横のソファ席で向かい合う光子ちゃんとわたし。中島蓮さんは気を利かせてなのかシャンプー台のあたりで棚の整理をしており、一方の翔太くんは光子ちゃんの隣に座り黙って話を聞いていた。


「わたしも哲平くんも諦めていました。どうあがいても何も変わらないということはよく分かっていましたし。他の誰かを好きになっても無駄、例え両想いになれたとしてもその先はありません。そういう意味では、わたしたちは同士だと思います」


 まだ二十歳そこそこの彼女が発する言葉は、どれも諦めを含んでいて、しかしそこに悲壮感がないことがまたどこか悲しかった。

 伊藤家も東条家も、それを当然とするしきたりだった。その中で、ふたりは育ってきたのだろう。


「だけどね、哲平くんが連絡をくれたんですよ。お前を自由にしてあげられるかもしれないって」


 光子ちゃんはそこで嬉しそうにわたしを見つめた。それは今まさに、婚約を白紙に戻そうとしている恋敵に対して向ける目線とは全くの別物だ。


「女神が現れたんだ──、って」


 そう言ってニコニコと微笑む光子ちゃんの言葉に、わたしは固まった。


 この世界での女神は、わたしではない。梅ちゃんだ。


 今回のことだって、梅ちゃんと哲平さんの仲を繋ぐために必要なもの。しかし、そんなことは口に出せるはずもない。


「──あのさ、ひとつ気になったんだけど」


 そこで初めて、翔太くんが口を開く。


「どうしてわざわざ、従兄妹同士であるふたりが結婚しないといけないわけ?」


 それは、わたしが光子ちゃんに会ってから感じていたことと同じだった。従兄妹である哲平さんと光子ちゃん。どうして親戚同士であるふたりを、わざわざ婚約させる必要があったのだろう。

 そしてわたしにはもうひとつ、腑に落ちない部分があった。それは、長男である哲平さんではなく、弟さんが家を継ぐという事実。それは、哲平さんが東条家へ婿に入るということを意味するのだろうか。


 光子ちゃんは少し考えた仕草を見せたあと、小さく首を振った。きっと、彼女の独断で話していいことではないのだろう。しん、と重たい空気がその場を包む。


「実は、てっちゃんは伊藤家の本当の息子じゃない──」


 その場の空気を和ませようとしたのかもしれない。とかだったりして! と翔太くんがおどけた瞬間、光子ちゃんが勢いよく彼のことを見た。


「翔ちゃん、知ってたの……?」


 それは哲平さんを覆っていた鎧の一部が、かちゃんと落ちた瞬間だった。



 ◇



「一日に二度もお呼びたてしてしまい、申し訳ありません」


 昼間にお母様と初めて顔を合わせたティーラウンジ。今は照明が少し落とされ、窓から見える庭園はライトアップされている。

 数時間前に座った場所と同じ席に、哲平さんのお母様は怪訝な表情で現れた。当然だろう。太陽がまだ高い位置にある時間に終わったはずの顔合わせ──しかも納得のいかない形で本日は終了した──が、夕月が現れてから再開されたのだから。


「……哲平さんはどこです?」

「仕事が長引いているようで。今こちらに向かっています」


 あらそう、とお母様は少し眉を寄せてからイングリッシュティーをふたつ注文した。


 サロンを出たわたしは、哲平さんに電話をしてお母様を呼び出してもらった。何があったのかと彼は聞いたけれど、わたしは後で話しますとだけ伝えていた。

 哲平さんと話す前に、どうしてもわたしはお母様に直接、確認しておきたいことがあったのだ。


 光子ちゃんが語ったのは、哲平さんの過去に関すること──彼が伊藤家の養子であるという事実だった。

 世間一般では一家の長男が家を継ぐというのが自然な考えだろう。しかし、伊藤家では哲平さんを引き取った後に授かった弟さんを、一家の正式な後継者にしたかったという。

「哲平さんを伊藤家から追い出すために光子と婚約させていたってことか……?」と翔太くんは怒りに震えていたし、光子ちゃんは黙ったままだった。中島蓮さんは、口を開かなかった。


