恋をしてはいけない世界
「待って……待ってくださいっ……!」
「俺だって我慢の限界だ」
片方の口角をあげて笑う彼はいつもより妖艶に映ってしまい、わたしは思わず顔を背ける。ところがそれを許すまいと、頬に添えられた彼の右手に力が加わった。
目の前に迫るのは、琥珀色の深い瞳。ああ、この瞳に映りたいと、何度夢に見ただろうか。
今まさに、その夢が叶おうとしている。
ふわりと彼の吐息が唇にかかった。
「サラ……愛している」
◇
「ギャーーーーーッ!!!」
ばたばたばたっとすごい足音が鳴り響き、部屋のドアが開けられる。高校生の弟が焦った様子で部屋に飛び込んで来る。と、わたしの姿を見て眉を寄せた。
「……まさか……またアレじゃねぇだろうな……」
「だって! ついに! 片柳様がっ! せっ、せっ……接吻っ……を!!」
キャーッと枕に顔を埋めれば、バターンッという先ほどよりも一回り大きな音と共にドアが閉められる。
ふう、と息を吐いて裏返してあったスマホを手に取る。画面には、切なげに歪められた片柳様の見目麗しい顔面と、『サラ……愛している』という文字。今のうちにスクショをしておかなければ。
ああ、ついに片柳様ともお別れか……。いや、ハッピーエンドを迎えられたのだから喜ばしいことではある。だけど、ゲームクリアというのはイコールして物語の終わりを意味しているのだ。
さて、次は誰とどんな恋をしようか。
サラ改め本名、咲村さくら、24歳。
アパレル会社勤務の実家暮らし。
彼氏なし歴24年。
趣味は、乙女ゲームです。
◇
「それって咲村さんが着てるのと同じもの?」
ちらりと自分の名前が空気にのって流れてきて、思わず耳を大きくさせた。
「はい、この間サンプルをもらって」
ちりりんと鈴の音が転がるようなかわいらしい声がそれに続く。ストレッチをするふりをして体を捻れば想像通り、同期の桜木さんが淡いピンクのスカートをふわりとさせて微笑んでいた。
彼女が今日履いているスカートと、わたしが今日履いているスカートは確かに同じものだ。先日、サンプルであがってきたスカートを上司がわたしたちにくれたのだ。
桜木さんには、かわいらしい綺麗なピンク。
わたしには、落ち着いたダークブラウン。
その色は例えるならば、春に咲く桜と、秋の雨に濡れた土のような色だ。
わたしが働くこの会社は、大手アパレルメーカーである。販売員含む社員は大半が女性。しかも容姿端麗な子たちばかりだ。
同期である桜木さんはその中でも群を抜いての美貌。イギリスの一流大学を卒業した頭脳の持ち主で、地味なモブであるわたしにも非常に優しい、女神のような女性だ。店頭に配属すれば全国一位の売り上げを誇り、現在は本社勤務。企画や店頭スタッフの研修など、幅広く活躍している。
え? わたし? こんな地味でモブのわたしは、もちろん内勤──主に事務──である。店頭に出たことは、研修期間に一カ月だけ。店員だと思われずにお客さまから一度も声をかけられることなく終了した。
「やっぱり着る人によって、印象って変わるわねぇ。なんていうか、残念、っていうか……」
心なしかボリュームを落としている先輩の言葉は、しっかりとわたしの耳まで届いている。
聞こえてる! 聞こえちゃってますよ先輩!
なんて、言えるはずもないただのモブであるわたしは、聞こえないふりをしてキーボードをひたすら叩いた。
「色が違うからですよ。ファッションって、そういうものじゃないですか」
ほらね、桜木さんはいつだって優しい。わたしをけなすこともなく、褒められて鼻を高くするでもなく、先輩の言葉を否定するでもない。
だけどね、本当は自分でも分かっているのだ。
ピンクのスカートを履いた彼女と、ダークブラウンのスカートを履いたわたしと、同じアイテムを使っていても、印象は全然違う。いや、色の問題ではないのだろう。この土色のスカートだって、桜木さんが着たらきっと秋に転がるどんぐりのようなかわいらしさを持つのだろう。
彼女はとっても可憐で美しく
わたしはとっても地味で残念。
だからわたしに着られるスカートは、やっぱりちょっと、かわいそうだと思うんだ。同じ洋服を着てみたって、誰もがかわいくなれるわけじゃない。結局は全て人間という中身が物語る。このスカートの良さを引き出すことが出来ないことに、申し訳なくなってしまう。
“残念”という肩書を持つわたしが着たら、洋服だってかわいそう。
恋愛だって同じだろう。
“残念”という肩書を持つわたしが想いを寄せたら、相手の人はかわいそう。
だからわたしは、いつだってなりたい自分を求めてゲームの世界へ手を伸ばす。どんな服を着てもいい。どんなメイクをしてもいいし、どんな人を好きになってもいい。誰にも迷惑をかけず、自分を卑下することもなく、自由になれる唯一の場所。
理想の自分になって、かわいらしく一途で誰からも愛される女性になって、そんな世界でわたしは今日も恋をする。
それこそが、乙女ゲームの世界なのだ。
「もう、これはクリアしちゃったし……。これもやったことあるし、これもやった……あー天王寺司もかっこよかったなぁ、元気かな」
夕飯後のダイニングテーブルでスマホと睨めっこをしていれば、器を手にお母さんが台所から戻って来た。
「いつものゲーム?」
「昨日ね、片柳様クリアしちゃったの。新しいゲームを始めたいんだけど、どれもクリアしたものばかりで。新作も出てないんだよね」
「それなら少女マンガでも読む?」
お母さんの趣味は、少女マンガを読むこと。ときめきに貪欲であるというわたしの性格は、お母さんから受け継いだものだ。
「だめだめ。恋愛の当事者になりたいんだもん。だから乙女ゲームのがいい」
「なるほどねぇ。さくらは、好きな人のひとりやふたりいないの?」
最近お気に入りだという学園ものの漫画を開きながらお母さんがそんなことを聞く。この質問は小学生の頃から定期的にされているので、もう二十年弱の付き合いになるが、残念ながら答えはいつもノーである。
「さくら、かわいいのに」
いつだってお母さんは親バカだ。だけどこの世界で唯一、わたしをかわいいと言ってくれる人だから否定をしたりはしない。親にとって子供は、やっぱり一番かわいいのかもしれないから。
そんなことを考えていた時だ。ピコンとメールを受信したという表示がスマホの画面上に現れた。最近は家族とのやりとりにはメッセージアプリを使っているし、メールが来ることなどほとんどない。不思議に思って見てみれば、差出人は(株)ドリームメイカー。大手乙女ゲームの運営会社だ。
ゲームでメールアドレスを登録したことはある。しかし、こんな風にメールが来たことが今まであっただろうか。件名は「サラ様だけへの特別なご招待」と書いてある。実に怪しい。怪しいけれど、それ以上に魅惑的だ。
あの天王寺司も、見目麗しい片柳様も、みんなこの会社が配信しているゲームのキャラクター。いつも素晴らしい感動とときめきを提供してくれているドリームメイカーからの特別ご招待メールなんて、胸が高鳴ってしまう。
『サラ様
いつもドリームメイカーのゲームを楽しんでいただきありがとうございます。この度、新しいゲームの世界へご招待させていただきたくご連絡を差し上げました。
弊社のゲームを楽しんでいただいている方は大勢いらっしゃいますが、全てのシリーズ、キャラクター、それぞれの友達エンド、ハッピーエンド、スーパーハッピーエンド、隠れエンドと全エピソードをクリアしてくださった特別な方にのみ、こちらのメールをお送りしております。
以下URLからエントリーしていただくことが可能です。
これからも、弊社のゲームをよろしくお願い致します。
株式会社ドリームメイカー企画部一同』
「なにこれ……」
ぽかんと画面を見つめていれば、目の前でお母さんがホウッとうっとりしたため息を漏らした。もちろん視線は漫画の中だ。
新しいゲーム。
選ばれし者だけがプレイできる、特別なゲーム。
本文の下に表示されているイラストには、主要キャラクターであろう男性陣がずらりと並んでいる。わたしはそんな彼らにざっと目を通す。
左端にいるのは、優しそうな穏やかイケメン。包容力のあるお兄さんタイプかもしれない。
その隣には、髪の毛がふわふわとしているかわいい笑顔の男の子。この子はきっと、人懐っこく明るいキャラクターだ。
中央には明るい髪色の正統派イケメンが鎮座。表情を見るに、ツンデレ俺様の王道センターだろう。
その右には、黒髪で無表情の男の子。何を考えているか分からない感じ。
詳しい説明は一切ない。ずらりと並んだ彼らの上には、ゲームタイトルであろう“ドントラブミー”という文字が並んでいた。
Don't love me.
