蛇と蛞蝓
暗い岩のすきまをスルスルとくねりながら進み、食事を探す。
決して外には出ない。
ずっと昔に見たのだ。岩山の外、明るい草むらを跳ねるカエルを狙った同族が、大きな羽根にさらわれていった瞬間を。
羽根も同族もいなくなり、何事も無かったかのように風に揺れる草原が、俺はただただ恐ろしかった。
だから何年も何年も、他の同族が誰もいなくなっても、俺は岩のすきまから出ることはなかった。
大きな岩山の上のほうから落ちてくる水が溜まった、ちいさな水たまり。そこに集まるちいさな生き物が俺の食事だった。
幸いにして岩山は大きく、水たまりもあちこちにあったから、食事に困ることはなかった。
だが、暗く湿った隙間には嫌なものも住んでいる。
ナメクジと呼ばれるそれは、ぬめぬめと濡れており、白くぼんやりしていて、なにより足がない。食べる気すらわかない気味の悪い連中だ。
いつも群れているナメクジたちは、消え入るような声でお喋りしている。それがどうしても煩わしい。
ひそひそ、ひそひそと。暗がりに残りつづけ、外に出ない俺をわらっているように聞こえるのだ。
ある日の夜、地面がガタゴトと大きく揺れて、俺の住んでいる岩山は崩れてしまった。
俺は落ちてくる岩に潰されそうになりながら、命からがら外に逃げ出した。この分ではナメクジたちも生きてはいないだろう。
初めて外に出て、見上げた先には暗く広い空。俺はあまりの恐怖に震え上がってしまった。いつ夜が明け、羽根が襲ってくるかと気が気ではなかったのだ。
必死で近くの木に登り、葉のなかに身を隠そうとしたのはそのためだ。
するすると登って上の方の枝に身体を巻き付けると、目の前にちいさな羽根がいた。俺の登った木は、あの恐ろしい怪物の巣だったのだ。
だが、かん高い声で鳴きわめく羽根たちからは、過去にみた力強さも、恐怖を感じなかった。
過去にみた怪物と、似ても似つかない弱い羽根。
試しに鼻先を近づけてみても、バタバタと騒ぐだけで何もしない。
──すべてを平らげるのに幾らもかからなかった。
ふくれた腹を楽にするためにもぞもぞと体勢を探っていると、突如として頭上から、するどい鳴き声と空を裂く羽音が響いた。
黒い空を背に、闇の中でなお鮮やかな色彩を持つ羽根がそこにいた。
飛びかかる羽根に、慌てて身をひるがえした俺のしっぽがバシンとあたる。羽根はあっさり地面に落ちた。何度かびくびくと痙攣し、そのまま動かなくなった。
しばらくの間、呆然として動けなかった。信じられない気持ちで地面に下りる。初めてじっくりと見たもう動かない羽根は、かつて見た怪物よりも小さい。……違う。俺が大きくなったのだ。あの時よりもはるかに。
死体を呑み込みながら、ふと思った。怖いもの、危ないもの。
俺の敵は、すべて飲み込んでしまえばいいのだと。
真理を見つけたという確信があった。
どんどん呑み込んで大きくなれば、恐れも不安も感じなくて済むのだと。
それからというもの、ちいさな命も、おおきな命も、俺はひたすらに呑み込んだ。呑み込んで、俺の一部にした。
身体はどんどん大きくなり、他の羽根の凶悪な爪も、毛むくじゃらの四足のするどい牙も、もはや俺のウロコを貫くことは無くなった。
奇妙な二足の群れが襲ってきても、俺は負けなかった。連中は冷たく硬い枝を持って、繰り返し繰り返し襲ってきたが、そのたびに呑んでやっていると、いつしか姿を見せなくなった。
羽根も四足も二足も、何もかもを飲み込み、俺は誰より強くなり、山のように大きくなった。
そうして何年も過ぎたとき、俺はふと生まれ故郷に戻ろうという気になった。理由はわからない。
他にすることもなかったので、思い立ってすぐに帰路についた。知っている景色を辿って進む。
ずいぶん遠くまで来ていたからそれなりの時間はかかったが、行きよりもずっと早く到着した。
崩れた岩山は、あちこちから滝が湧き出して周囲を池に囲まれていた。若い木々が生い茂っているのを見て、それなりの時間が経っていたんだなと、ぼんやり思う。
水面をかき分け、以前よりも湿り気を増した岩山に近づくと、やっぱりそこにはナメクジが住んでいた。
ナメクジたちも俺に気づいたようで、岩の隙間からうねうねと身体を覗かせた。
何事か相談するように身体を寄せ合って、交代でちらちらと俺を見てきた。
そして、昔と同じひそひそ声で、俺に話しかけてきた。
「ずいぶんと久しぶりだねぇ、変わりものの友人」
「ほら、やっぱり僕の言ったとおりだった。前は少し違っていたけど、今はこんなにそっくりじゃないか」
「いやいや、前は白蛇だったよ。昔は何匹もいたじゃないか」
「いまのキミ、本当にボクらと似ているね。湿気でふやけてしまったのかい?」
岩からあふれた大きな水たまりいっぱいに、肥え太り、脂でぎとぎと光るウロコをまとった影がうつる。俺のすがた。
白くとろけたナメクジのようだと、どこか他人事のように思った。
ああ、そうか。
『脱皮を忘れてた』