 それでもその事実は、わたしにとって違和感でしかなかったのだ。


 だってわたしが会ったお母様は、決して哲平さんのことを愛していないようには見えなかったから。


 ウェイターさんによって運ばれてきたイングリッシュティーはアールグレイの良い香りがする。カチャンとソーサーとカップが当たる音がして、わたしは小さく深呼吸をした。


「わたしは、哲平さんの恋人ではありません」


 嘘をついて申し訳ありません、と深く頭を下げた。きっとこんなことを言わなくても、お母様はすべてお見通しだったのだろう。静かにカップを口につけた後、大きな宝石のついたリングをはめた左手でそれを置いた。


「哲平さんも、無駄だとは分かっていたはずですけどね。なぜこんな猿芝居をしたのかしら」


 賢いはずなのにね、とお母様は下を向いて小さく笑った。そこにはやはり、軽視などは感じられない。


「──どうして」


 声が少し震えてしまうのを、わたしは拳を握って耐える。


 今までのわたしならば、誰かの人生に関わろうなどと思わなかった。

 誰の人生がどうであっても、わたしには関係のないことだと思ってきた。

 不運であったり、自分ではどうしようもないことを抱えている人が近くにいても、わたしに出来ることなんて何ひとつないと思っていた。


 だけど──


 わたしは、わたしが正しいと思うことをしたい──。



「どうして従兄妹同士であるふたりを婚約させたんでしょうか」



 

 伊藤家と東条家。どちらも名のある家柄で、哲平さんのお父様と光子ちゃんのお母様が血の繋がった兄妹だ。光子ちゃんには姉がおり婚約も決まっている。哲平さんが東条家に婿入りするのは、そちらの後継となるためなのだろうか。