直訳すれば、わたしを愛するな、という意味になるがどういうことだろうか。
しかし、そんな小さな疑問は綺麗なイラストによってすぐに吹き消されてしまう。いつだって、ドリームメイカーのキャラクターたちは本当に魅力的なのである。洗練されていて美しく、それでいてリアル。
久しぶりにわくわくとした気持ちで胸の中が満たされていく。始める前からこんなに胸が躍るゲームには、出会ったことがない。よし、早速エントリーしてみよう。
一旦深呼吸をしてから、わたしはサイトのURLをタップする。
──と、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴り響いた。
インターフォンの画面に映るのは、いつも配達してくれる宅配便のお兄さんだ。そういえば今日は、注文していた片柳様のクッションが届く日だった。
「出てくる!」
スマホをテーブルの上に置いたまま、わたしは玄関へと走る。
画面には“エントリー完了”という文字が映し出されていた──。
◇
「はーい!」
わくわくとした気分で玄関を開けば、目の前には大きな段ボールを抱えた人らしき姿。というのも、そのダンボールに一際大きな袋に入った荷物が積まれているため姿が見えないのだ。
確かにわたしは片柳様のクッションを注文した。だけど、こんなに大きいものだっただろうか。大体さっきインターフォンの画面で確認した時、お兄さんはこんな大きな荷物を持っていなかったはずだ。
「……重いんだけど」
思わず沈黙していると、荷物の向こうから低い声が響いた。
「アッすいません!」
慌てて積み上がっていた袋を受け取れば、それは思ったよりも軽くて柔らかい。やはり片柳様のクッションだろう。しかしこんな大きかったとは。
「……いやこっちも郵便物」
はっと顔をあげた瞬間、わたしは目を見張った。荷物の山から現れたのは、なんとも顔の良い男の子だったのだ。間違っても、いつもの配達のお兄さんではない。
艶のある黒髪は目にかかるくらいに伸びていて、ぴょこんと後ろ毛が跳ねている。すごい、本当に顔がいい。
彼はわたしの視線をうざったそうに顔を振って払うと、残りの荷物も玄関の中へドサリと置いた。
その瞬間、驚くことが起きた。彼の頭上に、いつもゲームで見ているようなデジタル表示がぴこんと現われたのだ。
『主要人物一 中島蓮』
「えっ……?」
「住所変更早く済ませるのもいいけど、荷物届くのは引っ越しが終わってからにしろよ。チラシも手紙も新聞もポストからはみ出てたし」
瞬きを数度するうち、その表示は消えてしまう。もしかしたら疲れているのかもしれない。
そうして目をこすった直後、もうひとつの違和感に気が付く。
「……引っ越し……?」
確かに彼は、引っ越しが終わってから、という言葉を放った。一体何を言っているのだろうか。わたしは生まれてこの方、一度も引っ越しなんて経験したことがない。
訝しげに眉を寄せるわたしの様子に、彼はこちらの背後を顎でくいっと指した。
「どう見ても引っ越しだろ」
その視線に釣られるようにして振り向き、わたしは凍りついた。
積み上がる段ボールの数々に、見たことのない間取りと家具。その奥にはベランダが見える。わたしがよく知る実家の風景とは、何もかもが違っている。
「え……ええええっ!?!?」
満月の夜、わたしの声が鉄筋コンクリート造築十五年マンションの廊下に響いた。
◇
「考えろ考えろ考えろ……」
見慣れない部屋の中、ぐるぐると何周目か分からない円を歩きながら描く。
家族と家にいたはずで、宅急便が来て扉を開けて──そしたらここにいた。夢かと思って頬を何度かつねってみたものの、痛みだけ感じて状況が変わることはなかった。中島蓮と表示が出ていたあの彼は、すぐに自分の部屋へと戻っていった。
「それにしても、顔が良すぎた……じゃなくって!」
そこでふと、足元に散らばった郵便物が目に入る。それを拾い上げたわたしは、宛名を見てぞっとした。
「咲村サラ様、って……わたしがゲームで使ってる名前……」
まさか──。
郵便物を裏返せば、差出欄には㈱ドリームメイカーの文字。震える手でそれを破くと中の手紙を取り出した。
『サラさま
乙女ゲーム”ドントラブミー”の世界へようこそ!あなた様にはこの世界で、咲村サラ様としてしばらくの間過ごしていただきます。ゲームクリア、もしくはゲームオーバーされた時点で元の世界へお戻りになれますので、安心してお楽しみください。
このゲームのルールはただひとつ。
‶誰のことも好きになってはいけない〟ということです。
そちらを踏まえ、出されるミッションに挑んでください。
グッドラック!』
「新しいゲームって……こういうことだったの……?」
どうやらわたしは、ゲームの世界へとトリップしてしまったようだ。しかも乙女ゲームなのに誰かを好きになったらいけない、という謎のルールが課される世界へ。
「待って待って! そんな乙女ゲーム、見たことないってば!!」
こうしてゲーム初日の夜はふけていったのだった。
朝起きたら元の世界に戻っているかと期待したものの、目が覚めてもわたしは段ボールだらけの部屋の中にいた。
「夢じゃなかったかぁ……」
まだカーテンもつけていない窓からは眩しいほどの光が差し込む。どうやら快晴のようだ。窓を開けてベランダに出てみれば、真っ青な空が広がっている。
──クヨクヨしても仕方がない。
ぴかぴかとした太陽の光を全身に浴びていれば、ポジティブなパワーが沸いてくるから太陽は本当に偉大だと思う。
ぐーっと伸びをすれば、体いっぱいに透明な酸素が満たされ、脳が覚醒するのが分かった。
昨日の郵送物の中にはゲームマニュアルなるものが同封されており、それによればこちらの世界でもわたしはアパレル会社に勤務しているということになっている。ご丁寧に、仕事内容や同僚の説明なども記されていたからどうにか乗り切ることは出来そうだ。
どうせここは、ゲームの世界だ。それならば、思い切り楽しむしかない。
「えいえいおー!」
大きな声と共に、拳を空へと掲げたのだった。
「おはようございまーす……」
誰もいないオフィスのドアを開ければ、不思議なことに見慣れた風景が広がっていた。同じような大きさのフロアに、同じようなデスクの配置。ホワイトボードに書かれている名前や取引先の会社名に違和感を覚える程度。あとは窓辺に置いてあるプランターの種類が違うということくらいだろうか。
マニュアルに書かれていた自分の席は、これまた現実世界のものとほぼ同じような場所で、デスクの上もあちら同様、綺麗に片付いていた。
ゲームの世界に入ったからと言って、わたしという人物が変わるわけではなかった。段ボールに入っていた洋服たちは現実世界の私服と同じく、暗い色味でシンプルなデザインのものばかりだったし、ほんの少し期待して見た鏡には見慣れた自分が写っていた。
ちなみに言うと、この世界の地理的な部分や乗り物、駅などが現実世界と酷似していることはわたしにとって大きな救いだった。そのおかげで会社にも迷わず出社することが出来たのだ。
「おはようございまーす」
「今日もお願いしまーす」
しばらくするとぱらぱらと同僚たちが出勤してきた。勤務開始時間は九時ちょうど。これも向こうと同じ時間だ。
わたしはそっと、机の下でマニュアルを開いてみる。同僚一覧のページだ。おもしろいことに、このページに出てくる人たちの顔もわたしがよく知る人たちのそれとよく似ている。
課長補佐はまるまると太ったサンタクロースだし、桜木さんのような容姿端麗な女性社員もいる。ちなみに名前は梅木さんと言うらしい。名前さえ間違えなければ、うまくやっていけそうだ。
それにしても、容姿も立ち位置も仕事の要領も全く良くないわたしが、本当に乙女ゲームの主人公なのだろうか……?