 お母様はわたしの視線を受け止めたあと、小さく息を吐くと窓の外をそっと見つめた。その横顔は美しく、そしてどこか哀しくも見える。


「どうして本当のことを言う気になったの?」


 お母様はわたしの質問には答えず、新たな問いをこちらに向けた。


「……嘘をつくことが、正しいと思えなかったからです」


 本当ならばゲームのシナリオ上、うまく演技をして無理矢理にでも婚約を白紙にさせるのが正解なのだろう。これまでもそんな風にゲームの難関を越えてきた。

 だけどそれは、画面の中での出来事だ。

 いつだって《《お母様》》は高圧的で恐ろしく、ある種毒親のような存在だった。明らかな『障害』だったのだ。

 だけど哲平さんのお母様は、れっきとした彼の母親だった。少なくとも、わたしから見たら。


「やっぱりあなたには、政治家の妻は無理みたいね」


 正直すぎる女には務まらないのよ、とお母様は笑った。それは、柔らかなもので、なぜかわたしは泣きたくなり、自分の母を恋しく思う。


 そうね、何から話せばいいのかしらと、お母様は少し姿勢を崩すと背もたれに重心を預けながら瞳をくうへと向けた。

 それはわたしとお母様の間の空気が、ふわりと緩やかなものに変わったことを示している。


「哲平とわたしが、血の繋がった親子ではないことはもう知っているかしら」


 息子のことを、さん付けではなく名前だけで呼んだ瞬間、お母様の表情は守るべきもの、慈しむものがある母親のものへと変化していったのだ。





 もともとお母様は、サラリーマンの父を持つ一般家庭で育ったのだという。そんな彼女が恋に落ちたのが、名家である伊藤家の長男、哲平さんのお父様だ。


「大学で知り合ってね。それこそあの人には婚約者がいて、わたしが偽の恋人役をしたの」


 当時を懐かしむようにお母様はふふっと笑う。それから、「だからあなたが偽の恋人なのもすぐ分かった」とちょっとだけ口角をあげた。


「だけどね、わたしにはあなたと一つだけ違うところがあったわ。それは、わたしは本気で彼を愛していたということ」


 その後ふたりは本当の恋人同士となり、周囲の反対を押し切り結婚したそうだ。もちろん、たくさんの努力を重ね、捨てるものも多かったとお母様は語った。

 しかし、本当の地獄は結婚してからだったのだ。


「男の子を産め。妊娠はまだか。どこか不良があるんじゃないか、とかね。ノイローゼになるかと思ったわ」


 お母様はさらりとその言葉を使ったけれど、当時は本当に辛かったのだろうことは想像がついた。

 大学病院で様々な検査を受けたが異常は見つからず原因不明。そんな時に、旦那さんの知り合いから養子の話があったのだという。


「それがまだ生後半年の哲平。周囲は大反対。汚れた血が混ざるなんて言ってね。でもあの子の生みの親が名だたる研究をあげた方だと分かったことと、義理の父の一言で親戚は黙りました」


 義理の父、とは哲平さんのおじいさんのことだろう。もしかしたら、お母様とお父様にとって数少ない味方だったのかもしれない。


 こうして血は通わずとも、愛情を持って家族三人の生活はスタートした。哲平さんは幼い頃から聡明で、あっという間にひらがなや数字、アルファベットなども読めるようになったそうだ。周りもやっと、哲平さんを正式な家族の一員として認めようかという時、お母様が妊娠した。そして、男の子が生まれたのだ。


「人間というのは本当に簡単に変わってしまうものね。それまで哲平に対しニコニコと手を差し伸べていた人たちが、弟の修司しゅうじだけを持て囃すようになり、いつしか哲平はいないも同然のような扱いになっていった」


 幼いながらに色々なことを敏感に感じてきたであろう哲平さんは、どんな思いで過ごしてきたのだろう。

 名門一族の長男でありながら、あのマンションにひとりで暮らしている哲平さんを思うと、胸の奥が苦しくなる。


「光子との婚約は、あの子の居場所と地位を守るためです」


 お母様ははっきりとそう言ってこちらを見た。──と、その瞳が大きく見開かれる。


「……母さん」


 遅れてやって来た哲平さんが、立ち尽くしていた。





「今の話、なに……?」


 哲平さんはしっかりと言葉を発していたが、握った拳は小さく震えていた。

 ごくんと小さく息を呑み込む。このことは、哲平さんも知らなかった事実だったのだ。


「……とりあえず、事情は聞きましたから。今回のようなおふざけはこれで終わりにしてくださいね」


 お母様はそう言うとその場を去ろうと立ち上がった。


「全部、俺のためだったって言うのか……?」

「いいえ、一族のためです」

「母さん……」

「もういいでしょう? 予定通り来年は結婚を」

「母さん!」


 びりりっと空気が震えるのが分かる。哲平さんの声は、決して大きな声ではなかったが、お母様の動きを止めるには十分な重みを持っていた。


 哲平さんはわたしの横までやって来ると、座っているお母様を見つめて再度質問を投げかける。


「婚約は、俺の伊藤家での地位を守るため?」


 しばらくの沈黙の後、お母様は諦めたように「そうよ」と息を吐いた。ぐっと彼の握り拳に力が入る。


「分かったのならば、もういいでしょう? お願いだから、これ以上掻き回さないでちょうだい」


 お母様は窓の外に視線をやったままそう答えた。そっと哲平さんを見上げる。彼の横顔は苦しげに歪められ、そして哀しみに染まっていた。


 押しつけられたと思っていた婚約。

 自由を願う婚約者である従兄妹。

 見放されたと思っていた母親からの想い。


 きっと今の哲平さんには、言える言葉は何もない。


「……そんなことしなくても大丈夫です」


 哲平さんに、言える言葉は何もない。

 だけど、わたしにはある。


 わたしだから言える言葉が、確かにある。


「哲平さんは、会社でみんなから本当に信頼されています。仕事でも頼りになるし、この間なんて社内の理想の上司ランキングで一位になったんです。上層部からも部下からも、本当に慕われているんですよ」


 立ち上がり突然話し始めたわたしに、お母様と哲平さんは呆気にとられたような顔をしている。


「会社だけじゃありません。わたし、哲平さんと同じマンションに住んでいるんですけど、そこの住人の皆さんも哲平さんのことが大好きなんです」


 会社での、プライベートでの哲平さんの姿がたくさん浮かぶ。


 出張のお土産も忘れない哲平さん。女子社員たちが騒ぐのは彼の容姿やその気配りだけではない。仕事が出来て、きちんと向き合ってくれて、心から頼れる相手だからこそだ。


 昴くんを最初から春山と呼び公平に接していたのも哲平さんだけ。今では昴くんも、ことあるごとに哲平さんになんでも報告している。

 翔太くんはいつも「てっちゃん!」と哲平さんの後をついて回っているし、中島蓮さんだってなんだかんだと競い合うようにしながらも、彼のことを尊敬しているのが見ているだけで伝わってくる。


 みんな、哲平さんが大好きなのだ。


「だからっ……大丈夫です……! 哲平さんの居場所は、今だってちゃんとありますから!」


 全てを諦めて笑った光子ちゃん。

 自分と一緒になった人は不幸になると言った哲平さん。

 愛情ゆえに縛りを作ったお母様。


 だけど本当は、もっとみんな自由になっていいはずなのだ。諦めなくていい、幸せになっていい。


「あのっ、だからっ……わたしは本物の恋人じゃないですけど、でもあの、哲平さんなら大丈夫……ですからあの、あの……」


 昔から、話にオチをつけるのが苦手だ。勢いで話している分にはいいのだが、最終着地地点を見定めることが出来ない。


 ──と、ぎゅっと右手が大きな手のひらに包まれた。


「光子を自由にしてやってほしい。俺なら大丈夫だから」


 婚約を白紙にしてください、と哲平さんはわたしの手を握ったまま深く頭を下げた。慌ててわたしもそれに倣う。


 ふっ、とお母様の小さな笑い声が聞こえた気がした。


 哲平さんが顔をあげたのを感じ、同じように姿勢をなおせば、やはりお母様は眉を下げて笑っていた。


「いつの間にか、大人になってたのね」

「当たり前だよ、もう二十八なんだから」


 ふっと哲平さんも笑う。その笑い方は、やはりお母様のそれととてもよく似ている。


「だけど──」


 哲平さんはそう言葉を繋ぐ。


「だけどこれからも、母さんの息子だよ」


 美しくて品のあるお母様の表情が、くしゃりと涙に溶けていく。


「ありがとう」


 哲平さんはお母様にそう言ってから、ぎゅっと手に力を込め、わたしの方へと顔を向けた。


「ありがとう……」


 この人生が終わってもしも生まれ変わるとしたら、わたしは河原に咲く小さな花にでもなれたらいいなと思っていた。

 悩むこともなく、嘆くこともなく、苦手な人付き合いをすることもなく、ただただ自分の一生をひとりきりで過ごせる来世を迎えたいとそう思って来た。


 だけど、やっぱりわたしは、生まれ変わっても人間でいたいと、いま、初めてそんなことを思う。


 時に面倒で、時にうざったくて、時に苦しみにもがくけれど。


 想いを直接伝えられる美しい『言葉』がこの世にある限り、それに触れることのできる人間でいたいと、わたしはそう思ったのだ。



ホテルのエントランスを抜ければ、しんとした冷気が頬を包む。


「……すみません、何の相談もせずに本当のことをお母様に話してしまって」


 ぽそりと消え入りそうな声で謝罪すると、隣ではふわりと空気が柔らかくなる。


「いや、サラらしいなって思ったよ」


 そんな哲平さんらしい言葉に、わたしは眉を下げて小さく笑った。


「とても優しくて素敵なお母様ですね」