ありのままの自分がこれから出会うであろうイケメンに想いを寄せられる姿を想像しようとして、うまく出来なくて諦めた。
もしかしたらシンデレラみたいに魔法使いが現れるとか、そういうストーリーかもしれない。何はともあれ、今は自分が出来ることをしていくしか道はないようだ。
そう腹を決め、コツコツと事務作業に没頭していたわたしの前に新たなイケメンが登場したのは、その日の午後のことである。
「咲村さん、お茶出しお願い出来る?」
サンタみたいな課長補佐に声をかけられれば、他の女子社員たちがざわめくのが分かった。面倒なお茶出しは、どの世界でもモブ女子に課せられた役割である。普段ならば、そんなお茶出しに周りが注目することなどはないはずだ。
「SHOTAのお茶出しならわたしがやりたいのにぃ~!」
「咲村さんじゃ華がないよぉ!」
そんな不満げな言葉の後には
「咲村さんなら絶対何も起きないから、課長補佐もわざと指名したのかも」
「事務所からもスキャンダルになりそうな綺麗な社員との接触は避けるように言われているとか!」
と自らを納得させる会話が繰り広げられている。もちろん全部聞こえている。聞こえているけれど、なんのことやらさっぱりであるし、課長補佐からの意味のある指名とも思えなかった。だってお茶出しはいつだって、わたしの役割なのだから。
こんこん、と会議室のドアをノックしてドアを開ける。──その瞬間、わたしは思わず目を見張った。
「お、お、おちゃ……お茶茶をお持ちいたしましたっ」
やはりここは、乙女ゲームの世界に間違いない。課長補佐の向かいに座っていたのは、それはそれは顔のよろしい、とてつもないイケメンだったのだから。
自分では、顔面の良い人に対しての耐性はある方だと思っていた。なぜならこれまでわたしは、乙女ゲームという乙女ゲームをプレイし、数々のハイスペックイケメンたちとの恋愛を経験してきたのだ。
しかしそれも所詮は画面越しの経験でしかない。こうして目の前に本物のイケメンが現れてしまえば、うまく言葉さえ出てこないのだ。
明るいブラウンに染められた髪の毛は、ふわふわと緩くウェーブしている。すっと通った鼻筋にくるんとした大きな瞳。笑うと口角がきゅっと上がる。そして何より、顔が小さい。とてつもなく小さい。
カタカタと震える手でお茶を出せば、その人物はくすりと笑った。
その瞬間、彼の頭の上にぴこんと見覚えのあるデジタル表示が現われた。
『主要人物二 今野翔太』
これは昨夜、中島蓮さんと初めて顔を合わせたときに出たものと同じ。やはりあれは、勘違いではなかったみたいだ。まるでゲームの中みたい……ってそうなんだけど。
「お茶茶、だって」
ぼっと顔から火が出る。噛んでしまったことをしっかりと聞かれている! 彼はわたしの顔を覗き込むと、それからもう一度くしゃりと笑った。
「しっ、失礼しますっ!」
せり上がってくる熱を感じ、わたしは半ば逃げ出すように会議室を後にした。──と、様子を見ていたのであろう女子社員達が一気に駆け寄ってくる。
「ねえSHOTAかっこよかった!?」
「何か話した!?」
わたしが同僚に囲まれるだなんて、こんなことは未だかつてない状況だ。ばくばくとまだ心臓は高鳴っている。これは先ほどのイケメンの笑顔の破壊力のせいなのか、みんなに囲まれたことによる緊張感なのか。
「えっと、あの……」
普段コミュニケーションを取って来なかったわたしは、こういう時の模範解答を持ち合わせていない。いつだってわたしはモブで、空気のような存在で、もしかしたら誰もわたしのことが見えていないのではないだろうかと思っていたくらいなのだ。
「咲村さん、三番に電話入ってるよ」
そんな時、助け船を出してくれたのは同僚の桜木──ではなく、梅木さんだった。
「大丈夫だった?」
デスクの電話に出ても電子音が流れるだけで首をひねるわたしに、梅木さんは柔らかく笑いかける。どうやら電話と言うのはわたしを救い出すための嘘だったようだ。梅木さんは、こちらの世界でもやっぱり優しい。女神である。ああ女神さま。
「あの、今日来てた人って……」
梅木さんにならば聞けると思ったわたしが口を開けば、ああ、と彼女は頷いた。
「今度うちのブランドの広告に出てくれるモデルさんだよ」
あの整った造形美、スタイルの良さ──座っていたからよく見えていないがきっとスタイルも良いと思う──、あのオーラ。只者ではないと思ったがなるほど、モデルだったのか。
しかも他の社員の様子を見るにかなり人気があるようだ。分かる、あの顔面にあの笑顔だもん。
「梅木さんもファンなんですか?」
そう聞けば、彼女は会議室のある方向を見てから苦笑いした。
「うーん、ちょっと苦手なタイプかな」
どうやら女神にも苦手意識というものがあるらしい。新しい発見だ。お礼を伝え立ち去ろうとすれば、「待って」とかわいらしい声がわたしの袖を引いた。
「あのさ、今日一緒にランチ行かない?」
その瞬間、彼女の頭上にもあの表示が現われた。
『重要人物 梅木ほのか』
女神からの、魅惑的なお誘いが天から降ってきた瞬間だった。
◇
「ここのパスタ、美味しいんだよね」
ランチタイム、わたしたちは梅木さんおすすめのイタリアンのお店で向かい合って座っていた。
同期と外でランチ、だなんて人生で初めての経験。しかも相手はみんなの女神、梅木さんだ。
そわそわと落ち着かない様子で店内へと視線を巡らせていれば、「咲村さんって」とミルクティーに刺さるストローを指先で弄びながら彼女が口を開いた。
「毎日、どんなことを考えながら過ごしてるの?」
唐突すぎる質問に、目を瞬かせると、変な意味じゃないよ! と彼女は首をすくめた。
「いつもみんなが嫌がる仕事を文句も言わずに引き受けて、どんなことでもまっすぐに取り組んで。どうしてそんな風に、全てのことに対して真面目に取り組めるのかな、すごいなぁって前から思ってて」
すごい……? わたしが……?
女神から予想外の言葉をもらったわたしは、何が起きているのかと頭の中で流れを整理しようとした。しかし、もちろんうまくは出来ない。
「どんなものでも、仕事なので……」
こんな陳腐な言葉しか出てこないわたしは、やはりゲームの世界でもわたしのままだ。もうちょっとこう、おしゃれな言い回しとか気の利いた言葉とか出てこないものだろうか。せっかく女神が褒めてくれているというのに! ひとりだったら地団駄を踏んでいるところだ。
梅木さんはわたしの言葉を聞いてからくすりと笑うと、咲村さんらしいね、と頷く。
「ねえ、わたしたち同期なんだし、敬語やめない?」
「えっ!?」
再び女神からの突然の申し出。心臓がどくんと跳ねる。モブであるわたしが、女神と、敬語なしで話す……だと……?
「梅木さんって呼ばれるのも、距離がある感じで寂しいし。サラちゃんって呼ばせてもらってもいいかな?」
ちゅどーん! と雷に打たれたような衝撃が走る。敬語をとっぱらう上に、サラちゃんと呼ばれるだと!? さらにニックネームで呼んでいいだと!? モブと女神が!? これぞ天変地異。
だめかな? とちょっと心配そうに首を傾げる梅木さんはかわいらしく、彼女を悲しませまいと思う男性陣の気持ちが完全に理解出来てしまう。
「じゃあわたしは……梅ちゃん……とか……」
どきどきしながらそう言えば、梅木さん──梅ちゃんは、やったぁと喜んだ。梅ちゃんとサラちゃん、なんて。なんだか友達みたいで胸の奥がむずむずする。
今までの人生、友達と呼べる相手がいなかったわけではない。学生の頃には同じように大人しい女の子とふたりでお昼を食べたりしていたし、教室移動なんかも一緒にしていた。だけど、それはその時だけ。卒業してから連絡しても返事は来ず、もちろん会うこともなかった。
その時に分かったのだ。
彼女が求めていたのは‶友達〟ではなく、ひとりにならないために一緒に過ごす‶都合の良い誰か〟だったのだと。
それ以来、友達という関係に幻想を抱かないようになった。決して悲観しているとか、馬鹿にしているというわけではない。ただ、わたしにはそういった関係は向かないというそれだけのことだ。
友達がいなくてもわたしには家族がいるし、ゲームの世界もある。同僚から意地悪や無視をされているわけでもない。業務に支障はないし、不便なことも何もない。
それでも、今こうして梅ちゃんから名前を呼ばれると、くすぐったいような気持ちになるのだ。まだ自分にも、こういう気持ちが残っていたのだということを知って少し嬉しくもなった。
「サラちゃん、彼氏はいるの?」
食後のティラミスにスプーンを入れながら、女子トーク代表とも言える話題を振る梅ちゃん。もちろんそんな話題に免疫もないわたしは、ゴホゴホッとむせてしまう。
「いるわけがないです……ないよ。好きな人も出来たことないし……」
「これから出会うんだね、運命の人に」
運命の人──。
その言葉が、ちゃぷんと胸の奥へと音を立てて沈んでいく。
わたしにも、いるのだろうか。運命の人と呼べる相手が
わたしのことを、愛おしいと思ってくれる誰かが
──世界のどこかに、いるのだろうか。