「……ああ、そうだな」

「わたしも、自分のお母さんに会いたくなりました」

「……そっか」


 今頃お母さんは、どうしているのだろう。無性に、元の世界が恋しくなった。


「ここから、歩いて帰ってもいいかな」


 哲平さんの声に、わたしはこくりと顎を引く。

 ここからマンションまでは、徒歩で軽く二十分ほどはかかる。普段の彼ならばタクシーでも拾いそうなものだが、少し余韻に浸りたかったのかもしれない。


「学生の頃さ、俺は教師になりたかったんだ」

「教師、ですか」


 哲平さんの言葉に、わたしはそっと耳を傾ける。ざくざくと、舗装されていない道路の端を歩きながら。


「俺の家は、学者とか教師とかが親戚でも多くて。じいちゃんは大学教授。父親は高校の教員で、母親は塾を経営してた」


 きっとこれは、哲平さんの生みのご両親の話だ。


「それで大学のときに、教育実習に行ったんだ」


 それだけ身内に教育関係者がいれば、彼がその道を志したのも自然な流れだったのだろう。

 小さい子供と接するのは苦手だし、多感な時期の中学生を相手にするのは塾講師のアルバイトで懲り懲りだと思ってしまった彼は、進路を高校教師に定めたらしい。


「哲平さんは、きっと人気の先生だったでしょ?」


 これだけかっこよくて優しくてスマートな先生がいたら、誰だって大騒ぎしてしまうだろう。そういえば、わたしが高校生だった時にやって来た教育実習の先生も、生徒たちから大人気だったっけ。


「……なんで俺、こんな大事なことを忘れてたんだろうなぁ」


 ぴゅうっとひときわ強い風が吹き、思わず目をつむる。哲平さんの独り言はあっという間に背中の向こうへと流れていってしまう。

 そっと目を開くと、慈しむような色をたたえた彼の瞳がわたしを捉えた。


「本当に、いつでもきみは変わらない」


 どきんと心臓が、ひとつ高鳴る。この人は、誰にだってこんな優しい表情を向けたりしない。

 どうしてだろう。言葉になっていなくても、その表情、その瞳、彼を包む空気全てが、心の内を表現している。


 ──息が、止まりそう。


「好きだよ。俺は、きみが好き」



「先輩じゃん、オハヨゴザイマース」

「昴くんじゃんオハヨー」


 こぢんまりとしたエレベーター。このエレベータは、冬だというのに冷房のような冷たい風が頭上から流れ込んでくる。


「うぅ、寒……」

「先輩は知らないと思うけど、夏には熱風が出てくるからね」

「ぐぇ……それは空調としての役目をっていうか、え!?」


 なにさ突然、と昴くんは唇を尖らせてわたしを見下ろした。


 ここは、エレベーターの中である。しかし、会社のではない。自宅マンションの──である。


「……もしかして、昴くんもここに?」


 中島蓮さん、哲平さん、翔太くんが同じマンションの住人であるということは知っていたものの、ここまで昴くんとそういった話をしたり遭遇することはなかったのですっかり油断していた。

 何を隠そう、ここはザ・イケメンマンション。ドントラブミーのイケメンたちが揃って住んでいるマンションならば、昴くんもここに住んでいるはずだということに、わたしは今、気が付いた。


「今更? 六階だから今度遊びに来ていいよ」

「それってペントハウスでは!?」

「ペイントハウス? いや俺アーティストじゃねぇし」

「ペントハウスね。最上階にある部屋のこと」

「……知ってるし……!」


 このマンションは六階建てで、各階に五室ずつ部屋が用意されているのだが、最上階のみ一室の作り。つまり正真正銘、ワンフロアが昴くんの住居スペースだということだ。さすがはセレブ。格が違う。

 ……本当ならばタワーマンションや豪邸などがふさわしいのかもしれないけれど、社会人として自立するためにあえて庶民的なこのマンションを選んだのだろう。なるほど。


 しかし昴くんは少し自慢気に胸をそらせると「このマンションは父親のマンションだから」とわたしの勝手な憶測とは遠い位置にある事実を誇らしげに話す。

 ずいぶんと変わってきている昴くん。しかし、ずっと御曹司として育ってきたのだから、そう簡単に全てを世間一般的な感覚と合致させるのは難しいのかもしれない。それでも彼なりに必死に模索しているのは見ていて分かる。


「てかさ、その明太子みたいな目、どした?」


 エレベーターの扉が開くと、昴くんは先にドアを出てわたしに訪ねた。


 明太子のような唇というのはよく聞くけれど、明太子のような目とは……それはまさに今のわたしの腫れぼったい両目をうまく表現しているではないか。語彙力が付いてきたということは、先輩として喜ばなければ。



 昨日、哲平さんと別れたわたしは家に着いてから大泣きをした。それはもう、子供のようにわんわんと声をあげて泣いた。苦しくて仕方がなかったのだ。


 本来であれば、梅ちゃんと哲平さんを繋ぐのがわたしに課せられた使命のはず。それなのに、あろうことはわたしはその彼に告白というものをさせてしまったのだ。しかも、自分に対して。


 これはゲームの流れとするならば、大失敗にあたる。しかし、一番つらかったのは失敗をしたという事実ではなかった。


 自分がまさか、誰かの想いを断る日が来てしまうなんて──

 自分がまさか、誰かを傷つけてしまう日が来るなんて──


 そんな思いが体中を支配して、わたしは一晩中泣き続けた。


 哲平さんの最後の無理やりつくった笑顔が脳裏に浮かべば明太子はまたじゅわりと熱を持ち、わたしは慌てて頭を小さく左右に振る。


「ちょっと泣ける映画を見てしまって」


 適当な嘘を並べれば、昴くんは不満げにまた唇を尖らせる。


「もしかして先輩、哲平さんに……」

「俺がどうしたって?」


 はっと足がその場で止まる。わたしと昴くんが並ぶ少し先、塀に背中を預けたコート姿の哲平さんの姿があった。


 細身のグレーのスーツに形の良い黒のステンカラーコート。今日も綺麗に手入れされた革靴が輝いている。

 本日もやっぱり、ミスター・パーフェクトだ。


 しかしその姿を見た途端、ずん、とわたしの心臓は鈍い重みを持つ。どんな顔をして会えばいいのだろう。もちろん告白は丁重にお断りをした。ここから哲平さんは梅ちゃんとの関係を作っていくのだから、サポートを全力でしていきたい。