時刻は夜の十一時十分。初出勤を終えたわたしが帰宅しようと玄関の鍵を差し込んだところで、ちょうど隣の玄関が開いた。
「こ、こんばんは」
「……」
お隣に住む中島蓮さんは、こちらを一瞥することもなく部屋の鍵を閉めた。不愛想の極みである。
本来ならば、わたしだってこんな怖い人と関わりたくはない。しかし、彼が主要人物である以上、積極的に関わっていかなければならない。そうしなければ、わたしは元の世界へ戻れないのだから。
「どこか行くんですか?」
「…………」
乙女ゲームのキャラクターというのは、優しかったり意地悪だったりという振り幅はあるものの、必ず主人公に対して何らかの興味を示すものだ。しかし、中島蓮さんから感じ取れるのは‶無関心〟という三文字だけ。
この世界に来てから一番最初に出会った人物であるにも関わらず、だ。
──いや、待てよ? 乙女ゲームで一番最初に出会うのは、攻略キャラクターとは限らない。それどころか、一番初めに出会うのは‶ゲームの案内人〟である可能性が高いではないか。
「あの……、わたしも連れていってください!」
思い切って、向けられた背中に声をかける。謎だらけのこのゲームをクリアするには、彼のサポートが必要に違いない。
そう感じたわたしは、うざったそうな顔をした彼の後を追いかけたのだった。
「肉まんください」
「百二十九円でーす」
「あ……」
彼が向かったのは、家からちょっと歩いた先のコンビニだった。
そこのレジで、ぴた、とわたしの手が止まる。財布が、ない。いや、正確には忘れたのである。
中島蓮さんに付いて行くと言う選択をした時、わたしは重たい仕事鞄を部屋の中へと置いてきたのだ。もちろん財布もその中というわけ。
「あの、すみま──」
「一緒で」
店員さんに謝ろうとしたところで、どか、と目の前のカウンターにカゴが置かれた。中にはパンやカップ麺、ミネラルウォーターが入っている。
ポケットから財布を取り出した中島蓮さんは、わたしをちらりと見て「貸し一」と言い、べ、と小さく舌を出したのだった。
「おいひい~」
コンビニからの帰り道、はふはふと湯気を漏らしながら肉まんを頬張れば目の前に白い息が浮かんで消える。冬の夜って、なんだかちょっと特別だ。寒くて耳も痛いのに、普段は色を持たない息が白く見えて、生きているって感じがするから。
それを言えば、中島蓮さんは「変」と短く言った。こういう時のお決まりのセリフといえば、「フッ、おもしれー女」とか「変なヤツ」でニヤリなのに、彼は「変」と単語ひとつを表情も変えずに言うだけだ。
「普通、こんな夜中に女子は肉まん食わないんじゃないの」
「いいんですよ。別に誰も困りませんから、わたしが肥えても」
「確かに」
やはり彼は、案内人だ。攻略キャラクターならば「俺はどんな君でもいいけどね」だとか「貰い手がいなくなったら、俺が貰ってやる」などと言ってドキッとさせるものなのだ。思わせぶりな態度と言葉で乙女心を翻弄するものなのだ。
それにしても彼は、わたしが知っているゲームキャラクターとはちょっと違って、どちらかと言えば現実世界にいる普通の男の子のように感じられる。それは今のわたしにとって、ちょっとほっとする感覚でもあった。
特別な乙女ゲームの世界。全てのエピソードとエンドをクリアした者しかチャレンジすることの出来ない世界。突然そんな世界に飛ばされたにも関わらず、元からここにいた住人のような顔をして、わたしは今日一日を過ごしたのだ。
「なんだか今日は疲れました」
ぽろりと本音が零れても、中島蓮さんは無言でざくざくと足を進める。どうして舗装されていないところを歩くのだろう。
「肉まん、半分いります?」
「いらない」
きっと彼が、わたしのことを元の世界へと導いてくれる。
きっと彼が、全ての鍵を握っている。
そう確信したわたしは、彼の横で残りの肉まんを齧ったのだった。
◇
「咲村おはよう。これみんなで食って」
翌朝、誰もいないオフィスでデスクを拭いていれば突然手元に有名な北海道名物のお菓子箱が現れた。とは言っても、魔法のようにぽんっと現れたわけではなく、いつの間にか背後にいた誰かによって差し出された、という状況である。
「お、おはようございます! ……っ!?」
反射的に挨拶をしながら振り向いたわたしは目を見張った。この衝撃は、こちらの世界にやって来てから三度目のことだが仕方がない。
目の前で、これまた言葉では形容しがたいほどのかっこいい男性が微笑んでいたのだから──。
すらりと高い身長のその人は、わたしよりも少し年上に見える。ネイビーのスリーピースのスーツは細身でスタイリッシュ。後ろに程よく流された髪の毛は、清潔感があるのにどこかセクシーさも兼ね備えている。
予想通り、ぴこんと再び頭上に表示が現われる。
『主要人物三 伊藤哲平』
その人はわたしに向かってもう一度にこりと笑いかけ、壁に掛けられたホワイトボードへと歩を進めた。一番上の欄に書かれた“北海道出張”という文字をイレーザーで消すと、両手をぱんぱんと叩き一番奥の席へと腰を下ろした。
「これ、伊藤課長からのお土産です。みんなで食べてくれ、と」
ある程度の社員が出勤したのを見計らい、談笑する女性社員たちに箱を片手に声をかける。
「あ、ここのチョコ大好き! 伊藤さんってば女心分かってるよね!」
「いつもチョイスが最高!」
「伊藤さんと結婚したーい!」
彼女たちは目を輝かせるとわたしの手元にあった箱をぱっと取り、軽やかな足取りで課長席へと駆けていく。
「昨日はSHOTAで、今日は伊藤さん。みんな、毎日毎日楽しそうだよね」
気付けば隣には、腕を組みその一行を冷ややかな目で見送る梅ちゃんの姿。
「え……、今の毒、まさか梅ちゃんの口から……?」
女神が毒を吐くなんて、ありえない。幻聴かもしれないと頭を振っていれば、彼女がぷっと吹き出す声が聞こえた。
「わたしだって、毒づくこともあるよ。生きていれば誰だってそうでしょ」
イライラすることもあれば、ばっかみたいって吐き捨てる時もある。彼女はそう言ってから「人前ではあまりやらないけど」と人差し指を形のいい唇の前で立てた。
……かわいい。毒を吐いても女神は女神だ。例外は認めない。
「まあ確かに、伊藤さんはすごいけどね」
梅ちゃんはそう言ってから、手に持っていた社内誌をぺらりとめくる。横から覗いてみれば、そこには伊藤さんの写真が載っていた。
P・R部第一課長・伊藤哲平、二十八歳。慶納大学出身。昇進試験を早々にパスし、異例の早さで課長職に就任。社内外からの信頼も厚く、誰もが認めるミスターパーフェクト。
ざっと見ると、そのような内容が記事には書かれている。女性社員たちが目をハートにさせるのも頷ける気がした。
「咲村、ちょっといいか?」
伊藤さんはついてくるように促すと、ポケットに両手を入れて歩き出したのだった。
「えーっと、どうしてわたしがSHOTAさんの美容室に同行を……」
「コンセプトの確認含めて? ていうか他人行儀だから、翔太って呼んでよ」
仕事終わり、南青谷というおしゃれな街をイケメンモデルと並んで歩く日が来るだなんて。さすがは乙女ゲームの世界だ。
日中、伊藤課長から言われたのは、SHOTAさんの担当窓口になってほしいというものだった。今回の企画は長期によるもので、なんでも本人から『今日お茶を出してくれた子を担当にして』と要望があったとか。
これもまた、さすがは乙女ゲームの世界といったところだろう。
「じゃ、じゃあ翔太……くん」
「うん、いいね」
たくさんの人目がある中、翔太くんは本当に堂々としている。今をときめく人気モデルだというのに、サングラスや帽子、マスクといった変装グッズを身につけることをしなかった。チラチラと確認するように視線をよこす人もいれば、きゃあっと声にならない悲鳴を上げて小さく手を振る人もいる。
翔太くんはにこやかに笑顔を返しながら、それでも声をかけるような隙は与えなかった。これが、プロというものなのかもしれない。
すると翔太くんが、かわいらしい小さなお店の前で立ち止まった。
深緑の外観に、木製の赤い扉。入口にはハーブなどのプランターが並べられ、まるで絵本の世界のようだ。
彼はスマートにその扉を開くと「どうぞお姫様」と片手を沿えた。ちりりん、と扉に着いたベルが鳴る。
「わあ……」
小ぢんまりとした店内には、大きな楕円形の鏡がひとつ。アンティークのような縁取りが印象的だ。その向かいには、座り心地の良さそうな椅子がひとつ置かれている。
ここは、かわいらしい美容院だ──。
「翔太お前さぁ、なんでいつも突然なんだよ」
──と、奥から現れた人物を見て、わたしは大きな声でその人の名前を口にした。
「中島蓮さん……!?」
翔太さんが連れてきてくれた場所。それは、中島蓮さんの美容院だった。いや、彼が美容師であることも、わたしは今知ったのだけれど。
翔太くんはわたしたちを見ると「知り合い?」と目をぱちぱちさせている。
「知り合いっていうか、お前んちの下に住んでるよ」
「えっ!?」
今度はわたしが驚く番だ。翔太くんが、うちの上に住んでいる?
「まじで? すっごい偶然じゃん! ご近所さんでもあるわけだ! いやぁこれ運命じゃない!?」
テンションがぐんぐんとあがる翔太くんに、中島蓮さんは大きなため息をひとつ吐き出したのだった。
「せっかくだから、サラちゃんも切ってもらいなよ」
それから小一時間ほどが経った頃、ソファ席でうとうとしていたわたしに翔太くんが声をかけた。
「へっ⁉ あ、わたし寝てました⁉」
「いやそれはいいんだけど、サラちゃんも切ってもらえばいいなって」
「いやそんな、大丈夫ですわたし。本当に」
あたふたするわたしを立ち上がらせた翔太くんは、そのまま鏡の前の椅子へとわたしを促す。
ちらりと中島蓮さんを見れば、彼はむすっとしながらもわたしが座るのを待っているみたいだ。
「今のままでもかわいいけど、蓮の魔法にかかればもっとかわいくなれるよ」
嬉しそうに話す翔太くんに、わたしはきゅっと唇を噛む。
確かにこれから仕事上、翔太くんと行動を共にすることもあるだろう。そんなとき、今のままのわたしでは彼に恥をかかせてしまう。
実際にさっきだって、道行く人たちがひそひそとわたしを見て眉を寄せていたのだ。
「翔太くんの迷惑にならない程度に、きちんとしないとですよね……元がこんななので、たいして変わったりしないとは思うんですけど」
わたしの肩下まである髪の毛を確認するように指先ですくっていた彼は、そこでじっと鏡越しにわたしを射抜く。
「そういうんじゃないよ、サラちゃんは十分かわいいし! 謙虚すぎ!」
慌てたようにそう言った翔太くんの言葉を「そういうのやめれば?」と冷たい声がぴしりと遮る。
声の主は、中島蓮さん。
「お前のそれは、謙虚さじゃなくてただ卑下してるだけ。お前を選んだ翔太と、お前の髪を切ろうとしてる俺への配慮が欠けてるとは思わないわけ?」
突き刺すようなまっすぐな視線。それはわたしの瞳だけではなく心をも貫いた。
謙虚さではなく、卑下しているだけ──。
いつからわたしは、自分への信頼を失ってしまったのだろうか。「かわいい」とか「よく出来ている」と漠然と認められても、そんなことはないとその言葉を拒んだ。信じられたのは「テストの点数が百点」だとか「二十五件の書類を一時間でまとめあげた」という数字が表す結果だけ。
それでも、わたしのことを認めてくれた人の気持ちはどうだったのだろう。もしかしたら本当にそう思ってくれていたのかもしれない。それなのに、頑なにわたしはそれらを受け入れようとはしなかった。自分が認められるわけがないと、そんな思い込みが根底にあったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
素直にそんな言葉が溢れた。しかし、自分でも意外なほどに心はまっすぐと芯を持って立っている。
「中島蓮さん、よろしくお願いします」
中島蓮さんは無言で鋏を持つと、それを髪の上で滑らせていく。それは、まるで魔法のようだ。ハラリハラリと舞う髪の毛は春の桜吹雪のようだったし、シャリンシャリンと軽く弾む鋏の音は秋の夜の音色のよう。少しずつ軽くなっていく髪の毛が揺れると夏の風を感じ、床へとつもり重なっていく髪の毛はどこか雪をも思わせる。
──なんて、ちょっと詩人になってしまうほどに彼の技術は素晴らしいものだった。
中島蓮さんの指が、わたしの髪の毛をすくあげるたび、胸の奥できゅきゅっと何かが擦れるような感覚がする。何かが変わっていくという感覚。自分が変化していく感覚。
「染めたことないだろ」
「分かりますか?」
「うん……綺麗」
その二文字が、髪の毛を現すことだとしても、そんな言葉を言われたことがないわたしの胸はひどく震えた。
一度も染めなくてよかった、と思ったのは生まれて初めてのことだ。
大切にするように髪を扱う指先をじっと目で追ってしまう。爪は短く切られているけれど、もとが大きいのだろう。バランスがよくてとても綺麗。水仕事のはずなのに荒れていないのはどうしてなんだろうと考えていれば、中島蓮さんはぴたりと鋏の動きを止める。不思議に思って瞬きをすれば、鏡越しに視線が合わさった。
「見すぎ」
彼はそう言って、ちょっとだけ笑った、──ように見えた。
「おはよう咲村。よく寝れたか?」
「……へっ!?」
朝、マンションの玄関ホールを出たところで課長である伊藤さんと出くわした。
いつも通りの爽やかな表情に、ぱりっと着こなしたスーツがかっこいい。それより何より顔がいい……じゃなくて! なぜ伊藤さんがここにいるのだろうか。
「髪の毛、蓮に切ってもらったんだってね。撮影うまくいったって、翔太からも聞いたよ」
伊藤さんはそう言って微笑むと、そっとわたしの髪の毛を一束掬った。
──《《蓮》》?
──《《翔太から聞いた》》?
そんなわたしの疑問を見透かしたように、伊藤さんはにこりと笑った。
「ああ、俺もこのマンションの住人」
なんということでしょう。さすがは乙女ゲームの世界。ここが夢にまで見た、イケメンマンションだったのですね神様。
思わず天を仰げば、神様ではなくベランダから中島蓮さんがこちらを見ているのが目に入った。おーいと手を振ろうとすれば、すっと部屋の中へと姿を消してしまう。相変わらず愛想が悪い。
「行こうか」
伊藤さんの声に、わたしたちは駅までの道を歩き出したのだった。
◇
「──というわけで、今日から同じ部署で働いてもらうことになった春山くん。はい、挨拶して」
その日の朝礼で、新入社員が紹介された。とは言っても、今は寒さが痺れる十二月。師走という名の通り、誰もがばたばたと年内に仕事を終えようと慌ただしくなる一年の最終月。通常新入社員が入ってくる時期ではない。
ざわっと周りが揺れ動くのが分かった。
「もしかして……」
「ハルヤマって……」
普段の朝礼は、それぞれのデスク前で立ち上がって課長のある中央に体を向けて行われている。朝の挨拶と、今日の予定確認などというくらいで二、三分で終わるものだ。
しかし今朝はいつもと違った。全員がフロア中央の通路に集められ、向かい合うようにして立った伊藤課長が新入社員を紹介したのだ。
モブであるわたしはもちろん列の一番後ろ。男性社員も混じっているため、百五十六センチしかないわたしには、前方に立つ伊藤さんの顔がかろうじて見えるくらいだ。
ひょこひょことステップを踏みつつ左右に首をのばせば、新入社員のものであろう、茶色い髪の毛が見えた。それもかなり明るい茶色だ。
ハーフ?
不良?
水泳選手?