 しかし、告白をされたこともなければ断った経験もなかったわたしには、どのような態度を取るべきなのかが分からなかったのだ。


「おはよう咲村。今日はいつもより遅かったんだな」


 咲村、という呼び名に反射的に顔が上がった。


「おは、おはようございます」


 慌てて挨拶をすれば、優しく微笑む哲平さんの視線がわたしを捉えた。


「ああ、ふたり一緒にいるならばちょうどよかった。俺、会社を辞めることになったんだ」


 哲平さんの突然の報告に、わたしはもちろん、昴くんまでもが動きを止めた。


「……は?」


 上司への言葉遣いとは思えないが、彼らは上司部下である前に同じマンションに住む親しい間柄なのだろうということはなんとなく察しがつく。


「会社を、辞めるんですか……?」


 そんなまさか。だってこれから哲平さんは、梅ちゃんとの距離を縮めて、彼女に恋をするはずなのだ──。シナリオ通りならば。


「そんな流れねえだろ⁉ 哲平くんが会社を辞めるなんて、誰が言い出したんだよ!」


 珍しく感情的になる昴くんの様子に、わたしは驚いて声を出すことも出来ない。しかし哲平さんが厳しい表情で昴くんをじっと見ると、彼ははっとしたように口をつぐんだ。


「──俺だよ、俺が決めた」


 半年ほど前から、ロンドンのデザイン会社にいる知り合いから引き抜きの話が来ていたのだと哲平さんは穏やかな表情で説明をする。


「一度は断ったんだ。俺にはここでやるべきことがあるって思い込んでいたから。だけど、違った」


 彼はそこでもう一度、わたしに視線を戻した。その表情は、今まで見てきた彼の表情の中で一番生き生きとして輝いて見える。


「自分がやりたいと思ったことを、自分の手でやってみたいと思えるようになったんだ」


 政治じゃなく、家のためではなく、《《会社》》のためでもない、自分自身のために生きる。


 そう言い切った哲平さんは、とてもさっぱりとした表情をしていた。その時にわたしは気が付いたのだ。


 彼が求めているのは決して‶ヒロインとのハッピーエンド〟ではない。そしてこのゲームは、わたしが誰かを好きにならない限り、やはりゲームオーバーを迎えることはないのだということを。


「近いうちにマンションも出ることになる。蓮と翔太には俺から話すから」


 それじゃあ三人揃って仲良く出社しようか、と哲平さんはそう言っておどけたように笑う。


 昴くんは黙ったまま。だからわたしは、大きな声で答えた。


「……はい、伊藤課長!」




 ◇



 それからの数日間は、実に慌ただしく過ぎて行った。

 伊藤さんは、まるでずっと前から仕事を辞めることを決めていたかのように引き継ぎの資料を完璧に作り上げていた。最初は彼の退職を渋っていた上層部も、伊藤さんの固い決意に根負けしたという印象があった。


 女性社員たちはミスター・パーフェクトとの別れを惜しみ、最後のチャンスを掴めとばかりに大胆なアプローチを仕掛けていた。


「梅ちゃん、伊藤さん海外行っちゃうみたいだけど。……いいの?」


 念のため、念のために聞いているだけだ。わたしとしては、新しい道を歩む伊藤さんを応援したい。しかし、彼が梅ちゃんのパートナーとなる可能性を持っている人物であることは確実なのだ。


「いいって、なにが?」


 梅ちゃんはきょとんとした顔をこちらに向けるばかり。


「伊藤さんに今までみたいに会うことは出来なくなっちゃうわけだし……」


 まさか、パートナーのひとりが海外に行っていいの? と聞くわけにもいかずに言葉を濁しながら伝えると、梅ちゃんはふわりと笑った。


「ミスター・フリーダムって感じよね、今の伊藤さん」


 今までのパーフェクト男より、ずっといいと思うけど。そう続けた梅ちゃんは、ちょっと眩しそうに目を細めて女子社員からのアプローチを笑顔で断る伊藤さんを見る。その視線につられるように、わたしも輪の中心にいる背の高い彼を見つめた。


「……うん、わたしも、今の伊藤さんの方がずっといいと思う」



 確かにここはゲームの世界で、ルールも目的もゴールもあるのだろう。だけどみんなちゃんとここで生きている。


 自分の意志があって、自分の想いがあって、喜んだり悲しんだりしている。


 そんな彼らの意志を尊重することは、ゲームをクリアすることなんかよりずっとずっと大切なことなのだと、わたしはそう思うようになっていた。


「今夜は伊藤課長の送別会だからな! 仕事は定時に終わらせよう!」


 サンタ補佐が両手を広げてそう言えば、伊藤さんが少し照れ臭そうに鼻をこする。その仕草は小さな子供のようで、わたしは今の伊藤さんの方が、ずっとずっといいと、改めてそう思ったのだった。



 

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