高校の頃に、ずっと水泳をしていたため地毛が脱色してしまった男子生徒が、生活指導の先生とよく言い合いしていたのを思い出す。
「……ども」
新人らしからぬ、ふてぶれしい声が響く。頭の中で並べていた水泳選手という文字の上に、ぴーっとわたしは黒マジックで線を書いた。
新入社員特有のフレッシュさなどは、少なくともその声からは感じられない。姿はいまだに見えてはいないが、どうやら曲者であることは間違いなさそうだ。あまり関わらないようにしよう。
そう思った時だった。伊藤さんが、わたしの名前を呼んだのは。
「咲村、教育係として色々教えてやってくれ」
ものすごい勢いで、全員がわたしを振り返った。それは、みんながタイミングをあらかじめ決めていたんじゃないのかと疑いたくなるほどに揃っていて、思わず誰にも聞こえないような声で、わーぉと小さく呟いてしまうほど。
次いで、ざっとわたしの前が綺麗に開かれた。まるでモーゼの奇跡──海を割ったという神話のあれだ──のようだとわたしはまた、どこか他人事のようにその光景を見つめていた。
そして、思わず息を呑んだのだ。
なぜって──。
その海の先には、明るく透けるような茶色い髪の毛を持つ、とてつもないイケメンがいたのだから。
『主要人物四 春山昴』
少し釣り目がちな薄いブラウンの瞳。すっと通った鼻筋に形のよい唇。上質なスーツは彼にはまだ馴染んでいないように見えるものの、その立ち姿は堂々としている。自分に自信がある者にだけ許される、余裕を持った表情。何より、視線を奪われてしまうほどの顔の良さ。パーツひとつひとつが美しく、配置まで完璧。誰もが彼をかっこいいと思うであろう、そんな顔だ。
「どーぞよろしく」
イケメン新人くんはツカツカと先の尖った革靴を鳴らしながらこちらへ来ると、顎を少しあげてそう言った。
後ろの方で「社長令息じゃん」「やりづら」などという声が聞こえてくる。なるほど、超俺様次期社長キャラってことね。
わたしはぐっと下唇を噛み締め覚悟を決めると、ゆっくりと頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その宣戦布告、しかと受け取った。
──きみのことを、《《好きにはならない》》。
◇
「サラ、大変だね教育係だなんて。貧乏くじを引いちゃった、ってみんなが言ってる」
給湯室で声をかけてきたのは、タンブラーを片手にした梅ちゃんだ。
春山くんは怖いものなしと言った様子で、先ほどから姿をくらませている。
それにしても──、どう考えてもおかしい。
わたしの予想が正しければ、彼は確実に攻略キャラの一人ではあるはず。そんな次期社長と貧乏くじを引いたモブがどうこうなるなんて、どう考えても採算が合わない。たとえ乙女ゲームだとしても、相手はこのわたしだ。可憐でかわいらしい女子社員などではない。
そう、例えばもっと美人で気立てがよく、スタイル抜群で性格も美しいようなヒロインならば──。
ハッ、とわたしはひとつの答えに辿りついた。視線の先には、頬に落ちたサイドの髪を耳へかける梅ちゃんがいる。
美しい。その所作ひとつだけでも、なんとも麗しい。
もしかしたらこのゲームは、攻略キャラクターとヒロインを結びつける愛のキュービッドをするゲームなのではなかろうか。
つまり、このゲームのヒロインは梅ちゃんで、彼女の運命の相手を見つけ手助けするというのが真の目的。だからこそわたしは、キャラクターに恋をしてはいけないのかもしれない。
そう考えれば、納得がいくことばかりだった。
翔太くんは以前、梅ちゃんのことを「美人だよね」と評価していた。
伊藤さんだって梅ちゃんのことを信頼しているようだ。
そして春山ご子息だって、今はまだ認識していなくてもふたりは同じ職場にいる。これから親しくなっていくだろう。
案内人である中島蓮さん以外、全員が梅ちゃんと面識があるのだ。
ずっと見つからなかったパズルのピースを、ソファの下から見つけた時のような感覚。それと同時に、わたしは心からほっとしたのだ。
画面越しのゲームでは、自分がかわいらしい主人公になって恋愛をするのが本当に楽しかった。だけど、実際にこちらの世界にやって来て、あんな顔面おばけたちを目の前にかわいく振る舞ったり、恋愛に繋がるような流れを辿っていかねばならないなんて、荷が重かったのだ。
「ねえ梅ちゃん」
「なあに?」
「……梅ちゃんって、彼氏いるの?」
どきんどきんと胸が鳴る。これは、難しかった問題を答え合わせする感覚にどこか似ている。
梅ちゃんは不思議そうに首を傾げたあとに、くすっと笑った。
「──いないよ」
パズルのピースが、すぽっとはまった。
「春山くん、ここですが」
「昴」
午後、わたしは社長令息に業務内容の説明をしていた。
午前中、彼は飲み物を買いに行き一時間ほど戻ってこなかったし、その後は社内案内──次期社長と言われながらも本社へやって来たのは初めてに等しいらしかった──、あっという間にお昼休みが訪れ気付いたら姿を消していた。
そして午後の業務開始時刻より三十分ほど経過したところであくびと共に戻ってきた社長令息は、業務内容よりも呼ばれ方が気になっているようだ。
「あの、呼び方はいいじゃないですか。春山くんで間違いないんですから」
「いいから、昴って呼べよ。次期社長命令っつったら聞く?」
じろ、と横目で見られれば言葉に思わず詰まってしまう。こういう〇〇命令などという単語は実に乙女ゲームっぽいが、使うタイミングを間違えていると思う。
ちなみに今朝からここまでで、名前の呼び方を指摘されたのはもう十二度目だ。半分面倒になり、わたしはひとつ呼吸をすると「昴くん」と一息に呼んだ。
じわ、と頬が熱くなる。悔しいが、これが恋愛未経験──ゲームは除く──なモブ女の素直な反応だ。
それを見た昴くんは、満足そうにニヤリと笑う。しかし顔が良いだけではだめだ。梅ちゃんが感心するような、立派なビジネスマンに昴くんを育て上げるという使命が、わたしにはある。
今の所、彼女がどの男性と恋をするのかはまだ分からない。そんな今だからこそ出来ることは、攻略キャラクターである彼らのことを理解し、向き合い、サポートすることだ。誰ひとりのこともおろそかにしてはならないわけである。
全員に平等にチャンスを。
そのあとは梅ちゃんの気持ちを大事にしてあげたい。
あなたには、立派な社長になってもらわないと困ります──!
「昴くん、スパルタでいきますよ!」
「突然変わったな」
「頑張りましょう!!」
「へいへい」
ハルヤマの血を受け継ぐ正当後継者。昔から数々の英才教育を受けてきたに違いない。ビジネスのセンスというものは、環境が作るものだ。きっとそういった部分も磨かれているのだろう。
わたしが手助けするのは最初だけ。この後は彼の持ち前のセンスと頭の良さで、次期社長としてのポストをさらに確実なものとしていくのだ。
──そう思っていたのに。
「昴くん、この資料なんですけど」
「昨日出したじゃん」
「計算……間違ってる」
「は?」
「昴くん、色のサンプル持ってきてください。バイオレット」
「へいへい」
「ちょっと、これ赤ですが」
「レットって言っただろ?」
「バイオレットです!」
「昴くん川上産業の在庫調べてください」
「そんなの簡単だし」
~三十分後~
「あの、まだ?」
「うるせえな出てこねぇんだよ川下産業」
「川上産業です!」
「は?」
驚くほどに、彼は仕事が出来なかったのである。
◇
はあ、と大きなため息が零れてしまえば、それは白い息の塊となって冬の夜空に消えていく。さらに辿るように天を仰げば、チカチカと綺麗なオリオン座が輝いていた。冬はしんと空気が澄んで、星が本当に綺麗に見える。
「前髪、だいぶ伸びたな」
一瞬、オリオン座が輝きを増した──ように見える。声がする方を振り向けば、中島蓮さんがそこに立っていた。
「最近見ないと思ってたけど、ちゃんと生きてたんだ」
「どうにかこうにか……」
会社からの帰り道、疲弊しきったわたしには中島蓮さんの憎まれ口に反論する気力も残っていなかった。
昴くんがやって来てから早二週間、想像以上の気苦労をわたしは日々感じていた。
仕事の出来ない社長令息。
プライドだけ高い社長令息。
悪い意味で怖いもの知らずの社長令息。
今のところ、昴くんを完璧な次期社長へと導く作戦は前途多難だ。当然のように、梅ちゃんの彼への印象も決して良いとは言えない状況。
はあ、ともう一度ため息を夜空に放てば、コンビニ帰りらしき中島蓮さんは手元のビニール袋から肉まんを取り出すとかぷりと頬張った。
ぷぅんとしたいい香りが、ひんやりと冷えた空気に浮かぶ。
「食いたいの?」
鼻がひくひくしていたことに気付いたのだろうか。齧った肉まんをこちらに見せて、中島蓮さんがそんなことを言うから慌ててしまう。
「いえいえまさか! そんな食いしん坊じゃないですよ!」
そう答えるのに、お腹はぎゅるると素直に返事をしてしまった。
ああ神様。なぜわたしのお腹はこのタイミングで鳴るのでしょうか……。
思わず天を仰ぐ。絶対に笑われるだろうな。まあ仕方ないよな、わたしの人生そんなものだ。
しかし、中島蓮さんは予想に反して笑うことなどせず、その肉まんをふたつに割ってこちらへずいっと差し出した。
「……へ」
「やる」
「え……?」
「ん」
顔の前へさらにずいっと近づく肉まん。ほわんとしたあたたかさといい匂いが鼻先からダイレクトに伝われば、無意識のうちにわたしはそれを両手で受け取っていた。
「こんな時間まで何も食わなかったわけ?」
「勤務中ですし」
「勤務中って、今、夜中の十一時だけど」
「残業も勤務中なので」
ここ最近は昴くんの失敗のフォローであったり、彼により分かりやすい説明をするためのマニュアルを作ったりと、毎晩こんな時間まで会社に残ってしまっている。
すると中島蓮さんは「馬鹿真面目」と小さく笑った。
「中島蓮さんって笑うんですね」
思わずそう言えば、彼は思い切り眉を寄せてこちらを睨む。
「笑ってない」
「いいじゃないですか、笑顔かわいいですよ。元はイケメンだし」
「元はってなんだよ」
「黙っていれば、的な?」
「なんで疑問形なわけ」
まるでノリツッコミのような軽快なやりとりに、疲れや悩みは軽くなる。
なんだか無性に笑いたくなって、そのままわたしは声を上げてあははと笑う。
中島蓮さんはわたしと同じように声を出して笑いはしなかったけれど、なんとなく彼の纒う空気が柔らかくなった気がした。それがなぜだか嬉しくて、わたしはあむりと半分の肉まんにかぶりつく。
「おいひい」
肉まんの表面は冬の夜の寒さで少し冷たくなっていたけれど、中はほわりと温かい。
「……前髪、また切ってやるよ」
「いいんですか? 前髪カットはいくらですか?」
「……馬鹿真面目」
「なんでですか!?」
「うるせ、馬鹿真面目」
「それ悪口ですよね?」
「肉まん冷めるぞ早く食え」
自然なやりとり。こんな風に笑えたのは、こちらにきてから初めてかもしれない。その相手が中島蓮さんだということは、さすが彼はわたしを手助けしてくれる案内人だ。
頼もしい案内人ではないか。
そう思った矢先、ブブブとポケットの中のスマホが響いた。見れば、伊藤さんからのメッセージ。
『明日、春山とルーデントに行ってほしい。挨拶がてら、所長に春山を紹介するように』
ルーデントとは、翔太くんが所属している芸能事務所だ。
この間所長さんから、昴くんの電話対応が悪いとお小言を頂戴したばかり。今後のことも考え、直接挨拶してこいということなのだろう。
せっかく軽くなった心がまたずしんと重くなる。仕事というのは、時として非常に憂鬱なものでもあるらしい。
「そんなに嫌ならやめればいいのに」
重たいため息を吐くと、そんな言葉が投げられる。
肉まんを全て食べ終えた彼は、寒そうに首をすくめると両手をポケットの中へとしまった。
「それはだめです。この仕事、好きなんですよ」
色とりどりの洋服たち。様々なアイテムに、様々な組み合わせ。着る人によって表情を変えるファッション。そして着る人々を綺麗に、かわいく、かっこよく、個性を引き出してくれる洋服に携わる仕事を、ずっとしたいと思ってきた。
「それなのに、そんな地味な恰好してんの?」」
「地味ですけど、この服はこの服で素敵な所がたくさんあるんですよ。例えば、このニットはイギリスで二百年以上続く糸屋さんの糸で作った毛糸を使っているんです。毛糸を作る時に糸だけでなくゴムやポリエステルを取り入れることで着心地の良さや軽さにもこだわっているんですよね。ぱっと見たら分からなくても自分だけがその良さを分かっているというのも、またいいのかなって……」
──と、一気に話してからはっとする。思わず熱く勢いのままに語ってしまった。
中島蓮さんは案内人であるからか、今まで誰かに話したことがなかったことも話してしまっていた。
「……とまぁそのですね、なんというか」
もにょもにょと語尾を濁らせれば、中島蓮さんは小さく何度か頷いてこちらを見た。
「自分だけがその良さを分かっているのが良いっていうのは、なんか分かる」
熱量に引かれるか、モブがファッションを語るなんて、と言われるかと思ったのに。
中島蓮さんの言葉は、まっすぐで、そして透明な輝きを持ってわたしの胸の奥へと吸い込まれていく。
思わず顔をあげれば、こちらを見る彼の視線とわたしの視線が静かに絡んだ。
その瞳に優しい色を見つけてしまって、わたしの心臓は、多分一瞬、あのとき一瞬、動くことを忘れてしまったのだ。
「サーラーちゃんっ!」
吹き抜けとなっているエントランスホールに、聞き覚えのある声が響いた。
ここは、翔太くんを始め数々の人気著名人が所属する、芸能事務所ルーデント。
人のよい所長さんがひとりで立ち上げたこの事務所に、所属タレントは翔太くん含めて十五名ほど。決して大手事務所というわけではないが、その誰しもが素晴らしい人材ばかりで業界内では一目置かれている存在だ。
「今、所長からサラちゃん来てたって聞いてね、急いで追いかけてきた!」
上司からの指示通り昴くんと共にここを訪れ、挨拶を終えて帰るところに翔太くんがやって来たというわけである。
今日も翔太くんは変わらずに太陽のようだ。真っ赤なオーバーサイズのパーカーは、顔が良くなければこんな風に着こなすことなんて出来やしない。
この間の撮影では、細身のカジュアルファッションに身を包んでいた翔太くん。あの時も良かったけれど、こういったプライベート感溢れる格好も非常に決まっている。
「今日も撮影があるんですか?」
「今日は打ち合わせのみ! あのさ、サラちゃん今夜の予定って……」
ンンッ! というおもむろに響かされた咳払いに、翔太くんは言葉を止めた。
「誰?」
咳払いの主、昴くんはぶすっとした表情のまま不躾な単語を口にする。
な、なんと……なんと無礼なのだろうか……。
先ほどの所長との挨拶でも彼の態度はでかく、わたしは終始謝り倒していたのだが、今回も誠によろしくない。
社内で威張りくさるのは百歩譲って良いとしても、取引先や外でも同じ態度というのは感心できることではない。
「翔太くん、新入社員の春山です。よろしくお願いします」
わたしが昴くんの紹介をしても、当の本人は面倒そうに横を向いて息を吐くだけ。なんともひどい。これは社会人失格と言ってもいい。
「SHOTAです、よろしくね!」
しかしさすがは太陽の子、翔太くん。我が社の無礼すぎる新人に対して気分を害するでもなく、にこにこと笑いながら左手を差し出してくれた。
しかし、昴くんが握手に応えるはずもない。
「フルネームも名乗らないとか、気取ってるんだな」
「モデルとしての名前なんだからいいんです! ほら! お詫びしてください!」
「モデル? どおりでチャラチャラしてると思った」
待たれよ……。きみがそれを言いますか?
揺れるピアスに真っ茶色に染め上げられた髪の毛、スーツはおろかジャケパン姿で会社で踏ん反り返っているきみが、それを言うわけ?
チリチリとみぞおちあたりのメーターが上がっていくのを感じる。
しかし、どうにかそれを落ち着かせようとわたしは努めて落ち着いた声を出した。
「うちの広告に出てくれているでしょう? 反響もすごいんです」
そうだ、あの広告が出てからブランドは未だかつてないほどの売り上げを誇るようになった。それは、翔太くんの影響力の大きさによるところが大きい。
しかし昴くんは、おもしろくなさそうに眉を寄せて吐き捨てたのだ。
「自分とこの広告なんて、いちいち見るかよ」
その瞬間、ぱちんと小さくくすぶっていたマグマの粒が弾けたのが聞こえた。
「……いい加減に……」
ぶるぶると握りこぶしが小さく震える。今まで生きてきて、こんなにも湧き上がる怒りを感じたことはあっただろうか。
株式会社ハルヤマの社長令息。このままでいけば、彼が我が社の社長になる。そんな人物が自社ブランドの広告に対して、《《いちいち見るかよ》》、だと……?
小さく漏れ出たわたしの声にふたりは気付いていなかったようだ。
「もしかしてハルヤマの坊っちゃん?」などという翔太くんの声に、不機嫌そうな昴くんの「ハァ?」という返事が聞こえたところで、わたしの声帯は今だかつて響かせたことがないほどの音を発したのだ。
「春山昴! いい加減にしなさい!」
びぃんとロビーにわたしの怒号が鳴り響く。
「その舐め腐った態度、どうにかしなさい! いいですか!? あなたは今まだ、何も知らない、何も分からない、ただの新入社員なの! きちんと仕事と向き合いなさい! きちんと仕事に興味を持って!」
分からないことは仕方ない。誰だって最初は何も知らないところからスタートするのだ。
「あのね、無知は恥ずかしいことではないんです。だけどそれを、自分の力で得たわけでもない権力や地位をちらつかせ、鼻で笑い飛ばすのはお門違いもいいところだよ? 井の中の蛙って言葉、知ってますか? 今の昴くんは、まさにその蛙そのもの。少しは世間を知りなさい。そして、人と接するということがどういうことなのかを学びなさい。このままじゃ、本当にただの世間知らずのボンボンのままで一生終わって、ハルヤマは潰れます!」
一気に言葉を繋げれば、そのあとに小さく息切れがした。それでもまだ、体の奥はカッカと熱い。まだ怒りが治まりきっていないようだ。
わたしは、この仕事に愛情を持っている。
例え直接お客さまに洋服を届けることが出来なくても、例え自分が広報活動に携わっていなくても、例え自分がデザインや制作に関わっていなくても。それでもわたしは、ハルヤマの作り出すファッションが好きで、ここで働けることに誇りと喜びを持っている。
目の前には、ぽかんと口を開いたままの昴くんと翔太くんが立っていた。
やってしまった、とか、どうしよう、とかそんな思いは一切湧いてこない。きっと今までのわたしならば、こんな風に自分の想いをぶつけてしまうことはなかっただろう。それじゃあなぜ今日は我慢ならなかったのかと言えば、それは昨晩、中島蓮さんと話すことによって自分の仕事への想いを再認識したからに違いない。
「ひとりで帰ってきなさい! 電車の乗り方くらい分かるでしょ!」
まるで小さい子供に怒る母親のようにわたしはそう言い、くるりと二人に背を向け歩き出す。きっと後姿からは、ぷんすかぷんすかと湯気が出ていたことだろう。
昴くんが追いかけてくることはなかった。
◇
「あれ、春山は?」
会社に戻り、伊藤さんのデスクをひとりで訪れたわたしを見て、彼は不思議そうに首を傾げた。
「置いてきました」
「どこに」
「ルーデントに」
「それはまたなんで」
「どこに行ってもハルヤマの坊ちゃんのままなので、頭に来てしまいまして」
素直にそう伝えれば、あっはっはと伊藤さんは声をあげて笑った。
片道二十分ほどの帰路を経ても、未だにわたしに後悔の念が生まれることはなかった。それでも、次期社長である彼を放置してきてしまったのだから、伊藤さんから怒られるであろうことは予想をしていたというのに。真逆とも言えるその反応に、あっけにとられてしまう。
「あの……大丈夫なんでしょうか……。処分とか、一応そういうことも覚悟はしていたのですが……」
現在の社長は厳格な人だ。大事な自分の息子をないがしろにされたと知れば、こんなただの一社員であるわたしの首なんて、簡単に切ることも出来るだろう。
しかし伊藤さんは、わたしの言葉を聞くと「大げさだなぁ」とくしゃりと笑う。
「社長からは、みっちりしごいてやってくれって言われてたんだ」
伊藤さんはそう言って、空のままの昴くんのデスクに目をやった。
「社会人として通用するように、この会社を守っていくという自覚を持つようにしてくれ、ってな」
ひとりで電車に乗ったこともないらしーぞ、などと言う伊藤さんは、胸ポケットからたばこを取り出して立ち上がる。ちょっと一服、の時間のようだ。
「このご時世にそんな馬鹿な……」
そう言いながらも、今日ルーデントへ向かう時の様子を思い出す。饒舌な彼が珍しく言葉少なで、わたしの一歩後ろを追うように歩いていた。さらには、いつも出退勤時は車のお迎えが来ているという事実も、伊藤さんの言葉に信ぴょう性を持たせる。
もし──、もしも本当にひとりで電車に乗ったこともないのだとしたら──。
「ちょっとわたし、迎えに行ってきます!」
「おー、頼むなー」
わたしは鞄を掴むと、元来た道を全速力で駈け戻ったのだった。
「……どこにいるの?」
道路の隅の小さな公園。丘の上のちょっとした広場。ビルとビルの隙間の喫煙所。駅に戻る道すがら様々な場所を覗いてみるも、探しているその姿はどこにもなかった。
電話をかけようにも、昴くんの番号を知らない。一緒に仕事をするのだから、こういう時のために聞いておくべきだったのに。
あちこち探し回っている間に、さらに様々な思いが身体中を駆け巡っていた。
歴史ある上場会社ハルヤマ。そこの一人息子として育った昴くんは今までどんな人生を送ってきたのだろうか。
彼のことを‶ハルヤマの坊ちゃん〟としてしか見て来なかった職場のみんな、わたし自身。ちゃんと向き合おうとしていなかったのは、わたしの方なのかもしれない。
世間知らずの社長令息。ただのボンボンである昴くん。だけど本当は、どこにでもいる普通の男の子なのだとしたら──。
駅が近づけば、人影が増えていく。しかしその中に、あの明るい茶髪はどう探しても見つからない。
もしかしたら、違う電車に乗ってしまった?
自分がどこにいるのかも分からなくなって、迷子になっている?
そんな焦りが体中をじりじりと支配した時だった。駅前の公園のベンチに腰掛ける、茶色い髪の毛がふわりと揺れた。
「昴くんっ!」
彼の名を呼びながら思い切り走れば、低いヒールが溝にはまりわたしは思い切り前へと倒れる。痛い、膝も痛いし、鼻もとてつもなく痛い。しかしそんなことを言っている場合ではない。
もしかしたら、彼が逃げてしまうかも!
そんなことを考え顔を上げたのと、長い影がわたしの上に重なったのが同時だった。
「なにこけてんだよ……」
その影は、ゆっくりとしゃがみこむとわたしに向かって声と、綺麗な手を差し出す。
泣き出しそうな顔の昴くんがそこにいた。
「こけるなんて、ダッサ」
「昴くんこそ、何してたの」
「俺はまあ……」
「迷子になった?」
「……電車乗ろうと思ったんだけど」
「うん」
「財布忘れて」
「スマホは?」
「充電切れてる」
「タクシー呼べばよかったのに。会社に着いたらお金取りに行けたでしょ?」
「……自力で帰りたかった……」
空がオレンジ色に染まる中、わたしたちは広場のベンチに並んで腰かけていた。いつの間にか、わたしの言葉づかいも力の抜けたものになっている。そのことに会話の途中で気付いたけれど、あえて訂正するのもおかしな気がしてそのまま続けた。
「……こけたとこ、痛くねぇの?」
「どこも! ぜーんぜん!」
本当は膝が擦り剝け血が滲んでいたけれど、幸いなことにロングスカートがそれを隠してくれている。
本来ならばすぐにでも会社に戻らなければと思っていたものの、いつもと異なる昴くんの表情を見ていたら少しくらいいいじゃないかと思ってしまったのも事実。わたしたちは何をするでもなく、グレーとオレンジの狭間の瞬間を見つめていた。
こんな‶サボリ〟のようなことは、生まれて初めての経験だ。伊藤さんには少し遅くなるとメッセージを入れておいたから大丈夫だろう。
いつも自信満々の様子でいた昴くん。椅子に座る時はふんぞりかえっているか、足を組んでいるか。余裕そうな表情で斜に構えていた社長令息。
そんな彼が、今日はどこか小さく見える。膝の上で手を組んだまま、じっと足先を見つめていた。
「……せ、先輩の言う通りだと思うよ」
しばらくしたあと、彼はぽつりとそう言った。《《先輩》》などと彼が言うのは初めて聞く。
「俺は世間知らずで、井の中のかぼすで、自分の力で得たわけでもないもん振りかざして生きてる」
「蛙、ね。かえるのこと」
すかさず訂正を入れると、昴くんはんんっと喉を鳴らしてからコホンと咳払いをした。その姿は、なんだかとても人間らしい。そして、どこか微笑ましくもある。
「俺が名前で呼んでほしいって言ったのは、今までずっとハルヤマの長男って呼ばれてきたから」
それは彼が初めて吐き出した、弱音のようなものだった。
由緒正しい春山家の長男として生まれた昴くんは、生まれた時からずっと「ハルヤマの後継者」として育てられてきた。ハルヤマは今の社長が四代目。もとは呉服店だったというのは社員ならば誰もが知るところだ。代々優秀な家系で現社長も東大出身。昴くんも小さい頃から私立の名門学園に入学し様々な教育を受けてきたそうだ。
しかし、そのどれもが彼にとっては退屈でしかなかった。計算も読解も英会話も、彼にとっては「やらされている」ものでしかなかったのだ。それよりも友達と遊んでいる方がずっと楽しい。
そのうち、学校に行きはするものの授業は受けずに気の合う友人たちとやりたい放題。仕事が忙しかった両親はそんな昴くんの状態を学校や家庭教師に押し付け、気付けば親子のやりとりは何年もない状態になっていたそうだ。
「金と権力にもの言わせて、相当やりたい放題してきた。あの時が一番楽しかったな」
昴くんはそうやって自嘲気味に笑うと、そのあとに俯いた。
「……気付いたら、ひとりじゃ何も出来ない大人になってた」
どこに行っても同じだった。どんな場所に行っても、彼はハルヤマの長男でしかなかったし周りはそれに媚びたり恐れたりするばかりで、彼のことをまっすぐに見る人はいなかった。
学校では、多額の寄付金を収めている父親の息子に先生たちが強く言えるわけもなかったし、家庭教師だって金を渡せば授業をしたことにして出ていった。友人だと思っていた同級生たちは、所詮金目当てで近づいてきただけで、いつの間にか誰しもが就職をしてそれなりに自立して離れていった。
彼はひとり、社会から取り残されたのだ。
「昴くんは、みんなからハルヤマの長男って呼ばれているのを変えたい?」
「……当たり前じゃん……」
それなら、とわたしは彼の背中をぽんと叩いた。
彼は彼なりに苦しかったのだろう。誰にも本音を言えず、つらかったのかもしれない。だけど、彼の人生はこれからも続いていく。
「昴くんが、変わればいいんだよ」
確かに彼を取り巻く環境は特殊なのかもしれない。幼い頃の彼にとってその毎日は窮屈でしかなかったのも分かる。だけど結局はみんな、自分自身の問題だ。周りのせいにしても何も変わらない。
勉強から離れたのは彼自身の選択だし、やらなければならないことから目を背けてきたのも彼自身だ。
「まずは、昴くん自身が“ハルヤマの長男”という呪いから解き放たれるべきだと思うよ」
彼の瞳がゆらゆらと揺れて見えたのはきっと差し込んだオレンジ色の夕日のせい。
きっと多分、そのせいだ。
完